2018.07.26 (Thu)
『【続】「本質」の見分けが できない「ヤフゴミん」。』の続き。
ちなみに、
あの佐世保の「同級生を襲い、遺体を損壊」という、女子高生の事件。
あの女生徒についても、当ブログ過去エントリーで、私なりの分析を述べてあるけれど、そこでも触れたと思うが、本人が得意とするという、絵の描きかた。
植松も また、絵を描くのが好きで得意だそうな。
この両人、ともに、上手いと言えば、それは確かに上手いのだろうが、
異様な緻密感とともに偏執性ただよう、
なんとも言えず、キモチの悪い作風だ。
正直言って、絵の好きな私でも、見たとたん、吐き気を もよおした。
べつだん、ことさら不気味な題材を描いているのでもなく、自画像であるとか、泳ぐ魚とか、いたって平凡な題材であるにも かかわらず、なんとも異様さが滲み出ている。
こういった点からも分析してみれば、大事件を起こすに至った何らかの共通性は あるだろうと思う。
ところで、植松の顔と言えば、
例の『オウム真理教』幹部の一人だった新実智光の顔と似てるなあ。。。笑顔が特に。
口もとなんか、さしづめ「般若」っぽいというか、
「サイコパス」っぽい顔、ってとこなんだろうか。
ある種の脳のタイプに特有の顔だちや表情かもね。
研究・分類してみたら、興味深い知見が得られるかも。
大昔から存在する「人相占い」とかいうのも、基礎にあるのは、やはりデータの蓄積なんだろうけど、
ただし、外見というものも、一筋縄では いかないのだ。
たとえば、うちの母親なんか、
「きょうなぁ、帰りの電車に乗ってるとき、たまたま隣に座っていた女の人に、奥さん、すばらしいい人相してはりますね、って褒められたわ」
と言ってたことも あったが、
あるときなんかは、
「これで肌さえ浅黒かったら、うちらと似てるわぁ」
と、サークル活動か何かの招きで出会った、インドから来日の女性たちに口々に言われたそうで、
私のクラスメートなんかは、
「あんたとこの おかあさんて、教科書に載ってたイギリスのヴィクトリア女王に似てる!」
と言ってたくらいだ。
娘の私から見ても、あたかも古代ギリシャ人というか、白人に近い目鼻立ちで、ごく若い頃なら「芍薬」だ「牡丹」だ「百合の花」だと褒めそやされたことだろうが、
中年以降は、はなはだ肥っていたので、歩く姿も威風堂々、といった趣だった(笑)
しかし、なぜか、足の形や指は、まぎれもなく、ぶかっこうな「アジア型」w
私の足指は、それこそ、いわゆる「ギリシャ型」とか言うのだろうか、
ところが、
これは、「弥生」系と言うか日本人らしく「ひらたい顔」の父親由来なのだから、わからないものだ。
でもでも、
うちの母親、「脳に異常」が あったんだもんね。「脳波の」ナンタラとか。
ちなみに、母親の姉妹の一人で、若くして自殺した、私の叔母にあたる人は、癲癇の持病が あったそうだ。
私も、わりと近年になって察しているのだが、母親にも、そのケが あったものと思われるフシが窺えた。
もう一人の妹は、中年になってから、激烈な精神病になったしね。まあ、比較的に、おさまるのが早かったのは、不幸中の幸いだったが。
うちの父親のほうも ほうで、先日のエントリーで述べたように、私に言わせりゃ、親父も そうとうオカシイのだがw
その先妻との長女が、やっぱり、精神病。この原因は、向こうの実母の家系にあるとは聞いていたが。
で、
うちの母親も、戦時中だったこともあってか、子ども時分は痩せっぽちだったそうだが、トシとともに肥っていた原因も、べつに、食べ過ぎと言うより、体質と持病の影響。
ところが、ここにも、脳の異常が絡んでいたわけよ。
あれほどの 立派な ご面相で、「異常な脳」の持ち主なんて、誰が見抜けるか、ってのw
また、私の観察だが、
特に新興宗教とかの熱心な信者のなかには、一見して、なかなか上品で、なんだか つるんとしたような印象の、美男・美女クラスと言っていい顔だちの人も見かけたりする。
これってのは、
どうも、「良い子ちゃん」「優等生」特有の、あどけない、可愛らしい子どものような素直さとかが絡んでいるような気も するのだ。
もっとも、一歩ちがうと、「アホづら」に近いものかもしれないがw
おととい読んだ『西日本新聞』ウェブ記事に載っていた、被害者ご遺族の一人である高橋夫人の感想にも、新実の眼つきが恐ろしかった、と記されていた。
『オウム23年の出来事 一気に突き上がった」地下鉄サリン事件の遺族、死刑執行の日の思い』7/23(月) 11:27配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180723-00010004-nishinpc-soci&pos=1
『<早川、新実2元死刑囚>謝罪の手記 死刑制度には疑問も』
7/23(月) 18:05配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180723-00000045-mai-soci
「~真理のため、救済のためと思って戦い、テロを実行して得られたものは苦しみと悲しみでした」(早川紀代秀)
「真理のため、救済のためと思って戦い」
私に言わせりゃあ、
ヘッ、恵まれた分際で生きてきて、どんだけウヌボレておれたんだ。
甘ったれんな、子どもっぽい俗物がよ!!
