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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2019.09.09 (Mon)

かもしれないな。

だって、

次々に報じられる子どもの虐待事件を見てると、意外なほど多いみたいだもんね。

子を見殺しにした母親。自分で殺した子を捨てた母親。

 

もはや「経済大国」ならぬ「災害大国」となりつつある日本の名物は、
自殺に加えて、虐待なのか?

 

極端な諂いと極端な見縊りのあいだを慌ただしく揺れ動き、

思いあがった気勢を誇示してみせても、しょせん、似合わない。

正直な一般国民・庶民は、なにを隠そうとばかり、ほれ、デモや集会する元気さえも ないじゃないかw

 

 

動画で、アカゲ猿たちの社会を観察していたら、

大概は、食べ物の確保という生存競争または子どもを守るため、ガタイも牙も大きいボス猿を相手に立ち向かっていくことを辞さない母猿、

しかも、片手やら片目などを失った身障の、高齢の雌猿である、

そのアッパレなほどの激しい気迫を見ていると、

人間の、日本という名の国の雌が、いちばんダメになっている気が してくる、と言ったけど。。。

 

(ほんとに、ついでの話。最近、『蒙古斑』について、虐待だという誤解を注意する記事が幾つか出されているが、私は、これらを読んでないんだけど、『蒙古斑』に とても よく似た痣みたいなのは、アカゲ猿の子どもにも多いみたいよ。)

 

 

さて、例の『目黒』で5歳の女児と『千葉』の小学生女児のケースは、時々ごっちゃになってコメントしてる「ヤフゴミん」を見かけるが、
それも しかたないか、と言えそうなくらいに、共通点が多いケースでは ある。

 

特に、唖然としてしまうのは、

子にとって継父だろうが実父だろうが、

母親のほうは、その亭主の言いなりになってしまってたこと。

 

専門家筋などは、なにしろ「洗脳」状態だったのだから、という特異なる困難さを主張するんだけれど、

おりしも、台風の襲来に向けて、「まだ だいじょうぶ」は禁物、ということを指摘されているようだが、これと共通した面が ありそうだ。

人間って、「自分だけは、だいじょうぶ」という、全く根拠に乏しい自信を持ってる人のほうが圧倒的に多いだろうしね。子どもを産むなんてことは、その最たるものでしょ。

 

子どもを連れて逃げ(られ)ない心理

「マインド コントロール」に陥ったから()

 

まあ、たしかに、
以前の当ブログ エントリーで、それを考慮してみても なお残るモヤモヤは ありつつも、「異常性格」と呼ぶべきほどの者が圧倒的に力を持っていて、その手中に囚われたような日常生活が続くなかでは、怯えばかりが肥大していき、その分、だんだんに、理性や妥当な思考力がマヒしていくのだろう。

 

『目黒』のケースでは、幼い子の手になる必死の言葉が綴られたノートの存在が、いやがうえにも痛ましさを募らせずには置かないのだが、
こうした哀れを誘う言葉の多くは、母親自身が、こっそりと指示して、子に書かせていたものだという。

おそらくは、
このような手段を とらせることで、少しでも、亭主の気分を宥め、子への暴行を減少させることが できれば、と必死に考えての迎合だったのだろう。

しかしながら、

そういう状況下に置かれたら、誰しもが、そのような心理状態に陥るものなのだろうかという疑問は拭いきれない。
ほとんどの人は、そう感じているように思う。

 

なぜなら、

特に、千葉の小学生女児のケースでは、やはり「父」という名の男から、執拗な虐待を受け続けていたのは、もっぱら、子である女児の方だったのであり、

犠牲となった女児は、心身への あらゆる暴力のなかに、基本的な栄養摂取すらも奪われるという虐待を受けつつも、幼いながら、持てる思考力と理性を振り絞って、外部へ働きかけていた。

 

にも かかわらず、

その間、ひたすらに委縮していた母親のほうはと言うと、

亭主に おもねる方法を選び、あげくは、
共に、わが子を痛めつける手伝いをも辞さず、そのようにして、最終的には、自分自身への暴力の直撃だけは免れていたということだった。

 

私が思うに、

これは、「洗脳」されていたゆえの特異状態なのだとする専門家の意見が確かに妥当であるならば、

そのような状態に陥ってしまい易いタイプというものが あるのでは なかろうかと。

 

それらの母親の言い訳めいた説明では、

最初のうちは、それなりの疑問も反発も湧き(←あたりまえ)、子への攻撃を制止しようと試みたりしていたが(←あったりまえ)

同時に、

「自分のほうこそが大げさに受け取っているのでは ないか?」とか、

亭主は、母親である自分や子のために良かれと、敢えて厳しくしてくれているのだと思おうとしていた、

と言うのが共通している。

 

