2018.08.19 (Sun)
「しかも僕らは いったい どうなることであろう」
~レマルク『西部戦線異状なし』より~
……
『【続・続】世界じゅうの「パウル」たち』の続き。
最近、瀧本さんと おっしゃる、『トラック島』から、これも命からがらに帰国された体験者の談話も拝読した。
結局、『(万朶)特攻隊』の生き残りの一人だった、故 佐々木氏と同じことを憤っておられた。
ただ、体当たり、
ただ餓死、ただ野たれ死に、
いったい何のために、兵士になったのか?と。
そして、瀧本氏は、
「えらい人は、責任とりません!!」
と叫ばれる。
真実の叫び。
まさに、真理。
あの時代も、現代も、変わってや しないんだ。
ちなみに、
うちの親父が、なぜ、志願して入隊したか、その動機は?ってえと。
出世したかったから。
進学が困難な貧乏家庭の倅でも、勉強させてもらえて収入も期待でき、手っ取り早く確実に出世できるのは、軍人だった、そういう時代。
親父個人にとって、
あかんぼうの頃に離された実母も、養母である伯母が亡くなってしまったあとの養家先の義父に対しても、何らの情愛は なく、
しかも、まだ若いから独身。
ただ、やっぱり、「臣民」と呼ばれる時代の、ましてや、近衛に所属してるんだから、天皇に対してだけは忠誠を向けるべき対象だったろうけど。
「お国のため」とか「家族を守るため」とか、そんなのカンケーねえ!
こういう本音、けっこう多かったかもよ?
以前の過去エントリーでも触れたことが あるように、
親父が あかんぼの頃、実母である妹から奪うようにして、その姉(親父の伯母であり、養母)は、千葉の片隅へと連れ去り、子が できない自分の跡継ぎにしてしまったんだけど、これが また、貧乏家だった。
わざわざ、何時間も列車に揺られて、田舎から奪いに来なくても、千葉の地元では、他の妹の子どもらがワンサと群れてるんだから、そのなかから引き取れば よかったのにと指摘すると、親父は、
「あら?!今の今まで、疑問に思ったことなかったわぁ俺」
と、自分で訝っていた。
現代で言うところの、運輸官僚から身を起こし、一代で、海運会社を経営してた実父(私から見て実祖父)が、中年期に病没するまでは、「御殿」と呼ばれたほどの父の生家は羽振りが良かった。
で、兄たちは戦死だから、この生家に留まっておれば、親父が、家督を継いだかもしれないのだが、末っ子の弟もいるので、もし、伯母の家の跡取りでなかったら、親父とて、激戦地の前線へ出されてたかもしれない。本人は、そっち希望だったのにと言ってたけどw
まあ、結果的に、「命拾い」したんだわね。
戦争にまつわる、そして、それに対して抵抗した、いろいろな国の人々についての本や談話記録等を読みながら、学生時代の私は、このように思っていた。
権力者たちの思惑に従い、その利己的な、
(そうでは ないと、たとえ、権力者側が思い込んでいたとしても)
彼らの目的に合致する「コマ」の一つとして、唯々諾々と死んでいくくらいなら、それへの苛烈な抵抗の果てに、死をも辞さないことのほうをこそ、私は選ぶ、と。
こんな気まぐれチャランポランな私でも、いま振り返ると、いかにも若々しい正義感に満ちた思想を持っていた時代が あったんだなあ。
学生時代に読んだレマルクの『西部戦線異状なし(報告すべき件なし)』も、その頃に読んでいた。
カミュの『ペスト』その他の幾冊か、同じく、ドストエフスキーの幾冊か、
サン=テグジュペリ『星の王子さま』も。
『「ペスト」』
言われてみて、ああ そうだったなと思ったのが、「平成最後の『終戦日』」。
ともあれ、今年の その日は、いつもに増して、「語ること」と「伝えること」に、光が当てられたと思う。
言うまでもなく、どの立場においての体験者たちは皆、日に日に、話せなくなっていく。
これまでは、心理的などの理由から、敢えて、口を噤んでのことだったとして、今後は、その口自体が、動かせなくなっていくことを、念頭に置いておかなければ ならない。
残された世代と今後を生きていく世代は、「先人と同じ轍を踏むまい」とするならば、「生きて語ってくれる人」が皆無になったあと、彼らが残していった証言や思いのたけを、いかに伝え渡していけるのか、このことを、一人ひとりが自発的に考え、探り、くふうしていかなくては ならない。
私らは、何だかんだ言っても、自分の親の口から直接に聞けた世代だけれども、私らの後の世代は、「また聞き」みたいになってしまう、そういう危惧が、私のようなノンキ者にも、一抹の不安を感じさせてきた。
昨今の世間の雰囲気なのか、インターネットにおいてのみ顕著なものに過ぎないのか、そのへん、まだハッキリと見分けられないのだが、
若い頃から漠然と感じていた「戦争を知らない自分たち」という不安が、的中してしまうのか?という恐れが、むくむくと起きあがってきそうな気配は、増加してきているのでは なかろうか、という思いを払拭できるほどの自信は、それほどには ない。
私が学生時代もしくは20歳代のうちと思うが、新聞の投書欄だったか、一般の人だったか誰の投書か、
いまでは、内容の詳細も忘れてしまって、
戦争を体験した世代の一員である その人が、兵士として戦場を知っていたのか、一般家庭の子どもとしてだったのか、
それも憶えていない、あるいは知らないのだが、
ただ、こんなふうに怒っておられたことを憶えている。
些か奇妙な印象のように残っているのは、
その人は、
『戦争を知らない子どもたち』という歌を聴くと、ひどく腹が立つ
のであるらしかったこと。
戦争の実体験が全くない世代の一人である私から見れば、分かるような分からないようなリクツで訴えておられると感じた「怒り」では あったけれど、
多分に、そこには一種の羨望や嫉妬のような感情が混じっているようにも思われた。
「若過ぎるからと許されないなら」「髪の毛が長いと許されないなら」
「青空が好きで花びらが好きで」「いつでも笑顔の すてきな人なら」
「誰でも一緒に歩いて行こうよ」
「きれいな夕日の輝く小道を」
…
「ここは お国を何百里」「離れて遠き満州の」
「赤い夕陽に照らされて」
と歌うことも禁じられたという世代から すれば、
なるほど、たしかに甘ったるく感じられただろう、
生まれたときから「平和の歌を口ずさみながら」歩き始められる、当時の「現代の若者」たちに対して。
「戦争を知らない子どもたちさ」と、みずからを歌った若者たちも、いまは60歳代後半から70歳代だろうか、りっぱな「高齢者」となっているはずだ。
「戦争を知らない子どもたち」は、
「戦争を知っている子どもたち」の名をこそ忘れずに覚えていてほしい、と締めくくるべきだったかもしれない。
「戦争を知っている子どもたち」
「戦争を知らない子どもたち」
「誰でも一緒に歩いて行こうよ」
…
戦争が始まり、ボクらは生まれた
戦争の さなかで、ボクらは育った
おとなになって歩き始める
平和の歌を口ずさみながら
ボクらの名前を覚えてほしい
戦争を知ってる子どもたちさ
…