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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.08.30 (Thu)

『女子高生殺害・コンクリート詰め遺体遺棄』事件を めぐる考察

の続き。

 

さて、最も後味悪く感じるのは、

直接には手を下さないで済むことで、まるで他人事のように思っているのであろう大多数の国民だが、実は、われわれ老若男女全員が、ひとえに「国民」であるがゆえ、「死刑という殺人」に加わっているに ほかならないこと。

 

かと言って、あまりにも凶悪な犯罪人を、この社会を支える国民の名において処罰せずには おけないほどの怒りの やり場もない、この深いジレンマ。

 

だから、凶悪犯罪者の罪悪は、直接の罪状のみで済まず、有形無形にわたり、幾重にも罪深いものなのである。

 

 

私は、「抑止力」ということについては論外のこととしている。

刑が あろうと なかろうと、犯罪は起きるのだから。

 

 

「死刑という殺人」に加担するのを忌避したいために、いっそのこと「死刑廃止」という方向を とるのが正しいことなのか否かは、よくよく考えるべきところだと思う。

 

私個人は、「無期懲役」という刑罰を実施し通せるのであれば、そうすることによって、「死刑」と言えども「殺人」であるとして、これを徹底回避するのもアリだろうと思っているし、「厳罰化」や「死刑」賛成というわけでは勿論ないのだけれど、

とは言え、

思い切って廃止と決めてしまうには、まだまだ複雑な思いが残るし、行政の実務的な面でも、そうそう簡単な話では あり得ないのだから、まずは、廃止を実施している各国の今後を見守るというスタンスだ。いまは、そういう過渡期だと思う。

 

 

「少年法」の問題にしても、昔の「元服」じゃないが、

たしかに、まだ未熟で不安定な年頃では あろうけれど、

身体面の飛躍的向上を得、高度な教育と情報の豊かさのなかで育つ、いまどきのハイティーンを、必ずしも「子ども」とは思えない。

 

私個人の場合は、たしかに、周辺の同年齢と比べたら早熟だったのかもしれないが、小学生のうちから、成人女性と間違われる体格だったし、中学生ともなれば、親たちと奪い合って新聞を丹念に読みこなし、おとなと互角に、思想や政治論を戦わせることも できた。

 

自己中心の醜さに敏感なくらい潔癖なのは、むしろ、若い年齢のうちだ。

 

 

被害者の味わわされた苦痛を償うことは不可能だし、

損なわれてしまった命は、どうやっても、帰ってきや しない。

一言で言って、

回復不可能性」。

取り返しが つかない。これは厳然たる現実なのだ。

 

だが、自分の命の存続が一番大切な者にとっては、とりあえず、「死刑」を免れたことで、ホッとするのが実際のところだろう。

 

どう転んでみても、結局は無反省な凶悪犯罪人をホッとさせてやる必要など あるのか?

 

あらためて言うのだが、

他者の命を、自分可愛さから容易く奪える者にとって最大の恐怖は、

自分の命を奪われることなのだろう。

 

そして、とことん自分中心の性質は、何だかんだと言いつつも心底では飽くまで自分の味方だし、歯牙に掛けた被害者を逆恨みしてでも、自分の肩を持つ。

それが、変形・肥大した自己愛の姿だ。

これを矯正することは可能なのだろうか。

 

真摯な反省に至った以上は、もはや、死刑に処する必要は消えるだろうか。

 

 

いやいや。

そもそも、われわれの誰しもが自分を徹底的に責めきれるものだろうか

 

 

なお、

「家庭が複雑」だの「養育環境の不遇」云々、自身がイジメに遭っていたとか、そんなことは、凶悪犯罪を起こす原因では ない。私に言わせりゃ、ちゃんちゃらオカシい。甘ったれんな!の一言だ。

本当の原因は、そういったことを理由にして、凶悪犯罪を実行してしまう、本人の資質にある。

なのだが、

「資質」というものに、では、どこまで自己責任を問えるかというと、やはり、意外に難しい。

 

