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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2019.06.28 (Fri)

障碍者や社会的弱者といった人たちへの強烈な悪意に満ちたバッシングや、誹謗・中傷のための作り話すらが並ぶことで有名な「ヤフゴミ捨て場」には、そうしたコメントを諌めようとする投稿者は、ほとんど、いない。

にも かかわらず、

近頃、頻々と発覚している、子を、死に至らしめるまでも虐待する亭主に服従し、ついには一緒になって虐待に加担してしまった、不甲斐ないこと甚だしい母親を擁護する投稿者は、思いのほかに多いもんだから、なんだかヘンな感じが するw

 

 

さて、

子どもを連れて逃げないと言うか逃げられない心理状態について、もちろん、いろいろと経験してきた私さえも含めた一般の人々には、なかなか理解し難いものが あるのは しかたないだろうし、

そのあたりの心理的事情のことを、専門筋の人とかボランティアなどで かかわってきたと自称する人たちが、
世間一般からの理解が特に必要なのに、まず、それが大いに不足していることの認識から必要なのである、
といった指摘も なされている。

そこで、

私自身は、自分の子どもならぬ、母親について、自分の身以上に心配し、庇ってきた過去の経験・体験から、

なぜ、ほとんど反射的なまでに、大事な存在を、わが子を庇おうとせずにいられるのだろうか?

という、どうにも不可解さを感じてしまうことについて、もう少し掘り下げて考えてみた。

 

 

亭主に殺されそうになっている子どもを、守るどころか、虐待に加担してしまう母親の心理。

ヒントは、

セルフ ネグレクト」。

もしかしたら、これに近い心理状態であるのかもしれないと思った。

 

 

厭だ、辛い、逃げ出したいとの思いが深くなるほど、
あたかも「セルフ ネグレクト」のように、フリーズ――動けなくなる――
それは、自分自身を罰するかのごとくに。

 

 

もとより力弱い子どもが、徹底的に やられている姿を目の当たりにして、自分自身の非力そのものな姿を重ねてしまい、
わが子を哀れに思う反面では、なさけなくも思い、まともに抵抗することすら かなわぬ子どもの姿に、むしろ、イライラしてしまっているのかも しれない。

 

つまり、
自分自身に対する、深い無力感や失望感と同時に、それを、わが子に投影してしまうのだろうか。

 

 

そういう、言わば二重の心理が、母親と言えども自分自身の身を真っ先に守ろうとしてしまう動物としての本能的動きと共に、かえって、虐待する夫との共犯関係を、むしろ積極的に行ってしまうのだろうか。この点は、まさに、いわゆるイジメの集団心理と大差ないように思える。なので、私は、以前から、「家庭内イジメ」と呼んできた。

 

「サディズム」と「マゾヒズム」は、背中合わせの一体だ。

最近のエントリーでも指摘したように、

暴力を振るったり殺したり、それは、心理的に、
自分自身に対しても行なっている
のである。

 

 

もともと、ホレて一緒になった男なのだろうから、やっぱり、子どもよりも、亭主のほうが大事なのが本音なのかもしれないがw
昔から、そういう傾向の女たちは少なからず いただろうと思うけれど、
もしや、いまどきの若い女性は特に そうなのかな?母親である以上に、女オンナしていたい、と思う女性が多いとも聞くし。。。

 

 

自分が、良いと思って選んだ男が、くっついてみれば、「トンデモ人種」だったということを認めたくないとか、もう少し耐えて頑張れば、なんとか、少しは風向きが変わって、やがて、最初の頃のように戻ってくれるかも、といった淡い期待が捨てきれないのかもしれないが

(たとえば『自己愛性人格障害』者の特徴は、初対面や、知り合ってから間もないうちや、あるいは、心のうちに押し隠した何らかの目的が ある場合に、非常に良い人がらの印象を与えることや、相手の気持ちを上手に翻弄したりすることに長けていたり、相手が振り向くまで、決して諦めず、根気づよく迫ってくるとも聞く)