そうして、
ウカウカしているうちに、いつしか「フリーズ状態」になっていき、最後は、どうにも動けなくなっていたということらしいのだが。。。

 

だから、「フリーズ」状態になる前に、自分で動かないと いけない。

かつ、

当人が動けてるうちに、周囲も、適切な手を打たないとならない。

 

なんとか動いて、必死に訴えても、周囲がボヤボヤして、手を拱いていたら、当人も いよいよ無力感に陥り、あっさり諦めてしまうらしいから。

 

 

もちろん、執拗な説教に影響された面が大きいのだろう。

実は、こういう心理現象って、私自身も経験してきている。

一つは、もちろん、親から。

もう一つは、ネット上で、
例の「カルト連」から、連日のように、
やれ、私が「精神病」の何たらカンタラである!」「かく言う自分は、精神方面での研究者であり、専門家である!」

はては、「千里眼を持つ霊能者である」てな滑稽なゴタクまで繰り返して、

あの『汚気・愚(←OKウェイヴ/教えてgoo)』を始め、ネット上の あらゆる場所で つきまとわれ、そのたびに、あれこれの精神病名を決めつけられたのだけれど、

こやつらは、いったい、何かの団体なのか?
でなければ、幾つのアカウントを駆使しているのやら、ひょっとして『多重人格』というやつなんだろうか?という疑問まで湧いたのに加え、

(たしかに、自称「霊能者」に多い印象が あるし、昔は「狐憑き」と呼ばわれた存在でも ある。

実は、うちの母親が、この傾向を持っていることは自他ともに認めていて、いわゆる「霊的」な写真を撮ったことが切っ掛けで、ほんとうの「霊能者」を標榜していた人たちから、その方面の「修行」を、と、つよく勧められたことが あった。)

「グル」になってるのでは?と思えた、胡散臭い「第三者」「傍観者」までが、その「カルト連」側についた言動を、あからさまに とる者が少なくは なかったので、

あそこの運営に何度か苦情を申し入れつつも、だんだん、

「自分のほうが おかしいのか?あいつらの言う精神病名は当たっているのか?」

という気分になりかけたことすら あった。

正直言って、かなり落ち込んだ。

 

じつに怪しからんことであり、「ネット犯罪」に相当することだと思う。
だから「精神の犯罪者」というコトバを贈っておいたものだが、

あのサイトの経営者と運営には、猛省してもらわねばならないはずなのに、逆に、私のほうにペナルティを課す始末。
思い返すと、立腹も通り越して、侮蔑しか感じない。

 

「ヤフゴミ捨て場」にも、特にデマや「弱者」的マイノリティ叩きなど、同様の深刻な問題を見受けるが、

自分が主宰・運営しているサイトの管理やコントロールについて、社会的責任を負いきれないようなものを設けるべきでは ない。

 

 

さて、まだまだ、今後の取り調べや裁判の内容を待たねば ならない事件だが、

これまでに報じられている実父また継父の行状が明らかにされた内容を鑑みるに、やはり、『(自己愛性)人格障害』の特徴も濃厚であるように見受ける。

それは、

当人なりの「劣等感」や忸怩たる思いの積み重なった反面で肥大する、常軌を逸した「支配欲」を発揮したがる性向とともに、

この性向を満たす手段として、必ずのように着手するのが、
分断と囲い込み
という やりくちである。

 

「分断と囲い込み」。

これは、たとえば、悪辣な政治家あたりが、自分の権力を温存するためにも、よく用いられる手段であるのは、歴史上も、いま現在の わが国においても見受けられるところであるがw

 

社会の基底を成す個々の家庭内でも、

家族の構成員を、それぞれ心理的に分断し、

ある者は味方に つけて囲い込むことによって、ある者は集中的に排除する、

そういう状態へ誘導するための最も効果的な手段であり、

それが成功したら、最悪の場合、誰かしらの死という最悪の犠牲を出すまで、解放されることは ない。

 

 

【続く】

 

 

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Updated   
2019.07.28 (Sun)

あれだね、以前から思ってたけど、

植松と、『寝屋川 中学生なぶり殺し事件』の山田とかいう男の顔、
よく似てるなあ~と。

 

さて置き、

もう、できるだけ手短に言う。

 

要するに、

犯した罪が、今さら取り返しのつかないこと、償うことも不可能な事だった深刻重大な場合ほど、

やった当人自身は、罪を認めることが できないわけよ。
そういう心理。

(そういえば、重大事になることほど、決して謝罪しないのって、欧米圏の伝統的精神文化だっけ??償えない限りは、という理由かららしいけど)

 

なかみのないプライドやらミエで凝り固まってるタイプだと、ひとたび挫折してしまったとなると、なおさら、そうなるんでしょう。

 

そもそも、まともなリクツから発生させたでもなくて、(私が何度も指摘してきた)「俗悪」な精神に浸食された脆弱きわまる思考回路なんだからさ。

 

