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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.07.26 (Thu)

「本質」の見分けが できない「ヤフゴミん」。の続き。

 

障碍者で、しかも重度だから、これは排除一択とするのなら、

まさに、障碍とは、

「罪なくして受ける刑罰」

の対象者に他ならなくなってしまう。

 

「刑」「罰」とは何か。

(再掲)“Leave Me Alone”

 

いわゆる「健常者」と見做される人に対して、

「罪なくして罰」

を与えるなどという理不尽が許されるはずもないのだが、

これが重度障碍者に対してなら、許されるというのか。

ましてや、自己の意志表示すら不可能な人に対して。

 

それと、
こうした主張にも、その愚かさに、へどが出るほどの思いなのだが、

「ホッとした親も いるはずだから」などとヌカす輩。

 

どこの世界に、わが子がメッタ刺しされて、ホッとできる親が いるというのか。

 

こういうことを平気で言うバカが、たとえば、「親の無償の愛」だの「家族の絆」だの、

さしづめ災害被災者などに対して、「日本人どうしの絆」でガンバロウ!なんてな、歯の浮くようなことを言っているひにゃ、笑止千万も通り越し、鼻白むばかり。

ああ、この軽薄ときたら、まさに罪悪に等しい。

 

 

また、親が、各家庭において、障碍児の世話を するべき、という主張も、浅はかなんてものじゃない。

こういうことは、高齢の親の介護問題と共通性が あって、私自身も直面した経験が あるが、

さすがに、下劣な「ヤフコメ」内でもチラホラと、諌めの指摘する投稿者も言うように、個々の家庭で24時間介護などは、およそ現実的ではないし、単に「共倒れ」を招くのみだ。

 

だから、こういう分野においても、業種として従事する人が、妥当な報酬を得る大前提で、分担する。このほうが、だんぜん効率的であるし、
客観的な視野と広い蓄積を得て、研究と改善に寄与する。

 

問題は、日本だから往々ありがちなことなのか、私には分かりかねるが、

いわゆる「3K」と呼ばれるような、負担の重い業務に就いている人たちへの待遇が、じゅうぶんではないことと、人員補充のこと、かつ、医師等と違って、専門的知見と資質を備えていない者が、安易に就業できるというか雇用するしかないような現状、つまりは、行政面の不備と遅れである。

 

報酬や待遇に原因、というのは、少なくとも植松の場合には、あたらないだろう。

彼と同じ職場で共に勤務していた職員たちも いるのだから。

 

 

私は、植松が主張したヘリクツについての記事は、正直、あの顔を見るだけで、胸くそ悪くなるのを抑えきれないので、この頃は、あえて読まないようにしている。

おおよそにせよ、その主張も、事の経緯も分かっているのだし、私なりの分析も、ほぼ済んでいるので。その分析によって、

植松も加藤も、「本質は」同じなのだ、

と断言する。

 

 

ところで、

私は、個人的に、ある公的施設において、
おそらく「自閉症」等、いわゆる発達障碍児、および、知的障碍児たちの親子サークル活動を垣間見る機会が あったので、そのなかの参加児童の幾人かとは、じかに接触することも あった。

そのときの出来事を、何年も前に、ネット上で書き込んだことも あるし、いまでも、時に思い起こすことが ある。

それは、特に印象的な男児が いたからなのだが、

年齢は、たぶん、小学2、3年生くらいだったろう。その男児に関して言うならば、ことばを発することは できないながら、微笑んだり泣いたりして豊かに表現する あかんぼう、あるいは(これは語弊のある言いかたかもしれないが)、人間に慣れている犬や猫と、人とのあいだのコミュニケーションに近いものすら感じさせるほどなので、

だから、むろんのこと、年齢相応に、まともにコトバを発することも できない、知的な面での問題を抱えているには違いなかったのだろうが、

断言する。

あの男児は、単なる知的な遅れとか停滞というコトバで かたづけられるものでは なかった。

 

むしろ、尋常ならず鋭敏で、些かの濁りなき その眼を通して、通常児には見えないものを見通す子であった。

感情は じつに豊か、その表現は、ダイレクトに、人の心に訴えかけてくる力が あった。

 

はっきり言って、この子は、ある意味では、並はずれて聡明な子である、とさえ思えた。

 

ひとくちに「発達障碍」だ何だと言えども、やはり、他の事と同様、その子、その人によって、表出してくるものや度合は様々なのだということを、あらためて実感させられたものだ。

 

もちろん、
何を考えているやら、当人の関心を ひいたらしい対象にのみ、ひたすら没頭し、周囲の呼び掛けには全く反応しないという極端な状態で、ひどく手こずらされた子どもも いたけれど。

こういう お子さんだと、親ですら、持て余すだろうなと思ったりしたが、

やはり、これは これで、この子 本人なりの、ことばには できないけれども、理由に近いものは、内に あるのだろうと思われた。

 

 

さて、

教職を落っこちた過去を持つらしい、入れ墨、整形やりまくり()植松の吐露するところ、

「『心失者』が、糞便を撒き散らし」云々ということだそうだが、

だから、意思疎通が できない、と決めつける前に、

なぜ、そういう行為を するのか、ということを少々考えてみよう。

 

幼い子どもは、体温調節しかり、排泄機能しかり、まだ未熟であるうえ
(いつぞやのエントリーで挙げた、例の『森友学園』籠池夫妻の教育方針とやらに、私が怒りを覚えた理由の一つだ。こんなものに賛同していた安倍夫婦、『日本会議』w)

排泄に関するルールも、順を追い、時間を かけて、理解させていくわけだが、そもそも、このように普通の場合ならば、日毎、理解能力が成長し、向上が望めることの前提が、ある地点までで、知的能力が止まったままの重度障碍者ならば、そのように いくはずもない。

 

なお、

子どもは、自分に対する関心を得たいがために、親や養育者を困らせることをワザとすることが ある、ということを、新幹線にて殺傷事件を起こした者についての先日のエントリーで触れておいたけれど、

私は、専門的な知識を持ち合わせないので、自分なりに推察して述べるのみだが、

たとえ、からだは、いちおう普通であっても、知的な滞りが重いということは、必然的に、表現方法全般も幼く、拙くなるだろうし、
もしかしたら、その重度障碍者なりに、そういう表現でもって訴えたいことが あったのかもしれないでは ないか。

【続く】

 

 

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