2025.07.06 (Sun)
『【続】消費税減額か給付か、それが問題だw』の続き。
で、生理用品の話だけど、
普通サイズのナプキンさえ あれば、ほんの数日や1週間以内で やり過ごせる人を助けましょうというのなら、1ヵ月のうちの殆どが重い生理中で、特大サイズのナプキン必須で、非正規で貯金も できず、毎月の給料が、高価なナプキン代でドンドン削られてしまって、食費も ままならない私をも助けてほしいわ~と思ったかもしれないw
でね、
このように、ナプキンひとつを考えても、「贅沢品」の範囲か否かの線引きが難しい。
あの頃の私にとって、いちばん高価なナプキンが、間違いなく、生活必需品だったからね。
あえて言ってしまえば、個々人や事情によっては、必要性も価値も違ってくるわけで。
まあ、現代でも、これだけは間違いなく奢侈品・贅沢品であると決めつけていいのは、貴金属や宝飾品の類とか高級車とかですかね。
だからと言って、ここらへんだけバーンと高額税を課しても しょうがなかろうし、業界も厭がるでしょうねw
それと、
私には、ここまでの考えは及ばないでいたのだけれども、
新製品については、どう判断するのか?ってこと。
たとえば、パソコンね。
またまた私個人のことを例にすると、私は、いまだに、スマホを所有してません。
ノートパソコンは持ってるけど、パソコンですら、一般に普及し始めた当初は、自分のを所有しようという気が全然なくて、このまま、死ぬまで買わなくてイイかなぁとすら思っていた。でも、職場では、ちょいちょい使わないと いけなくなってきて、やっぱり、職場だけでは、なかなか慣れず、周囲からも、自分のパソコン買っといたほうが いいよ、これからの時代は必要だよと諭されて、しぶしぶ購入したのが、すでに40歳代だった。買うときに、まず思ったのは、
「たっけぇなあ。。。このまま一生、買わないで済ませようと思ってたのに。チッ
」
ってな感じwww
そして、パソコンの普及には、校正・校閲者でもあった私の仕事を奪ったという側面もある。
でもね、やっぱり、聴覚障害の身には、メールとかが便利だというよりも、もはや必需品だし、使えなくなったら、まじで困る。
しかも、その障碍のことに関しても、ネット検索によって、知らないままでいた いろいろな情報を得ることが できたわけなのよね。
それまでは、生前の親らに、勝手な作り話を吹き込まれていて、
「障碍」なんていうほどのものじゃない!大げさ!ひとえに、根性と努力と要領が足りない私が全面的に悪い!!ということにされてたから。
ほんとうは、幼いうちに、補聴器や手話に慣れておき、発声・発話訓練も受けておくべきで、『障害手帳』が必要だったのだけどね。
パソコン検索という手段が得られないままだったら、いまだに自分で自分を責め、恥じているしかなかったかもと思う。
いまでも、親父の先妻のほうの娘らは、私の悪口を言い続けているかも しれない。
生前、親父は、私の母親が生きていた頃は、先妻との娘や息子の一家と極秘に旅行先で落ち合っては、私の母親の悪口を言いまくっていたらしいが、母親の死後は、「できそこない」の私自身に、お鉢が回ってきていたようで、今度は、私の悪口ざんまいだったらしい。
昨今は、『生成AI』の有害性が言われるようになったが、
もともと、インターネット自体が、言わば「見切り発車」的な野放し状態で開始し、様々なトラブルや被害発生も敢えて放置されてきたでしょ。
私個人も、パソコンによって、障碍をカバーするために身に付けた仕事を奪われたのみならず、
ネット上で、例の「おカルト連」やらワケわかめなサイトやなんかで、猛烈な誹謗中傷攻撃を こうむり、ものすごく不快な目に遭わされもしたわけだけど、
ま、そういった負の面は さて置くとして、
世に画期的な新製品が登場したとき、それまでは、一般的な人々の生活のなかに存在しておらず、したがって、「必需品」では ないもの、と決められてしまったら、一部の人々以外の大多数の人々は、せっかくの新製品によるメリット面を享受できないままということになりかねないわけで。
