2019.02.07 (Thu)
絶望と孤独のなかで 死んでいった子どもが、また一人。。。
当ブログでは以前も言ったことだけど、
「ヤフゴミん」らのなかで特に目につくアホな主張が、
やれ「親を選んで生まれてきた」とか、
やれ「次に生まれてきたときは」とか、さも見てきたようなことを言う。
しょーーーもないのも通り越して、ひたすら愚かなコメント。
こんなだから、デマも平気で こくわけよ。
親を選んで、って、
じゃあ、そう言うオマエさんは、選んで生まれてきた覚えが、カケラでも あるのか?
おめえみたいな愚物が、たまたま、なんとか人並みの生活できてる、
いまのとこは「まあ、運が良かった」というだけのこと。
えらそうに、他人の人生を、そんな単純に片付けられるもんじゃない。
あるいは、人並み以下の苦しい生活環境を余儀なくされていたりしたら、それでも、すべてが自己責任、自己判断の結果です、と潔く言えるか?たぶん、そうは できまいよ。
それに、自分自身が子どもを持つ側の者が、「子どものほうが、親を選んで生まれてきた」なんてな、ごつごう剥き出しの、それこそ無責任な戯言をホザくな。
見てて不愉快極まる。
うちの親だったら、
「そうそう!自分たちのところが良いからこそ、おまえは選んで生まれてきたんだ」
と、さっそくウヌボレの材料にするのは、火を見るより明らかだ。
もっとも、そういう親ら自身、じゃあ、自分も、生まれるところを選んだのか?と問われると、それは猛然と否定するはずw
そんなもんなんだよ。
基本的に、親というのは、身勝手で脳天気だからこそ、ほいほいと、子を産み落とす。それが現実。
だからこそ、子を負い、責任を負い、子育てによって成長し、人間として成熟しなければ ならないとされる。
未熟だからこそだ。そうじゃないか。
甘ちゃんだからこそ、「すべては自己責任」とか、「次は」などと、あたかも「リセット」可能と思えるんだ。
こういう感覚だと、そりゃあ、他人事、他人まかせにしてしまうわな。
呆れた脳天気だよ。
ま、そういう脳天気のウヌボレやでなければ、安易に子どもを つくることは できないはずなんだけどね、人間としての知性が備わっているのならば。
いいですか。
命は、一回コッキリです。
代えは ない。
だから、取り返しが つかないの。
厳しいもんだよ。
私自身も、家庭内暴力や虐待被害の当事者だったので、年齢を重ねるにつれて、ますます、この類の事件を見聞すると、ほぼ反射的、と言えるくらいに、気分がダウンする傾向が あるので、すぐ反応して、ブログとかに、自分なりの見解を書き込む意欲すら、ここ年々、起きにくいようになっていってるのだが、
例の「ヤフゴミん」らのコメントを見ていると、やっぱり、ここの連中の多くは、わかってない、わからない連中なんだと感じる投稿が多過ぎるほど多いので
(障碍者の問題にせよ、生活保護の問題にせよ、政治や社会一般についての問題にせよ、何でも その傾向。よくも まあ、こんな無知かつ下劣なコメントを、恥ずかしげのカケラもなく投稿できるもんだよ、いくら匿名でも。)、
特に、自分自身で、実態というものを経験していないと、なかなか理解し難いのだろうなと思えることについて触れておく。
まず、
今回の事件で断定することは避けたいものの、やっぱりなあと感じざるを得なかったのは、お役所の、公務員さんの、「事なかれ体質」「他人事で済ませたい性質」といった、昔からの定番の批判。
これは、障碍者自身や、支援等の関係で、障碍者と関わっている人たちの大多数が、よーく知っていることだ。
原因は「人手不足」?なぜ、そうなる?
政治や政策、行政の ありようは無関係か?
