忍者ブログ
とりあえず、ひかりのくに
     
<< | 2025年07月 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 | >>
[1211]  [1210]  [1209]  [1208]  [1207]  [1206]  [1205]  [1204]  [1203]  [1202]  [1201
Updated   
2018.08.10 (Fri)

広島:8月6日。午前8時15分。

長崎:8月9日。午前11時2分。

なぜ、こうした惨劇が起きるのか。

人類は、よくよく、考えねば なるまい。

 

時事問題プチ論――沖縄・米軍基地問題

 

ところで、私個人的には、あの戦争時の苦労話等を、たとえば自分の親から聞かされるという経験に乏しいほうだった。というのは、

うちの親父は、ごく若くして、陸軍の近衛将校だったから、戦地へ赴かされることもなく、戦争で、むしろ、良い思いを味わったエリートの一人でもあった。

その一方では、

あの戦時中に、前線で苦労してきた同世代の、かつての「兵士」たちに対しては、内心で忸怩たる思いを抱いていたようだ。

しかしながら、

かつては、「昭和天皇」一家の そばに仕えていた身でありながら、その親父にして、

中年頃までは、『NHK』の番組終了後に流れてくる『君が代』の旋律に、酔って正座しているようなところが あったのに、

年を取るにつれ、天皇や皇室に対しても、恬淡と言うか、無関心な態度に変わっていった。

晩年は露骨なまでに、明治生まれ、すなわち、自分の親らに当たる世代に対して、あからさまな反感を示していた。

その理由を敢えて聞くことも、本人が語ることも なかったけれど。

 

この親父とは年齢差が大きかった母親のほうは、戦時中、学校からでは なく、いわゆる個人疎開で、
私の祖父が手配した、田舎の一軒家へ、幼い弟妹を連れて移り、すでに病没していた母親代わりを務めて、父親から預かった生活費を遣り繰りしながら、現地の学校へ通いつつ、弟妹たちの面倒を見てやっていた。

けれど、なにしろ、本人も まだ小学生。

大阪から、仕事の合間を見て、何時間も列車を乗り継ぎ、生活費や物資の補給に訪れる父親を待つあいだ、どうしても、食べ物や現金が不足してしまうと、近所の商店などに頼み込み、生来病弱の からだで、井戸水を汲んで運んだり、掃除や店番を手伝ったりして、小金を稼ぎ、むずかる弟妹たちの食糧を調達したという。

なかでも、幼い叔母が泣きながら、姉を求めて、店をウロつくので、心を鬼にして追い返すのが辛かったと、その頃の苦労話を、涙ながらに、私に向かって述懐することが よく あった。

 

ただ、母方の祖父も、いたって裕福だったので、他の同級生たち、疎開先の田舎の子どもたちから見れば、恵まれた生活を しているように見えたのだろう、

学校に持って行く弁当の米なども、祖父の手配により、基本的に不自由することは なく、担任教師に、おかずを分けてくれよ、と羨ましがられるほどだったという。

しゃれた革靴を履いて登校する都会の お嬢さんにしか見えなかったであろう母は、ボロボロの草履か裸足で通う子も多かった田舎の小学校で、しょっちゅうイジメられたという。

そのせいで、「田舎の子は根性が悪い」と、酷く嫌っていた。

 

いずれにせよ、うちの両親には、双方とも、
前線で泥水すすり、空襲で焼け出され、家も家族も全滅、といった悲惨な体験は なかった。

それでも、

親父の生家の兄たちは戦死しているし、

戦後すぐ、大阪に戻った母が、街で同級生と遭遇したとき、その同級生は、疎開することなく、実家に留まっていたので、目の当たりにしたという大空襲で、どれだけ凄惨な状態だったかを聞いた話は、私も憶えている。

 

「おまえ、想像できる?いまの『難波』あたりから『梅田』まで、すかーっと見渡せる焼野原やったなんて」と言っていた。

 

高校のときの恩師は、広島での二次被曝者だった。

井伏鱒二の『黒い雨』が授業で取りあげられたおり、私たち生徒を見渡しつつ、やはり、こう仰った。

「あんたたち、想像できるか?普通に街なかを歩いてて、人の遺体が、道端に転がってても、誰も驚きもせんのやで。いまの時代なら、腕や指の一本ころがってても、警察呼んで大騒ぎになるやろ」と。

これらの話は、『終戦記念日』などの日に、旧ブログでも取りあげたことが あった。

 

私のような性質の者は、ちょっとばかり珍しいほうなのかもしれないなと思うこともあるのだが、

このように、自分の親族らから、それほどには、戦時中ならではの苦労話を聞かされる機会に乏しいほうだったものの、

その代わり、当時を生きた人の回想談や、戦時中・戦争前後についての記事が、新聞等に掲載されていると、できるだけ、目を通すことを怠らなかった。

それは、自分自身が、まさに「戦争を知らない子どもたち」の一人であるという、危惧を潜めた自覚からこそなのだが、ふつうは、自分が生まれる前のことなんて無関心な人が多いのかなと思う。

だが、

あの時代に、辛酸を味わった人たち、ましてや、子や孫を持つ人たちにこそ言いたい。

思い出すのも辛いことでは あろうが、子どもや孫らが、いかに無関心、鬱陶しがろうとも、敢えて、記憶が鮮明に残っているうちに、伝えてほしかったし、

いまからでも、余さず伝えておいてほしい。

 