だから、分析・分析・分析!なのだ。

そして、

結局のところ、矯正もしくは治療可能なのかどうか。

 

むろんのこと、

表面的演技でもって、「矯正可能」と見做されるのは容認できない。

 

 

矯正も治療も不可能ということであれば、それは、すなわち、

更生の余地なし

ということになってしまう。

 

 

ともあれ、

たとえ「死刑」に処されるとしても、基本的には、本人反省のうえで受容するべきこと。これも、大いにジレンマだ。

 

「刑」「罰」とは何か。

 

 

ところで、

いま、カトリックの坊さんたちの、以前から知られた性的スキャンダルが、またぞろ持ちあがってるらしい。。。

このことも、すでに言ってきたように、もともと悩みが深い、言い換えれば、煩悩が激しいからこそ、何らかの宗教に のめり込むのだろうし、

宗教的戒律でも何でも いいと、キツイ「掟」や「縛り」を求める者というのは、その縛りに依存せざるを得ないほどに、自身の内なる「グラグラ」が危なっかしいからなんだろうかと思うのだけれど、

人ならでは想像してやまない「神」なる概念も、この厳しくも残酷な自然界の「不条理」や「理不尽」を、なんとか納得するための「論理」の一種だもの。

 

のんびりアッサリ、恬淡としてる人には、必要ないことだ。

「敬虔」さというものを失っていなければ、それで じゅうぶんです。

殊更キツイ「縛り」なんか なくても、べつに悪いことも しない。

 

どんなに信心熱心でも、敬虔さを失っている信徒や聖職者に何の意味が あろうか。

有害なだけ。

 

まあ、煩悩が激しいということは、それだけ、生命欲が盛んで、エネルギッシュだということかもしれないし。

エネルギッシュなやつは、ひとたび間違った方向へ転ぶと、タチが悪いこと このうえもない。

そんな、言わば「スサノオ」タイプは、ただ単に、とにかく、世のなかを引っ掻き回すために存在してるのかも()

 

そう言えば、

野心マンマンだった戦争中は、日本国を挙げて、諸外国までを巻き込んで、「国家神道」ってやつを強力に推し進めていたわけで。

いまでは、ほぼ「無宗教」に近いとさえ言われる一般的日本人は、ずいぶんと、おとなしくなったからね()

 

 

ついでに言い添えるが、

「因果応報」だとか、

「何か酷いことを したら、自分に返ってくるぞ」という、

いったい誰に対しての脅しつけなのか、「ヤフコメ」のなかで頻りに言い募る者を見かけるたび、

「それは願望だろ!」

と、私は苦笑するのだが、

あのテの考えかたというのは、

「ひどいこと」を したら、いつかは自分に返ってくる、だからこそ、

いま現在、「ひどいめ」に遭っている者は、かつての本人が、そういう類の酷いことを してきた報いを、今まさに受けている、ということになってしまう、

この論理破綻に気づかないのかと、はなはだ呆れるのである。

 

差別思考の温床でも あるし、いいオトナになっても、こんな稚拙なリクツを言って満足できるのか、さてもオメデタイ思考力だと思う。

 

 

それと、

最近は、いよいよ、主要新聞を始めとした大手マスコミ連中、

死んでるなあー。。。って感じ。

 

つまらん政治と政治屋、つまらんニュース、つまらん国。。。

 

 

それにしても、凶悪、凄惨を極めた事件について論じるのは、ひときわ、気が重いものだな。

 

個人的に、ここ しばらく、急激に体調を崩してしまい、少々喀血までも あったので、当分のあいだ、ブログ更新する気力も ない、、、と思っていたものの、

ますますもって、アタマが よく働かない状態ながらも、上掲の事件について、できるだけ簡潔に述べておこうと思った しだい、だったのだが。。。

けっこう疲れちゃった。

 

 

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