言わば「内部告発」の かたちを とらざるを得なかった、抵抗が困難な者を守らず、逆に突き出す結果になってしまったような、アンケートのコピーを渡した行為に、「人手不足」を理由には、決して できまい。
中途半端な行為が、かえって、事態を悪化させることは ままある。
私が受けた印象は、今回も、「しょせん、苦労知らずには分かるまいさ」ということ。
政治屋や公務員らが、苦労知らずのオボッチャンお嬢ちゃんのまま、いっちょまえの肩書き付けた「おとなモドキ」だと、庶民は苦労する。その端的な現れが、こういう場面にも噴き出してくるのさ。
私が小学生の、ちょうど、この事件の被害者である少女と同年齢の頃、当時の担任は、大学卒業したばかりの新米の女性教師で、子どもから見ても、見るからに若い お嬢さんタイプで、地元の旧家育ちという話は、子どもたちの耳にも入って来ていて、
当時、うちでは、母親が経営する飲食店の閉店後に、交通事故に遭い、長期入院中だったのだが、クリスマスから年末の季節となり、私は、母親の見舞いの帰りだったかに、幾ばくかの小遣いを もらったので、駅前の目抜き通りの商店街を散策中、この担任教師とバッタリ遭遇したことが あった。
「あらぁ、○○さん」と一言二言、短いコトバを かわしているあいだ、にこやかに、こちらを見ていた、彼女の母親らしき、品の良さげな中年女性と連れ立っていて、二人で買い物を楽しんでいるところだったようだ。
先生は、上質で温かそうなコートに身を包み、とても幸せそうだった。
子どもだった私の目にも、何不自由なさそうな母子連れで、「先生って、ほんとに、お嬢さんなんだ」と感じたものだ。
さて、その頃に、クラスでイジメられっ子の一人と見做されていた立場の男の子が、どういうわけだか、いきなり、学級委員に選出されたことが あった。
ふつう、学級委員というのは、昔も、いまでも、まずは優等生で、リーダーシップが ありそうな子が選ばれるのが相場だと思うけど、
私も、あれれ?と思ったものの、要するに、こういうことも、イジメのネタになり得るからなんだな、ということは察した。
一部の男子らが、やんやと囃し立てていたことからも、それを確信した。
選ばれた当人は、あきらかに当惑していた。
案の定、
それから ほどなくして、何かの問題が もちあがったときに、その男子は、学級委員でありながら!とて、教壇に一人立たされ、クラスじゅうの総攻撃を一身に受けるハメになった。
そのとき、あのクラス担任は、どうしていたかっつうと、
どこか薄笑いを受かべて、他人事のように眺めているばかり。
私は、その光景を黙って見ているうちに、とうとう、たまらなくなって、挙手して発言した。
「わたしたちクラスのほうにも、○○クンを学級委員に選んだ責任は あるし、○○クンを責めるだけでいいとは思えません」とね。
もっとも、私自身は、その男子を学級委員に選んでいたわけじゃないよ。
で、担任の先生は、私の発言を受けて、こう言ったの。
「それは そうやね」
それだけ言って、にやにや笑っていた。。。
その後、学年が上がって、担任も変わったおり、その女教師は、同時に退職したという話を聞いた。
教師を続ける自信が ない、と。
なんでも、そもそもは、校長先生あたりのコネが あったらしいのだが、たった2年ほどの教員生活に懲りて、以後は、花嫁修業に邁進します、ということだったそうな。
この時代、日本は高度成長期の花盛りと言っていい時世、公害問題が もっぱらというくらいで、いまどきのような複雑かつ深刻な心理的問題、「貧困の連鎖」だの「暴力の連鎖」だのといった問題は、あまり、浮上しては いなかった印象が、いま振り返ってみても残っている。
もちろん、実際は、いろいろと あったに違いないけど。
まあ、うちに関しては、いまどきなら、それこそ児相からの偵察が来てもフシギじゃない環境だったことは、先日のエントリーで言ったとおりだけど。
なにしろ、「心理学」というコトバすら、うちの無教養な親なんかは、知らなかったろうし、ましてや、
子どもが、「DV」すなわち両親のあいだで繰り広げる暴力行為を目撃しただけでも、虐待に該当するなんて知見は皆無だったと思う。
ええ、委縮してるかもね、私の脳もw
つくづく、融通が利かないんだなー公務員さんというのは、とも思った。
その、どうしようもない融通の利かなさの原因は、私が、ここで先述したことも、要因の一つだろうし、それこそが、役所の特徴的な体質なのだろう。
「判で押したような」
「杓子定規」
…
「杓子定規」というものは、不公平や不合理を生む。
【続く】
2018.11.27 (Tue)
誰がって?
