2019.06.11 (Tue)
『【続】「メンタル弱い系」?』の続き。
『練馬』の、もと高官だった父親に殺された息子は、
「こんな人生に誰が した!!」
なんて喚いていたらしいが、
私に言わせれば、
けっして「不幸自慢」するつもりじゃないけども、やっぱり、
「まずは障碍や病気が ないだけでも、どんだけ生きやすいことか。その上、カネにも不自由してないのに、甘ったれんなー!!」
と言いたくなってしまうよ
『川崎』での事件のほうは、犯人が子ども時分、よその家のなかに勝手に入り込んだりと、多少の特異な傾向が見られたというから、赤の他人である近所の住人までもが、「あそこの家の居候」呼ばわりして嫌悪していたことの原因になったのかもしれない。
私の幼なじみの一人は、やはり、隣家の留守中に、無断で上がり込み、勝手 気ままに、そのへんの物を探ったり、置いてあった果物を食べてしまったりしたことが あった。
実は、私が、その子の嘘に騙されて、加担した かたちになってしまい、真相を知った親が仰天し、お詫びの品を持参して、そこの家の人に謝りに行った出来事だった。
私は騙されて、という事情だったためか、その家の人は、「子どものしたことですから、ましてや、おたくの○○ちゃんは、何も知らなかったんですから」と、鷹揚に済ませてくれたそうで、ふだんはヒステリックなほどガミガミ言う親が、このときは、さほど怒らなかったと憶えているのだが、
さすがに、幼なじみのほうでは、いつも穏やかで優しい おとうさんが激怒したらしい。
私んとこの家のなかにおいても、親らが留守だと知ると、必ずのように、タンスやら何やら、扉という扉、引出しという引出しを開けて、なかの物を探りたがる。
なので、親が帰宅して驚き、私を問いただすと、毎度、その子が原因なので、呆れかえっていたし、私自身も叱られた。
その幼なじみは、もともと、問題の ある子だった。
まず、やたらと嘘が多い。
また、私みたいな、ハッキリ言って、おせじにも「恵まれ」てないはずの者に対してまで、むやみと ねたむ。
いま思い出したのだが、
中学時代、うちへ遊びに来たクラスメートに、母親が、そのへんに無造作に置いてあった財布から、いつの間にか、高額の札を抜き取られていたことも あった。
で、その お金で、他の友人たちと共に、近所の店へ繰り出し、思い思いに軽食を おごってもらっていたことが、あとになって判明した。
もっとも、母が気づいたときは、すでに「あとの祭り」、指摘されて初めて、私にも、その子の不審な行動に思い当たったのだが、もはや、確定するのは不可能だったこともあり、敢えて、とくには何も せずに済ませておいたと記憶している。
しかも、
どういう神経なのか、あのとき、われわれが、店内で注文してるあいだ、その子は、うちで盗んでいたと思しき お札を取り出し、ヒラヒラと、得意げに見せびらかしてのけたのだ。
友人たちと、「あっ、いーなあ、お金持ち~」と囃しつつ、ワイワイ食事してしまった無邪気な自分たちにも、われながら呆れてしまった。
そのクラスメートも、くだんの幼なじみも、表面は、いたって愛想が良すぎるほど良いのだが、
のちに、卒業アルバム等を見ながら振り返ると、なんだか得体の知れない「闇」を持っているかと思わせるような、なんとも不自然な眼つきを していながらも、殊更に媚びた感じの笑みを浮かべているところが、両者とも共通していた。
でも、こういうところでは逆に、「問題児」のなかでも、二手に分かれるのかもしれない。
中学生となると、そもそも、女子のほうが幾分かはオマセだからなのか、なんとなく、ふてぶてしさのような雰囲気を、すでに漂わせていたりする子も出てくるwかと思えば、
男子の場合、やはり、まだ子どもっぽさが残っていて、みょうに寂しげに見えたり、融通の利かないクソ真面目そうに見えたりする子が多いように見受ける。
ところで、
その幼なじみの、たった一人の妹には、それほどの問題も なく、いたって おとなしい子だった。
いま思うと、姉である幼なじみは、その母親である おばさんに似ていて、妹のほうは、のちに離婚した おじさんのほうに似ていたように思う。
おじさんは、ある有名どころの老舗にて料理長を務めている、子煩悩で真面目なタイプだったので、幼なじみの母親である おばさんと離婚して、他の女性と再婚し、その女性の連れ子ともども一緒に暮らすことにしたと聞いたときは、子ども心にも驚いた。
それも切っ掛けになったのか、
年齢を重ねるにつれ、幼なじみの嘘は、回りくどく、間接的になった分、ますます悪質化していった。
その反面、勉強のほうは、意外に頑張っていて、そこそこ優等生になっていた。
どうやら、その母親から受け継いだらしい、彼女の嘘の特徴は、人と人のあいだを引き裂くような内容が多いことだった。
これは、うちの母親も、そういう嘘の傾向を持っていたことに気づくまで、そうとうの時間を要した。
もちろん、幼い頃から、そばで見てきた私は、その子なりに、また、うちの母なりに、ある面で傷つきやすく、繊細と言っていいような良い面もあることは知っている。
そして また、うちの母親も指摘していたことだが、おばさん、すなわち、幼なじみの母親の人間性に、何か引っかかる、どこか信用に値しないと思わせるものが あるのは、にぶい子どもの私でも、ずっと感じていた。
もちろん、世のなかの母親のせいにばかりしては いけないだろうが、
そうは言っても、やはり、母子関係というのは、父親との関係以上に密接ならざるを得ないゆえ、影響力も、より大きい場合が多いように思う。
