2018.07.26 (Thu)
こないだ、「親の責任とは」というテーマの過去エントリーなど幾つかを再アップしたとこだが、
昨夜、世界初の「体外受精児」いわゆる「試験管ベビー」第一号の女性のインタビュー記事に付いた「ヤフゴミん」らのコメントを眺めていて、
親になった連中ってのは、
このことは、私は、何年も前、ネット上で攻撃されたこともあって、知ってはいたけれど、
よっぽど、「エゴ」だろ、と指摘されると、カッカする者が多いのねw
まあ、図星だからよねww
あのね、
なかには、ひらきなおり まる出しのていで、「エゴ」と言いたきゃどうぞ、てなフテクサレ反応してる者も少なくないが、
そう、「エゴ」でアタリマエよ。
何にも代えがたく自分は可愛い、自分の命は大切、それの延長にあるのが、「自分の!自分の!子どもが欲しい」ってことだもの。
自己愛が、本能由来であるのと同じです。
で、本能について、良い悪いを言っても しゃあない。
ただ、「自己愛性人格障害」者みたく、度を越してると、犯罪行為にまで進んでしまう恐れは ある。
「人間社会の維持に貢献しているんだから」
と主張する者に問うけれど、
「人間社会を維持しなければ ならない理由は?」
…客観論理的に答えられるわけないね。
これじゃ、思考停止だあね。
せいぜい、自分が人間の一人だからと、それくらいしか言いようが ないんだもの。
ただ、
人間たる者、人の子の親たる者、犬や猫とは違うと言いたいのなら、もう少し客観的に知的に考えられないと、ちとナサケナイ気もする。
野生動物の親と言うか、その殆どの場合は、雌が、オスなんかアテにしないで、ひとりでカラダ張って、子どもを守りつつ育てるよね。
いちばんダラシないのは、人間の雌!www
オス側が、往々、わりとチャランポランなのは、この点では、動物と人間に共通性が高いかもしれない。ごく一部の種を除いては。
野生の世界じゃ、そもそもから、オスを全く必要としない無性や単為生殖しとる種も少なくないようだからね。
以前にも指摘したとおり、子どもを産み落とすことに、あたりまえの感覚しかない者は、それだけ、思考停止でも生きてこれてた、ということ。
または、
コンプレックスの解消になると思い込んで、子を利用している自覚のない俗物根性ゆえ。
まあ、子ども つくった以上、責任を持って、必死になって育てあげるしかないし、
同時に、
おのれの子や孫の現役時代をも見越して、社会全体の問題改善・向上について、見識を磨きなさいヨw
特に、思考停止の特徴的種族である「ネトウヨ」系が、あつかましくも、親になってる場合ねw
あんたらの子どもも、親の影響で、「特ア」「特ア」などと叫ぶ「ネトウヨ ジュニア」に育ったあげく、
ネットでデマ飛ばしたり、「八つ当たり犯罪」者にならないように気を つけなよ、はた迷惑だからね。
ああ、でも、大衆というのは、見識が高いはずもないかwwまして、「ヤフゴミん」だものwww
それと、
まだ生まれていないどころか、そもそも存在していないものと、
すでに生まれたあとの人間の存在とを、同列に語るのも おかしいのよ。
これに関連してくることを、以下にも述べることになる。
さて、
『相模原』の植松と、『秋葉原』の加藤とは、「本質が違うから」云々、
また、加藤のほうが、一般の人を無差別に襲ったから、もっと怒りを覚える、などと投稿している「ヤフゴミん」に、いよいよもって私は、呆れも通り越し、絶望感すら感じた。
なにが、「植松の場合は信念によって」だ。
バカとしか言いようが ない。
まさに「八つ当たり」殺人事件。
挫折と劣等意識を、ヘリクツによって正当化する植松も、そして加藤も、
それこそ、「本質的に」同様のことを仕出かした、という認識にならなきゃおかしいし、
やっぱり、「重度重複障碍者は、生かしておく必要ないんだから」、という排除の考えが真っ先に来てる。
私は、過去エントリーで、何度か述べてきた。
重度も含めた障碍者を生かすことは、けっして、「非生産的」なことなのでは なく、
むしろ、その存在自体を もって、医療・福祉分野全般への貢献が あるのだと。
だが、これまでに、メディアに登場する「識者」や関係者、当事者ですら、やはり、倫理意識や情緒的なことに立脚しての意見のみで、明確に解説している人を見かけたこともない。
私のような考えかたを している人は皆無なのだろうか。
もちろん、ほぼ寝たきり状態の人や、回復の見込みが ない人を大量に生存させ続けるということについては、現実的に、いろんな面で問題が発生する恐れが ないとは言えないことは、私も思っている、しかし、
即、排除、という社会システムであったとしたら、やはり、わが身に、わが子に、そのような状況が発生したときの想像を、全く しないという人は、何かが欠けているか、幼児的な楽観性だけで とらえているように、私は思う。
「胎児」というものは、「人」の範疇に入れないということになってるらしいから、産前の検査によって、そのまま産むか、中絶するか選択する権利は、確保されて いい。親側の事情も様々だから。
ただ、承知のうえで敢えて産んだ場合のみならず、
よもや まさか、で産まれた障碍児も少なからず ありうるケース。
なので、排除する社会システムにするのならば、胎児段階で完全に排除せざるを得なくなるが、しかし、
産前検査が完璧というわけにも いくまい。
その場合、
ただでさえマイノリティに属するうえにも、排除すべきという方針となった社会システムによって、療育や介護の知見と技術も、蓄積と発展が妨げられて、ますます困難になっている状況のなかに、障碍者本人ともども親だろうが職員という他人だろうが等しく放り出されることになる。
もしも、人生なかばで、そんな事態になった場合、どうなるのか、考えたことは ないのだろうか。
「胎児」と違って、生まれてきた以上は、あくまで「人」として見做されるのであり、そのように扱われる。そうでなければ ならないはずだが、
生まれてきても、「人」として扱うに価しないとするのなら、「人では ないのだから」と無理やり理由付けし、抹殺することを、植松のヘリクツのように、正当化しなければ ならなくなる。
【続く】