『日産』人がって言うか、日本人がねww
いま、またぞろ、アベ政府側が、官僚抱き込みミエミエのデタラメ審議でもって、国会骨抜き作戦を貫き通そうとしている最中、自動車会社あたりのグローバル アキンドが忌々しきことを、といった話題ばかりに かまけても おれないという気は する。。。さりながら、
今回、
オッサン・ショーバイ・カネ儲け
の三拍子世界には てんで無関心な私が、特に奇怪な点に思えたのは、
やっぱり、その政府や官僚も絡んでくるレベルの話だということよね。
どうりで、というわけなのか、
「ヤフゴミん」どうしの あいだなんかでも、ほぼ真っ二つに分かれるのみならず、彼らの主張が、普段とは些か逆転しているのじゃないか?とさえ感じられる、この騒ぎに おいては、
「『日産』の こんにち あるのは、『ルノー』に拾ってもらい、ゴーンに救ってもらった、その おかげ!」
「なのに、日本人は恩知らずだと思われちゃうぞ!」
「東京地検よ、やめておけ!!」
云々と、なんだか、
「アメリカの おかげで守られているんだぞ、日本は!」
という、
本来なら、「安倍(アメ)ぽち系ネトウヨ」らの主張に似た感じのコメントが散見されており、
この裏には、
今回の騒ぎを、官房のスガはんらが、官僚ともども、政府筋に都合良く利用しようとしているらしいゆえなのか、
権力者の横暴や腐敗、カネ遣いの汚さなどに対しては特に厳しい姿勢であろう印象の、いわゆる「ヒダリ」系と思しき投稿者らが、今度ばかりは、やけに、ゴーンさんの肩を持ったりする向きが いるのだ。
まあ、それでも、
「ネトウヨ」あるいは安倍シンパらしく、
「フランスとは(韓国とも)、手を切れ!!」
「日本人は!裏切られ!搾取され!舐められて!」
グヤジイ~;ってな哀号コメントのほうが圧倒的に多いのだけどね、やっぱしww
…だからな、
国家間の外交も そうだけれど、ましてや、アキンドが商売でやることに、ボランティアなんてことは ありまへん、っつうの。
あちらさんに対して、じゅうぶん以上に良い思いさせてあげられるまでに持ち直し、成長したからには、おかげさまでと殊更いつま~でもヘイコラするほどのこともなかろう。
そして また、
こんなはずじゃーなかったに!!と、一方的な被害者意識に埋没してしまうこともない。
だって、『ルノー』と『日産』、とっくに持ちつ持たれつの関係になってるんでしょう?
なんだかね、
かつて、借金まみれになり、途方に暮れていた女が、そこへ颯爽と現れた男に、カネで買われ、養ってもらうと身となり、
同時に、ビシビシと尻たたかれ、追い立てられ、けんめいに働き始めたら、いまでは、甲斐性が薄くなってしまってる亭主なんかよりも、自分のほうがウンと稼ぎが多くなっていて、
それとともに、いよいよ干渉がましさを増し、ヒモさながら依存してくるようになった亭主が疎ましくて疎ましくて、このさい、父ちゃんと別れよう!
決心して以来、あちこち根回しも して、ついに公へ訴えて出たものの、
女のほうだって、実のところは、亭主と別れたあと、本当に自立を果たし、この先を やっていけるのか、心もとなさが残る、、、てな、共依存夫婦みたいなw
『ルノー』とゴーンさん側は、
頃合いに至るまでは、『日産』大事と肥え太らせておいて、
いよいよ食べごろになったら喰っちゃおうと。
最初から、その腹づもりだったでしょうよ。
だから まあ、『日産』側も、何を今さら、被害者ぶり、、、と言われてしまいそうな立場では あるから、ゴーンさん個人の顰蹙ものな行状を あげつらい、このような積年を耐え忍んできましたと、自分側の抵抗に正当性を与えようとしてるわけなんだろうけど。
こういう商売人の話題に対して、トンと関心も知識も薄い私ながら、
ちょっと意外だなと思えたのは、
ゴーンさんって、『ルノー』での経営手腕も、さほど評価されてなくて、
そのせいなのか、やっぱり、報酬が高額すぎるという批判は、あちらでも、すでに起きてたらしいということよね。
それならば、
『日産』から、美味い汁を搾り取れるまでになり、
口あけて待ってる『ルノー』のほうへ、ホイさホイさ注ぎこめるところまで立ち直らせた あかつきには、そこからは、
『ルノー』では到底、許されない公私混同や私物化、「銭ゲバ」行為だろうが何だろうが、『日産』では思うさま、やっていいんだと、
そういう感覚だったのかもね。
「ヤフゴミん」の多くが怒り、嘆くところの、「日本人だからとバカにして」という人種差別意識ゆえなのか、