の一言だけどね。
2018.07.18 (Wed)
『【続】「この対比」。』続き。
自転車の荷台と、トラックの荷台とは違う。
私自身は、親でも職場でも、要求され、「必要とされる」ことの しんどさのほうが、たいがいの場合は上回っていたから、
「おまえには利用価値が ある」
と判定され、
そのかぎりにおいてのみ、存在が許されるという境遇にも、やりきれなく苦々しいものが あると思っていたし、
むしろ、ほうっておいてほしい、と、内心で願うことも多かったけれど、
リーヴ ミー アローン…
「孤独」には、なんとか耐えられたとしても
(だいたい、ほんとうの孤独なんてものは、ないんだとも言えようし、誰しも孤独で もともとじゃないか、とも言えよう)、
だが、
「孤立」となってくると、実際問題として、普通の生活そのものが成り立たなくなる危険度が高い。
そして、孤立しているからこそ、孤独が身に沁みてくる、ってワケだ。
「おまえは要らない」
と、世間の人々全体から宣告されてしまうのが、「死刑」という「刑罰」だ。
それが、
よりによって、自分の存在を肯定してもらいたかったあまりの犯罪に対して下された、
「おまえは要らないから」刑罰。
正直なところ、私自身、「死刑」についての考えかたには、いろんな側面から考えても、こうと決めかねる思いが いまだに残るし、
いかに「普遍思想」だからと言えども、
他者の「人権」を甚だしく踏み躙っておいて、些かも省みない者の「人権」とは、
それじゃ まるで、「おまえのものは俺のものだが、俺のものは俺のもの」的な、身勝手きわまる者に合わせた ご都合に陥ってしまうのでは ないかという危惧を払拭しきれないでいる。
このあたりは、諸外国の実例を参考に、いっそう、研究を深めていく必要が ある。
他人の命を、それが、何の罪もないはずの無垢な乳児であろうとも、
ましてや、自分にとっての不つごうが あると見做した相手なら、やすやすと歯牙に かける。
ところが、
自分自身の命は、やっぱり惜しいのだ。
いたって「普通の人」であったはずが、国家の命令によって、ひとたび、戦場に送り込まれたなら、国家に奨励されて、殺人が仕事になる。
自分が やられるから、それだけでは なかった。
かつての日本国民も味わったこと。
何も分からない、知らないまま、抵抗のすべもなく、命を奪われ、無垢なままに、世を去った赤子も いる。
欲しいものが与えられなかったとて、「自己愛」の泥水に溺れ汚れて、
ついには、世のなかの人々からも、
「消えろ」
と命じられるようなことを仕出かす者も いる。
つくづく、哀れなり。
以前、ネット上の犯罪で、
「パソコン遠隔操作」事件として、マスコミも盛大に取り上げ続けた果て、ようやっと、犯人が確定、逮捕されたことが あった。この男と、その母親との日常生活を描写した記事等を読んでいて思ったには、
ここの母親も、わが子の犯罪に関し、息子が陥れた被害者たちのことは、あまり、意識のなかに ないような感じで、ひたすら、親の立場としての自分の辛さだけを言い募っているような印象を持った。
「成人」になったら、親は無関係?
