2016.03.17 (Thu)
『お弁当の想ひ出』の続き。
話がスッカリ横に逸れてしまった。
次に、姉の場合。
このひとは、親らが居ない隙を狙ったように、私の母親についての不満や厭味をタラタラねちねちと言ってくる癖が あって。
お弁当についても、相変わらずの口調でもって、
「あんたの おかあさんは、わたしの弁当に、おでんとか、いつも、前の晩の残り物を詰めてくれるから、学校で、すごく恥ずかしい思いを させられた」
と。
そのことを、だいぶ後日になって、母に告げたところ、母は怒気あらわに、このように言った。
「あの頃、あんたの おとうさんは、ろくに給料も持って帰らず、外で飲みたおす、あの子らは食べ盛りの大喰らい、すごく家計が苦しかったやろ。それに、おでんなんか、前の晩に造ったやつのほうが美味しいやろが。作ってもらった弁当持って、学校に行けるだけでも有難いというもんや。気に入らんなら、高校生にもなっとるんやし、自分で作って持ってったらええのや」
と。
成績が悪いんなら、中卒で働かせろ、と父が言い放ったのを、
母が、自分の妹に借金して、アホ女学校で名高い私立高校に進学させたにも かかわらず、
父も亡くなったあと、初めて会った同い年の、もう一人の「姉」が、
私の母親のせいで、先妻の子である長姉は大学に進学させてもらえなかったと、お門違いの厭味を私に向かって言ったために、
母の生前も死後にも、ずっと継続して、
父と先妻の子ら、その家族らが秘かに会合するたび、さんざん、ないことないこと、ありもしない理由で陰口たたいていたのが、おのずと知れた、
という顛末のことは、以前のエントリーで少しだけ触れた。
母が存命であったなら、この言いぐさに、どれほど憤ったことだろうか。。。
しかし、どういうものか、
私は子どもの頃から、自分の母親のことで、お門違いも甚だしい厭味や悪口を、あちらこちらで聞かされることが何度も あったのがフシギである。
その母は母で、
「あんたの おとうさんは」
と毎日欠かさぬ日課のごとく、
周囲の猛反対を押し切り、自分で選んだはずの亭主らについての不満と愚痴と悪口を年がら年じゅう、私に向かってタラタラねちねち言い募るのだった。
そして、父も また、
「おまえの母親はー」
と、ねちねち毒吐き。
「あんたの おかあさんはぁ」(腹違いの姉らのジトジト毒吐き)
「あんたの おとうさんは!」(母親のヒステリックな毒吐き)
……
これが、私の幼児期から ずっと続いた。
いまだに思い出すと、心底ゲンナリする。
最後に、
「病気の問屋」を自他共に認めるほど持病の多かった うちの母は、体調が悪いときも多く、そういう日は、登校後、パンを注文することになるのだが、
そもそもが、お弁当の装飾に凝るなどという洒落たシュミを全く持ち合わせず、要は美味いのか不味いのか、それで判断するタイプだった。
私自身、兄のように、お弁当の御飯の上にビッシリ何かを敷き詰めてくれろと欲したことはないのでwそうした「絨毯」部分は除いて、
チャーハンならチャーハンだけ、お弁当箱のなかにギッシリ詰める。このパターンが最も多かった。
これは これで、続くと、少々気恥ずかしくもあったが、かと言って、
料理が得意だった母の作った弁当は、味自体は文句なく美味しかったので、べつだん不満もなく、昼食を共にするクラスメートたちに面白がられながら、一応は残すことなく食べていた。
クラスの男子たちはと観察してみると、彼らの おかあさんが、早朝から丹精込めて作ってくれたのが一目で分かるような、凝った弁当を持って来ている。
興味深いことに、女子よりも、多くは男子のほうなのだ。
タコさんウィンナーだとかwやけに可愛いのだが、