彼我の企業ガバナンス・コンプライアンスの ありように左右されてのことなのか、そのへん、よく わかんないけども。
こなた『日産』は『日産』で、社長さん始め各取締役らは、そこいらの並みの日本人よりはプライドも高かろうに、
ゴーンさんの、あの気迫に押されまくり、その独断専行ぶりや利己的な行為、これらを敢えて、自分側の秘めた願望と期待を胸底に抱えつつ、むしろ積極的に見逃してきたのだろうと思えるのだが、
両社統合の問題についてだけは、それだけは、
やはり、こちらとしても また、譲れぬ腹が あった。
そのことは、『日産』としても、そもそも最初からの思惑だったのかどうか、外部の者には分からないことだが、
ゴーンさん一人の資質や言動の問題ということで かたづけてしまえるのなら、フランス国ならびに『ルノー』、『日産』の日本側、どちらにとっても、つごうは いいのだろう。
いつだったか、ずいぶん前に、私も、新聞あるいは雑誌か何かで、初めて、ゴーンさんについてのインタビュー記事を読んだ覚えが ある。
あの当時、外国人のトップを迎えるというのは、日本企業には まだ珍しい事例だったのだろうか、特集記事では、いかにも豪放磊落な人がらであるように紹介されており、
たしか、当時の夫人の短い談話を通して、ご家庭での、意外と庶民的な ようすとともに、ご本人も、合理性を重んじつつ、気さくなタイプでもあるといった人となりのことを、みずから快活に語っておられたと記憶しているのだが、
大手自動車メーカーであり、その社名だけは、私でも知っている『日産』が、どういう企業で、現代どのようになっていて、初めて迎えた外国人のトップは、非常なエリートの辣腕ビジネスマンで、といった内容も、こういう方面に興味が薄かった私には、ほとんどヒマつぶしの流し読みでしかない。なので、記事の内容自体はボンヤリしているのだが、ただ、
たぶん、ご自宅にてのプライベートな場での撮影だったかと思うが、
あのインパクトある御面相でしょ、なかんづく眼つきから受けた感じは、いかにも、という印象で強く残った。
いかにも、、、
冷酷で、悪い事しそう、、、という印象w
スミマセン。。。m(_ _)mゴメンナサイ;
まあ、そんなわけで、
このたびの事件も、いちおう、そりゃ驚きは したものの、
じつは、それほど意外とは思わなかった、とも言える。
いつかは やるんじゃないかな~っていう。
やっぱイメージどおりの人だったなあ~っていう。
もっとも、あそこまで ひらきなおった如くな行動には、むしろ、無防備さが窺え、そのことには意外さを感じた。
日本側の心底の気持ちを分からなかったはずは ないと思うので。
それとも、まったく、意にも介してなかったということかなあ。
報酬額への批判は、ヘンに気にしてたくせに。
私には、この方面の専門知識は ないので、よく分からないが、
額面を書類に記載してなかった、あるいは「ゼロ」としておいた云々ということが法的に どうであろうとも、あのように、押しの強いタイプの人だ。
もともと、自分には価値も権利も ある、
当然のこと、一度に受け取ってしかるべき報酬、
しかし、この半分ほどを減らした、低い額に見せかけておけば、株主や世間からの批判を抑えられ、しかも、こうした「タイム ラグ」を置くことによって、合法なる脱税、いや、より賢い「節税」をも果たせるじゃないか。
「未確定」だろうが どうだろうが、これは必ずや、最終的には、自分の手に取り戻すべきもの。
このような確信を持ち、大前提としていたのでは ないかな。
また、
ゴーンさんが個人的に投資していた、そのときの損を、まるっと『日産』に付け替えていたという話も あったが、結局、その後、『日産』に損を負わせることには、たまたま、ならずに済んだと言えども、根本的には、問題ないはずが ない。
たとえば、万引きとか窃盗を見つけられて、じゃあ弁償すれば いいんでしょ、とは ならないことに似て、
あくまで結果的には「損害を与えずに済んだ」という、それ以前の問題なのだから。
法的には用意周到でも、世のなか、それだけでは済まないこともあるからね。
『ルノー』、『日産』、自分、
それぞれの意向に、大なり小なり乖離が ある、そのことを知らなかったはずは ない立場の人だ。
自分自身の行動に、大きな油断や隙が あれば、それを利用して、足を掬われるやも、という警戒心が はたらかなかったのか?