特に男の子の場合、屈折度を深めてしまうのかもしれない。
おそらく、『練馬』のほうの事件では、高位の官僚たる父親は、典型的な「仕事一筋」タイプで、家のなかのことは一切、奥さんに任せきっていたのだろうか。そう せざるを得なかったのだろう。
どうも、報じられている生前の息子の言動を読んでも、やっぱり、ここの家でも、「母子関係」の問題が深刻だったようだ。
うちの親ですら、私が若いうちは、いたって分かりやすい暴力性ゆえ、もっぱら父親のほうを嫌悪・憎悪し、殺意まで覚えるほどだった、その分までも、母親を可哀そうに思い、庇い、信用していたわけだが、そんな私も このトシに至って、やっと、気が ついてきたわけで。
つまりは、母親のほうが、むしろ、よりタチの悪い者だったということに。
本人自身は常に自分を最大限に正当化し、どんだけ苦労している立場であるか、ということをアピールし続けていた。
したがって、自覚は なかったようにも見えるけれど、
あれほど精いっぱいのアピールに努めていたところを思うと、やっぱり、内奥では、罪の意識を押し込めていたんだろう。
特に、親父と一緒になるためには、あたかも賭けのように産み落とすことが必要だった、私という娘に対する支配欲と依存心、恐れと軽侮が入り混じる、異様に屈折した感情。
ほんものの「悪女」の要素を内深く持っていて、外見は大した美女だったが、父に対しては、まさに「深情け」ってやつでw私にとっては「毒親」で あったというのが結論とせざるを得ない。
…
障碍かかえてたら、イジメなんかは、どこへ行っても、社会に出てからも、多かれ少なかれ、どうしても経験する。
あれほどまでの凄惨な事件になる主要な原因を考えると、やっぱり、親や養育者を始めとした生育環境が第一に疑われるのは当然なのだろうが、
それでも、そういう辛さを経験しながらも、ほとんどの人は、こんな犯罪に及ぼうとは思わないだろうし、他者のためのみならず、自分のためにも、一線の手前で踏みとどまっていると思う。それが、本当の「自分可愛さ」を含む理性というものだし、過去が辛ければ辛いほどに、もう これ以上の惨めな思いを、よりによって、みずから重ねる愚は防ぎたいものだ。
それが、あれらの事件では、そうは いかなかった。
息子殺しの父親が、いかに「父親不在」の「機能不全」的家庭にしてしまっていたとしても、
息子の遺した言動からは、母親の普段の言動のほうが透けて見えてくるような感じが する。もちろん、良かれと願ってのことだったのだろう。
「育てたように、子は育つ」とも言われる。
まあ、どちらの事件も、犯人は自殺し、息子は殺されて、本人の口からは何も聞けない。
残された親族側の言い分しか聞けないわけだからね。
私だって、子どもの頃から試した自殺を果たせていたら、以後、親らは、自分らに つごうのいい役回りだけを演じ続け、すべてを、ひとえに私の欠陥ゆえということで かたづけただろうと思う。
『川崎』の事件の犯人は、近所の人にまでも疎まれていたらしい事情を知れば、やはり、こちらも何らかの『発達障碍』的な傾向を感じる。
それでも なお、こんな悲惨な事件まで起こさなくても済んだのでは ないかという疑問は消えない。
2019.06.10 (Mon)
『「メンタル弱い系」?』の続き。
ついでに、
最近、かつての『(大阪教育大学附属)池田小』事件を彷彿とさせるような、ある学園の児童・生徒を狙っての動機から犯行に及んだと思しき、「無差別・通り魔」的事件が起きて、それから引き続きの如くに、そういう事態を恐れてと言い訳しているらしい、もと高位の官僚だった者が、自分の息子を殺害したという事件が『練馬』で起きた。
『川崎』も『練馬』も、個人的に、身内の縁や何かで、多少の なじみが あった所なので、ほんとうに、物騒な時代になったという感じが した。
ごく若かった頃のことでは あるが、こっちがヤラレる前にヤッテしまおうかと思っていた時期が、私にも あったので、一つ屋根の下で暮らす家族のなかに、どうにも手に負えない凶暴な者が居ると、おちおち、夜も安眠できないという情況を経験してきており、心身ともに持て余してしまうことは実感として理解できないでもない。
そういうわけも あり、こうした事件について、このブログで取りあげ、意見など書き記すのは、とても、気持ちが重たくなるので、つい、避けてしまいたくなるのだが、それは さて置き、
まず思ったのは、
『練馬』で起きた、もと高官だった父親の息子殺しで、これほど社会的にはエリートそのものな立場だった人に、こんな事態へ至るまでも、相談する相手の一人も いなかったのか?という驚き。これは、他の人も指摘していたようだが、息子だけじゃなく、親のほうも、社会的に孤立していて、かつ、エリートならではのミエが あったためではないかという。
私自身は、人の子の親になったことがないので、基本的には、子としての立場からしか言えないのだが、
自分にボコボコ殴られる親の姿なんて、本心では、見たくもない。
親を、他者を殴る、殺すのは、自分自身を殴り、殺しているんです。
ある意味で最も冷酷だった母親に対してさえ、親父に殴られたり、タバコの火を押しつけられたりするのを見るくらいなら、自分が やられるほうが、気分的にはマシだった。
母親のほうは、けっして、そこまで、私を思ってくれてなかったみたいだけど。。。w
うちは、親子が逆転してるみたいなところが あったので。
