2019.02.07 (Thu)
『【続】千葉県野田市の小学4年生の事件について』の続き。
子どもを連れて逃げることすら できなかった母親は、たしかに愚か極まる。
だいたい、「できちゃった婚」じゃないのかな?ここの夫婦も。
子どもを、支配欲なり依存のための、「繋ぎとめ」の道具に利用する男女も多いだろうと思う。うちの親も そうだった。
一度は、警察に相談に赴いたものの、そのときに どうすることもできなかったらしいということも、無力感を増加させたのだろう。それでも。
裸足で駆け込んでほしかった。近所にでも交番にでも役所にでも。
亭主に、娘の監視のため報告することに使っていたそうだから、スマホも持っていた、ということは、この母親を擁護する連中が言っていたような、「情報の全遮断状態に置かれて」というほどでもなかったわけだ。
子を守る本気度が足りなかったという責めは引き受けねばなるまい。
一個の おとなとして、子の親になった以上は。
まぎれもなく、第一の保護者たるべき者は、親なのだから。
しかしながら、その、親たる者が、真の意味での非力、無力で、どうしようもない出来なのであれば、これは もう、社会全体によって救済するしかないことだ。
ところが、その社会におけるシステムが機能していなかった。こんな事例が引きも切らぬ日本という国。
「事なかれ主義」「他人事」の感覚、表面と形式重視、本質的に、どこか無責任、傍観者的態度を賢いと見做す、これらの国民的体質は、
そう、
「祈ってくださる(おまえだけが祈っておれば よい!)」
「大御心だ!」
「無私(でなければ ならぬ!おまえだけは!)」と、ただの一人に押しつけて澄ましかえっておれる日本の「象徴」システムと、けっして無関係では あるまい。
ま、私が常々言うように、相手の毒牙に ひっかかる夫婦は同レベル、
その典型的な事例が、また増えた。
ダメダメどうしだから ひっついたら最後、離れられないのよw
こんな親のとこに生まれてきたら、百年の不作ですわな。
子どもは ただただ迷惑千万。
産んでは みたものの、まともに育てられも しない、こんな親は少なくないのが、昔も今も実態なのだ。
実際、日本の社会でも、現行、子育て世帯が最優遇されているはずで、最も「搾取」されていると言えるのは、低所得の独身世帯だ。
なので、
その最優遇されている子育て世帯が、独身者から「独身税」を取れ!というバカな主張しているのを見るにつけ、オマエみたいなバカが子どもを持つから、世のなかが ますます歪むんだよ、と言いたくなってくる。
富裕層しかり、子育て家庭しかり、社会的インフラを最も、フル活用できているのだから、なにを被害妄想的なことを言い募ってるのやら。。。(呆)
これも、私が常々言うように、誰しも、最も可愛い、守りたいのは、自分の身である。このことは、否応もない本能的なことだ。
その「守りたい自分」のうちに、ほとんどの場合は、自分の子どもも入れているだろうから、難しい、複雑なことでは ある。
だが しかし、それも、ある程度の余裕が、あらゆる面で確保されていればの話。
先日来のエントリーで紹介してきた、猿の社会を見ていても、よく分かる。
子を虐待する者の根底に潜んでいるであろう意識、「子は、親の私物」的な感覚を捨てさせるには、子どもは社会資産であり(したがって、これを毀損した場合、社会全体の損害を齎したと見做すことになる)、希望への投資対象であり、掛け替えのない宝として育てる、という意識を共有していくしかない。
うちの母親は、自分の親への深い恨みもあって、
「子どもは、親の私物じゃない」と、口先では頻りに主張していた。
ところが、
じゃあ、翻って、自分自身の行いは どうなのか?
と問うと、
自分は言行一致だ!と、無自覚と両立させた自信マンマン。
脳に異常が あっただけのことは あるよw
自分のカラダとは言え、コントロールできないもんね、
とりわけ、脳の異常は。
このように、
どこまでいっても自分棚上げ、自分が最も可愛く、守りたいものなの。
また、そういう者ほど、良いほうへ回るものなの。
(むろんのこと、脳も含めた)肉体を持つゆえの煩悩、悲哀に ほかならない。
この世の摂理です。
実際に虐待を見知っていてさえも、
勢い強く、自分棚上げの主張を展開して恥じない者のほうに靡き、
被害を被っていた者については、たとえ満身創痍状態であろうとも、
とりあえずは、いちおう、まだ、そこで生きてるじゃないか、ならば、それほど大したことでは なかったのだろう、
で済ませてしまう。
だから、殺されるなり、自殺するまで、気づいては もらえないし、
いったんは分かってもらえても、すぐに忘却される。
それが、第三者、他人事の精神ゆえ。
今回の事件でも、あとからあとから明るみに出る実態に窺えるように、
虐待被害者は、あんなこと、こんなこと、
生きていくうえで、しかたなく、記憶の片隅に追いやり、忘れかけていたことも、キッカケさえ あれば、いくらでも思い出すよ。
でも、思い出せば、そのたびに、エネルギーを多大に消耗するし、
がんばって言えば言うほど、鬱陶しがられるから、口を噤んでしまう。
そうして、やがて ほんとうに、澱のように、手を伸ばしても掴み出せない底のほうへ沈殿していってしまう。
ところで、
私が、こんな事情を知っていたら、
ましてや近所に住んでる者なら、知らん顔や放置は できない。
事情を知っていたという、この近所の人たちの気が知れないと呆れたのは、
こないだ、静岡県の どこかで、ガスも電気も止められ、焚火で しのごうとしていた家から火事を出し、そこの住人の高齢者が死亡したのみならず、近所の何軒かも、もらい火したというニュースが あったね。
よくまあ、放っておけたもんだわな。。。
そりゃ、もらい火するだろうよ。