こういう心理って、ある意味で、子を産み落とした親たちにも、共通性は あるように思うw

 

どこの親も、子を産んでしまったら、あと戻り不可能である以上は、ひたすら、そのことを肯定するしかなくなるみたいで、

むしろ、子を持ってない人たちを殊更に見下したり、攻撃(口撃)する連中すら いるでしょ。

こういう連中って、例の植松に通じるものが あるよw

 

特に、

子を持つことによって、あたかも「人並み」「一人前」になれるってな安易な価値観と錯覚を疑わないできた者は、例外なく、子という存在を利用している自覚もないしね。

で、「産んでもらった恩は」と、あつかましいことを主張するw

 

うちの親なんかも そうだったけど、

こういう親ほど、自分の子が、障碍を抱えていることを認められないだろう。

 

あいにく、認めざるを得ないほど重い障碍だった場合は、それこそ、耐えられなくて、自分のほうが発狂するとかw

 

うちの親が紛れもなく、そうだったように、子の障碍を認めたくない、

認めなくても、それでも、
孤立して苦労するのは、その子自身だけで済む、とあれば、それで済ませておきたい、という本音で、ネグレクトを通しきる。

 

そうして、最後に言い放つのは、これまでも指摘してきたとおり、

「親に勝てると思うな!!」と、

「勝ち負け」の次元に落とし込もうとする()

 

【続】「親には感謝するべき」

 

とにかく勝ち負けが全て、という価値観であるなら、

そりゃあ、植松が体現したように、
とりあえずは確実に勝てそうな相手を攻撃するでしょうよ。

 

異常なほど、気が小せえんだし、

だからこそ、くだらない俗悪な劣等感に苛まれ続けてきたんだろうし。

 

 

私が、インターネット上で遭遇し、
「フルボッコにしてやったー!!」と大ヨロコビしてた連中すなわち「カルト連」も、へんに劣等感が つよいんだろか?とは察していたけれど、

案の定で、『ナチス』大好き連中だった()

 

 

ま、「ネトウヨ」現象に現れているように、

日本の社会の病理噴出、ここに極まれり、

ということも指摘できるだろう。

日本のみに限らなさそうだけども。

 

それが「流行してる」と思えたら、それだけでピャッと飛びつくみたい。

なんせ、軽薄短小の俗悪に侵食され易い脳タイプだからですわ。

 

 

それにしても、治せるんかねえ?こういう極度の脆弱性脳というものは。。。

それ自体が、障害の範疇に相当すると思えるし、

まあ、植松は、間違いなく、『人格障害』の面が大きいだろう。

 

さすがの「ヤフゴミん」のなかでも、最近、やっと、少しはマトモな指摘が出てきてるようだが、

植松の如きは、「信念」(←私は、「信念」なんて、鬱陶しいだけと思ってるけどw)

あるいは「思想」とも呼べない、

言わば、一種の「流行り病」にカブレたようなもので、

本質的に、「思想の自由」なんぞでは ない。

 

むしろ、

どうしようもなく不自由」ゆえなんだ。

 

 

頑固、とことん頑な、まるでガチガチの「壁」みたくなるのは、

弱くて不安定だから。

本人としては、それで、身を守ってるつもり、なんだろう。

 

 

いま、われわれ社会の構成員に できることは、

取り返しのつかないことが勃発してしまった以上は、

今後の予防策を希求することだけだ。

 

 

かみ合わぬ会話 答え求めて 植松被告と面会続けやまゆり園事件3年7/28() 12:20配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190728-00000010-kana-l14

 

この記事の本文中に登場する『こんな夜更けにバナナかよ』の、『筋ジストロフィー』を発症した故・鹿野靖明さんという かたは、「奔放」というほどのことでもなかったと思う。

 

夜更けに、小腹が すいたとかで、台所をゴソゴソなんて、ほぼ全ての人が経験してるはずだし、それを、自分自身の手足では やれないから、というだけのことだもの。

 

そういう状態が、24時間365日、毎日の日常でしょ。

ましてや、中途の病気や障碍となるとね。

そりゃ、どこかで割り切らないと。精神が持たないでしょうよ。

 

だから、スタッフ何人かで手分けする。

家族とかのなかで、
ましてや、一人に重点的に引き受けさせると、引き受けさせられた者が潰れてしまうのアタリマエだから。

 

 

私自身、以前のエントリーでも言ったように、自分の障碍が なければ、もっと ずーっと生きやすく、動きやすい人生だったろうと思うけど、

その代わり、ここまで、ものごと全般を深く考えることもなかったと思う。

それが幸か不幸かということは ともかくとして、
そうならざるを得なかった。

 

