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Updated   
2018.02.13 (Tue)

例の「森友問題」に関する、『朝日新聞』の記事について、当該新聞社にしては珍しい(?w)訂正ならびに詫びの掲示を出したそうなのだが、これに対しても、なお、腹が収まらないと見えて、

「裏付けがー」が「恨めしやー」とさえ聞こえてくる、安倍ちんのイヤミ攻撃w

 

しかしだね、

あーた自身も公の場で公人の立場でありながら

何度えげつないデマ ぶっこきましたか?

 

裁判所は、いやしくも一国の首長の地位に就いている この者の毎度な下品・下劣きわまる行為をも、およそ公人や為政者、権力者への批判の場合には、いかなる かたちのものであれ、たとえデマであっても、受容すべきといった内容の おふれを出して、安倍チンに つごうのいい判決を示していたようだが、

とにかく、

他者を攻撃する前に一度くらいは、公人たる自分自身の胸に手を当て、内省してみるということを、少しは身につけなはれ。

ええトシこいた、仮にも首相の座に就いてるもんが。

 

なーにが「裏付け」だ。

 

例の「従軍慰安婦」に関わる誤報にしても、もちろん、『朝日新聞』自身のマズさは大いに あったと思われるが、今回の「『森友』問題」にしても、「従軍慰安婦」関連にしても、これらについて、『朝日新聞』は、まるっきりの虚偽報道を やらかしたわけじゃない。

 

それを言いたいなら、まずは、あーたの広報紙を自任して憚らない『産経』シンブン社に対して言いなさい

裏付けナシ記事だけでは飽き足らず、これに加え、一個の私企業を対象に、不当な侮辱と糾弾を繰り広げたんだからさ。

 

 

ちなみに、

当ブログの前の旧ブログは、
『産経新聞』というやつを読んだこともなかったゆえ、このシンブン社が、どのような方針とか特色でもって経営してるところなのかを全く知らないまま、軽い気持ちで、『産経』系サイトにて やってたことは、何度か書いてるけど、

その当時、
同じサイトで一般枠ブロガーやってた、福島県人だという、古株・常連のオッサンが居てね。

この、さすがに田舎のネトウヨらしくも、ネチネチいやらし~い根性を剥き出しなオッサンは、『産経』の記者と、個人的にも親しくしているらしくて、何かにつけては『産経』の記者から、電話だけでの「取材」を受けてきたのだそうで、

こんなネトウヨまる出し『産経』シンパのオッサンでも、「電話だけというのは、、、」と、批判めいたこともポロッと言ってたの、見かけたこと あるぞw

 

 

私には、人間性としては勿論のこと、一個の男性のタイプとしても、
「カネくれても、ふるふるマッピラやわ」
と、最も軽蔑を もよおさせられる「自分棚上げ」方式をば、一国の首長がモロ出しという ありさま。

 

若い者への教育上の悪影響も懸念されるわい。

はよ辞めれやemoji

 

結局、「第一次」のときに違わず、

いまに至るまで、口先とは裏腹に、なんの結果もロクに出せてや しないんだから。

なにやってもダメなんだね。

呆れるほど、全方位にわたって、だめ。

 

毎度、先見の明に欠けてる日本政界らしく、小沢さんらが中心になって推進した?とかいうことらしいのだけれど、選挙制も しかり、「一強体制」とやらを敷いてもらった、その おかげで、

日本会議』や「ネトウヨ」からの「右パンチ」ドランカーあべちんは、ダメなのを認められないまま、最後までゴリ押しし続けて、遠からず、

彼の憎悪の対象であるシモジモ国民、とりわけ貧乏人、弱者を真っ先の道連れとすべく、崩壊しようが何だろうが、なりふりも かまわず、
「この道しか ないー!!」
と、集団自殺に導く腹なんだろうて。

 

 

ここで ついでに、前々から指摘したかったことを言っておくけど、

やい、

「従軍慰安婦」は存在しなかったんだー!!と喚き回ってる「ウヨ」やら「ネトウヨ」やら知らんが。

だったら、

あの元シュショウとか「たぬき大勲位」だとか呼ばれる、中曽根爺さんの、堂々と著書まで出してる内容のことは、どのように考えてるんだよ?え??()