自分が殴られる恐怖と痛みは、私も、親父にサンザン味わわされたけれど、
じゃあ、殺したろうかと思った時期もあるほど、にっくき親父を、死ぬかなというまで殴り倒してスッキリできるかと自問すれば、けっして、そうでは ない。
ああ、この自分に殴り倒されている親。。。なんとも言えない、なさけない思いが するものよ。
皮肉なことに、強圧的だった親ほど。
実際に、自分が実行したわけじゃないけど。
そして また、
ついに、親に見離され、殺される子どもの絶望というものも、筆舌で表現しきれない悲哀だ。
これは、私自身の実感からの、つよい疑問なのだが、
はっきり言わせてもらえば、
何らかの障碍とか心身の明らかな不調を抱えているわけでもないのに、人並み程度にも働きに出られないというのは、いったい、どうして、どういうことなのかなとは思っていた。
しかも、家庭内で、家族のために確かに役立っているというわけでもない場合。
特に、男性の場合に目立つのは、やっぱり、仕事して、稼いでいないと、そうとう鬱屈するみたいだなと。
家庭を持ち、子どもが いて、虐待して死なせてしまい、逮捕されたというパターンでも、無職の父親だった、と言うケースは多いのかと感じられるほど、目につく。
高校時代のクラスメートでもあった幼なじみが、
この子は典型的な「アーパー」タイプだったけどwおとうさんは、私も見たことが あるのだが、キツイ肉体労働の工場勤めで、とても真面目な人だった。
あるとき、何の話でか、その子が、
「男は、働いてナンボや!」
と言い放ったのを思い出す昨今。
で、その発言の主は、若くして結婚した。商売人の息子で、高校生時代から つきあってたという同い年の、よく つり合ってナンパな同類男と(笑)
世のなか、大いに稼いだら稼いだで、たちまち「女遊び」なんかを始めるのは、男性の定番みたいだし、自分自身の甲斐性でなくても、とにかく、自分が使えるカネが手もとに ありさえすれば、放蕩三昧になるケースを よく見聞きするけれど。
もちろん、健康面の問題および金銭の不自由なければ、稼ぎに出ることは しなくても、ふつうは、旅行なりの遊びや趣味には精出すだろう。
両事件とも、親が裕福であるとか遺産とかで、家庭内の軋轢は あれど、経済的には恵まれていたらしい。
ところが、
『川崎』の事件のほうの犯人は、親に殺められた息子と違って、パソコンもスマホも所持しておらず、部屋にはテレビくらいしかなかったそうな。
よくまあ、大の男が、毎日退屈もせずに?と思う。
これらは まさに「小人閑居して」云々じゃないのかしら?
だいたい、とんでもない暴力や犯罪を実行する者は、それだけのエネルギーを持っているに違いないのだから、長年にわたって年がら年じゅう、ひまと体力を持て余すような生活ぶりでは、発散しきれずに、ヘンなものが溜まってくるだろうよと思う。特に男性は。
まず、私個人的に、何よりも理解できないなあと感じたのは、
それほどまで厭な家に、なぜ、居座ったり、自分から帰って来るのか?
ってこと。
私なんかは、実家に居た頃、障碍のせいで、なかなか就職がスムーズにいき難かったし、将来の不安も大きいから、早く、親元を出たいと思いつつ、幼い時分から ずっと、酒乱の父親から、母親を庇ってきたこともあって、なかなか、親もとを出るのに時間を要したが、その間、当の母親には、
「家が居心地良いから、出て行かないんだろう、おまえは」
と、さんざん、イヤミを言われ続けたよ。
ましてや、黙って小遣いを添えて置いてくれるだのは ありえないし、食事も作ってくれないよ。
だから、そのままジッとしてたら、ますます、身動き とれなくなっていく。
やっとの思いで、一人暮らしを始めたら始めたで、そのときは母親も協力してくれたものの、今度は、親を見捨てて出て行った、みたいに言われたし。
働いて働いて、病院にも行けず、トコトン体調を崩した末に、手術を要する病気になったときでも、実家に帰りたいとは微塵も思わなかった。
もし、再び、親と一緒に暮らさなければならなくなったとしたら、今度こそ死んだほうがマシだと思ってた。
さすがの母親も、意外とアンタ、根性あるなあ、と感心していたほどだ。
この頃になると、親に対して憎悪というよりも、遠縁の親戚程度か、他人みたいに、深入りせずに済む関係になれたら いいのにというのが本音だった。
結局は、入院・手術を機に、実家の近くに戻ったけど、そのうちに、母親が いよいよ頻繁に入・退院を繰り返す状態になり、それにつれて、頭のほうも、ますます おかしくなってきて、
あるとき、近所のスーパーマーケットへ買い物に出て、帰って来たら、
電話の呼び出しが けたたましい。
ほんの30分ほどのあいだに、何度も何度も かけ直していたらしく、
受話器を取ったとたん、
「どこへ出かけてたんや!!こっちの用事が あるのに!!!」
と、大音声。
食料が尽きてきたから、そこのスーパーへ、ちょっと買い物、、、と言っても、大声で、
「とにかく電話を すぐ取れ!!!」
の一点張り。
ほんとうに、目の前が暗くなって、窒息感を覚えたよ。
これから、こういう生活になるのか。。。と。
まじで、死んだほうがマシだと思ったわ。
いま思い出しても、ゾッとする。
とうとう、隠そうともせず、依存心を剥き出しに、私を全力で縛りつけようと かかってきた親たち。
ここに至って、私の障碍を敢えて知らん顔し続けたことの効果が表れたわけ。
うちの母親は、なるほど、たいした策略・計略家だったw
「親に勝てると思うな!!」と叫んだ意味。