というところがね、私から見て、唯一、意外だったことです。
2018.09.13 (Thu)
私個人は、特に日本の芸能界やらゴシップの類には、とんと興味が薄いほうなんだけれど。
最近、ベテラン女優の一人である三田佳子さんの次男さんが、またぞろ問題発覚というので、
むかし、この息子さん問題が初めて発覚したとき、その頃は、三田佳子さんが、女優として最も好調だった時代、うちの両親も まだ元気だった頃で、「三田は何を甘いこと言っとるんだ」と怒っていたことを思い出し、
しかも、私は全く知らなかったのだが、これまで、すでに何度も、
今回で4度目かの発覚ということで、記事に目を通してみたんだけど。
うん、要点を言うなら、
覚醒剤などの薬物中毒となると、これを入手するため、他の凶悪な犯罪手段をも辞さなかったり、いわゆる「反社会的組織」との関わりから抜け難いという特徴性ゆえ、三田さんとしても、これを恐れ、イメージが もの言う芸能界で、せっかく築き上げてきた自分のキャリア、しかも、キレイなイメージに、これ以上の致命的影響を蒙ることを避けたかった。
ために、
相変わらず、問題を起こす子息に、分不相応なほどの、要は、けっして、欲しいものに不自由しないですむ額の金銭を渡すなりのことをして、
「とりあえずの飴玉を与え」「甘やかして」
表面だけでも取り繕おうとしていた、ということだったのかもしれない。
もちろん、それは、ほんとうには、息子さんのためでは なかったのだし、はたして、そのとおりの結果が出たとも言えよう。
私に言わせれば、たしかに、この息子は、格段に恵まれた境遇で育ったはず、なんだけれど、
それでも、結論としては。
子への真の愛よりも、親の体面つくろい、自己中心性が上まわった。
それが招いた結果。
記事を読んだかぎりでは、私には、そのように思えた。
自分の体面を繕うばかりだったミエ張りな親の本当の姿は、
子どもの行く末の どこかで現れるもんです。
2018.08.30 (Thu)
『「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の容疑者が再犯 少年法見直しの議論は海外にも』8/27(月) 18:31配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180827-00010007-newsweek-int
この記事にも、またぞろ口を突っ込みに来てる『無人島』なんちゃらいうハンネの、こやつの正体を知ってる私にしてみれば、そのパクりの みなもとが、そもそも、どこにあったかということと共に
(『汚気・愚』「カルト連」はパクるしか能が ないw)、
鼻白むなんてもんじゃーないのだがw
まあ、こんな愚物のことは どーでもいい。
まともに相手にする価値もない。
さて、この事件に限らないことだが、
「ネトウヨ」と呼ばわれるほどの低知性連中が、いともカンタンに言ってのける
「死刑!死刑!!」「厳罰化!!」
と喚く程度は まだしも、
「殺処分!!」
という、
何の見るべきところも皆無な言いようの何処に、こうした凶悪犯罪から、われわれの社会と個々の生活を守るべく提案が あるというのだろうか。
言っておくが、私個人としても、こうした凶悪事件の犯人を、ただ許す気には なれないのだし、ものすごい違和感のほうが先に立って、同情する気にも なれないし、
甘いキレイごとや思想ごときで解決できるはずもない、という考えだ。
それと、
「感情ではダメ」という、
いかにも「ネトウヨ」的な軽薄コメントに対する批判側にも、ちとクギ刺しておく。
そもそも、法と言えども、その根底にあるのは、「感情」です。
われわれの社会と個々の生活の維持・安寧を求めるのは、共有的感情から発していることに違いない。
およそ、「論理」というものの みなもとは、感情に発す。
それでも、
やみくもに「死刑」だ「殺処分」だと喚きまくる連中が、判で押した如く添える、
「人権思想のせいで」
あるかのような言いぐさには到底、くみするわけにいかない。
なぜなら、われわれの社会と個々の生活を守るため(それこそ、「人権」ゆえ)の示唆や予防的教訓を、なんとしても、そこから得なければ ならぬと考えるからだ。
そうすることで、犠牲者に対する、本質的かつ最大の「償い」と しなければ ならないし、
そのことは、ある意味で最も哀れな存在である加害者にとってさえも、「救い」となることだ。
ところで、
「脳に異常」者らが、あちこち存在した うちの身内であるがw
そのなかの代表格たるw親なんかが指摘していたには、
「生まれつきの性悪」という者は いるんだぞ!
