2018.07.30 (Mon)
思えば、
自然の脅威や天災という、人間にとって納得し難い「理不尽」「不条理」に抵抗し続けた人類の歴史の最たる現れが、われわれの「社会」というものだ。
然り、およそ法律というものは、個々人のためと言うよりも、総じて社会の存続、このための防御を第一義としているに ほかならない。
「死刑」に抑止力というものが備わっているのか否か疑わしいのは、それが あれども頻々と殺人事件は起きてくる現実が あるからなのだが、
ならば、「死刑」を廃止した国が多くなってきている現代、実際に廃止したことによって、殺人事件の発生率などは どう変化しているか いないか、興味深いところだ。
もし、ある程度の期間が経って釈放するとしたら、やはり、再犯の恐れが気になるし、
「終身刑」にするとしたら、刑務所が不足してしまわないのかということが気になる。「死刑」が あっても、殺人を犯してしまう者は、なくならないからだ。
もっとも、日本においては、被害者が一人のみの場合、情況によるだろうが、死刑にまでなることは少ないだろうし、
皮肉なことに、「死刑になりたい」からという、犯人側の理由で、多人数が被害を蒙ってしまうケースも ある。
「更生」してくれたところで、失われた人が元どおりになるわけでは ないのだ。
ハッキリ言って、
「更生してもらう価値すら ない」
ということさ。究極の突き放しだ。
他者の命なら、いとも やすやすと奪えるのも、激烈な自己愛ゆえ。
そういう者ほど、なんだかんだと言っても結局は、とりあえず、ただ今の自分が死なずに いられることのほうを選ぶだろうから、いちばん大切な自分の命、だからこそ、最も恐ろしい、辛い、自分の命が奪われる恐怖や口惜しさというものを、加害者自身にも味わわせることを もって処罰とする。
だって、
善良だった、たいせつな あのひとは、生活を、人生を、命を奪われたのに、
冷酷にも奪った あいつは、なぜ、きょうも生きてるの?
わたしたちと同じように、食べて、寝て、相変わらず、同じ空気で呼吸している。
あのひとは、いなくなってしまったのに。
あいつに殺されたのに。
あいつは、いままでどおり存在している。
いまから「更生」してくれなくて いい、
あいつの「更生」なんて、知ったこっちゃない。
ただ、あのひとを、元どおりにして。
ここに戻して。返して。
……
「理不尽」な行為に対しては処罰することによって、せめても納得に繋げようとする。おそらく、多くの人は。
人間は、納得いかないものに対して、ひどく傷つく。
およそ宗教の根源も、ここに発する。
深刻な被害や苦難に遭った人は、必ずと言っていいほど、真相や理由(という論理)を探り求めるようになる。
真相や理由のほうを渇望するあまり、加害者を死刑にするよりも、その口が きける状態で いてくれるほうをさえ望むようになることも ある。
死刑という、それで こちらの気が済むわけでも なさそうな、
ただ虚しさだけが残るような処罰よりも。
何年、何十年かかろうが、いつか、真相や理由を話してくれるのでは、という、かすかな希望が続いていく。
また、
自分の大切な者が、掛け替えのない命を奪われたからといって、
その大切な、掛け替えのない者の名に おける「死刑」と言う殺人を犯させたくない、
無垢な存在だった者を汚されてしまうような気が するから。
このように思う遺族も いる。
このたび、極刑が執行されたばかりの『オウム真理教』幹部らの生前の顔写真画像を、あらためて しげしげ見ていると、
まず、先日のエントリーで指摘した「新実の眼つき」の独特さを始め、他の者のなかにも、私から見て明らかに思われたところの、いわゆる「発達障碍」者の特徴が感じられるような眼の表情、あるいは、中川のように、学歴と年齢に そぐわぬほどの、見るからに幼い顔つきと表情が、目に つく。
非常に優秀な頭脳であるほど、どこかしら、ひどくアンバランスな箇所が あるのかもしれないと思う。
だいたい、よりによって科学、それも物理学を修めたという者が、「空中浮遊」だとかと、私ですら、あほらしやと鼻先で嗤いたくなるような、いかにも安っぽい現象に、ころりとまいったのは何故なのか。
あまりに子どもっぽ過ぎるでは ないか。
何を求めて、ああいう胡散臭いところへ、自分から近づいていくのか。
単なる「ヨガ教室」と思っていたところ、やがて、それと異なるほうへ勧誘されたなら、私だったら、ソッコー逃げ出すと思う。
しかし、幹部のなかには、「アサハラ」の著作を手に取って すぐに関心を持ち、自分から入っていってる者も いる。
例の「カルト連」に、ネット サイト上で、連日のように悪罵され続けていた頃、
あの連中も、
「救世主 出現!」の願望あらわに、やれ「マイトレーヤ」が、「奇跡が!」「ミラクルが!」と、他の投稿者たちに向かって、あたかも聖人気取りの説教など かましていて、
「スピリチュアル」ブームなんてものに疎かった私は、
こやつら、よっぽど安っぽい心性なのか感受性というか、バカみたいだ、と、呆れはてる思いだった。
「ミラクル」なんて、目の前に溢れかえっとる。
およそ「物質」ほど、フシギな奇跡は ないものを。
また、
『オウム真理教』信徒のなかには、友人がハマったというのを聞き、救出しに向かったはずが、自分自身が、まさに「ミイラ取りがミイラ」を地で行く立場になってしまった者も いるそうな。
何故だ。
横から、あーだ こーだ、念仏みたいに執拗に唱えられ続けると、つい、グラ~っとホダされヨロめいて、その気になってしまうタチなのか?