だから、『川崎』の事件では、「居候」と呼ばれつつ、育ててもらって、せわになったんだからと、老いた伯父さん夫婦の介護を、もしや、一人で担わされていたんじゃあるまいか?と、最初は推測した。
ほんとうに厭だったら、とてもじゃないがガマンできないよ。親と言えども、顔を見るだけでストレスだし、極力、かかわりたくないもん。
金銭の不自由もないのに、すごく厭な家から出て行かないとか、
わざわざ自分から舞い戻ってきた、ということの心理が、どうも よく理解できないのよ、私には。
やっぱり、これは間違いなく「甘え」の一種なんだろうと思える。
【続く】
2019.02.15 (Fri)
例の『野田市 小4少女』の死亡事件だけど。
「ヤフゴミ溜め」のコメントというのは、たぶん、同一人物が、複数のアカウントを取得して、大量に投稿しているらしいのが窺えるので、必然的に、同じような内容のコメントがズラリと並ぶことになるわけだろうけど、あれ見てたら、つくづく厭になるのはね、
やたら残虐な刑の「提案」ばっかり並べ立てて、いわゆる「しつけ」という虐待、と言うよりも折檻、拷問に相当してしまうようなエスカレート現象の根本考察や、そこから発して、分析へ、予防の観点へは、豪も進む気配が見受けられないところなのよ。
しまいに、心底、寒々としてきて、
昨今の流行みたいな「子殺し」現象は、この国が、いよいよダメになってきている兆しのような気もするけれど、
そこから持ち直す希望すら、もう持てないんじゃなかろうかという、絶望的な気分になってしまうので、社会的弊害・有害の面が大き過ぎる「ヤフコメ」欄は廃止しろ、と言い続けてるんだけどね、私は。
まずね、
「ヤフゴミん」お好みの「死刑」も さりながら、被害者である少女と同じめを、この親にも味わわせたところで、もちろん、被害者が浮かばれるはずもないどころか、
加害者である親は、もっと、自分の娘を逆恨みするだろうということ。
なぜかというと、
「しつけ」のためだったと頑強に主張するんだから、自分は正しいのだ、間違ったことは してない、それなのに、なぜ、そんな自分が、拷問されたり、死刑にされなきゃならないんだ?と、
ますます、自分の子を、「自分にとって、最悪の災厄を齎したダメな子」として憎しみ、逆恨みするハメにしかならないの。
以前のエントリーでも何度か言ってるけど、
このテの問題を起こす当人というのは、私自身、もともとから脳の何かしらに問題が あったり、「自己愛性人格障害」の傾向を持ってたり、それを嵩じさせたりするんだろうな、ということを言ってきた、と同時に、
それらは、殊のほかに「被害者意識」を持ち易い要因にもなり得る、ってこと。
したがって、その「被害者意識」を、「仮にも、自分は正しい」という信念を持っている者は、単に刑罰を受けただけでは、「被害者意識」かつ「自己憐憫」と、逆恨みを募らせるだけなのよ、せいぜいが。
こんなことでは、それこそ、被害者は浮かばれないわよね。
ましてや、実の親ときてるんだから、これが。
とにかく、
まずは、何が、折檻するに相当するだけの「悪い子」だったと思うのか、加害者本人に、説明させることから始めなきゃならない。
もちろん、作話や、自分を正当化するためのデッチアゲも辞さないから、慎重な注意を要する。
でないと、
まあ、大概は、子ども側が言うこと聞かなくても しかたないほどの、くだらないことが「しつけ」の理由なんだろうけど、
その「理由」が、いかに くだらなくて、身勝手きわまる次元のものだったかを、当人に分からせないと、反省の段階に進められない。
うちの親父なんかも、たとえば、「ふろの掛け湯は何杯までにしろ」とか、そういう、守る必要も感じられない、くだらなくも、もの凄く細かい主張を してくるタイプだったんだけど(一事が万事で、カネにも細かいw)、
最も原因になってたのは、やっぱり、お酒の問題。
それでも、壮年期までは、病気で入院することもなく(自分のルール違反による交通事故のときだけだった)、いたってエネルギッシュで頑丈なカラダだったから、私ら家族も、他人も、りっぱな「アル中」の域に入っている者だということには、なかなか気づかなかったの。
なんだかんだ言ってても、いちおう、仕事は行ってたし、管理職を務めてもいたし。
うちの母親も亡くなり、そのおりに、じつは、脳に異常が、という話を聞かされ
(うちの母親は、自分の店を経営してた時代に、交通事故で、頭を打って長期入院したことが あるので、そこからのものなのか、遺伝性のものなのかは、さだかでない。ただし、母親の姉妹たちは、生まれつき癲癇持ちとか、中年期に精神病を発症したということは ある)、
今度は父親のほうも、いよいよ高齢になり、さすがに入・退院を繰り返すようになってからだ。親父の主治医の忠告で、ハッキリと「アル中」ですよ、と言い渡されたのは。
それからね、「脳が委縮する」という、虐待児に起き易いという現象。
これが、殆どのケースに見受けられる事実であれば、これこそが、虐待、折檻といった暴力行為の連鎖を引き起こす原因になってしまうのかもしれない。
まあ、委縮した脳で主張する、「この自分は正しい」「必要な躾だった」と言い募るのが、はたして真っ当で妥当な内容だったのかどうか、推して知るべし、というところだわな。
たぶん、ほとんどの場合、親側の無自覚で勝手な言い分に過ぎないだろう。
