忍者ブログ
とりあえず、ひかりのくに
     
<< | 2025年07月 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 | >>
[1222]  [1221]  [1220]  [1219]  [1218]  [1217]  [1216]  [1215]  [1214]  [1213]  [1212
Updated   
2018.09.26 (Wed)

ジミンのソーサイ選で内輪モメだとさ。

なーにが「カツカレーの食い逃げ」だ。くだらんemoji

 

「ヤフゴミん」にも言っとくが、

一般人たちが、「アベやめろ」と叫ぶのを、
「こういう演説妨害は、けしからん」等々と、さも、ものの分かったふうな口を利くんじゃないよ。

 

ほんとうに怪しからんのは、
国家権力の座にあるアベシの、「こんな人たち」演説のほうだ。これこそ、断じて容認できない問題なんだということを理解せぇよ。

 

まあ、とは言っても、私だったら、いちおう演説中は言わせるだけ言わせておいて、アベシしゃべり終えた直後から、容赦なく「アベやめろぉ!」「アベやめろ~!!」の一斉合唱の大嵐にしちゃるけどなw
こそこそ逃げ出すアベシの背中を見るまで。

 

次。

新潮ナンタラの、水田だか過ぎただかスイミャクだかが、一般個人なら まだしも、仮にも与党議員として、権力側の立場にありながら、自民党・安倍政権を代表したつもりでか、差別まる出しの寄稿(それにしても、アベシが勧誘した連中ときたら、どうして、こんなにも、問題を起こしまくる者だらけなのか)

続いて、これまた『日本会議メンバーまたは関係者勢揃いで大々的に擁護した企画、その あげくの休刊騒ぎ。

 

今回、自業自得の『新潮』も、昨今は、ご多分に漏れずというのか、ここも部数低迷だそうが、他にも、いろいろと事情が ありそうでは あるんだけれど、あるいは、
まさに、貧すりゃ鈍すとばかり、これまた『日本会議』シンパ、ネトウヨの向こうウケ狙いで、「ビジネス ウヨク」参入による儲けを目論んだものだろうか。
近頃は、こうした「右翼ビジネス」的な傾向のパターンが、各界、あっち こっちで見受けられるようになった。

 

やれやれ、どこまで堕ちていくんだ、この社会は、、、と呆れ果てる思いでいたら、さすがに、世間から糾弾されて休刊を余儀なくされたっつう、それだけでも、ちっとはマシなのか。

 

私はね、一般の個人であってさえも、こんにちの「ネット」という巨大な、独特な場において、昔から存在する「ある種のタイプ」が、いっそう容易く毒されてしまう現象について、心配している。

いまや、その代表的存在が、いわゆるネトウヨ。

 

 

それにしても、

水田じゃなくて、過ぎた、じゃなくて、杉田さん?とやら。この人の御面相を見るたびに、例の、

「このハゲーーー!!!」

とキーキー怒鳴ってた女性議員の、いかにも性格キツそーな容貌を一緒に思い出してしまう(苦笑)

 

 

ついでに。

私個人的には、もしも、子どもが、同性のパートナーを紹介してきたとしたら、だいたいは予感しているもんじゃないかなとも思うんだけれど、
まったく予想してなくて驚いたとしても、まずは、ああ、「この人となら」と思える伴侶を見つけたのかあ、という思いのほうが大きいと思う。

 

うちの親も、薄々察していたようなのだが、同性が恋愛なり人生の伴侶相手であることについて、抵抗感が ないのは、私個人が、自分自身にとって、けっして他人事でないという実際もあるからだろうが、

もちろん、人それぞれの人生だけど、親の素朴な立場としては、自分の子が、一人きりの生活で終生を過ごしていくというのは、多かれ少なかれ、気にかかるもんじゃないかなと思うので。

 

まあ、なんとしても自分の血を受け継いだ子孫の顔が見たい、ということに拘ってしまう人なら、そこのところで、最大級のショックなのかもしらんが。

 

 

むかしの実家の庭に居ついてた猫どもだって、どうやら「バイ」らしき兄猫が、まだ子どもの弟猫に、何やら挿入しようとしてヤッキになってたよ()

人間で言えば、だいたい、12歳前後の弟猫は、アニキの行為の意味を理解していたのかwそれとも、ひたすら怯えていたのか、私には、本当のところが分からなかったが、弟猫は、ただ押し黙ってジッとしていた。

とりあえず、私は、

「ごるぁ!!アニキが弟にサカッて どーするんぢゃ!」

と、必死になってる兄猫の背中を(軽く)叩き、怒鳴りつけておいた(苦笑)

ご近所に聞こえてたかなあ?w若い娘さんだった私の、いささか下品な怒鳴り声がww

 