「成人年齢」なるゴールポストなんてものは、動かせることが明らかになっているし、これに明らかな根拠と言えるほどのこともないのだろう。
とは言え、
身内の「連帯責任」を問うなどは、こんにちでは時代錯誤、不合理と言うべきこと、
けれども、
「成人」までの期間、生育環境という「個の歴史」が齎す積み重ねの影響は甚大であることに相違なく、そこに生じて降り積もった問題が行き場を見つけられないと、経過しだいによっては、「成人」後になってから激しく噴出する事態も ある。
そのとき、「心神喪失」とでも認められないかぎりは、あくまで法的には、犯罪を起こした者の「自己責任」でしか なく、
刑罰を受けるのは、本人自身のほかに ない。
親や養育者側の責任を問うて、バッシングするな!という問題に留まるものでないのである。
今後の社会と個人に寄与するべく、
本人と背後の徹底的分析を試み、可能なかぎり予防を図らねば ならない。
こちらは、先日、あるコラムの筆者さんが紹介していた話で、
何年か前に、『黒子のバスケ』とかいうマンガ作者を恐喝していて逮捕された犯人が、後日、緻密な自己分析や、刑務所内で聞いたことなどを縷々述べていたなかに、
たしか、受刑中の障碍者たちが、「障碍を抱えてること自体、刑罰のようなもの」といった内容のことを言っていたという。
言わば、「罪なくして受ける罰」か。
それは、私自身にも、頷ける思いは あるけれど、
ただ、障碍それ自体が齎す不幸だと思ったことは ない。
いわゆる中途障碍者の場合は ともかく、
生まれつきとか、私のように、乳幼児期からだと、
その状態がアタリマエになっているので、
よく言われることだが、たしかに「不便」では あるものの、「不幸」というのとは また違う。
「不幸」であるとしたら、それはズバリ、周囲の人間関係によって齎されることなのだ。
「障碍ではなく、おまえの性格の問題」
と、いまだに頑強に言われ続けていたとしたら、
子どもの頃のように、黙って うなだれさせるだけで済むと思っていたら大間違いだということを、ガツンと思い知らせてやらねばと、激しい怒りと共に考えたかもしれない。
私にとっては、まぎれもなく、社会生活上の死活問題だからね。
現実には、
四苦八苦の末、社会に出てからは、親との距離を保つことを優先しようとしたのだけれど、
親のほうが、私を掴んだまま、放そうとしなかった。もちろん、当人たちは相変わらず無自覚のままだったが、
うちの親子関係が、世間一般並みでなく、非常に複雑だったゆえ、
障碍つまり弱点を抱えているからこそ利用できる、便利な存在である娘に依存するほかなかったのだろう。
中学生になる頃には、私は、自分の子を持つまい、持つべきでないだろう、と内心で薄々思い定めていたけれど、
それは、自分が産み落とされたことを、どうにも納得できなかったからなのだが、
「おかあさんは、あんたを産まないから、安心しなさい」
と、まだ見ぬどころか、影も形も ありは しない(幻想のなかの)わが子に呼びかけていた。
「生まれぬが幸せ」。。。
思うに、
産むも産み落とされるも、結局は「賭け」であるとしか言いようが ない。
「出たとこ勝負」、これが、殆どの人の場合だ。こういう層も必要だもの、ぶ厚く、ぶ厚く。
「賭け」のリスクに無頓着なくらいでなくっては、
犬や猫では なく、悩み多き人間ほど、子を持つことに躊躇いを感じてしまうのは、むしろ、自然な思いだろう。
そうでない場合、
先日も少し指摘したように、
「子を持つことが人並み。一人前」といった、従来からの ありふれた価値観に、些かの疑いを持たないでいる人が、無自覚なコンプレックス解消手段として利用しているふしが見受けられる場合も ある。
【続く】
2018.07.18 (Wed)
『「この対比」。』続き。
さて、この事件。
『面会室に両親、数秒でドア閉める…新幹線殺傷』7/15(日) 10:56配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180715-00050030-yom-soci
