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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.07.18 (Wed)

「この対比」。続き。

 

さて、この事件。

面会室に両親、数秒でドア閉める…新幹線殺傷7/15() 10:56配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180715-00050030-yom-soci

 

身近で勃発したとは言え、たまたま遭遇したに過ぎないのだから、飽くまで他人の事として、まずは自分の身の安全を優先することも じゅうぶん でき得ただろうし、そのほうが、被害者の御遺族にとって、だんぜん望ましいところであったはずだが、敢えて、真正面から立ち向かっていかれた犠牲者のかた。

可能なかぎり、御自身の安全も重視していただきたかった、とは思う。

 

ただ、こんな世のなかでも、こういう「正義感旺盛」な人が存在してくれていたのだという感慨には、やはり、一抹の「救い」が与えられたかのような感覚を抑えきれなくも ある。しかしながら、

ある面では、犯人と、その親の「救いのなさ」を、もっと深めてしまった、と言えなくもないのかもしれない。

「殺させては ならない」という意味では。

 

私は、この事件において、

それこそ他人事のような無関心さ滲む答えかたを していたというので、ネット上でも評判が良くないらしい犯人の実父が、メディアの取材に応じている場面そのものは見ていないのだが、

考えてみれば、

犯人に正面から立ち向かい、結果として犠牲になられた被害者のかたは、皮肉なことに、この犯人の親の無関心さとは、じつに対照的な姿勢だったわけだ。

 

 

ここで、一つ明らかに指摘しておきたいのは、

いわく「八つ当たり犯罪」の加害者とて、その根っこには、本能的に自分が可愛いゆえの発露が ある。

だが、

ほんとうに、自分が可愛ければ、辛うじてでも、理性は捨て切らない。

 

 

日常レベルでの「八つ当たり」行為なんてものは、老若男女個々の家庭で、職場で、また、殊にインターネット上でも、掃いて捨てるほど多い。

 

こうした行為を行う者は、総じて、子どもっぽい精神性を押し込めつつも、表面だけは拭って生きてきたんだろうと思う。そして、

世のなか、少なからぬ者が、ほんの一歩の差で、やってしまうのだろうし、

その一歩の差が、とてつもなく大きいとも言えよう。

 

「八つ当たり」行為者にとっては、世のなかの全てが、全ての人が、真実「無関係」では ない、と感じられるのだろうし、
実際のところ、それは、あながち、間違っているとも言えない。

 

だが、「無関心」を恨んで、他者を巻き込む者も また、

自分も内包している「無関心」については無自覚であると指摘せざるを得ない。

 

 

言わば「八つ当たり犯罪」と言えば、あの『秋葉原・無差別』のケースも そうだったし、

事件を起こすまでに、どのような理不尽・不条理に晒され続け、本来は自然な「自己愛」をズタズタにされたことかという言い分の土台が あろうとも、

人間社会の法によって刑罰を受けるほどの「八つ当たり」は避けておき、その代わり、
チマチマと陰湿なレベルの上手な「八つ当たり」に留めておく、それが、大多数の人間の「理性」だ。

それが、自分を守っておく最終の「砦」だからだ。

 

 

もともと「自己愛」のために犯した罪、そのせいで処刑される事態まで至ったのだから、どうにも破綻している。

 

 

個人的な話に移るが、

私の人生最初期の3年間は、くっきりと「天国と地獄」さながらだった。

 

1歳半くらいまで、親らの記憶だけがスポッと抜け落ちているみたいに、ほぼ全くない。

 

親の記憶が ない分だけ、生後の1年半ほどは、私の人生のなかで唯一と言って過言でないくらいに、穏やかな気持ちで過ごせた、平和そのものな時代だった。たったの1年半。

 

特異な生まれつきの私は、生後6ヵ月にして、すたすた歩き始めていた。

その前後の記憶も、かすかながら残っている。

 

もともと記憶力は悪くなかった私に、辛うじて残っている親との場面は、

当時の住まいだったアパートの階段、これは、もともとは、屋敷町の個人宅だった木造建築を、各室に区切ってアパートとした所だったので、いまでは珍しいだろうが、屋内に設けられている共用廊下、階段も、磨き込まれた木製で、外から戻ったら、共用玄関にて、靴からスリッパに履き替えて歩くルールだった。