ま、だいぶ以前にも言ったように、

そのような人々も、一定の割合で、いつの世にも存在するらしいし、それは、自然界の摂理のうちだし、そういうものなのだろうと、『千夜一夜』といった、たいへん古い文学にても大らかに説かれている。

 

 

この自然界が許していることであれば、何であれ、存在できる。

 

なんといっても自然界が許すのだから、それを、「悪」と呼ぶべきでないという意見も あろう。

 

 

大きな災害が起きるたびに思うわ。

人類や、われわれの社会を守り、存続させなければならないと、いつ、自然界が、そのように認め、確約してくれたことが あったか。一度だって あるまい。

 

人類が営々と闘い続けてきたのは、ひとえに、われわれの社会と、それを構築する個々人の生活の安寧のためだ。

 

 

まあ、いっぺん、想像してみ。

たとえば、自分の幼い子どもが、とある者(親でもいいよw)から、

「憎たらしいツラしやがって、可愛げのないガキやのう。どうにもムカつくから、イジメ殺したろう」

と、襲いかかってくるのを、いわく「言論の自由」「表現の自由」として認めるべきだと、ヘリクツこいて、受け入れられますかね?

 

襲いかかってきた時点で、即、そのために相手側が死ぬことになっても、猛然と阻止する、あるいは、とことん逃げるなりするでしょうよ、誰しも。

 

ところで、

甚だ遅まきながら、こんな日本でも、公に、「ヘイト」発言・表現は、これを「言論・表現の自由」の範疇とは認められないとされた。

 

単なる好悪、感情論は、言論の範疇には入れられない。

だが、

先日のエントリーで指摘したように、あらゆる法ですらも、根底にあるのは、素朴な感情なのだ。

 

また、「悪」というものは(そして「善」というものも)、そうとうの時間を経てからでないと、明らかにならないことも ままある。

だから、

そのときには「正しい」はずだ、とされたことが、あとになって、全面的に引っ繰り返ることも起きる。

 

 

しかし、再び言う。

人類が営々と闘い続けてきたのは、ひとえに、われわれの社会の存続と、かつ、それを構築する個々人の生活の安寧のためだ。

 

 

私自身は、ぶっちゃけ、子どもを産むことに対して、「おめでたい」などとは思えない、という考えだし、

そこまで拘っても しょうがないだろうにと思える、「互いの、もしくは自分の血を受け継いだ子」ウンヌンは さて置き、

同性しか相手にできないタイプでも、異性しか相手にできないというのも、結局は同じことだ。

だって、

とにかく女、とにかく男、
異性でさえあるなら、同性でさえあるならイイのか?

と問われたら、そうでは ないだろう、ほとんど誰しもが。

どのケースでも、それぞれの持つ好みや、互いの相性というものが あるわな。

 

 

ああ、今、思い出した。何年か前に見かけたブログ主の男性。

ゲイであることを公言してたが、同時に、がっちがちの「ウヨ」だったw

世界各国を旅行して、現地で、気に入った同性をナンパするのが、人生の楽しみらしい()

 

 

ことわっておくのだが、私個人は、

小児を、性的な対象として見るのみならず、
ことを実行に及んでしまう手合いは、ハッキリ言って、軽蔑する気持ちを おさえられない。と言うか、軽蔑する。

たしかに、小児ならではの愛らしい、特有の魅力というものが あることは、私にも理解できないでは ないけれど。

 

べつに器量良しな少女でもなかったはずの私自身、なぜか、異性からも同性からも、そういう対象にされていた子どもの頃の記憶が ある。

彼ら彼女らの概ねは、「ある種の傾向性」が ある者たちだったと思う。

 

同性である女の場合は、20歳代前半のうちに結婚して、順調に、子どもの二人も産んだのち、「自己愛性人格障害」の診断を下されるに至ったが、若い頃から、女としては少ないタイプじゃないかと思えるほど、性的妄想や欲求が激しかった。私は子ども心に、その異様さを感じていたくらいだ。

 

男の場合は、とにかくスケベイw
まあ、上述した女の場合も、異様なスケベイだったから、どっちもどっちとしてww

男のほうが、どういうものか、みょうに「ロマンチック」ムードを醸し出そうとしてたwいっしょうけんめいにwww

それは、
私が、同年齢の子らと比較したら、ずば抜けて大人びていた(ように見えた)らしいからなのかもしれないけれど、

しょせん、現実には、まだ幼い子どもなのだ。

「このオニイチャン、子ども相手に、なに考えてるんや??」

というふうな、不審に思う気持ちは あったよ。当時、ほんの幼児でも。

というわけで、

おのおのがた。

ズバリと言われなくても、

「ヘンなオニイチャン・おっちゃんだなー、キモチ悪いな」

と、幼い子どもの内心で、ひそかに不審がられ、嫌悪され、軽蔑されているかもしれないことは、わきまえておくことだ。

 

【続く】

 

 

PR