そもそも、自分と感覚が異なる人と常に一緒に居ると、ストレス溜まってしまうのを自覚してるからこそ、普通に、もともとアカの他人と結婚して、子どもの二人や三人も拵えて、一つ屋根の下で家族を形成する、
そのなかで、
自分の勝手な細かい主張に従わないからとて、暴力を振るってしまう者の感覚が、どうにも理解し難いのだが、
私なんかでも、けっこう細かいところが気になったりする神経質な面は あるし、だけど、その神経質さは、ほとんどの場合、畢竟、自分の感覚による つごうに過ぎないだろうし、他者は他者で、また異なる感覚を持っているだろうから、相手が子どもであるとか、生態の異なる動物に対しては特にだが、基本的生活上の問題に繋がるようなこと以外では、こっちの つごうによる細かい要望を押しつけたりしないよう、自分自身の身勝手や独り善がりに注意しながら律するし、
それが 成人どうしのあいだである場合なら、お互い、すでに自分なりのライフ スタイルを築きあげてしまってるだけに、致命的なほどの嫌悪を感じるレベルならば、可能なかぎり、距離を あける。
感覚や考えかたが大幅に異なる相手を、生活の伴侶には、とうてい選べないわ。
反面で、自分の主張を、相手に呑み込ませて従わせるのも厭なのでね、私は。
いわゆるサディスト・マゾヒスト、この両者は、同一にして表裏である。
他者を暴行するというのは、「私物視」「同一視」しがちな者が、自分自身を暴行しているのである。
すなわち、相手に対する暴虐・憎悪は、自分自身に対する暴虐・憎悪である。
ところが、やはり、自分は最も可愛いのが基底であるから、常に、無自覚のうちに、どうしようもない葛藤を抱えている。
「愛」と「憎しみ」も、表裏一体になりがちだ。
それらを誤魔化すのに つごうが いいのが、「躾のため」という単純化である。
だが、そんな誤魔化しが、ほんとうの心理的解決になるはずもなく、事態は延々と続く。
はまって抜けられない自分自身を憎悪し、その憎悪を、私物視・同一視している相手に向けていく。
ほとんどは、自分にすら逆らうことが できないはずの相手だ。要するに、「自己投影」。
やれば やるほど、アディクトの深みに はまる。
行くところまで行かないと、もの足りなくなる。
ものすごく醜悪な世界だよ、こういうのって。
ところで、全く知らないものを、「足りない」からと欲しがるだろうか。
少しは知っていて、全く知らないのでは なかろうし、
結局、
「足るを知らない」のだろう。
つまり、「餓鬼」の姿だ。
「餓鬼」というものは、エネルギッシュである。
うちの親父が、酒かっくらって、あるいは、必ずしも、お酒を飲んだからとは限らないところも困るんだけど、
とにかく、暴れて、私らに暴行し始めるときの姿というのは、
まさに「悪鬼」か、というほど、凄まじいものだった。
あの直前には、親父の全身が、ヘンな色に赤らみ、こぶしを固く握り締めて、仁王立ち。
母親を庇う私が必死で とりなそうとすると、ニヤリと、気持ちの悪い表情を浮かべる。
暴行を はたらいている最中は、まさに、「溺れている」感じなのよね。
邪まな快楽に。
学校時分の私が、あの親父、はっきり言って異常なんじゃないかと言うと、
母親は、
「シッ。異常だと決めつけると、かえって、それを理由に、ああ、俺は異常なんだからな、と、もっと ひらきなおりよるで」
と言ったものだ。
ここで、私なりの指摘を すると、
男性の場合、性行為と、単なる暴力行為というのは隣り合わせというか、かなり重なっていると見受ける。
だから、暴行したあと、セックスに入るとか、強姦したあと、嬲り殺すとか、ありがちなこと。
これと同様で、実は、食欲と性欲も、密接に繋がっているらしい。
ま、男性というのは、敢えて喩えれば、女性性の「足」を一本もぎ取ったような性ですから、良くも悪くも偏っているのは本当だと思う。良くも悪くもね。
心理学でも指摘されているようだけど、
「怒り」というものは、怒れば怒るほど、もっと怒りを募らせてしまうもので、これもアディクト、一種の「中毒」なのだ。
なので、「自己愛性人格障害者」なら、もろにハマるんだろうと思う。
これも、すでに言ってきたことだけれど、
この「怒り」にせよ、「被害意識」にせよ、常に正当・妥当な理由が あるとは限らないということを踏まえておかなければ ならない。
むしろ、そこの見極めが できないか、
分かっていれば尚のことで、ひらきなおってしまい、身勝手という邪まさに溺れてしまう人種も存在するということ。
まあまあ「普通」に平穏な人生を過ごしてこれた、もの知らずな人たちが、あらゆる社会的システムを担い、運営していくしかないのであるから、そういう仕事に携わっている「普通」レベルの人たちこそは、世のなか、こうした「度し難い」ほどの異常な者も少なからず存在するということを知っておかなければ いけないね。
ひとえに生育環境に発した問題が あったのならば、そこを解きほぐしていけば、本人の自覚を得ることは難しくないかも しれないし、社会的な対策を探ることも容易だが、
それだけではなく、生まれつきの性質・気質も大なのであれば尚のことで、本人に、自分自身こそが問題の最大原因であることを自覚させるのは、はなはだ困難だろうと思う。
でも、なんとかしないと。
われわれ市井の庶民としても、まずは、自分の足もとからだな。
「弱者叩き」して愉悦しているような国民では、解決は不可能だよ。
もっとも、
「ネトウヨ」というエセ愛国者は、この社会を劣化させることを目的として煽りに煽ってるようだけど。単に異常性格だから、自覚が ないのかね?
