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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.08.19 (Sun)

【続】世界じゅうの「パウル」たちの続き。

 

また、それとは別の日、

やはり似たような番組のなかで、

「天皇に、戦争責任は?」

という問いかけが聞こえてきた。

 

私は まだ学校時分だったけど。

いまになって思い返せば、あの頃、マスコミは盛んに、

「軍部が暴走して」という理由で、

「だから、天皇自身には」モゴモゴ、、、

てな、口を揃えたごとくの論調だったと憶えている。

 

 

戦後すぐの時代にも、

「せめて退位するくらいのケジメは」

という批判も あったと聞いたことは ある。

 

で、

その後、昭和天皇さんは、「行幸」という名の「全国ドサまわり」の旅へ。

 

さぞ お疲れなったことだろうとは思うけれど、

やっぱり、「死の行進」とかに比べたら、、、ねえw

少なくとも、泥水すすって餓える心配は ないのだし。

 

その「全国行幸」のおりに、うちの母親も、昭和天皇に、間近で お目もじしてる。

学校からの優等生代表グループに加えられてたからだそうな。

私の母親の眼には、「自分の父親よりも優しい人に見えた」と言ってたけど。

 

 

終戦にしようって会議して、

昭和天皇と各宮家のナンタラ王さまたちが、上等の お菓子を召し上がりながら、ごゆるりと休憩されている頃、

大陸に渡っていた、とある一家の女児が、父親は現地で出征したか戦死したかで、

今度は母親が亡くなり、残された乳飲み子に飲ませるミルクも ないから、親戚に促されて、しかたなく、乳児が消化できるわけもないフスマとか?そういうのを、水でドロドロに溶いて、空腹で泣いてる妹の口に入れてやったら、間もなくして、酷い下痢にまみれて、最後は、かすれきった泣き声も あげることなく死んでいったと、
そういう子ども時代の苦難を振り返る女性の記事を、新聞で読んだ記憶が あるんだけど、

こういう話を、天皇さんたちは、どれだけ御存じだったやら?って思う。

 

 

うちの父方の親戚のなかには、中国大陸に渡ってから終戦になり、
向こうで助けてくれた中国人男性とのあいだに できた幼児を連れ、日本へ帰国してきた女性が いた。

やっとの思いで、もとの田舎の婚家先に辿り着いたら、ダンナ(←親父の従弟にあたる、つってたかな)のほうも復員してきてて、

なんせ、中国人との「不義の」子ども連れて帰ってきた!てんで、うちの親父と似て、酒癖が悪い亭主の暴力ざんまい、

夜は、家のなかから追い出され、軒下で寝たそうな。

 

その おばさん、私が学生時代に、一度だけ、もう一人のオバサンと一緒に、千葉から大阪へ遊びに来て、うちで泊まってったことが あるんだけど、

あとから、母親に聞かされた、中国での凄い苦労話なんて、ちょっと信じられないくらい、ハキハキ明るい人だった。

ジーパン履いて歩いてる私を、

「んまあー、○○ちゃん、足が長くて、カッコイイわねえ!!」

って褒めてくれたし()

 

でね。

片腕を失ってたの、その おばさんは。

中国に居た頃、大変なことが あったらしいんだけども。

 

 

たぶん、あのとき、「幸せだった時代は?」とか聞いたとしたら、

「いまが一番、幸せ♪」

と答えたんだろうなあ、と思うの、その おばさんも。

こうやって、のんびり、大阪見物しに、旅行できて、と。

 

 

晩年の「香淳皇后」は、骨折したことに大ショックを受けられ、そこから、いろいろと、ご容体が悪化されていったらしいけど、

私も、いちおう、骨折した経験も ある身だけど、

おなかの手術したときのほうが何十倍もの苦痛だったし、

「認知症」を引き起こすくらい、骨折で大ショック、ってのは、、、

まあ、骨折箇所にもよるのだし、

おそば仕えの侍従さんたちも、何をモタモタしてたのか知らんけど、

やっぱり、シモジモ庶民とは、苦労の次元が、まるっきり違うんかなあ、
って感じです。

 

 

『西部戦線異状なし』に登場する、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルムの風采や内面には、「昭和天皇」との共通性を感じさせられるところが あるようだ。

 

ところで、

この昭和天皇は、かつて、

原爆投下はやむを得ないこと

と発言されたね。

「遺憾」

「どうも気の毒では あるが」

と。

 

被爆者団体の人たちは、他人事まる出しな「昭和天皇」の発言を、どう思ったのだろうか。

 

この当時、少々騒ぎになりかけそうだと感じたことも記憶に残っているが、マスコミ側も早々に引っ込めていたと思う。

 

さて、

『日本帝国陸軍』近衛将校にして、バリバリ皇室崇拝者だった親父は、キッパリ言い切った。

 

「天皇に責任は ない、とは言えない

と。

 

それからかな?

だんだん、少しずつ、「天皇」と「皇室」について、以前のようには関心を示さなくなっていったのは。

 

私が子どもの頃、近所の幼なじみの母親で、栃木だか茨城だか出身のオバサンが いて、

ゴシップ話が ことのほか好きな彼女が普段から よく口にするネタの一つが、おそらく、女性週刊誌から仕入れたっぽい「皇室」についての いかがわしい話題だったんだけど、それが、たとえば、当時の皇太子妃・美智子さまの御出産にまつわるタブーだとかね。

ある日は、「大正天皇という人の病気」のことを言ってたよと、家に帰ってから、親たちの前で、なにげなく話したら、とたんに激高した親父、そのオバサンとこへ怒鳴り込みに行きかねない勢い。

もちろん、「タイショーテンノーて、だれー??」な、当時の私は、なにを そんなに、血相変えて怒ってるんだろう?とポカンとするばかりだった。

 

【続く】

 

 

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