なぜか、彼らは、それを隠すように、お弁当の上に覆いかぶさるようにして、モソモソ、そそくさと食べていた。
私の母が作ってくれたチャーハンだけ敷き詰め弁当みたいなのを恥ずかしがるのなら、まだ分かるけどw
銀カップに可愛く盛りつけられた苺等の ささやかなデザート付きなのも、男子の弁当に多い傾向と見受けた。
一度、このことを指摘して、母に文句たれてみたことが あるのだが、
母に言わせれば、ご飯や惣菜と一緒に果物なんかを詰めるのには抵抗を感じるのだというリクツだった。
まあ、それも そうかと納得して、それ以降は何も言わなかった。
ある日、母の気まぐれなのか、お箸の代わりに、スプーンが添えられていたのを、いつも一緒に食べていた友人たちにウケまくり、
帰宅後、そのことを告げると、母は得意げに、
だって、チャーハンなら、スプーンのほうが食べやすいだろう、と言った。たしかに そうなのだが、
翌日、さっそく、友人も、チャーハンらしきものを詰めた弁当に(もちろん、私のと違って、凝った副菜類も、きちんと付いてたけど 笑)、可愛らしいキャラクター付きスプーンを添えて持って来ていたのには苦笑させられたものだ。
『給食』
【オマケに続く】
2016.02.07 (Sun)
の続き。
かつては、『朝日』や『読売』等の大手紙くらいにしか、日常的馴染みはなく、自分用のパソコンを入手して、インターネットに親しむようになってから、地方紙の記事や個人ジャーナリストや各界専門家・識者のコラム等に親しむようになった私は、いわゆる夕刊紙や、ゴシップを中心に扱う雑誌とか女性誌等も、めったに読むことはなく、ましてや、自分で購入することなんて、ほとんど全くと言っていいほど、経験が なかったのだが、
最近、コンビニ店頭で、ふと見かけた『日刊ゲンダイ』を、いつも、ネット サイトの記事でしか読んだことがないので、いっぺんくらい買ってみるかと思って、購入したものを、数日に分け、とっくり、目を通してみた。まだ、全部のページを読めていないのだけれど、一応の結果を述べて、ここに少々訂正しておく。
最初に読んだときは、まず、
デカデカと、いかにも目を引く つくりの、「ゲンダイ名物」政権批判の記事が1面から2面へ続くのを確認したところで、手が すべって、取り落とした そのまま、真ん中あたりのページのエロ関係広告や記事満載ぶりが、いきなり、目に入ってきて、
そこで、他の つごうにより、いったん、読むのを中断せざるを得なかったのだが、
さて、あらためて、続きを読んでいくと、けっこう、有意義な真面目な記事もアレコレと掲載されている。
むしろ、エロ関係の記事は、思っていたより ずっと、割合が少なかったw
いっそ、先のエントリーでも言っちゃったけど、へたくそなエロ小説の類を載せないでも(これくらいなら、私のほうが、もちっと上手く書けるかもよ?wせっかくの筆者さんには わるいけどねえ、ゴメンね)、
それ以外の記事だけでも、じゅうぶん存在価値があると思えたよ、うん(笑)
2016.01.19 (Tue)
【旧ブログの記録より】
鶏のエッグ スタンド 2010/10/25 01:36
にわとりの形した、素朴な絵付けでシンプルなデザインの、陶器のエッグ スタンドである。
まだ若かった母(酉年生まれ 笑)が、幼い私のために見つくろい、与えてくれたものだ。
さすがに、食事に使用することは なくなっていて、いまでは、食器棚の なかに鎮座しているが、
私が、この世を去ったときには、ひつぎのなかがダメなら骨壷にでも入れてもらうかなと思っている。
鶏の背中の、まぁるい くぼみに、
卵ならぬ私の魂?が すっぽり おさまって、
ふわりと飛んで。。。
考えてみたら
残酷なデザインかも?