身近で勃発したとは言え、たまたま遭遇したに過ぎないのだから、飽くまで他人の事として、まずは自分の身の安全を優先することも じゅうぶん でき得ただろうし、そのほうが、被害者の御遺族にとって、だんぜん望ましいところであったはずだが、敢えて、真正面から立ち向かっていかれた犠牲者のかた。
可能なかぎり、御自身の安全も重視していただきたかった、とは思う。
ただ、こんな世のなかでも、こういう「正義感旺盛」な人が存在してくれていたのだという感慨には、やはり、一抹の「救い」が与えられたかのような感覚を抑えきれなくも ある。しかしながら、
ある面では、犯人と、その親の「救いのなさ」を、もっと深めてしまった、と言えなくもないのかもしれない。
「殺させては ならない」という意味では。
私は、この事件において、
それこそ他人事のような無関心さ滲む答えかたを していたというので、ネット上でも評判が良くないらしい犯人の実父が、メディアの取材に応じている場面そのものは見ていないのだが、
考えてみれば、
犯人に正面から立ち向かい、結果として犠牲になられた被害者のかたは、皮肉なことに、この犯人の親の無関心さとは、じつに対照的な姿勢だったわけだ。
ここで、一つ明らかに指摘しておきたいのは、
いわく「八つ当たり犯罪」の加害者とて、その根っこには、本能的に自分が可愛いゆえの発露が ある。
だが、
ほんとうに、自分が可愛ければ、辛うじてでも、理性は捨て切らない。
日常レベルでの「八つ当たり」行為なんてものは、老若男女個々の家庭で、職場で、また、殊にインターネット上でも、掃いて捨てるほど多い。
こうした行為を行う者は、総じて、子どもっぽい精神性を押し込めつつも、表面だけは拭って生きてきたんだろうと思う。そして、
世のなか、少なからぬ者が、ほんの一歩の差で、やってしまうのだろうし、
その一歩の差が、とてつもなく大きいとも言えよう。
「八つ当たり」行為者にとっては、世のなかの全てが、全ての人が、真実「無関係」では ない、と感じられるのだろうし、
実際のところ、それは、あながち、間違っているとも言えない。
だが、「無関心」を恨んで、他者を巻き込む者も また、
自分も内包している「無関心」については無自覚であると指摘せざるを得ない。
言わば「八つ当たり犯罪」と言えば、あの『秋葉原・無差別』のケースも そうだったし、
事件を起こすまでに、どのような理不尽・不条理に晒され続け、本来は自然な「自己愛」をズタズタにされたことかという言い分の土台が あろうとも、
人間社会の法によって刑罰を受けるほどの「八つ当たり」は避けておき、その代わり、
チマチマと陰湿なレベルの上手な「八つ当たり」に留めておく、それが、大多数の人間の「理性」だ。
それが、自分を守っておく最終の「砦」だからだ。
もともと「自己愛」のために犯した罪、そのせいで処刑される事態まで至ったのだから、どうにも破綻している。
個人的な話に移るが、
私の人生最初期の3年間は、くっきりと「天国と地獄」さながらだった。
1歳半くらいまで、親らの記憶だけがスポッと抜け落ちているみたいに、ほぼ全くない。
親の記憶が ない分だけ、生後の1年半ほどは、私の人生のなかで唯一と言って過言でないくらいに、穏やかな気持ちで過ごせた、平和そのものな時代だった。たったの1年半。
特異な生まれつきの私は、生後6ヵ月にして、すたすた歩き始めていた。
その前後の記憶も、かすかながら残っている。
もともと記憶力は悪くなかった私に、辛うじて残っている親との場面は、
当時の住まいだったアパートの階段、これは、もともとは、屋敷町の個人宅だった木造建築を、各室に区切ってアパートとした所だったので、いまでは珍しいだろうが、屋内に設けられている共用廊下、階段も、磨き込まれた木製で、外から戻ったら、共用玄関にて、靴からスリッパに履き替えて歩くルールだった。
そこで転び、痛くて、思わず大声で泣こうとしたのだが、
そうすると、私ら親子の自室から母親が飛び出してきて、こっぴどく怒られるかもと、幼児なりの考えを めぐらし、