それは、とにかく営利を追求したい商売人や企業側にとっても、望ましくないことだろう。
このように、現代では、『物品税』『奢侈税』というものの区分けが、あきらかに難しくなっている。
ところで、
最近、誰かさんと誰かさんが、いまさらに、「少子化の原因は」経済的に苦しい人が増えたからとか、いーや、豊かになったからこそだ、とかって、論争を繰り広げているみたいな、そういう見出し(だけw)を見かけたのだが、例によって、記事の内容は、読んでないww
すでに見限っており、はっきりキライだったり、関心を持つほどでない対象の記事や意見はスルーしているので、今回も、そのパターンでwww
ただね、
この話題に おいては、どちらの意見や見解も、無関係では ないだろうし、その お二人のうちの、どちらかが全面的に正しいということでもないだろう。
つまるところ、
いちおうは「豊か」になったし、いちおうは豊かさを維持できているとしても、
いちおう「人並みには豊か」な範疇に入っていると、いまのところ辛うじて自負できるとしても、
次には、その人並みレベルの「豊かさ」すら維持し続けることが できなくなるかもしれないという転落の不安が つきまとっている。
手に入れた「豊かさ」を維持し続けられる自信には乏しいわけだ。
失ったら、おしまいだから、
いまの「豊かさ」を維持するだけで精いっぱい。
なので、ある意味、余裕は一切ない。
砂上の楼閣のような脆い「豊かさ」だから。。。
現代の、いわゆる発展途上国も、昔の日本も、共通して子だくさんだ。
そして、ごく限られた特権階級、「殿上人」のような、雲の上で暮らしているかような人たちのことに対しては、住んでいる世界が全く違うのだと割り切っていたのは勿論、
目の前の隣人と、いちいち比べ合って、ねたみも羨みも しないのは、殆どの人が、自分の生活状況と大差なく、みな、多かれ少なかれ耐えており、がんばっているうちには、だんだん良くなっていくだろうという漠然とながら希望が持てていた時代なら、自分だけがと、貧しさなどを恥じる必要も、恥じている余裕すらも なかっただろう。
庶民階級に おいて、昔は、子どもは保護するべき対象では なく、まずは、家事や労働の担い手として期待し、また、大家族が当たり前の時代には、子育てを直接的に担うのは、両親では なく、祖父母それ以外では、先に生まれた子どもが担っていた。子どもが子どもの めんどうを見ていた。
そして、子孫は、「家」制度の、地域や村落共同体の、ひいては、国家の維持を担うための存在だから、婚姻と出産のセットは、当たり前の義務であったし、そこからの逸脱は許されなかったし、権力者は、当然の如くに、民の生死に介入し、干渉する。いざとなれば、この現代でも同様だ。
権力筋に支配され、利用される庶民のほうも、自分たちの子どもは陰に陽に利用する。昔から同様に。
どこかで利用する対象が子どもという存在なのだから、デメリットのほうが危惧されるとなってくれば、子を持つことを避けるのも自然当然だろう。
現代は、一般的な民衆の あいだにも、格差が広がり続けてきて、自分は「平均」から外れそうだ、どうやら外れていると思えば、それを隠そうとするし、隠しきれなくなるかもしれない、少なくとも「平均」の範疇に入っていることを維持できなくなるかもしれないという不安が あり、その不安を現実化してしまいそうなものは持たない、かかわらないでおこう、となる。
逆に、積極的に持とうとする向きも、少しは あるだろうけれど、
それも また、何らかの面で利用していることが あるはずだと勘繰られ、バッシングを憚らない現象も、世間で起きている。母子家庭などが恰好のターゲットになった。
『異端者の歌w』
…
「ナショナル ミニマム」
というコトバを、いまだに知らない、理解していない、理解しようともしない、したくない人が、この国の大多数なのだろう。