で、

私も、話しかけられて、返事が できずに、「シカトした」ってな言いがかりつけられ、仲間ハズレにされたとか、何度も ありました。
学校でも、社会人となってからも。

親ですら、
呼んでるのに無視した!勝手つんぼ!!
そういうことを言って怒るんだよ。

 

もし、植松に遭遇してたら、私も、「意思の疎通が」なんちゃらを理由にして、グサリと やられたかもね。emoji

 

何らかの状況により、たとえば、うしろから急に話しかけられたりとかしても、なかなか、気が つけないんだわ。聴覚障碍なのでね。

 

ほんと、他人事じゃないのよ。emoji

 

 

Updated   
2019.07.25 (Thu)

どうやら、『左翼』系の思想や科学を敵視する人に多いのかな?ww

 

「魂」だの「高次元」だの言ってる「ヤフゴミん」へ。

 

大概どの宗教でも似たり寄ったりのことを主張するわな。

そして、

そんな宗教のために、人類の歴史はじまって、こんにちに至るまでも、

どれほど夥しい争いと犠牲を齎したか。

 

要は、殆ど宗教と化したものは、みな同様なことになった。

 

 

私自身は、『唯物論・主義』でも『観念論・主義』でもないが、

過去エントリーで、私は、こう言った。

物質ほど不可思議なものは ない

と。

この意味、わかる?

 

答えてみな。

そも、「物質」とは何ぞや?

 

 

「心が見させているに過ぎない」か?

では、その「心」とは、いったい何から生じているのか。

 

生物は、「自分」という生体を守らんとする。

それは、「自然界の命令」なのだろう。

なかには、そこを敢えて克服しようと、われと我が身の危険を冒したがる者も、たまに いるけれど、それにしたって、本人なりのメリットを、そこに見い出しているゆえだろう。

 

「喜怒哀楽」という感情の動きは、畢竟、自分という存在を守りたいからに尽きる。

自分は可愛い。

反射的、本能的なもので、どうしようもないのが普通だ。

 

「自殺」や「自己嫌悪」「自己憎悪」ですら、その根底にあるのは、自分が可愛いからこそだ。

むしろ、自分可愛さが強過ぎるのかもしれない。

 

 

いわゆる「安楽死」、また、自殺もだが、

これらは、実際には「自分で選択」したことには全然、ならない。

 

表面的には、そのように見えるけれど、

何が、その方向へ向かわせたことになるやらは、その個人のメンタル等の持ち前や情況にもよるのだろうが、

本質的には、やはり、そうせざるを得ないように追い詰められてのことだ。

 

ただ、
死よりも辛い苦痛の状況が あるならば、そのことを配慮しないわけには いかないのだろう。

 

 

あたりまえに思って過ごしている日常のなかでも、ちょっと考えたら分かることで、

単に、暑い寒いだけでも、感覚や考えに大きく影響する、それが現実。

 

肉の快楽、かつ、肉ゆえの苦悩と苦痛。

肉体と生存の限界。

 

 

そもそも、生まれてくることを選択したはずが ないとする以上、死ぬことも また然りであり、

われわれに、ほんとうの「自由」や「自由意志」による「選択」は、ないのだろう。

「ある」かのように見えるだけ、錯覚しているだけで。

だからと言って、そのこと自体をもって「不幸」だとかいうわけでもない。

 

しかし、また、

「宇宙」という物質の発生を考えたとき、「自由」の意味は、とてつもない不可思議を帯びてくる。

 

『観念』と『物質』は不可分だ。

 

「物質」とは、じつに不可思議な現象なのであり、

けっして、軽んじたり見下して済ませられる次元のものでは ない。

 

「物質」を軽視するべきなら、「観念」も また同じことだ。

 

 

 

それと、

子どもに対する虐待とか悲惨な事件の犠牲者を悼んで見せるのは結構だが、

どんな酷い両親のあいだに生まれたからとて、

その子の命は、その両親のもとなればこそ生じたもの。

ある男女の組み合わせにおいて生まれた、それだけ。

当然、他の、どこの男女のあいだに生まれたのでない。

 

二言目には、
「今度、生まれてきたら、もっと幸せな家庭に、優しい親のところに」とか、「あの世では幸せに」とか。

そーいう感覚だから、

何度でも「リセット」できる的、浅はかな考えで吐くセリフになる。

 

 

個々の命は、あくまで一回性のもの。

失われたら、取り返しは つかない。

二度と ない。

 

だからこそ、重く、大切。

大切なものを苦しめ、損なった罪深さ、ということになる。
人間の価値判断だけれど。

 

 

