2018.08.30 (Thu)
『「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の容疑者が再犯 少年法見直しの議論は海外にも』8/27(月) 18:31配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180827-00010007-newsweek-int
この記事にも、またぞろ口を突っ込みに来てる『無人島』なんちゃらいうハンネの、こやつの正体を知ってる私にしてみれば、そのパクりの みなもとが、そもそも、どこにあったかということと共に
(『汚気・愚』「カルト連」はパクるしか能が ないw)、
鼻白むなんてもんじゃーないのだがw
まあ、こんな愚物のことは どーでもいい。
まともに相手にする価値もない。
さて、この事件に限らないことだが、
「ネトウヨ」と呼ばわれるほどの低知性連中が、いともカンタンに言ってのける
「死刑!死刑!!」「厳罰化!!」
と喚く程度は まだしも、
「殺処分!!」
という、
何の見るべきところも皆無な言いようの何処に、こうした凶悪犯罪から、われわれの社会と個々の生活を守るべく提案が あるというのだろうか。
言っておくが、私個人としても、こうした凶悪事件の犯人を、ただ許す気には なれないのだし、ものすごい違和感のほうが先に立って、同情する気にも なれないし、
甘いキレイごとや思想ごときで解決できるはずもない、という考えだ。
それと、
「感情ではダメ」という、
いかにも「ネトウヨ」的な軽薄コメントに対する批判側にも、ちとクギ刺しておく。
そもそも、法と言えども、その根底にあるのは、「感情」です。
われわれの社会と個々の生活の維持・安寧を求めるのは、共有的感情から発していることに違いない。
およそ、「論理」というものの みなもとは、感情に発す。
それでも、
やみくもに「死刑」だ「殺処分」だと喚きまくる連中が、判で押した如く添える、
「人権思想のせいで」
あるかのような言いぐさには到底、くみするわけにいかない。
なぜなら、われわれの社会と個々の生活を守るため(それこそ、「人権」ゆえ)の示唆や予防的教訓を、なんとしても、そこから得なければ ならぬと考えるからだ。
そうすることで、犠牲者に対する、本質的かつ最大の「償い」と しなければ ならないし、
そのことは、ある意味で最も哀れな存在である加害者にとってさえも、「救い」となることだ。
ところで、
「脳に異常」者らが、あちこち存在した うちの身内であるがw
そのなかの代表格たるw親なんかが指摘していたには、
「生まれつきの性悪」という者は いるんだぞ!
ということ。
このことに関して、過去エントリーで、私の母親から聞いた話を紹介したことが あったかと思う。
かつて実際に起きたという、ある子どもが起こした、ささやかにして凶悪な出来事だ。
「生まれつきの性悪」
あるいは、
「生まれつき偏って凶暴な性質」。。。
言わば、これも、脳の先天的異常という範疇に入るものなのだろう。
しかし、それも また、「自己愛」「自己保存」といった「本能」的由来を持つに違いない。
「発達障碍」とか「アスペルガー」などについても言われるように、全て「割合」というものが あるのであって、度合が極端か否か、社会生活上、うまく隠せているか否か、という程度の違いでしかないのかもしれない。
いずれにせよ、
程度が甚だしければ、必ずや、周囲の誰かにシワ寄せが いくだろうし、
そのシワ寄せされた者が弱い立場だったら、人知れず、無念の涙を呑むハメに追いやられる。
シワ寄せされた者が少数で おさまらず、弱いだけの立場でも なかったら、それは、遠からず、社会全体の問題として取りあげられるに至る。
異常なほどの自己中心性というものは、とことんまでの自己優先性向が あるわけだから、
自分の欲求のままに やった行為が、人間社会においては「犯罪」や「罪悪」に該当するからとて、これに当てられた刑罰等が、自己反省へと導くものであるかどうかは、はなはだ危うい。
それどころか、
常軌を逸したほどの「自己愛」にとっては、「刑罰」という名の理不尽な「虐待」や「苛め」であるとしか感じられないかもしれない。
となると、
「刑罰」が、ますます凶悪化させる、のか。
かつて、『女子高生殺害・コンクリート詰め遺体遺棄』事件を起こし、このたび また、凶悪事件を起こすに至ったという加害者の一人も、あの最初の事件以降ずっと、すさんだ精神のまま生きてきたのだろうか。
本人の無反省か。
周囲や社会の問題なのか。
昔から、「少年院」やなんかに入ったら、出所する頃には、なぜか、もっと悪くなって出てくる、と聞いているけれど。
とは言っても、
犯罪や罪悪を、何ら咎めなく放っておいて通るわけが ない。
もともと極度に自己中心な者が、野放しにされて、自発的に反省や抑制するはずもない。
こうした異常なまでの自己中心的性分を持つ者に対して、「刑罰」を与えるとは、はたして可能なことなのだろうか。
しょせん可能でないからこその「殺処分」なのだよ!という向きにも、よく考えてもらいたいのが、
真っ先に考慮しなければならないことは、
われわれの社会と個々の生活を予防的に守っていかなければ ならないのだということ。
そのためには、どうするべきか、ということ。
「殺処分」しても しても、イタチごっこのようなもの、あとからあとから起きてくることを防がなければならないでは ないか。
これ!と名案のようなものは、私にも ないけど。
ただ、「死刑」だの「殺処分」だのの前に、是非とも やっておくべきことが あると思う。それは、科学的「分析」だ。
これの真偽は諸説あるようだが、例の『スタンフォード監獄実験』や『ミルグラム実験』を連想させられるところが あり、恐らく、くだんの事件についても、複数人での虐待行為が あったところを みるに、「集団心理」といったものが絡んでいるだろうし、こうなると、個人の異常性だけに とどまらない面も出てくるわけだ。
誰しもが、一歩間違うと、加担しかねない、特に、男性性が影響している側面は大きいと思われる。
「ヤフコメ」のなかには、性的なものとの関連性を指摘している投稿も、一つだけ あったが、それは勿論のことで、
加害者が女性の場合で あっても、いわゆる「男性脳」的とでも言うのだろうか、そういう傾向の脳だと、佐世保での『同級生殺害・遺体損壊』事件のようなことを引き起こすのでは ないだろうか。あの事件当時も、私は、どうも、性的な動機が根底に窺えるように思うと指摘しておいた。
そして、異様に「子どもっぽい」ものだ。
知的障碍を持つ子どもが、肉体的には一人前の年頃に さしかかり、性的衝動をコントロールできなくて、親や周囲が扱いに困惑するということと、どこか共通した感じもする。
なにしろ男性というのは総じて子どもっぽい、
というのが、昔からの定評。
おぞましいの一言だが、たとえば、女性器に、いろいろと「異物を挿入」し、被害者の反応を試すなどは、いかにも子どもっぽい「実験」に見えなくもない。
そして、人や生きている存在を、あたかも単なる物のように扱う、こうした傾向、
動くものに、思わず、目を奪われて興味を持ったり、視覚から受ける刺激に敏感というのは、どちらかと言えば、男性に多い特徴だろう。
(続く)