たまたま、誰も いなかったのをキョロキョロと見定め、いまさら泣き出すのは やめておくことにして、そのまま外へ遊びに出て行ったこととか、
夜遅く、母親に、なぜか、いきなり、箒で追い回されて逃げ惑った場面とか。
それでも、父親が いない生活は、平和そのものだった。
いっぽう、ご近所の人々の記憶は鮮明だ。
あらゆる人々から、とても可愛がってもらっていたのを憶えている。
その状態からイッキに、
おさな心にも、
「地獄が始まった」
という感じで、幕が開いたのは、
それまで分かれて暮らしていた父親と、その先妻の子ら(義姉や義兄)との同居。
おとなになって、振り返るたびに思い当たる。
私の辛うじて理性を失わずに支えてこれたのは、
ご近所の人々の優しさ、温かさを、人生の最初に記憶していた おかげだった、ということを。
だから、いつの日か、
いまは もう、あの人々の誰ひとり残っていないけれど、
生まれて最初の1年半を過ごした街に、帰ろうと思っている。死ぬ前に。
もし、自分の親らの記憶しか残っていなかったなら、私も、そうとう危うい人間だったかもと思う。
親を「誅」したところで、その結果、自分だけが、しかも、ますます大損するハメになるのを受け入れることは、さすがに できなかった。
あまりにも、バカバカしかった。
それを鑑みれば、
「八つ当たり」という下劣きわまる犯罪行為でもって、可愛いはずの われとわが身をも破壊し尽くしてしまうであろうことを辞さず、ついに爆発させてしまう、この殺伐に至る絶望。
でも、ほんとうの絶望では ない、まだ。
そこに なお残るのは、
満たしきれなかった「甘え」だ。
自分に関心を向けさせる目的で、わざと困らせる。
これは、一般に、幼い子どもなどが、親や養育者に対して、関心を向けさせようとして、よく やることでも あろう。
うちの親らの話では、私は、そういう傾向に乏しく、私自身の自己分析では、おそらく、「仮死状態」という酷い難産のために、疲れ果てて生まれたせいか、ほとんど、おとなしく眠りこけている子どもだったそうで、あまり、手は かからなかったようだ。
これは これで、問題が ないというわけでも ないのだろう。
ほんとうに苦しく辛いとき、それを どうすることも できそうにないと感じるとき、
では、自分の命を抹殺してしまおう、と決めてしまう人も いるけれど、
やはり、実行するとなると、ためらうのが殆どの人だろう。
たとえ、自分自身を抹殺することを躊躇わない人でも、
そこで、どういう方法を とるか、
一人きりで、ひそかに、誰にも知られぬよう、極力、他へ迷惑が及ばないような方法を望み、そのように実行する人も いるだろうが、
時に、「八つ当たり」「道連れ」犯罪を起こして、「死なば諸共」という方向へ突き進む者も いるわけだ。
どちらのほうが、自然な本能の持ち主なのかと問わば、
可愛い自分一人が消えるなんて、どうにもガマンならねえ、とて、
「八つ当たり・道連れ・もろとも」犯罪を犯す者のほうが、むしろ本来的なのであって、
ましてや、
理不尽な境遇のなかにありながら、恨みを晴らす行為は せず、一人ひっそりと消えることを、みずからに命じる人のほうが、考えようによっては、よっぽど冷たい性質である、と言えるかもしれないのだ。
「迷惑を かけては いけない」と固く信じる人の心理の裏に、「迷惑かけられるのは厭」という本音が潜んでいるかもしれないように。
道端のノラ猫ですら、自分を排斥しそうな人間に警戒して身構えるときと、普段から可愛がってくれる人間が相手のときとでは、じっと見つめてくる眼の表情からして全然、異なる。
この世に生まれてきた以上、犬や猫だって、自分が生きて存在することを、誰か、たった ひとりにでも、肯定してもらいたいものなのである。
ましてや、人間。その自分を産み落とした親だ。
「ないモノねだり」それが、親からの温もり、愛情のことだったら。
「おまえは、要らない」
と、背を向けられたら。。。
【続く】
2018.07.13 (Fri)