 

 

まあ、正直、私とて、そもそも韓国側の主張に対しても、

「おたくらだって、たいがい、ご都合主義の ええかげんなことだね!」

と文句言いたくなるところは あるんだけども。

 

 

重ねて言っとくが、

「関係ない」はずの、現代日本国民が、「関係ない」はずなのに、なぜ、「恥を かかされ続けてる」と、えらい被害者ぶって叫ぶのかも不可解だけどな、

古今東西、世界広しと言えど、国家管理売春てな前代未聞級の小賢しくも醜悪、劣悪な犯罪を、先鞭つけてやらかしちまった国家なんて、日本くらいなもんだというんだから、ああ、恥ずかし。。。恥ずかし。。。

 

「恥を かかされてる」としたらだな、

それは、さきの戦中に、われわれ現代日本国民の以前の世代ら、
すなわち「中曽根の世代」らが仕出かして、後世の子孫である われわれ日本国民に、いまもって恥かかし続けているというこっちゃ!

恨むなら、先に、そっちを恨め。

 

 

何度目になるのか、またも こみあげてきた呟き。

なぜこんなのがよりによってわが国の首相で いられるのか

 

しょせん、
「ふわっとした」(?w)民衆レベルの反映が政治の世界だから、しかたないのか。

 

まあ、ずっと以前にも指摘したように、

民衆は、カシコよりは愚か者の割合がダンゼンに高いのは、古今東西を問わないのだろう。

きっと、日本だけの問題では ないのだ。。。
と、われと わが身を慰めてみる。(←『産経』のアビラビラ氏のパクりと ちゃうでw)

 

 

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Updated   
2018.02.03 (Sat)

考えてもみて。

ほとんどの人は、早晩、痛い苦しい思いを経験する日が必ず来るし、
そして、苦痛を味わいつつ、やがて死んでいくことから逃れられない。

そのことを重々承知のうえで、当人から頼まれもせんのに産み落とすんだから。

 

やっぱり、子どもを産む行為は、本能的欲求を発端としつつ、人間ならではのエゴに ほかならないだろう。

だから、私に言わせりゃ、子ども産むやつぁ無責任で もともと、脳天気でアタリマエだ、っつうの。

 

ま、自分だけは別、少なくとも、最悪からは守られるであろう、っていう、無根拠な万能感や楽観性は、ほとんど誰しもな面は あるのだし、

あるいは、

何らかの劣等感が つよい人ほど、とりあえず「人並み」であることに拘り過ぎて、それが、「親」になることをもって「一人前である自分」を手っ取り早く達成できる方法、みたいに思ってる人も多いようだ。

 

ゆえに、

実際、親というものになってみたら、こんなにも大変な思いを するなんて、、、

とヒイヒイ言いながら、負うた子に教わり、成長するが よろし。(←高みの見物的突き放し発言w)

 

 

実は、このエントリー、直前にアップしたエントリーよりも、もっと はやく、年末か年初あたりには、ほぼ書きあげてあった。

たまたま、当該エントリーの内容に関連するような記事が出ているのを見かけて、そこで新たに書き始め、アップしたのが、直前のエントリー。

なので、順序は前後してるんだけども。

 

 

…しかし、ま、子を なすことって、「儲ける」と表現するんだよねー。

儲ける」

だよ()

 

なるほど、どうりで、うちの母親が、私を儲けたのは、

利用するためだった」

とバラシたわけだw

 

もっとも、「おとうさんが、だよ」と念押しして、

おのれの亭主のほうに、ハナッから罪なすりつけてたんだけどww

 人を「虫けら」のごとくに思えるときって

 


で、その亭主である親父は親父で、

「おかあさんはな、俺を利用したんだよ」

だとwww

 

 

でもね、

とにかく、この私を産まないことには、さすがの あの母親も、亭主を利用できる次の段階に進出することは不可能だった。

 

まずは、
ゴリ押しキメ手ツールとして利用できる、私という子の存在を確保して、それから、だった。

 

そのわりには、私が胎児のうちから、さんざメチャクチャして、重度仮死状態にしてくれたがw

 