ココロの隙間にか。
脳のスキマにか。
優等生が、センセイの言うことを、「乾いた砂が、水をグイグイ吸い込む」ごとく素直に吸収してしまうように。
ここで、興味深い事例を一つ。
これも、例によってwザ・「脳に異常」うちの母親の場合ですw
なかなか良いサンプルでしょ(?)ww
この人は、娘の私にとって、大いに困ったちゃんな存在でもあったが、
世間の他人にとっては、大いに才気走ったタイプで、計算機みたく、数字に つよいのみならず、幼い頃から、教師を はじめ、周囲の大人たちから注目された才能の一つに、音楽や歌唱の才能が際立っていたということが あるのだけれど、
いわゆる絶対音感というものが生来的に備わっているということを、本人自身も自負していた。
ところが、
中年期になって、自分の教室を持つようになり、
生徒たちに、コーラスや個別歌唱指導を行うと、なかには、どうやっても、手の施しようも ないほどの音痴さんが混じっていることも ある。
そこで、集中的に指導しようとするのだが、その音痴な生徒さんを、指導する自分の声に ついて来させて歌わせると、
肝心の指導者である自身のほうが、音程が狂ってる生徒さんの歌声のほうに、容易く引きずられてしまう、と、頻りに ぼやくのだ。
もともと子どもの頃から、耳もとで、ヘタな人に歌われると、たちまち引きずられ、自分の調子が狂うから困るんだ、とも言っていた。
それだけに、
生徒のなかでも、見込みが ある人に対しては満足そうに頷き、自宅に帰ってくると、私に向かって、そのことを話しては、その生徒を褒めそやし、嬉しそうにしていた。
テレビ等で見かける、歌唱力ある歌い手さんはベタ褒め。米良美一氏も、その一人で、「この人、音程の正確さバツグンや!」と。
これも、旧ブログか どこかで書いたこと あったかな、
千葉県育ちの親父が、なかばフザケて、大阪弁を真似して しゃべると、そのたびに、母親は大声で激怒していた、って話。
同様に、テレビ ドラマで、関東育ちの俳優が、慣れない大阪弁のセリフを しゃべると、激怒。
理由は、
「とにかくキショク悪い、音程が おかしいから!」
と。
そのせいで、
朝の連続ドラマなんかで、ヘタクソな大阪弁を しゃべる俳優が、連日のように出てくる設定だと、気も狂わんばかりの ありさまwww
ちなみに、
谷崎潤一郎原作『春琴抄』を、いまでは やや古い映画となったけれども、新藤兼人監督が『賛歌』として撮り下ろした作品、これを、私なんかは、「エロコメ」に分類してるんだけどwそのなかの一場面で、いっちばん爆笑したシーンw
琴を教えている生徒が届けに来た品物に対し、「…才能あるもんなら、こっちからタダで教えてもやろうが、ろくな素質すらない者が、師匠への届け物に『白雪羹(ハクセンコ)』一折り(で済ます)とは何事ぞ!」云々と いう、そうした内容のグチを、お嬢さま然としたヒロインが、マゾの相方「佐助」に向かって、がーがーがーがー言い募るのだが、
この えげつないまでのリアルさ満ちたセリフに、谷崎の『細雪』も好んでいた うちの母親は、
「同感」と笑っていたw
【続く】