「教祖」であった松本智津夫が、処刑前、係官から、あとの引き渡し処理について尋ねられ、「四女」に渡してほしいとの旨を伝えていたというのは、私も、非常に意外な感じが した。
してみると、なるほど、やはり「詐病」だったんだな、とも思えたが、
それにしても、処刑の直前になって、以後についての要望を尋ねるとは、これも意外なことに思えた。
執行までの時間だけはタップリあったのだし、そういうことは、遺書等の かたちで残させるものなんじゃないかと、漠然と思っていたからだが。。。
さて、
『オウム真理教』に信徒として加わり、ついには大規模凶悪事件に加担する結果となった、仮にもエリートと目されるような、そうとうに恵まれた境遇で生きてこれた連中、
その心理的経緯について、世間の関心が集まるのは当然のことだし、
彼ら自身も、そのあたりのことについて述べている部分は あるようだが、
その多くの「悩み」だったというのが、
「自分が生きる意味」
だなんて、
教科書と教師に頼って教えてもらうようなもんじゃないのに、
学校の優等生は、社会に出ても、どこまでも学校時代と同じ やりかたを しようとするのか。
「生きる意味」とは、
つまりは、「生まれてきた意味」ということにもなるけれど、
誰だって、一歩ちがえば、
私自身が そうだったように、生まれる前に、母体のなかでアッサリ死んでしまったりする恐れも あるし、せっかく無事に生まれても、病気や事故や虐待で死んでしまうことも少なくない。
だいたい、生まれてくるとき、その本人自身が、
「生まれ、生きていく意味」
なんてことについての信念もって生まれてくる者なんて おらんわね。
たしかに、私なんかは、生まれる前から、親のクダラナイ欲望と計算ヅクによる「縛り」のもとに産み落とされ、そうとう振り回される人生だったが、こんなのは、特異なケースであって、
まずまず普通の場合なら、
生きていくなかで、自分なりに見つけたり、つくっていくもんでしょうに。
私みたいに、生まれつき、いろんなケッタイな「縛り」が かかってない分だけ、可能性の自由度は高いのだから、思い悩むんじゃなく、むしろ幸いなことだと思えるはずじゃないのか。
私にも、いわゆる新興宗教の類に勧誘されたという経験は、先日のエントリーでも触れたように、あるには あるけれども、
特に好ましい友人だったクラスメートが、あの賢い子が、なぜ、、、という疑問は、いまだに残っている。
私にとっては、どうにも異様さが、鼻について しょうが なかったため、
誰に何度、どこに勧誘されても、決して深入りすることは なかったが、
その理由は、
やっぱり、「荒唐無稽」なことを、「不合理ゆえに」信じることしか残されてない、っつうことなのかどうか知らないが、
子どもっぽいというか、幼稚というのか、そのへんの平凡な小学生でも、いちおうマトモな感受性なら、思わず疑ってしかるであろうような、まるで夢物語、「奇跡」物語のようなことを、まことしやかに、あるいは、本気で語る、その知性と精神を、はなはだ危うく思えたからだ。
『オウム真理教』とて、仏教系と名乗っていたそうだが、そもそも、仏教の始祖、お釈迦さまですら、「無記」と 仰ったそうな。
それを、なぜ、松本ごときや、松本に限らず、
旺盛に飲み食いし、欲求のままに生きている、目の前の、凡庸な、それどころか、ひょっとすると、「脳に異常」かもしれない人間に、そんな答えを求めて、ただちに解答を得ようと思うのか。
こういう疑問の姿勢は、私の場合、「天皇」崇拝に対しても等しく同じ。
ところで、
きのう、行きつけのスーパーマーケットで、歯磨き剤を購入したのだが、
歯磨きで思い出した、またもや「親父の思考回路」第何弾?w
むかし、私が学校時分のこと、
うちの親父が歯を磨いていて、急に大音声で騒ぎだしたことが あった。
何を喚いているのかと思ったら、
母親が使っていた、大手化粧品メーカーの高級洗顔石鹸、これが、当時は まだ珍しいほうだった、洒落たチューブ入りの製品だったもので、
てっきり、歯磨き剤だと思い込んだ親父は、歯ブラシ上にタップリと絞り出し、さて、磨き始めたとたん、
ギャー!!なんじゃー??このヘンな味は、、、!?!