まさに、障碍者を虐殺した、あの植松の偏りきった思考回路と酷似しているのが、「カルト連」と、私が呼んでいる連中なのだが、

「安楽死」制度の必要性や「過度の延命」治療等に関しては、たしかに、議論の必要性は あるだろうと、私も思っている。けれど、

実際問題、「排除」しても「排除」しても、それこそ「自然の摂理」によって一定の割合で次々「先天的疾病」や「障碍者」は生じてくるのであれば、キリのない「排除」よりも、むしろ積極的に研究することへ情熱を向けたほうが早いんじゃないかな。

排除ばかり やっていても、結局は生まれてくる、そして、それでも生かしたい、敢えての覚悟で育てたい、これからも生きていきたいと望む人たちも存在する。

だが、もっぱら排除が奨励されたことで、データや研究が遮断されている状態とあれば、いよいよもって、生存可能性は困難な道へと否応もなく一方的に追いやられていくしかないでは ないか。

 

 

生産性が人間の価値を決めるわけではない、という人類が築き上げた英知を再度確認すべきだと思います」と おっしゃる藤田孝典さん。

私には、これこそ、どこか「キレイごと」の危うさを感じさせられてしまうのだが、

さて、「生産性」の ある・なしを単純に問うのならば、

何らかの重度障碍者と言えども、「生産性が全く ない」とは、私には思えないのです。

 

このことも以前から何度か言ってきたが、

あらゆる疾病、障碍の当事者は、その存在自体で、医療その他に対する貢献が あると思う。

 

現実に、施設と、そこで働くスタッフといった需要も生み出しているわけで。

 

私自身も当事者なので、明言できるが、障碍自体が即で「不幸」なのでは ない。

 

「不幸」となるかどうかは、そこの構成員と社会の状態による。

ただ、個人の問題にして かたづけてしまうと、確実に「不幸」なことになり易いのは尤もだと思う。

 

障碍が あろうが なかろうが、

現実に、一般家庭の「健常者」たる親が、「健常」だった子をイジメ殺すという事件が頻々の昨今。

 

「健全なる」肉体に、歪んだ精神が宿った()

 

私に言わせれば、植松でさえ、その脳から生じる思考癖の極端な偏り、遺伝性如何、生育環境、社会的背景など様々の研究対象にでき得ると思うくらいだ。

 

 

それにしても、『優生保護法』っての、わりと最近まで存在したんだもんね。

私も、学校の授業とかで教わってるはずなんだけど、とくには疑問にも思った記憶が ない。。。

なんとなく、そんなもんなのかと受け入れてしまうんだろうか。

 

私自身、乳児期の薬害による聴覚障碍者だから、

先日、どこかの記事で、遺伝性でないのに、聴覚障碍を理由に、妊娠が不可能になる手術を施されたという女性の例を読んで、まさに、他人事では ないんだと思った。

 

 

最も強い者を試し、残そうとしているかのような、「自然の摂理」「自然の目的」は過酷だ。

ほんとうに「最後に残る者」は、必然として最も孤独な存在になってしまうことは明らかだし、同時に、そんなことは不可能でもある。

 

人間の歴史とは、その過酷、残酷に対する延々抵抗と希望の もがきの歴史であったということも できよう。と、

当ブログ主は、過去エントリーで何度か言ってきましたよ。

『ナチス』『ヒトラー』ファンの「カルト連」さんw

相変わらず、修行と哲学が足らんなww

詭弁やヘリクツ、ことば遊びでは ない、「血みどろの たたかい」たる哲学というものを豪も理解できてないオマエさんら。

 

そんなんだから、オマエさんらと話しても話しても、どうにも

た・い・く・つ

(アクビ)と思っちゃうのだよ())

 

 

Updated   
2019.07.21 (Sun)

えげつないことを やれるもんだなあ。。。酷い。

こんなこと、どうしても防げないというのでは、困るな。

ほんとうに、防げなかったんだろうか。

アポとっていたという『NHK』のスタッフも巻き込まれる寸前だったわけだろうか。

 

 

私自身、世間でも知られた老舗の大企業に勤めていたけど、もちろん、自社ビルだし、正面玄関の他にも、従業員用出入口もある、裏手に まわれば、主として車両用の、広くて大きな出入口も ある。

ただ、大阪のオフィス街ど真ん中と言えるような立地だし、周囲も、普通の民家などは見当たらず、ほぼ軒並み、企業のビルが建ち並んでいる。

その点、今回の事件が起きたアニメ会社の所在地である京都は伏見区だっけ?あのあたりも、いかにも京都らしくと言うか、古い町家なんかが建て込んだ狭い通りに面してるんだろうなあと想像してたから、消防車はスムーズに入れただろうかということを真っ先に思った。

 

それから次々に報じられている内容を拾い読みしているうちに、

消防局としては、建物や防火上などについて、これという問題なく、今回のような事態は想定外、といったような見解が述べられているので、シロウトとしては、「そうなんかなあ」という疑問は なお残るものの、