2019.02.07 (Thu)
『【続】千葉県野田市の小学4年生の事件について』の続き。
子どもを連れて逃げることすら できなかった母親は、たしかに愚か極まる。
だいたい、「できちゃった婚」じゃないのかな?ここの夫婦も。
子どもを、支配欲なり依存のための、「繋ぎとめ」の道具に利用する男女も多いだろうと思う。うちの親も そうだった。
一度は、警察に相談に赴いたものの、そのときに どうすることもできなかったらしいということも、無力感を増加させたのだろう。それでも。
裸足で駆け込んでほしかった。近所にでも交番にでも役所にでも。
亭主に、娘の監視のため報告することに使っていたそうだから、スマホも持っていた、ということは、この母親を擁護する連中が言っていたような、「情報の全遮断状態に置かれて」というほどでもなかったわけだ。
子を守る本気度が足りなかったという責めは引き受けねばなるまい。
一個の おとなとして、子の親になった以上は。
まぎれもなく、第一の保護者たるべき者は、親なのだから。
しかしながら、その、親たる者が、真の意味での非力、無力で、どうしようもない出来なのであれば、これは もう、社会全体によって救済するしかないことだ。
ところが、その社会におけるシステムが機能していなかった。こんな事例が引きも切らぬ日本という国。
「事なかれ主義」「他人事」の感覚、表面と形式重視、本質的に、どこか無責任、傍観者的態度を賢いと見做す、これらの国民的体質は、
そう、
「祈ってくださる(おまえだけが祈っておれば よい!)」
「大御心だ!」
「無私(でなければ ならぬ!おまえだけは!)」と、ただの一人に押しつけて澄ましかえっておれる日本の「象徴」システムと、けっして無関係では あるまい。
ま、私が常々言うように、相手の毒牙に ひっかかる夫婦は同レベル、
その典型的な事例が、また増えた。
ダメダメどうしだから ひっついたら最後、離れられないのよw
こんな親のとこに生まれてきたら、百年の不作ですわな。
子どもは ただただ迷惑千万。
産んでは みたものの、まともに育てられも しない、こんな親は少なくないのが、昔も今も実態なのだ。
実際、日本の社会でも、現行、子育て世帯が最優遇されているはずで、最も「搾取」されていると言えるのは、低所得の独身世帯だ。
なので、
その最優遇されている子育て世帯が、独身者から「独身税」を取れ!というバカな主張しているのを見るにつけ、オマエみたいなバカが子どもを持つから、世のなかが ますます歪むんだよ、と言いたくなってくる。
富裕層しかり、子育て家庭しかり、社会的インフラを最も、フル活用できているのだから、なにを被害妄想的なことを言い募ってるのやら。。。(呆)
これも、私が常々言うように、誰しも、最も可愛い、守りたいのは、自分の身である。このことは、否応もない本能的なことだ。
その「守りたい自分」のうちに、ほとんどの場合は、自分の子どもも入れているだろうから、難しい、複雑なことでは ある。
だが しかし、それも、ある程度の余裕が、あらゆる面で確保されていればの話。
先日来のエントリーで紹介してきた、猿の社会を見ていても、よく分かる。
子を虐待する者の根底に潜んでいるであろう意識、「子は、親の私物」的な感覚を捨てさせるには、子どもは社会資産であり(したがって、これを毀損した場合、社会全体の損害を齎したと見做すことになる)、希望への投資対象であり、掛け替えのない宝として育てる、という意識を共有していくしかない。
うちの母親は、自分の親への深い恨みもあって、
「子どもは、親の私物じゃない」と、口先では頻りに主張していた。
ところが、
じゃあ、翻って、自分自身の行いは どうなのか?