ということ。
このことに関して、過去エントリーで、私の母親から聞いた話を紹介したことが あったかと思う。
かつて実際に起きたという、ある子どもが起こした、ささやかにして凶悪な出来事だ。
「生まれつきの性悪」
あるいは、
「生まれつき偏って凶暴な性質」。。。
言わば、これも、脳の先天的異常という範疇に入るものなのだろう。
しかし、それも また、「自己愛」「自己保存」といった「本能」的由来を持つに違いない。
「発達障碍」とか「アスペルガー」などについても言われるように、全て「割合」というものが あるのであって、度合が極端か否か、社会生活上、うまく隠せているか否か、という程度の違いでしかないのかもしれない。
いずれにせよ、
程度が甚だしければ、必ずや、周囲の誰かにシワ寄せが いくだろうし、
そのシワ寄せされた者が弱い立場だったら、人知れず、無念の涙を呑むハメに追いやられる。
シワ寄せされた者が少数で おさまらず、弱いだけの立場でも なかったら、それは、遠からず、社会全体の問題として取りあげられるに至る。
異常なほどの自己中心性というものは、とことんまでの自己優先性向が あるわけだから、
自分の欲求のままに やった行為が、人間社会においては「犯罪」や「罪悪」に該当するからとて、これに当てられた刑罰等が、自己反省へと導くものであるかどうかは、はなはだ危うい。
それどころか、
常軌を逸したほどの「自己愛」にとっては、「刑罰」という名の理不尽な「虐待」や「苛め」であるとしか感じられないかもしれない。
となると、
「刑罰」が、ますます凶悪化させる、のか。
かつて、『女子高生殺害・コンクリート詰め遺体遺棄』事件を起こし、このたび また、凶悪事件を起こすに至ったという加害者の一人も、あの最初の事件以降ずっと、すさんだ精神のまま生きてきたのだろうか。
本人の無反省か。
周囲や社会の問題なのか。
昔から、「少年院」やなんかに入ったら、出所する頃には、なぜか、もっと悪くなって出てくる、と聞いているけれど。
とは言っても、
犯罪や罪悪を、何ら咎めなく放っておいて通るわけが ない。
もともと極度に自己中心な者が、野放しにされて、自発的に反省や抑制するはずもない。
こうした異常なまでの自己中心的性分を持つ者に対して、「刑罰」を与えるとは、はたして可能なことなのだろうか。
しょせん可能でないからこその「殺処分」なのだよ!という向きにも、よく考えてもらいたいのが、
真っ先に考慮しなければならないことは、
われわれの社会と個々の生活を予防的に守っていかなければ ならないのだということ。
そのためには、どうするべきか、ということ。
「殺処分」しても しても、イタチごっこのようなもの、あとからあとから起きてくることを防がなければならないでは ないか。
これ!と名案のようなものは、私にも ないけど。
ただ、「死刑」だの「殺処分」だのの前に、是非とも やっておくべきことが あると思う。それは、科学的「分析」だ。
これの真偽は諸説あるようだが、例の『スタンフォード監獄実験』や『ミルグラム実験』を連想させられるところが あり、恐らく、くだんの事件についても、複数人での虐待行為が あったところを みるに、「集団心理」といったものが絡んでいるだろうし、こうなると、個人の異常性だけに とどまらない面も出てくるわけだ。
誰しもが、一歩間違うと、加担しかねない、特に、男性性が影響している側面は大きいと思われる。
「ヤフコメ」のなかには、性的なものとの関連性を指摘している投稿も、一つだけ あったが、それは勿論のことで、
加害者が女性の場合で あっても、いわゆる「男性脳」的とでも言うのだろうか、そういう傾向の脳だと、佐世保での『同級生殺害・遺体損壊』事件のようなことを引き起こすのでは ないだろうか。あの事件当時も、私は、どうも、性的な動機が根底に窺えるように思うと指摘しておいた。
そして、異様に「子どもっぽい」ものだ。
知的障碍を持つ子どもが、肉体的には一人前の年頃に さしかかり、性的衝動をコントロールできなくて、親や周囲が扱いに困惑するということと、どこか共通した感じもする。
なにしろ男性というのは総じて子どもっぽい、
というのが、昔からの定評。
おぞましいの一言だが、たとえば、女性器に、いろいろと「異物を挿入」し、被害者の反応を試すなどは、いかにも子どもっぽい「実験」に見えなくもない。
そして、人や生きている存在を、あたかも単なる物のように扱う、こうした傾向、
動くものに、思わず、目を奪われて興味を持ったり、視覚から受ける刺激に敏感というのは、どちらかと言えば、男性に多い特徴だろう。
(続く)
2018.07.30 (Mon)
思えば、
自然の脅威や天災という、人間にとって納得し難い「理不尽」「不条理」に抵抗し続けた人類の歴史の最たる現れが、われわれの「社会」というものだ。
然り、およそ法律というものは、個々人のためと言うよりも、総じて社会の存続、このための防御を第一義としているに ほかならない。
「死刑」に抑止力というものが備わっているのか否か疑わしいのは、それが あれども頻々と殺人事件は起きてくる現実が あるからなのだが、