灯油では なく、よりによって、大量のガソリンを持ち込んで来て撒かれたら、それだけで お手上げ、なのであるらしい。

ならば、結局は、

「ガソリンを持ち込まれることを阻止するためには、どうすれば」

ということに行きつくでは ないか。

つまりは、「セキュリティ」のことだ。

すでに、脅迫的メールも受け取っていたそうだし、警察からのアドバイスは どうだったんだろうか。

 

なぜか、「ヤフゴミ捨て場」では相も変わらず、

「死刑だ極刑だ!それも、イッキにではなく、ジワジワと苦しめてからだー!!」

などと、

その「ジワジワ」を、どのようにやるか、という提案に余念が ない。

あるいは、

これまた毎度おなじみ、

「生活保護者は、全員が、このように犯罪を起こす!」だの、

「精神病の家系は」云々、

「親族にも刑罰を!」

などと喚いている。

明け方になっても延々と、こうしたゴミ投稿ざんまい。

こういうのって、

犠牲になった被害者や遺族にとって最も冒涜的なコメントだと思うぞ。

 

いったい、まともな連中なのか?このエラソーに、デタラメを喚き続ける連中は。

それこそ、こやつらこそは「何かの精神病を患ってる無職のヒマジン」じゃないのかよ?

と疑わしいほどの酷薄にして支離滅裂、しかも執拗に繰り返す投稿。

 

だからね、『ヤフー ジャパン』の社長さん。

こんなコメント欄は、経営者としても恥ずかしく、一人の人間としての良心が咎めませんか?っての。

たとえ、あなたの心底に、親御さんの代からの「用日」とかいったような思惑が潜んでいるとしても。

早く閉鎖されることを、何度でも言いますよ。

 

 

さて、

京アニ事件で考える職場のセキュリティ対策 米では部外者がおいそれと入れないようになっている
安部かすみ|ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者 7/20() 8:33

https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20190720-00134938/

 

上掲のコラムの筆者さんは、こう おっしゃってるのだけれど。

「日本の大企業はセキュリティの面でまったく問題ない」

と。

ちと ちゃいます。

 

先述したとおり、バリバリのオフィス街ど真ん中に立つ大きな自社ビルで、出入口が何ヵ所も あるにも かかわらず、

正面玄関を入って すぐの壁際に、いちおう「受付」としているコーナーが あるんだけどね。

いわゆる「受付嬢」てなシャレた女の子が座ってるわけでもなくて、
ふつーに、オバチャンが座ってたりする。

彼女たちは、何の課だったっけかな、「秘書課」というのでもなく、殆ど、何でも屋みたいな存在だったような、、、(苦笑)

私は、その会社では、かなり上階にあった広報で仕事してたけど、エレベーターなんかは基本的に使っちゃいけない、飽くまでも来客用だからとのことで、ヒイヒイ言いながら毎日、長い階段を上がり降りしてたもんだが、一事が万事って感じで、社長さん自身もツマシイと言うかケチくさいというか、やっぱり、もとが個人経営から出発した同族企業らしい風土だった。

で、その大企業、正面玄関にも、警備員なんて、いなかったなあ。

社員用の出入口を通るときは、いちいち、身分証みたいなカードを かざして入り、あとは、社内に居るかぎり、その「カード」を一日じゅう、首から ぶら下げてるけど。

 

まあ、外部のアポは基本的に とってもらってるはずだが、

さっき言ったように、
いちおうの「受付」には、オバチャンが座ってたりするだけよw

一般向け製品も多数種を売り出している有名大企業では あるから、時々、テレビ局や雑誌の取材も来る。

でも、警備員の男性なんて、少なくとも私は、見た記憶が ないなあ。

もしかしたら、裏手の出入口には、車両整理するためにも、男性の係員を常駐させてたのかもしれないけど。

 

で、ある日のこと。

私が、父親の病気に伴って辞したおり、上司が、とある料理屋に招いて労ってくれて、いろいろ御馳走になったので、後日、ささやかな お礼の品を、近場の宅配業者に依頼し、社のほうへ届けてもらったのだけれど。

その当時、私は、長年放置していた脚の不調を、やっと決心して手術したばかりだったのだが、手術直後は、べつに、なんということもなかったのに、帰宅して翌朝、起床したとたん、ベッドから床の上に転げ落ちた。

もの凄い痛みに襲われて、一瞬、目の前がチカチカ、何が起きたのかと戸惑ったが、手術で縫合した影響から来たらしい激痛だった。

助けてくれる者は誰も いないのだから、這うようにして、必死で身仕度し、手術してもらったばかりの病院へタクシーで駆け込んだあとなので、しばらくのあいだ、外出は危ぶまれたのだが、お礼を早く済ませたいと、気が急くものだから、片足ひきずりながら、宅配を依頼しに向かったのだった。

 