それに、親父は親父で、「利用された」以上のトクしてるからなw

むしろ感謝するべき。

もちろん、子である私に対してこそだぞ!ww

 

 

最近、ふと振り返って、あらためて気づいたんだけど、

私は、ものごころつくか否かの幼いうちから、家族・身内のみならず、ときには他人からさえも、うちの母親の悪口やイヤミを聞かされるハメになることが多かった。
それだけ、人間関係が複雑だった。

 

 

で、当の母親は母親で、

子どもが、自分のせいで、不当な目に遭い続けてることを知ってか知らずか、

いや、知ってたうえで、おのれの亭主や、その連れ子らへの強烈な不満を、やっぱり、幼い私に向かって ぶちまけ続けていた。

 

そのたびに、

自分自身は何も してないどころか、
生まれてきたという、ほとんど その一事のみをもって、親を筆頭に、周囲の役に立っている存在の私ひとり、ひたすら申しわけない気持ちにさせられて恐縮しまくってた。

 

ああ、本当に、「子の心、親知らず」とは、このことよ。

 

 

よりによって、この私に向かって、出来損ないと罵り続けたバカ親よ。

「恩知らず」とは、誰のことか。

「親」と名の付く、アンタらのことだろうが。

 

気づいて認めることすら かなわぬほどの暗愚な腰抜け夫婦だったから、首尾良く死ぬことでトンズラこきおおせたがね。

 

親父なんぞ、先立った女房のところへ、もう少しでも早く逝ってくれていれば、その分、私も、ちょっとはラクだった。

 

どーしようもねかったわ、あのダブル不倫バカップル。

 

 

さて、

人間ならではの発想では あろうけれど、同時に、思考停止的「親の恩を」と、ほとんど恫喝めいて主張することしか思いつかない、それが親側としての主張であるなら、じつに、あつかましい!の一言のみ。

犬や猫の親だって、そんな恩着せセリフは言うまいよ。

 

これが、子の側の発言であるなら、哀れなほどの素直、おめでたさというのみ。

お人よしが過ぎまっせw

 

 

アベノ「賃上げ要請」パフォーマンスなのだw

 

 

では、「親の責任」とは何か。

 

むろんのことで、何らかの障碍ゆえのトラブルや苦難の重荷を、一人で直に背負っていくのは、あくまでも当の本人であり、

いかに身を粉にして養育している親ですらも、本人の代わりには、断じて なれない。

その意味に限っては、たしかに、「親は関係ない」、

と言うよりも、

究極は、どうしてやることも できない、無力でいるしかないのが現実、ということ。

 

 

ま、往々、重度の病・障碍を背負っている本人以上に、その親のほうが苦労するという現象も現実には あり得るわけだけれど、

そこへ来ると、中等度ないし比較的軽度の障碍者の親は、これが最悪なタチの者だった場合、知らんぷりを決め込むどころか、平気で、子の障碍をも利用すべく画策するというケースも あるのだ。

 

それは、おのれの支配から、子が逃げられぬよう。

自分が踏みつけて、その分、自分を高く見せる道具にするために。
こんな親も いるのさ。

 

うちの親みたく、小賢しさ満点に外面を飾り、その本質は愚か者が殊勝ぶって言うところの、

「まず食べさせることが、親業の基本」

というのは、初歩も初歩レベルの話であって、

そんなことは、幼い子でも理解している、
野生動物だって、恩に着せることなく行なっている。

 

 

端的に言うと、

子の成長と将来を見越して、それに必要な手立てを尽くすこと。

これは、野生動物の世界でさえも、ある程度は行われることのようで、
たとえば、狩りのやりかたを教えるとか、子育ての手伝いを させるとか、けっこう見聞きする例で ある。

 

私が飼っていた犬や猫でも、飼い主にとって可愛げある、扱い易い性質か否かといった面とは全く別に、

ある程度には「スパン」というものを予測・認識しているからこそ、それに沿うよう考えて行動できる賢さは、やはり、メスのほうが大いに上回っていた。これは、やはり、出産と育児の役割を担う性だからと思しい。

 

それに比べて、

私の足を引っ張るのを楽しんでた、それと同時に、自分のヘマや強欲を隠蔽するのに汲々としていた、あの母親。

犬・猫以下か、あんたは。。。

 