となったわけww
親父の訴えを聞いた母親は、
「ふうん、石鹸で歯ぁ磨いたんやから、さぞかしキレイになったやろ」
と、嗤っていたw
それに対して、親父は
「どうりで、いやに泡立ちが良いと思った」
と呟いていたww
それと似た出来事も あったなぁ。
あるとき、お酒を飲んで、またぞろ したたかに酔っぱらい始めた親父。
まだ、凶悪に暴れだす段階までには至っておらず、
その前段階の、ブキミ悪い「機嫌の良さ」にて、
ウィ~ッ♪と、茶の間から台所へ入って行き、続きの酒を新たに注ごうとして、
酒の瓶と間違え、食用油の瓶からトクトクとコップに注いで、飲んじまったことも あった。
もちろん、さすがに、このときは、ほんの一口で気づいたようだったがw
これに関連して、
のちに、母親から聞いた話では、
親父が、まだ若かった頃のことらしいが、
昔のことだから、主に炭火を使って、煮焚きや暖房に用いていた時代、友人たちと飲みの最中に、
やおら、目の前で真っ赤に燃えている炭を見て、
「おお、美味そうなマグロの刺身だ~」
と、箸でツマんで、そのまま、口に入れようとしたので、居合わせた友人たちが慌てて止めた、という話。
脳みそオカシイやろ
あっ、そうだ、
つい最近、例の「ヤフゴミ溜め」にて見かけたのだが、
アホが大多数なのであれば、少数派だから正しいということになる、てな、
それこそアホなことを言ってた「ヤフゴ民」よ。
おまえさん、おそらくは、私が、このブログで、以前に述べたことをパクったつもりで、
「世のなか、あほとカシコでは、だんぜんアホのほうが多数派」
云々と言ったことを利用してると思しいけども、
チッチッ、あ~の~な、
あほが大多数で、カシコは少ない、とは言えども、
じゃあ、
「少数だから正しい」ということには ならんのぢゃ。
あほが大多数である。
↓
カシコは少数である。
↓
少数だからカシコである。
…
そうは 行かんわい。
こんなん、「論理」の問題でしょ。
まったく、これだからな。。。
どあほ。顔洗って出直して来い!
ああ、洗う顔も ないのか(嗤)
私なんかは、子どもの頃、ヒステリックな母親の逆鱗に触れるたび、
「アタマかち割って、裏の水道の蛇口で、脳みそ洗うたろかい!!」
と、しょっちゅう罵られたもんだけどな(爆)
そりゃ、こっちのセリフだわ。
脳に異常のあった、愚かもんの母親(嗤)
ちなみに、
うちの母親も、知ってる人たちからは、
「なにかの宗教の教祖みたいな」
印象を持たれていたよw
たしかに、
さも「信念」づよい断言口調で決めつけて話す、
という傾向特徴は見受けられた。
それと、「我田引水」的な長話が止まらない傾向。
それだって、相手のため、こうして話してやったんだ、というのが、本人の言い分。
なんだか もの凄い勢いで発言したり、とことん押し通す強硬姿勢の人は、何らかの精神的異常者かもしれない、と疑ったほうが いいということは、いつかのエントリーで、このことも指摘した記憶は あるんだが、
強烈なプライドに隠された、深いコンプレックス。
でも、コンプレックスについては、とんと無自覚だった。
というより、眼を背けていたのかもしれない。
「使える子か否か」という視点で、内心で子どもを仕分けてる親、けっこう多いんじゃないかな。
【追記】
自分の意向に従うようコントロールしかねる場合は、「罪悪感」を抱かせる。これ、キーワードの一つ。
「あんたのため、というコトバは、いついかなるときも醜い」
と喝破なさったのは、大島弓子氏だったっけ。
2018.07.07 (Sat)
昨日一昨日の記事、
「犯罪心理学に詳しい」という筑波大学教授の原田隆之なるセンセイが、このように おっしゃったそうな。
「事件が発生して間もなく、まだ全貌がわかっていない段階で『容疑者は発達障害』『自閉症だった』との大きな見出しを掲げ、何度も繰り返して報道すると、病歴と犯罪に大きな関係があるという印象を受け手に与えます。もしこれが風邪や便秘など体の病気であればニュースになることはありえない」
まだ全貌がわかっていない段階で、というのは、まったくもって、ご尤もと言うべきですね。
しかし、
「これが風邪や便秘など体の病気であればニュースになることはありえない」
この部分は、なんかズレてるので おまへんか?