そこで転び、痛くて、思わず大声で泣こうとしたのだが、

そうすると、私ら親子の自室から母親が飛び出してきて、こっぴどく怒られるかもと、幼児なりの考えを めぐらし、

たまたま、誰も いなかったのをキョロキョロと見定め、いまさら泣き出すのは やめておくことにして、そのまま外へ遊びに出て行ったこととか、

夜遅く、母親に、なぜか、いきなり、箒で追い回されて逃げ惑った場面とか。

それでも、父親が いない生活は、平和そのものだった。

 

いっぽう、ご近所の人々の記憶は鮮明だ。

あらゆる人々から、とても可愛がってもらっていたのを憶えている。

その状態からイッキに、

おさな心にも、

「地獄が始まった」

という感じで、幕が開いたのは、

それまで分かれて暮らしていた父親と、その先妻の子ら(義姉や義兄)との同居。

 

 

おとなになって、振り返るたびに思い当たる。

私の辛うじて理性を失わずに支えてこれたのは、

ご近所の人々の優しさ、温かさを、人生の最初に記憶していた おかげだった、ということを。

だから、いつの日か、
いまは もう、あの人々の誰ひとり残っていないけれど、
生まれて最初の1年半を過ごした街に、帰ろうと思っている。死ぬ前に。

 

もし、自分の親らの記憶しか残っていなかったなら、私も、そうとう危うい人間だったかもと思う。

 

親を「誅」したところで、その結果、自分だけが、しかも、ますます大損するハメになるのを受け入れることは、さすがに できなかった。
あまりにも、バカバカしかった。

 

それを鑑みれば、

「八つ当たり」という下劣きわまる犯罪行為でもって、可愛いはずの われとわが身をも破壊し尽くしてしまうであろうことを辞さず、ついに爆発させてしまう、この殺伐に至る絶望。
でも、ほんとうの絶望では ない、まだ。

 

そこに なお残るのは、

満たしきれなかった「甘え」だ。

 

自分に関心を向けさせる目的で、わざと困らせる。

これは、一般に、幼い子どもなどが、親や養育者に対して、関心を向けさせようとして、よく やることでも あろう。

 

うちの親らの話では、私は、そういう傾向に乏しく、私自身の自己分析では、おそらく、「仮死状態」という酷い難産のために、疲れ果てて生まれたせいか、ほとんど、おとなしく眠りこけている子どもだったそうで、あまり、手は かからなかったようだ。

これは これで、問題が ないというわけでも ないのだろう。

 

 

ほんとうに苦しく辛いとき、それを どうすることも できそうにないと感じるとき、

では、自分の命を抹殺してしまおう、と決めてしまう人も いるけれど、

やはり、実行するとなると、ためらうのが殆どの人だろう。

 

たとえ、自分自身を抹殺することを躊躇わない人でも、

そこで、どういう方法を とるか、

一人きりで、ひそかに、誰にも知られぬよう、極力、他へ迷惑が及ばないような方法を望み、そのように実行する人も いるだろうが、

時に、「八つ当たり」「道連れ」犯罪を起こして、「死なば諸共」という方向へ突き進む者も いるわけだ。

 

どちらのほうが、自然な本能の持ち主なのかと問わば、

可愛い自分一人が消えるなんて、どうにもガマンならねえ、とて、
「八つ当たり・道連れ・もろとも」犯罪を犯す者のほうが、むしろ本来的なのであって、

ましてや、

理不尽な境遇のなかにありながら、恨みを晴らす行為は せず、一人ひっそりと消えることを、みずからに命じる人のほうが、考えようによっては、よっぽど冷たい性質である、と言えるかもしれないのだ。

「迷惑を かけては いけない」と固く信じる人の心理の裏に、「迷惑かけられるのは厭」という本音が潜んでいるかもしれないように。

 

 

道端のノラ猫ですら、自分を排斥しそうな人間に警戒して身構えるときと、普段から可愛がってくれる人間が相手のときとでは、じっと見つめてくる眼の表情からして全然、異なる。

 

この世に生まれてきた以上、犬や猫だって、自分が生きて存在することを、誰か、たった ひとりにでも、肯定してもらいたいものなのである。

 

ましてや、人間。その自分を産み落とした親だ。

「ないモノねだり」それが、親からの温もり、愛情のことだったら。

 

「おまえは、要らない」

と、背を向けられたら。。。

 

【続く】

 

 

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