ならば、「死刑」を廃止した国が多くなってきている現代、実際に廃止したことによって、殺人事件の発生率などは どう変化しているか いないか、興味深いところだ。
もし、ある程度の期間が経って釈放するとしたら、やはり、再犯の恐れが気になるし、
「終身刑」にするとしたら、刑務所が不足してしまわないのかということが気になる。「死刑」が あっても、殺人を犯してしまう者は、なくならないからだ。
もっとも、日本においては、被害者が一人のみの場合、情況によるだろうが、死刑にまでなることは少ないだろうし、
皮肉なことに、「死刑になりたい」からという、犯人側の理由で、多人数が被害を蒙ってしまうケースも ある。
「更生」してくれたところで、失われた人が元どおりになるわけでは ないのだ。
ハッキリ言って、
「更生してもらう価値すら ない」
ということさ。究極の突き放しだ。
他者の命なら、いとも やすやすと奪えるのも、激烈な自己愛ゆえ。
そういう者ほど、なんだかんだと言っても結局は、とりあえず、ただ今の自分が死なずに いられることのほうを選ぶだろうから、いちばん大切な自分の命、だからこそ、最も恐ろしい、辛い、自分の命が奪われる恐怖や口惜しさというものを、加害者自身にも味わわせることを もって処罰とする。
だって、
善良だった、たいせつな あのひとは、生活を、人生を、命を奪われたのに、
冷酷にも奪った あいつは、なぜ、きょうも生きてるの?
わたしたちと同じように、食べて、寝て、相変わらず、同じ空気で呼吸している。
あのひとは、いなくなってしまったのに。
あいつに殺されたのに。
あいつは、いままでどおり存在している。
いまから「更生」してくれなくて いい、
あいつの「更生」なんて、知ったこっちゃない。
ただ、あのひとを、元どおりにして。
ここに戻して。返して。
……
「理不尽」な行為に対しては処罰することによって、せめても納得に繋げようとする。おそらく、多くの人は。
人間は、納得いかないものに対して、ひどく傷つく。
およそ宗教の根源も、ここに発する。
深刻な被害や苦難に遭った人は、必ずと言っていいほど、真相や理由(という論理)を探り求めるようになる。
真相や理由のほうを渇望するあまり、加害者を死刑にするよりも、その口が きける状態で いてくれるほうをさえ望むようになることも ある。
死刑という、それで こちらの気が済むわけでも なさそうな、
ただ虚しさだけが残るような処罰よりも。
何年、何十年かかろうが、いつか、真相や理由を話してくれるのでは、という、かすかな希望が続いていく。
また、
自分の大切な者が、掛け替えのない命を奪われたからといって、
その大切な、掛け替えのない者の名に おける「死刑」と言う殺人を犯させたくない、
無垢な存在だった者を汚されてしまうような気が するから。
このように思う遺族も いる。
このたび、極刑が執行されたばかりの『オウム真理教』幹部らの生前の顔写真画像を、あらためて しげしげ見ていると、
まず、先日のエントリーで指摘した「新実の眼つき」の独特さを始め、他の者のなかにも、私から見て明らかに思われたところの、いわゆる「発達障碍」者の特徴が感じられるような眼の表情、あるいは、中川のように、学歴と年齢に そぐわぬほどの、見るからに幼い顔つきと表情が、目に つく。
非常に優秀な頭脳であるほど、どこかしら、ひどくアンバランスな箇所が あるのかもしれないと思う。
だいたい、よりによって科学、それも物理学を修めたという者が、「空中浮遊」だとかと、私ですら、あほらしやと鼻先で嗤いたくなるような、いかにも安っぽい現象に、ころりとまいったのは何故なのか。
あまりに子どもっぽ過ぎるでは ないか。
何を求めて、ああいう胡散臭いところへ、自分から近づいていくのか。
単なる「ヨガ教室」と思っていたところ、やがて、それと異なるほうへ勧誘されたなら、私だったら、ソッコー逃げ出すと思う。
しかし、幹部のなかには、「アサハラ」の著作を手に取って すぐに関心を持ち、自分から入っていってる者も いる。
例の「カルト連」に、ネット サイト上で、連日のように悪罵され続けていた頃、
あの連中も、
「救世主 出現!」の願望あらわに、やれ「マイトレーヤ」が、「奇跡が!」「ミラクルが!」と、他の投稿者たちに向かって、あたかも聖人気取りの説教など かましていて、
「スピリチュアル」ブームなんてものに疎かった私は、
こやつら、よっぽど安っぽい心性なのか感受性というか、バカみたいだ、と、呆れはてる思いだった。
「ミラクル」なんて、目の前に溢れかえっとる。
およそ「物質」ほど、フシギな奇跡は ないものを。
また、
『オウム真理教』信徒のなかには、友人がハマったというのを聞き、救出しに向かったはずが、自分自身が、まさに「ミイラ取りがミイラ」を地で行く立場になってしまった者も いるそうな。
何故だ。
横から、あーだ こーだ、念仏みたいに執拗に唱えられ続けると、つい、グラ~っとホダされヨロめいて、その気になってしまうタチなのか?