もちろん、「風邪や便秘」などであれば、殆どの人は経験しているだろうし、そんなことが、凶悪事件の原因や動機になるはずは ないからですわ。
まあ、「体の病気」と一括りに言えど、場合によっては、全くないとも断言できないかもしれんけど。
たとえば、腹痛でトイレを急ぐあまり、前を歩いてる小さい子どもや高齢者を、つい、突き飛ばしたとかさw
それで、子どもや高齢者が思いっきりスッころんで、頭を打って、打ち所が悪くて、、、とかさww
ま、昔から、往々、マスメディアってのは、とかく先走って書き立てたがるもんでしょ、それが、ああいう商売ならではの側面でも ある。
「キャンペーンでも張っとんかぃ」と、なかなかの邪まさが潜んでいるかのように感じることも あるけどw特に、現政権の弱い者苛め方針に沿わせたみたいな、いやらしい記事や小細工ぶりなんか見かけるとねww
「そもそも精神障害と犯罪を直結させるのは無理筋だ」
それは そうでしょうと一応は思う。
ただ、間接的には影響してるかもしれないってことは ある。
いわゆる「生き辛さ」が降り積もったすえに、とか。
もちろん、降り積もっても、耐え抜ける人も いるがね。
じゃあ、いったい何が、どれが真の原因になったわけか。
先天性と、生後の周辺環境は、どっちが先だから、重大だからというよりも、結局のところ、互いに影響し合っての「化学変化」みたいなもんだろうと思う。
同じ環境でも、人によって、どっち転ぶか分からない、全く異なる結果が出る場合さえも あるのだから。
私の身内にも、中年になってから突然、激烈な精神病を患った者が いるんだけど、
まさか、そんな病になるとは、まず本人自身が想像もしてなかったわけだが、
発病したとき、すぐに、とんでもないことを やらかしたという事実は あるのよ。
と言うのは、
故意や悪意は なかったと言っていいものの、他人さまの高価な所有物を甚だしく毀損してしまったのだが、当然、そうなってしまうだろうとは薄々分かっていたとしても、その衝動を抑えられなかったみたい。
単に物(正確には、高級外車)だったから まだしも、
これが一歩ちがってたら、確実に、人命を奪うところだったわけ。
そんなことになる前、かなり前から、うちでも、「あいつ、なんか ようすが おかしいなあ」とは言ってたし、
それ以上に、
私も、その身内が発病したことを知らされたとき、もともとの本人の性質傾向からして、さもありなん、と、あまり驚かなかったの。
とうとう来たか、ってなもんで。
まわりの者も、実際、すごく迷惑かけられて困るんだけど、
病者である本人自身も非常に苦しいだろうと察する。
その発病が なかったら、あんな物騒な騒ぎは起こさなかったはずでね。
うちの身内は、幸い、最初期の段階から相性の良い主治医に出会った おかげも あってか、また、本人もともと、融通が利かないくらいに几帳面な性格でも あったからか、この相乗効果なのか、きちんと服薬することで、うまくコントロールできるようになっていった。
発病して間もなくは、かなり手こずったけど。
まぁ、精神病や、その方面の障害が、凶行事件の原因とは言えない、と主張するのであるならば、その病気や障害に関係ない場合と同様の刑に服させるべき、となるはずでしょうよ。
なぜ、通常の刑務所ではなく、強制的「治療」措置とするわけ?
「犯罪を止める効果」なんて、なきに等しいのではと、私は思うけれども、
結果、極刑ともなれば尚更のことだが、犯人みずからも納得して、従容として、下された刑に服すことが最も望ましいことには違いないという、これは、刑法についての理念的なことなのだろうが、現実は、なかなか難しいよね。
うちは、親自身が、
「謝ったり反省したら死んでしまうー!!ううぅ」
というビョーキだったからなw
納得していない者に与える「刑罰」とは。。。