もし、私の子や孫が いたなら、学校時分から自発的に、いろいろな機会を とらえては蓄積してきた戦争の惨さということを、間接的では あっても、伝えることを、やはり、怠らなかっただろうと思う。このメンドクサガリな私でさえ。

 

 

むかし、まだ20代だったか、実家に居た頃、テレビで、黒澤 明監督の『夢』という映画が放映されているのを観た。

その題名に ふさわしく、印象深い場面が幾つも記憶に残っているのだが、

そのなかでも特に忘れ難いのは、黒澤氏自身と思しき主人公が、とある山道で、戦時中の部下だったと思しき兵士たちに詰め寄られていて、

彼らは、すでに死者であるようで、ある種の不穏を感じ取っているらしい主人公は、かつてのように、上官としての威厳をもって、「貴様らは~」と、兵士たちの殺気を逸らすべく懸命に演説を始めるのだが、

やがて、これに説得されて、哀し気に うなだれた兵士たちが、まぼろしのように消えていったあと、突然、凶暴な犬に吠えかかられた主人公が焦っている、そんなふうな光景で終わるシーンが あった。

しおしおと消えていった兵士たちが なんとも哀れで、
見終わったあと、涙が抑えきれなかったことを思い出した。

 

9回出撃して9回生還 隠された特攻隊の真実2018/08/09 07:00

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/9%e5%9b%9e%e5%87%ba%e6%92%83%e3%81%97%e3%81%a69%e5%9b%9e%e7%94%9f%e9%82%84-%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ar-BBLGgom?ocid=FUJITSUDHP#page=2

 戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。

 命じた側は共通して志願だという。しかし近年、生還した特攻兵による証言が相次ぎ出てくるようになり、断ることのできない「志願」だったことが明らかになってきた。『不死身の特攻兵』に出てくる佐々木友次さんは一例だ。

 奇妙なことに命じた側の上官の多くは、出撃の際に異口同音「私もあとに続く」と演説した。けれども言行一致させたのはごくわずか。「最後の一機には、この冨永が乗って体当たりをする決心である」と佐々木さんらをあおった陸軍第四航空軍の冨永恭次司令官は敗色濃厚と見るや、特攻機にもつけなかった護衛機に守られて前線離脱している。その行動にはあぜんとさせられる。

 こうした「命じた側」の多くは悪びれもせず「特攻は志願だった」「現場で自然発生的に生まれた」と語ることで、自身の「責任回避」を図ってきた。

 戦死を報告し「軍神」となったはずの操縦士たちが帰還。扱いに困った軍は、生還した特攻隊員だけを集めて寮に幽閉し、「なんで貴様、帰ってきたんだ。そんなに命が惜しいのか」と追い込んでいった。戦後長く隠蔽(いんぺい)されてきた事実を追跡した『特攻隊振武寮』の解説で、取材を行ったNHKディレクターの渡辺考さんは、「命じた側」の沖縄特攻作戦の司令官で陸軍第六航空軍の菅原道大(みちおお)中将と倉澤清忠参謀の戦後の様子を紹介している。

 菅原元中将もまた「最後の1機で必ず、俺も突入する」と訓示した上官のひとりにして、戦後、特攻は命令ではなく自発的行為だったと言明し続けてきた。

 その菅原元中将は90歳を過ぎ、認知症の進行した晩年、「刀を持ってこい、腹を切る」「拳銃はどこに隠した」と家人らに命令口調になることが幾度もあった。そして8312月、亡くなるひと月前、息子に「二十歳前後の若者がなんで喜んで死んでいくものか」とつぶやいたという。

 倉澤元参謀は戦後、印刷会社を興し、菅原元中将同様、特攻隊の慰霊祭などにはこまめに出席するいっぽうで、家族には特攻の話をしなかった。そして常にピストルや軍刀を側に置いていたという。

 慰霊祭に出席している倉澤元参謀を見つけた、「貴様らは人間のクズだ」「ひきょう者!」と罵倒を浴びた「振武寮」の元特攻兵たちが「私たちを覚えていますよね」と呼び止め謝罪を求めるや、彼は慌てて首を振り、「覚えがない。どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じあげない」と顔を真っ青にして否定したという。亡くなったのは2003年である。

(文字強調は、当ブログ主による)

 

何年前か、『ユーチューブ』で、たまたま、戦時中の記録動画を見たことが ある。

あの「東条」が、さも尤もらしい表情で、大げさなくらいの身振り手振りで、若い兵士たちに向かって、大演説している場面だった。

高らかに、バンザイ三唱していた。

 

「諸神は!」

 

なんの造語だ。

 

いまどきの若造よりも ずっと純真クソ真面目な若い男の子を煽てるだけ煽てて。

へどが出そう、と思った。

 

 

――「断ることのできない『志願』」――

日本人において、歴史的にも顕著な特徴的なことだ。

一事が万事、これだ。

 

表面だけ拭って、さもキレイごとに見せかけておき、

実態は逆と言っても言い切れないほどの欺瞞。

 

まさに、アベシや、そのシンパら、『日本会議』のビジネス右翼どもに突きつけたい話だね。

 

 

PR