さて、翌日か翌々日だったかに、早速、もとの上司からメールが来た。

なんでも、社の受付で、大騒ぎになってたよ、と。

 

こっちは、ええっ?と驚いたが、

なんのことは ない。

ただでさえオッチョコチョイな私が、脚の痛みを堪えつつだったせいか、社の住所だけ記入して、目的の上司の名前と、差出人である私の名前を記入し忘れるというポカを やらかしていたのだ。

 

会社に宅配の品そのものは届いたのだが、

小ぶりのダンボール箱の上の貼付票を見ても、誰から届いたのか、社内の誰に宛てたのか、いったい何が入っているのやら分からない。

それで、

受付の女性たちは、彼女たちの上司である課長(男性)を呼んで、これの対処を仰いだということらしい。

しかし、課長にしても、なかみ分からない、誰に渡すべきなのか分からないのだから、このままでは、如何ともし難い。

思案投げ首ののち、ついに、課長は意を決して、こう叫んだ。

「みんな!うしろに下がってなさい!!」

 

そうしておいて、課長自身は、恐る恐る、箱に手を かけ、フタを開いた。

 

1階へ降りて来るようにと呼び出しの社内メールを受け、私の元上司は、階下へ降りて、受付の所で、課長や女性社員たちが揃って脱力しているのを見た。

 

元上司から私に届いたメールには、こう書かれていた。

 

「1階で大騒ぎになってたよ~。

爆発するかもしれん!と思った課長が、女の子たち遠ざけて、ビックビクしながらフタあけてみたら、お礼の品物だと分かって、大笑い。

箱のなかに、メモみたいな手紙を入れてくれてたでしょ?
それ読んで、やっと分かったんだって。

もうちょっとで、警察を呼ぶとこだったらしい()

 

うわ、恥ずかし~。。。(赤面)

お騒がせしました。emoji

 

 

それにしても、

今回の大惨事の直後、よりによって、お膝もとの市長さんとか、選挙戦の締めを迎えた政党の幹事長さんだとかが、早速、やらかしたそうな。

ネタにすんなや。。。emoji

 

市長の応援演説のほうは、

「さすが、ぶぶ漬けの京都どすな」

と思っちゃったw

なんか、感覚のズレがヒドい、、、と、

「エリート」であるはずの政治家センセイの、いわゆる「失言」を知るたびに、フシギなほどの気分になる。

どーして、ここで、こういうセリフ、、、?

と、ほんとうに、理解に苦しむ。

 

もっとも、現シュショーからして、国民の災難を利用した演説かましよるからねえ。

 

これが「ユーモア」「ジョーク」なんだと思えるセンス。

やっぱり、一種の「障碍」なの?

麻生さんなんかも典型的だけど、

ゲスっぷりをウリにするような芸人さんでも、そうそう やらない、やれないような、軽薄きわまる「ウケ狙い」。

そういう人が、「ことばが命」の政界に殊のほか多いってこと?

ワカラン。さっぱり、理解できない。おもんない。

そのズレた感覚が。

 

こういうのを笑える有権者が いるのなら、やはり、その有権者が支持するレベルだということだろう。

 

「あ~、うー、、、」のほうが、よっぽど、マシだったなあ。

 

「悪気は なかった」?そりゃそうだろうよ。だが、

国民の災難や困難に対する他人事感覚が、どうしようもなく滲み出てる。

 

 

Updated   
2019.07.10 (Wed)

「親には感謝するべき」の続き。

 

「親に感謝」よりも、「子に感謝すべき」

ええ、そうですよ?

 

昔から言うでしょ、

「負うた子に教えられる」のだと。

子を育てて、やっと、一人前になれると。

そういう修業が必要な分際なんだ。

 

だから、いまさらなことを おっしゃるもんだなあ、と思ったの(苦笑)

 

 

んー。こういうことは、あまり、自信を持って お書きにならんほうが いいのかもなと思ったのは、

現に、そこへ寄せられた閲覧者のコメントの かずかずも、子の立場からの怒りを感じさせるような内容のものが多いのは当然だろうし、

「メンタルケア心理士」という肩書をも名乗ってらっしゃるようだが、

現実に、相対してる相手が いて、その人の悩みには答えになれる可能性が あると思えば、そういった御意見を述べるのも悪くないかとは思うけれども、

世のなかには、ちょっと考えられないほど特殊なケースや、それにつれて、様々な考えかたが あるのでね。

 

 

「悲惨な虐待事件を受けて考え」たとも おっしゃるんだけれど、

だいいち、

「『いま楽しいかも』って思うことができれば、その時、初めて『親への感謝』が生まれるときが来るのでは」

って、

それこそ、
幼くして、虐待の日々のすえに、死を余儀なくされた子どもたちには、

「いま楽しい」と思い、「親への感謝が生まれるとき」なんか、永劫に来ないですわね。

その子たちに比べたら、うちらラッキーだよね、ずっとマシな親だったんだから、って おっしゃりたい?