自分一人のことならば、ホレた男に殺されようが、一個のオトナの「自業自得」で一蹴されてしまうかもしれないとしても、

どんな理由が あろうと、
親としての、子への責任は、男女とも同等で ある。

 

おのれの不甲斐なさを、子の上に投影してくれるな、
と言いたくも なる。

おとなの女、人の子の親として、それでは通用しないんだから。

 

 

私だったら、自力だけでは どうにもならずに、これじゃあ、子どもを守りきれない!となったら、それこそ道端で通りすがりの人にでも、髪振り乱して すがりつくかもしれない。

人に対する不信感を、私自身も少なからず持っているし、さしたる期待は していなくても、とりあえず子どもの命を守るためならば、しのごの言ってられない。

 

これくらい できなくて、人の子を産み落とした親が つとまるものなのかね?

 

 

まさか~まさか~で、むざむざと時間が経ってしまう前に、

まず、子どもの身に危険が迫った その時点で、ぐだぐだ言ってるヒマは ないはずなのだが。

ほんとうに、自分よりも、亭主よりも、子どもを可愛く、大切に思っているのなら、石に齧りつけよ!!と言いたいところ。

 

なにしろ、家庭内の、まして、現代は、マンションだのの内側で起きてる事は、密室内でのことに等しいのだから、外部からは、なかなか、それと察するのが難しい面も現実的に大きい。

聴覚障碍の私なんか、子どもの泣き声を聞き取ることも困難だ。

 

 

親でありながら、自分だけ「セルフ ネグレクト」的な無力感にドップリ浸りきる前に、なんとか助かる方法を必死で模索するべきなのだし、それは、そんなに難しく構えなくても、まずは隙を見ておく。

これ以上、動きにくくなる前にと、行動を起こすことを意識していないと、時間が経てば経つほど、動けなくなるのだから。

 

ところが、
しかし、実際には、「危険」が「危険」だと判断することにすら、躊躇してしまうものらしい。

 

まあ、親の家庭しか知らないままの、幼い子どもなら、ほとんど、そうならざるを得ないものだと、それは理解できる。

だが、一個のオトナがねえ。。。と思ってしまう。

 

 

私なんかは、ほんの幼児の頃でも、やっぱり、親父の ふるまいに、恐怖と異常性を感じていたものだがなあ。。。

ただし、

年齢を重ねて、親を看取ったあとになってから、やっと気づいたのは、
これまでのエントリーでも幾たびか触れてきたように、
むしろ、母親のほうが、タチが悪かったのだという問題。

要するに、

巧妙に押し隠された暴力性に、それこそ、「気づいていなかった」わけで。

 

 

大事な、しかも弱い存在を、ほぼ反射的に守ろうとすること
(それは、自分のためでもあるわけだから)
それを敢えてのように、やらなかった母親たちに、どうしても、怪訝な感じを持ってしまう、そこで考えているうちに思い当たったのが、
先述した「セルフ ネグレクト」の延長的心理、
および、背中合わせで一体たる「サディズム」と「マゾヒズム」の心理だ。

 

 

現実的な対処としては、やはり、

もし、頼る身内も、友人・知己も ないのならば、さっさと警察でも役所でも出向いてみることだろう。
そこで、とにかく逃げるための手段を聞いてみるべきだし、

そのときは、警察や役所関係の人も、テキトーに あしらうようなことは、決して、決して、しないでほしい。

役所あたりの人間が、無知では、話にならない。

市民のための情報を豊富に用意し、周知を図り、何かしらの手がかりを伝えられるようにしてもらいたいものだ。

 

 

直接虐待側の親も、それを見ていて、どうすることもできない側の親も、どちらの側も、要するに、子どもを私物視しているのだろうと思う。

 

とにかく、

子どもに対して自己投影するな!

と言いたい。

 

自分自身の内なる「自己憎悪」に気づかなければ ならないよ。

 

 

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