と問うと、
自分は言行一致だ!と、無自覚と両立させた自信マンマン。
脳に異常が あっただけのことは あるよw
自分のカラダとは言え、コントロールできないもんね、
とりわけ、脳の異常は。
このように、
どこまでいっても自分棚上げ、自分が最も可愛く、守りたいものなの。
また、そういう者ほど、良いほうへ回るものなの。
(むろんのこと、脳も含めた)肉体を持つゆえの煩悩、悲哀に ほかならない。
この世の摂理です。
実際に虐待を見知っていてさえも、
勢い強く、自分棚上げの主張を展開して恥じない者のほうに靡き、
被害を被っていた者については、たとえ満身創痍状態であろうとも、
とりあえずは、いちおう、まだ、そこで生きてるじゃないか、ならば、それほど大したことでは なかったのだろう、
で済ませてしまう。
だから、殺されるなり、自殺するまで、気づいては もらえないし、
いったんは分かってもらえても、すぐに忘却される。
それが、第三者、他人事の精神ゆえ。
今回の事件でも、あとからあとから明るみに出る実態に窺えるように、
虐待被害者は、あんなこと、こんなこと、
生きていくうえで、しかたなく、記憶の片隅に追いやり、忘れかけていたことも、キッカケさえ あれば、いくらでも思い出すよ。
でも、思い出せば、そのたびに、エネルギーを多大に消耗するし、
がんばって言えば言うほど、鬱陶しがられるから、口を噤んでしまう。
そうして、やがて ほんとうに、澱のように、手を伸ばしても掴み出せない底のほうへ沈殿していってしまう。
ところで、
私が、こんな事情を知っていたら、
ましてや近所に住んでる者なら、知らん顔や放置は できない。
事情を知っていたという、この近所の人たちの気が知れないと呆れたのは、
こないだ、静岡県の どこかで、ガスも電気も止められ、焚火で しのごうとしていた家から火事を出し、そこの住人の高齢者が死亡したのみならず、近所の何軒かも、もらい火したというニュースが あったね。
よくまあ、放っておけたもんだわな。。。
そりゃ、もらい火するだろうよ。
2019.02.07 (Thu)
『千葉県野田市の小学4年生の事件について』の続き。
少なくとも人並みの家庭で育ち、人並みに順調に学校を出て、公務員にでもなった人たちは、概ね、深刻な苦労は、あまり していないからこそ、まずまず順調な来歴で やってこれたことだろうし、
それだけに、異様なほどの家庭環境その内部の闇とか、異常なほどの心理を持つ人間の、浅ましさ剥き出しの姿というものは、おいそれと想像できないだろうと察する。
うちの場合はね、むしろ、母親のほうが、もの凄く気性が激しかった。
本当の内面は、そうでは なかった、子どもの頃から言い知れぬ寂しさを押し込めて生きていたのだということに、私も、本人の死後になってから、察しが ついたのだけれど。
学校時分は、母親も父親も、せっかくの好成績だったのに、それぞれの実家の親の身勝手ゆえ、進学を阻止されて、低学歴だったが、
もともと、「無能」ではない。
なにしろ、母親は、しろうとながら、得意の料理の腕を生かして、自分の店を経営していたくらいだ。
それだけに、猛烈に口も達者で、人に取り入るようなことも得意だが、
同時に、敵に回すと、そりゃあもう、舌鋒鋭いなんてレベルじゃない。
「唇からナイフ」てな感じw
だから、手が出るんだ!と、激昂する親父の言い分。
ちょっと黙ってて!!と、あいだに入った私が諌めても、機関銃のような口が止まらない、そんな母親を庇って、身代わり状態で、親父にボコられていた私の場合よりも、もっともっと深刻な状態だった人々も、世のなかには いるわけだけれど、
自分自身の身をもって経験したことが、多少なりに あると ないとでは、想像力の幅が全然、違うのだろう。
これは、一般的に、公務員といった職業の人たちだけでは なく、
要するに、家庭や生育上の環境における特段の問題や躓きを経験することなく、順調に年齢を重ねてこれた人たち全般に共通で、その方面の想像力が希薄であること。
したがって、暴力や暴力的な人間に対しても、けっして慣れては いないだろう。
だから、
こうした事態に直面すると、たちまち、震えあがって、思考停止よろしく、反射的なまでに ひれ伏してしまう。
割合としては、ごく僅かであるにも かかわらず、昨今、頻りにブチあげられる「生活保護の不正受給」云々という話題だって同様で、昔から、多くは暴力団関係者に屈してしまうからだという話は知られていた。
いまや、その公務員が、不正受給を はたらいていた事件が幾つも世に出るしまつ。
強い者には弱く、弱い者には強く。。。
言っとくけど、
ほんとうに、「あすは我が身」の時代に入ったんだよ?