関連ニュース
【Room’s】子供食器 小夏 幼いころから「本物」を(2010/10/18)
カテゴリ: その他 > メモ
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【Room’s】子供食器 小夏 幼いころから「本物」を(10/18 15:33)
2016.01.16 (Sat)
安かろう悪かろうは、まだ許容範囲だが、
高かろうマズかろうはねぇ。。。
知らないうちに、量が減っていたりするのは、実質値上げみたいなもんだし。
最近、スーパーマーケットで買ってきた揚げ物とデザートの類を、ひと口食べて、すぐ気づいた。
それぞれ、あきらかに、不味くなってる。。。
量と値段は、あまり変わってないんだけどねー。
以前には加えていた、何かしらの素材をケチったな、
というのがアカラサマ。
こういうのってのも、やっぱり、便乗値上げの範疇に入るんだろうか。
値段と量自体は、ほぼ据え置きだとしても、だからと言って、
不味くなってるとか、質を落としたのが判明したなら、今後は、もう買わないまでだ。
美味しいと思えるから、わざわざ買うのであって、
不味いのが分かってるのに買うモノ好きは そうそう いねーよ。
昔の日本は、「良いもの お安く」てな商売の標語が飛び交ってたけど、
食べ物だけじゃなく、
いまや、この国は何もかもが、
「安物お高く」になってや しねえ?
※追記
たとえ、幾分の値上げされても買う場合には、まだ、それだけの値打ちを、消費者に認めてもらってるということも言えるだろうが、
値段そのままでも、味や質が、すぐに分かるほど落ちるのは、最も愚かなやり方だろう。
味覚などは、多少の個人差もあるわけだけれど、もとの質を知っていて、あきらかに不味くなったものは、その後、値上げなんかしたひにゃ、ますます、顧客が離れていくだけ。
でも、値上げしたからといって、じゃあというので、もとの品質に戻すわけではないでしょう?
もちろん、不味いものは、よほどの空腹でもなければ、普通は、タダでも いらないもの。
2016.01.05 (Tue)
『旧年を振り返っての二、三。』
の続き。
というわけで、
そういうことがあったあと、今度は、自転車修理に出向く要が できた。
いつものように、ひょうし抜けするほどの廉価で、きっちり仕事してくれた、いと不愛想な職人肌の店主の、不愛想ながらも、客の質問に誠実に答え、進行方向を確認してから、修理を終えたばかりの自転車を向けて丁寧に置いてくれる、その、ずず黒く汚れた店主の手のひらに、代金を載せ、軽く礼を言って去りつつ、
いましがたの店主の顔と、さっきのエントリーの話に出た店の店長たちの顔それぞれを、なんとなく思い浮かべた。
私の身内の遺した物を処分しに赴いた店の人たちは、彼らが扱う商品が、いわゆる有名ブランドの高級品、超贅沢品であるだけに、油汚れなど微塵もない手と、それなりに身なりを整え、街の目抜き通りにて、瀟洒に飾りつけられた店内で、幾分かは気取った、同時に、容赦なく、客の値踏みを しつつも、おもねる態度で接してくる。
ひるがえって、街の片隅に、つつましく構えた自転車屋の店主は、いつも暗く沈んだ表情で(もし、急にニコニコし始めたら、それこそキモチ悪いw)、
そろそろ新しい自転車を買いたいのう買いたいのう、と思いながらも、
たまに、備品小物を新しく買い替えるのが せいぜいの こちらとしては、チェーン錠やらライトやらを少しく奮発するときにだけ、彼の頬は些かばかり弛み、やわらいだ表情を見せてくれる(笑)、
安い賃仕事だが、仕上げは確実。
だんぜん、われらの生活の切実な役に立ってくれてる、なくなったら困る存在なのは、自転車屋のオッチャンだねー。
少なくとも、一市民たる私にとっては そうなのだ。
えらいセンセイや政治家や安倍朕よりも、まったく段違いに必要な存在だ!w