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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2019.07.25 (Thu)

どうやら、『左翼』系の思想や科学を敵視する人に多いのかな?ww

 

「魂」だの「高次元」だの言ってる「ヤフゴミん」へ。

 

大概どの宗教でも似たり寄ったりのことを主張するわな。

そして、

そんな宗教のために、人類の歴史はじまって、こんにちに至るまでも、

どれほど夥しい争いと犠牲を齎したか。

 

要は、殆ど宗教と化したものは、みな同様なことになった。

 

 

私自身は、『唯物論・主義』でも『観念論・主義』でもないが、

過去エントリーで、私は、こう言った。

物質ほど不可思議なものは ない

と。

この意味、わかる?

 

答えてみな。

そも、「物質」とは何ぞや?

 

 

「心が見させているに過ぎない」か?

では、その「心」とは、いったい何から生じているのか。

 

生物は、「自分」という生体を守らんとする。

それは、「自然界の命令」なのだろう。

なかには、そこを敢えて克服しようと、われと我が身の危険を冒したがる者も、たまに いるけれど、それにしたって、本人なりのメリットを、そこに見い出しているゆえだろう。

 

「喜怒哀楽」という感情の動きは、畢竟、自分という存在を守りたいからに尽きる。

自分は可愛い。

反射的、本能的なもので、どうしようもないのが普通だ。

 

「自殺」や「自己嫌悪」「自己憎悪」ですら、その根底にあるのは、自分が可愛いからこそだ。

むしろ、自分可愛さが強過ぎるのかもしれない。

 

 

いわゆる「安楽死」、また、自殺もだが、

これらは、実際には「自分で選択」したことには全然、ならない。

 

表面的には、そのように見えるけれど、

何が、その方向へ向かわせたことになるやらは、その個人のメンタル等の持ち前や情況にもよるのだろうが、

本質的には、やはり、そうせざるを得ないように追い詰められてのことだ。

 

ただ、
死よりも辛い苦痛の状況が あるならば、そのことを配慮しないわけには いかないのだろう。

 

 

あたりまえに思って過ごしている日常のなかでも、ちょっと考えたら分かることで、

単に、暑い寒いだけでも、感覚や考えに大きく影響する、それが現実。

 

肉の快楽、かつ、肉ゆえの苦悩と苦痛。

肉体と生存の限界。

 

 

そもそも、生まれてくることを選択したはずが ないとする以上、死ぬことも また然りであり、

われわれに、ほんとうの「自由」や「自由意志」による「選択」は、ないのだろう。

「ある」かのように見えるだけ、錯覚しているだけで。

だからと言って、そのこと自体をもって「不幸」だとかいうわけでもない。

 

しかし、また、

「宇宙」という物質の発生を考えたとき、「自由」の意味は、とてつもない不可思議を帯びてくる。

 

『観念』と『物質』は不可分だ。

 

「物質」とは、じつに不可思議な現象なのであり、

けっして、軽んじたり見下して済ませられる次元のものでは ない。

 

「物質」を軽視するべきなら、「観念」も また同じことだ。

 

 

 

それと、

子どもに対する虐待とか悲惨な事件の犠牲者を悼んで見せるのは結構だが、

どんな酷い両親のあいだに生まれたからとて、

その子の命は、その両親のもとなればこそ生じたもの。

ある男女の組み合わせにおいて生まれた、それだけ。

当然、他の、どこの男女のあいだに生まれたのでない。

 

二言目には、
「今度、生まれてきたら、もっと幸せな家庭に、優しい親のところに」とか、「あの世では幸せに」とか。

そーいう感覚だから、

何度でも「リセット」できる的、浅はかな考えで吐くセリフになる。

 

 

個々の命は、あくまで一回性のもの。

失われたら、取り返しは つかない。

二度と ない。

 

だからこそ、重く、大切。

大切なものを苦しめ、損なった罪深さ、ということになる。
人間の価値判断だけれど。

 

 

まさに、障碍者を虐殺した、あの植松の偏りきった思考回路と酷似しているのが、「カルト連」と、私が呼んでいる連中なのだが、

「安楽死」制度の必要性や「過度の延命」治療等に関しては、たしかに、議論の必要性は あるだろうと、私も思っている。けれど、

実際問題、「排除」しても「排除」しても、それこそ「自然の摂理」によって一定の割合で次々「先天的疾病」や「障碍者」は生じてくるのであれば、キリのない「排除」よりも、むしろ積極的に研究することへ情熱を向けたほうが早いんじゃないかな。

排除ばかり やっていても、結局は生まれてくる、そして、それでも生かしたい、敢えての覚悟で育てたい、これからも生きていきたいと望む人たちも存在する。

だが、もっぱら排除が奨励されたことで、データや研究が遮断されている状態とあれば、いよいよもって、生存可能性は困難な道へと否応もなく一方的に追いやられていくしかないでは ないか。

 

 

生産性が人間の価値を決めるわけではない、という人類が築き上げた英知を再度確認すべきだと思います」と おっしゃる藤田孝典さん。

私には、これこそ、どこか「キレイごと」の危うさを感じさせられてしまうのだが、

さて、「生産性」の ある・なしを単純に問うのならば、

何らかの重度障碍者と言えども、「生産性が全く ない」とは、私には思えないのです。

 

このことも以前から何度か言ってきたが、

あらゆる疾病、障碍の当事者は、その存在自体で、医療その他に対する貢献が あると思う。

 

現実に、施設と、そこで働くスタッフといった需要も生み出しているわけで。

 

私自身も当事者なので、明言できるが、障碍自体が即で「不幸」なのでは ない。

 

「不幸」となるかどうかは、そこの構成員と社会の状態による。

ただ、個人の問題にして かたづけてしまうと、確実に「不幸」なことになり易いのは尤もだと思う。

 

障碍が あろうが なかろうが、

現実に、一般家庭の「健常者」たる親が、「健常」だった子をイジメ殺すという事件が頻々の昨今。

 

「健全なる」肉体に、歪んだ精神が宿った()

 

私に言わせれば、植松でさえ、その脳から生じる思考癖の極端な偏り、遺伝性如何、生育環境、社会的背景など様々の研究対象にでき得ると思うくらいだ。

 

 

それにしても、『優生保護法』っての、わりと最近まで存在したんだもんね。

私も、学校の授業とかで教わってるはずなんだけど、とくには疑問にも思った記憶が ない。。。

なんとなく、そんなもんなのかと受け入れてしまうんだろうか。

 

私自身、乳児期の薬害による聴覚障碍者だから、

先日、どこかの記事で、遺伝性でないのに、聴覚障碍を理由に、妊娠が不可能になる手術を施されたという女性の例を読んで、まさに、他人事では ないんだと思った。

 

 

最も強い者を試し、残そうとしているかのような、「自然の摂理」「自然の目的」は過酷だ。

ほんとうに「最後に残る者」は、必然として最も孤独な存在になってしまうことは明らかだし、同時に、そんなことは不可能でもある。

 

人間の歴史とは、その過酷、残酷に対する延々抵抗と希望の もがきの歴史であったということも できよう。と、

当ブログ主は、過去エントリーで何度か言ってきましたよ。

『ナチス』『ヒトラー』ファンの「カルト連」さんw

相変わらず、修行と哲学が足らんなww

詭弁やヘリクツ、ことば遊びでは ない、「血みどろの たたかい」たる哲学というものを豪も理解できてないオマエさんら。

 

そんなんだから、オマエさんらと話しても話しても、どうにも

た・い・く・つ

(アクビ)と思っちゃうのだよ())

 

 

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