老後の年金の受取額が心細い向きは特にだ。特に、いま若い層に入る人。
年金だけでは生活していけない場合、不足分を生活保護で補填してもらう方法は ある。役所は、積極的な周知は決してしないけどねw
そのような状況に、自分自身が直面したとき、
安倍政権による、ただ今 絶賛削減中の生活保護、そして障碍者、高齢者、あらゆる弱者をバッシングする投稿を繰り返してきたものの、ふと、気づけば、すっかり老齢になっている自分。
からだは自由が利かず、いま現在とは違って、やがて減少を始めた高齢層の一員に、知らず知らず加わって、どんどん無力になっていた自分。
過去に、ネットで、愚かな投稿を繰り返していた自分を嘆く日が遠からず来ることだろう。
ちなみに、
先日の当ブログ エントリー内で述べてある「異常なほどに仕事できない『健常者』は、カクレ精神的問題者だった」、つまりは異常なほどの自己保身者である当人自身の家庭環境には特に問題なく、ご両親は、出来が悪すぎる娘の将来を案じ、いろいろと手立てを講じてこられた、真面目で優しい親だ。
うちの親みたいに、軽からぬ障碍を抱えて苦労している娘を、他人事のように無関心で、最後まで無視しきった無責任とは全く違う。
にもかかわらず、
当人は、かなりのヒネクレ者だったし、親しくなって、私の家庭環境のことを知ったとき、
「あんたとこの家って、なんで そんなんなの?」
と、嘲笑の表情をハッキリと浮かべて見下してきた。
そういうこともあって、私は、彼女の正体を見極め、見限ったのだけど。
なお ちなみに、
実家の兄は腹違いで、私とは、年齢も立場も心理も大きく異なっていた面は あるけれど、もちろん、お互い、同じ父親の子として、同じ屋根の下で生活した時代が あったわけだから、家庭環境が劣悪だったことは知り尽くしている。
だが、
うちの母親も、親父とは また違った意味での、たいへんな見栄っ張りだったから、その見栄っ張りを、あたかも正義に見せかけて、兄の尻を徹底的に叩き、なかば強引に、教職公務員のレールに乗せた。
まあ、それ自体は、あの兄の性格から言って、とうてい、民間の企業向きでは なかったし、ちょっと普通では ないような偏った気質も見受けられたから(しかも、知能指数も高くは なかった。私のIQよりも、ずーっと下)、公務員のように、簡単には辞めさせられない、堅い職業に就けておくのは、親として希求する安心でも あった。
たしかに、おかげで、兄は、私の何倍も、安定した良い生活を手にしていた。
近場に住みながら、鬱陶しい親の介護も、一切、関わろうとしなかった。
しかし、いつの間にか、鬱病になっていたそうで、やがて自殺してしまった。
私の母親の、凄まじい「教育ママゴン」ぶりも、結局は水の泡と終わった。
精神医学やら心理学方面のセンセイがたが、いっしょうけんめい説いてきたことが功を奏してか、そのへんのドしろうとたちも、喧伝に これ努めるようになった近頃だが、
「虐待の連鎖」ということも、
該当する場合のほうが多いのだろうなとは思うけれど、必ず当てはまるわけでは ないよ。本人の資質によって左右されることも少なくないだろう。
こないだは、久しぶりに、心理学の碓井先生のコメントを見かけたが、
「思い悩まない親」は要注意とかいう内容の指摘、これは確かなことだと思う。
うちの親も、何から来る自信なのか知らないが、ものすんごい確信的な言動を押し出してくる親だった。
なので、
「信念!」「信念が大事」と、やたら主張する人は、私にとっては鬱陶しい人種w
これも、私は早くから気づいていたことだが、
異様な自信マンマンで押しまくる、「勢い」が強過ぎる人ってのは、世間でも一目置かれていたりすることも多いだろうけど、
ずばり言わせてもらうと、一種の精神異常者です。
一歩違えば犯罪者タイプ。
かかわると、とんでもなく しんどい思いさせられるぞ。
見た感じは、頭の回転が速いシッカリ者としか見えないから、タチが悪い。
今回の事件の加害者である父親も、その やりくちは、まさに、「自己愛性人格障害」を思わせる。
「異様なほど、腰が低かった」とか外面が良い、といった指摘が、友人や知人のあいだから出ているそうだが、うちの両親にも、当てはまっていた。
その反面、
ひとたび、相手を「敵」と見做したとたん、猛烈な反撃に出るけどね。
ただし、あくまでも、自分のほうが立場が強い、と思えるかぎりで、だけどw
まあ、「腰が低すぎる」というのは、とりもなおさず、自分自身の内面に、常々、敵意や不安が潜んでいるからこそ、やたら用心深くしていることの一環なのかもしれないし、
外面を良くし続けていたら、ストレスも溜まるんだろう。
私なんかでも、親ですらも含めた他者の敵意や悪意に晒されることは、これまでの人生で、いくらでも あったけど、
そこまで、そこまで徹底できないや。。。
つまるところは、「自己投影」なんです。
うちの母親は、私が幼いうちから、
「おまえは妬まれやすい」
と、何かにつけて言ってたけど、私は、なんで、そういうことをワザワザ言って寄こすのか、わからなかった。
おせじにも人並みとは言い難い、家庭環境にせよ、障碍にせよ、ねたまれるどころか、バカにされるネタのほうが、ずっと多いのだからね。
要するに、うちの母親が、自分自身が、娘である私を妬んでたってことだ。
いまにして思うと、「呪い」のコトバだわな、あれは。
そんな私は、深刻な持病の多かった母親を、親父の暴力から庇い、その分、自分が殴られていたが、そのほうが、まだしも精神的に耐えられたからだ。
それにしても、
私は、いまのところ、まだ詳しい情報に接していないのだが、
いったい、この事件の被害者である実の娘の何が、父親らは、そこまで憎かったのだろうか。
「しつけだったのだから、悪いことは していない」と言い張っているそうだが、その「しつけ」とやらを必要とした理由って、どれほどのものだったというのか。
くだんの事件の少女の母親は、自分の娘を直接的に虐待していたという事例は、それほど多くなさそうだし、もともと、娘のことを、どうでもいいと思っていたのでもないだろう。
むしろ逆では なかろうか、と私は思っていたのだが。
というのは、
大事に、大切に思っているものが、酷いめに遭わされ、壊されていく。
それを目撃しても、どうすることもできない非力な、非力な自分。
こうなると、見たくないからこそ、眼を背けるばかりで、徐々に無気力に陥ってしまうのだ。
それどころか、
やられっぱなしである娘、そして、不甲斐ない自分自身も、みょうな憎悪の対象になってしまうという、非常に複雑怪奇で、自暴自棄的な心理にさえ陥る。
これは怖ろしい事態である。
少しでも免れるためには、正気を保ち、諦めずに抵抗し続け、闘い続けるしかないのだ。
それが できなくなった時点で、終わってしまう。
【続く】