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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.07.18 (Wed)

【続】「この対比」。続き。

 

自転車の荷台と、トラックの荷台とは違う。

 

私自身は、親でも職場でも、要求され、「必要とされる」ことの しんどさのほうが、たいがいの場合は上回っていたから、

「おまえには利用価値が ある」

と判定され、

そのかぎりにおいてのみ、存在が許されるという境遇にも、やりきれなく苦々しいものが あると思っていたし、

むしろ、ほうっておいてほしい、と、内心で願うことも多かったけれど、

リーヴ ミー アローン…

「孤独」には、なんとか耐えられたとしても

(だいたい、ほんとうの孤独なんてものは、ないんだとも言えようし、誰しも孤独で もともとじゃないか、とも言えよう)

だが、
「孤立」となってくると、実際問題として、普通の生活そのものが成り立たなくなる危険度が高い。

そして、孤立しているからこそ、孤独が身に沁みてくる、ってワケだ。

 

 

「おまえは要らない」

と、世間の人々全体から宣告されてしまうのが、「死刑」という「刑罰」だ。

それが、

よりによって、自分の存在を肯定してもらいたかったあまりの犯罪に対して下された、

「おまえは要らないから」刑罰。

 

正直なところ、私自身、「死刑」についての考えかたには、いろんな側面から考えても、こうと決めかねる思いが いまだに残るし、

いかに「普遍思想」だからと言えども、
他者の「人権」を甚だしく踏み躙っておいて、些かも省みない者の「人権」とは、

それじゃ まるで、「おまえのものは俺のものだが、俺のものは俺のもの」的な、身勝手きわまる者に合わせた ご都合に陥ってしまうのでは ないかという危惧を払拭しきれないでいる。

 

このあたりは、諸外国の実例を参考に、いっそう、研究を深めていく必要が ある。

 

他人の命を、それが、何の罪もないはずの無垢な乳児であろうとも、

ましてや、自分にとっての不つごうが あると見做した相手なら、やすやすと歯牙に かける。

ところが、

自分自身の命は、やっぱり惜しいのだ。

 

 

いたって「普通の人」であったはずが、国家の命令によって、ひとたび、戦場に送り込まれたなら、国家に奨励されて、殺人が仕事になる。

自分が やられるから、それだけでは なかった。

かつての日本国民も味わったこと。

 

 

何も分からない、知らないまま、抵抗のすべもなく、命を奪われ、無垢なままに、世を去った赤子も いる。

 

欲しいものが与えられなかったとて、「自己愛」の泥水に溺れ汚れて、

ついには、世のなかの人々からも、

「消えろ」

と命じられるようなことを仕出かす者も いる。

 

つくづく、哀れなり。

 

 

以前、ネット上の犯罪で、
「パソコン遠隔操作」事件として、マスコミも盛大に取り上げ続けた果て、ようやっと、犯人が確定、逮捕されたことが あった。この男と、その母親との日常生活を描写した記事等を読んでいて思ったには、

ここの母親も、わが子の犯罪に関し、息子が陥れた被害者たちのことは、あまり、意識のなかに ないような感じで、ひたすら、親の立場としての自分の辛さだけを言い募っているような印象を持った。

 

 

「成人」になったら、親は無関係?

「成人年齢」なるゴールポストなんてものは、動かせることが明らかになっているし、これに明らかな根拠と言えるほどのこともないのだろう。

 

とは言え、
身内の「連帯責任」を問うなどは、こんにちでは時代錯誤、不合理と言うべきこと、

けれども、

「成人」までの期間、生育環境という「個の歴史」が齎す積み重ねの影響は甚大であることに相違なく、そこに生じて降り積もった問題が行き場を見つけられないと、経過しだいによっては、「成人」後になってから激しく噴出する事態も ある。

 

そのとき、「心神喪失」とでも認められないかぎりは、あくまで法的には、犯罪を起こした者の「自己責任」でしか なく、

刑罰を受けるのは、本人自身のほかに ない。

 

親や養育者側の責任を問うて、バッシングするな!という問題に留まるものでないのである。

今後の社会と個人に寄与するべく、
本人と背後の徹底的分析を試み、可能なかぎり予防を図らねば ならない。

 

 

こちらは、先日、あるコラムの筆者さんが紹介していた話で、

何年か前に、『黒子のバスケ』とかいうマンガ作者を恐喝していて逮捕された犯人が、後日、緻密な自己分析や、刑務所内で聞いたことなどを縷々述べていたなかに、

たしか、受刑中の障碍者たちが、「障碍を抱えてること自体、刑罰のようなもの」といった内容のことを言っていたという。

 

言わば、「罪なくして受ける罰」か。

それは、私自身にも、頷ける思いは あるけれど、

ただ、障碍それ自体が齎す不幸だと思ったことは ない。

 

いわゆる中途障碍者の場合は ともかく、

生まれつきとか、私のように、乳幼児期からだと、

その状態がアタリマエになっているので、

よく言われることだが、たしかに「不便」では あるものの、「不幸」というのとは また違う。

 

「不幸」であるとしたら、それはズバリ、周囲の人間関係によって齎されることなのだ。

 

「障碍ではなく、おまえの性格の問題」

と、いまだに頑強に言われ続けていたとしたら、

子どもの頃のように、黙って うなだれさせるだけで済むと思っていたら大間違いだということを、ガツンと思い知らせてやらねばと、激しい怒りと共に考えたかもしれない。

私にとっては、まぎれもなく、社会生活上の死活問題だからね。

 

現実には、

四苦八苦の末、社会に出てからは、親との距離を保つことを優先しようとしたのだけれど、

親のほうが、私を掴んだまま、放そうとしなかった。もちろん、当人たちは相変わらず無自覚のままだったが、

うちの親子関係が、世間一般並みでなく、非常に複雑だったゆえ、

障碍つまり弱点を抱えているからこそ利用できる、便利な存在である娘に依存するほかなかったのだろう。

 

 

中学生になる頃には、私は、自分の子を持つまい、持つべきでないだろう、と内心で薄々思い定めていたけれど、

それは、自分が産み落とされたことを、どうにも納得できなかったからなのだが、

「おかあさんは、あんたを産まないから、安心しなさい」

と、まだ見ぬどころか、影も形も ありは しない(幻想のなかの)わが子に呼びかけていた。

 

「生まれぬが幸せ」。。。

 

思うに、

産むも産み落とされるも、結局は「賭け」であるとしか言いようが ない。

 

「出たとこ勝負」、これが、殆どの人の場合だ。こういう層も必要だもの、ぶ厚く、ぶ厚く。

 

「賭け」のリスクに無頓着なくらいでなくっては、

犬や猫では なく、悩み多き人間ほど、子を持つことに躊躇いを感じてしまうのは、むしろ、自然な思いだろう。

そうでない場合、

先日も少し指摘したように、

「子を持つことが人並み。一人前」といった、従来からの ありふれた価値観に、些かの疑いを持たないでいる人が、無自覚なコンプレックス解消手段として利用しているふしが見受けられる場合も ある。

 

 

【続】「親の責任」は あるのか ないのか

罪深き者。それは「親」

 

【続く】

 

 

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