 

 

親から、そのまた親についての恨みツラミをも、さんざん聞かされた私は、

自分が、この世に産み落とされたことを肯定できないまま、うちの親みたいに、それでも無理やり、子を産んで、また、その子に辛い思いを させてしまうのならば、

私は、自分が、この世に生まれてきたことを、いつか、心の底から納得して受け入れる気持ちになれないうちは、産まないでおこう、

そう決心したのが、中学生の頃だった。

 

 

そうは言っても、おとなになってから、好きな男性の子が、素朴に欲しいという気持ちになったこともないでは なかったけど(苦笑)

子どもを持つことだって、本来は、ただ自然の縁でしょうからね。

 

 

もちろん、日常生活のなかで、あれや これや、ささやかに楽しみますよ。

そんなことは、いちいちアドバイスされなくても、おのずと探しているもんで、自分なりの日常生活のなかに取り込んでます。

だって、

毎日毎日、くうう~emojiと恨んで恨んで考え込んでばかりじゃあ、何一つも できやしない、気分転換すらも できないと、まじで、心身が持たないよ。

 

でも、「親への感謝」とは、また異なる次元のことなんです。

 

 

障碍ゆえの苦労だって、もし、これが なかったら、私みたいなタイプは、あまり、ものを考えることを しなかっただろうと思う。

苦痛に感じる実家や親なんて、さっさと決心して、捨てて行けたはずだから。

でも、

それが困難だったゆえの、とことん考える習慣が ついた。

そうでなければ、本来、のんびりノホホ~ンな性分だ。

 

 

人生が単純スムーズで、幸せな人ほど、ものを考えないで済むでしょ()

 

しかし、そういう人と話したところで、「暖簾に腕押し」的な退屈さを感じるw

深い話は、できない、する気になれないww

相手も、ついて来れないだろうし。

 

あるいは、知性が低い人に対しても、同じような退屈を感じると思う。

ただし、単に「知的障碍者」という意味で言うのでは ない。

世のなか、重度の発達障碍児でも、いわゆる健常者には ない、ある種の知性の鋭さを感じさせられた お子さんもいることを、私は知っている。

 

 

古代の哲人にとって、じつに「血みどろの戦い」だったと伝わるように、

私にとっての哲学、思考という作業は、あの『カルト連』と呼んでいる者らのような、ウケウリ知識に寄りかかった、ヘリクツひねり出し遊びのためのものではない。

 

 

文学作品でも、対比になるものが ないまま、ただただ幸せな、めでたい人物なんて、わざわざ描かないわね、退屈だものw

やっぱり、苦悩の陰影こそが描かれるに値するわけで。

 

 

最後に。

子を産むのはエゴ、勝手でしかない(←アタリマエなんだがw)
という指摘について再び三たび、指摘を重ねておこう。

 

世の親御さんたちよ。

なにも特別なケースで ないよ、

どんなに楽しみ多く、幸せに育てあげたつもりの あなたの お子さんも、いつの日にか、重い病や事故、災害に遭うなどして、殆どの場合、苦痛を味わい、そうして死んでいくんでしょう。

 

人並みに知性を持ってたら、そんなこと、よく知ってるよね?

重々分かっていて、でも、産み落としたでしょ?w

 

そりゃあ、無責任だからじゃんかww

 

 

「産んでもらって感謝」なんて、どの口が言うのかw

あつかましいww

 

 

生まれぬが幸せ」ぢゃ。

 

 

たしかにね、全面肯定して、とにかく満足して生きてる人のほうが、その人の人品骨柄その他、あらゆる条件いっさい関係なく、
「うまく生きていけてる」
事例は多いように思う。

いわゆる「運の強い」有名人とか大スターとかって、その本人も、自分で そう思い起こして述べてるところを何度か見かけたけど、何も考えずに、あるいは、なんとなく勘で、来た流れに身を まかせていたら、なぜだか、とんとん拍子に進んでましたのよ、とか。

 

その「とんとん拍子」の先が、私の場合、親らの つごうよく、になるのが明白なイメージでwそこから なんとか少しでも逃れようとして、ドツボに はまっちゃったとかねww抗えば抗うほど、大変になっていった。

「親とセット」の行く末が、どーにも肯定できなかったんだから、しゃあない(苦笑)

 

 

もともと、担任の先生たちから言われてたように、自己主張しない、素直過ぎる性質の子だったんだから、世の「強運」の人たちのように、考えず、身を まかせ、流れていっとけば良かったのかなあ。

 

 

『時の流れに身を まかせ』


 

 

うーん、違うな。。。w

こんな私は、いつしか、「哲の女」となっておったのであるww

かかってこいやー!!www