ココロの隙間にか。
脳のスキマにか。
優等生が、センセイの言うことを、「乾いた砂が、水をグイグイ吸い込む」ごとく素直に吸収してしまうように。
ここで、興味深い事例を一つ。
これも、例によってwザ・「脳に異常」うちの母親の場合ですw
なかなか良いサンプルでしょ(?)ww
この人は、娘の私にとって、大いに困ったちゃんな存在でもあったが、
世間の他人にとっては、大いに才気走ったタイプで、計算機みたく、数字に つよいのみならず、幼い頃から、教師を はじめ、周囲の大人たちから注目された才能の一つに、音楽や歌唱の才能が際立っていたということが あるのだけれど、
いわゆる絶対音感というものが生来的に備わっているということを、本人自身も自負していた。
ところが、
中年期になって、自分の教室を持つようになり、
生徒たちに、コーラスや個別歌唱指導を行うと、なかには、どうやっても、手の施しようも ないほどの音痴さんが混じっていることも ある。
そこで、集中的に指導しようとするのだが、その音痴な生徒さんを、指導する自分の声に ついて来させて歌わせると、
肝心の指導者である自身のほうが、音程が狂ってる生徒さんの歌声のほうに、容易く引きずられてしまう、と、頻りに ぼやくのだ。
もともと子どもの頃から、耳もとで、ヘタな人に歌われると、たちまち引きずられ、自分の調子が狂うから困るんだ、とも言っていた。
それだけに、
生徒のなかでも、見込みが ある人に対しては満足そうに頷き、自宅に帰ってくると、私に向かって、そのことを話しては、その生徒を褒めそやし、嬉しそうにしていた。
テレビ等で見かける、歌唱力ある歌い手さんはベタ褒め。米良美一氏も、その一人で、「この人、音程の正確さバツグンや!」と。
これも、旧ブログか どこかで書いたこと あったかな、
千葉県育ちの親父が、なかばフザケて、大阪弁を真似して しゃべると、そのたびに、母親は大声で激怒していた、って話。
同様に、テレビ ドラマで、関東育ちの俳優が、慣れない大阪弁のセリフを しゃべると、激怒。
理由は、
「とにかくキショク悪い、音程が おかしいから!」
と。
そのせいで、
朝の連続ドラマなんかで、ヘタクソな大阪弁を しゃべる俳優が、連日のように出てくる設定だと、気も狂わんばかりの ありさまwww
ちなみに、
谷崎潤一郎原作『春琴抄』を、いまでは やや古い映画となったけれども、新藤兼人監督が『賛歌』として撮り下ろした作品、これを、私なんかは、「エロコメ」に分類してるんだけどwそのなかの一場面で、いっちばん爆笑したシーンw
琴を教えている生徒が届けに来た品物に対し、「…才能あるもんなら、こっちからタダで教えてもやろうが、ろくな素質すらない者が、師匠への届け物に『白雪羹(ハクセンコ)』一折り(で済ます)とは何事ぞ!」云々と いう、そうした内容のグチを、お嬢さま然としたヒロインが、マゾの相方「佐助」に向かって、がーがーがーがー言い募るのだが、
この えげつないまでのリアルさ満ちたセリフに、谷崎の『細雪』も好んでいた うちの母親は、
「同感」と笑っていたw
【続く】