ましてや人たる者、
おのれの儲けた子に、防ぐ努力も届かなかった結果として、何らか弱点や障碍が判明したら、そのことを視野の中心に据え、その子なりの人生が立ちゆく算段と努力(他人の懐に託す選択をも含む)を遂行しなければ ならないし、

そうせずには いられなかろうのが、およそ親と呼ばれる者の一般であるはず。

 

そういうことを尽くしたうえで、

「成人した以上は、もう、親は関係ない」

というセリフも許されるのだ。

 

ばかな親みずから言う資格は ない。

 

 

Updated   
2018.02.03 (Sat)

「親の責任」は あるのか ないのかの続き。

 

人間たるもの、それ以外の動物たちとは違い、いろいろ考え併せるはずなんだから、

産んで、なんとか人並みに育てることは できたにせよ、少なくとも現代においてさえも、最後には、病気になるか、不慮の事故か災害で、大なり小なり痛い、苦しい思いの果てに、こときれる。

それが殆どの人の迎える行く末でしょ。

 

それが分かってて産むんだからなあ、、、
よりによって、これだけ知性が発達している人間がよ。

 

その理由は一つでないこと等々も、私は、とうに察しを つけているが、
それらの詳細は、今は置いておく。

 

だからこそ、

先日のエントリーでも述べておいたように、

われわれの出発点が、そもそも、手厚い保護を必要とする あかんぼうで あったことを思い起こし、

社会の改善策を怠ることなく営々と積み上げていく、これは、子を なした人間こそが常に念頭に置いておくべき、最大の責務なんだ。

 

ま、実際には、野生動物にすら劣るような人間どもほど、次から次へと、子を産み散らしているけどね。

 

うちの犬や猫を観察していても、
はなからオスをアテにしてないメスが、もっぱら自分だけで子育てを担うせいか、あの狭い額でも、ある程度の「スパン」というものを理解しているらしく、それを見越して、子育てしとったわ。

つまり、メスのほうが、幾分か賢いようだった。

昨今、ヒト科のなんざ、犬や猫にすらも劣ってるみたいな事例が、目につくもんなあ。

 

 

私はねー、ものごころも つくか つかないかの幼い頃から、

母親には、「おとうさんソックリ!おまえなんか産むんじゃなかった」

腹違いの、ずっと年上の きょうだいたちには、「おばちゃん(←私の母親のこと)ソックリ!」

父親には、「この、できそこないが!!」

と、家族全員から罵られ続けたけど、

そんな私が、親らにとって、最も役に立った子でね。ほんとだよ。

 

親は、もし、生きていて、ものが言えるなら、いまでも頑として、そのことを認めようとは しないだろうが。。。どだい、分かってない。自分自身のことを。

分かると辛いということでもあろうが、逃避してることに無自覚だった。

私に対しては、やれ、努力が足りない、要領が悪い、と、徹底的に批判するんだけど、自分のことは棚上げ。

また、夫婦間でも、「あんたは」「おまえは」と、激しい応酬。

ひたすらエゴと欲と防御と攻撃のカタマリ。それこそは、この世の「正義」とでも思っているようだった。

こんなんでも、世間では、それなりに、立派な人で通ってたんだからね、いやはや。。。

案の定と言うのか、
やっぱり、うちの親と似た価値観や共通性のある他人ほど、あの親らの肩を持つ側に回っていた。


ほんとに一人だけ、
うちの母親に、面と向かって、でも、やんわりと、
○○ちゃん(←私)が可哀そうよ、
と忠告してくれた、幼なじみの男子のとこの、優しい おばさんが いたんだけど、
この人のことは、本当に、頭の良い人だと、うちの母親も認めていた、
と同時に、つよく警戒していた。
見透かされそうだと怖れていたのか、
自分を上回る頭脳の持ち主だと、ねたんでいたのか。。。

 

 

たぶん、近々のエントリーでも、再び書くつもりだけど、

私は、

「利用するために、産まされた」子、

なのだと、

母親から聞かされたことが あったわけ。

 

誰が、私を利用しようとしたかって?

親父が、

だそうな。

 

 

いーやいや、いまの私は、ほぼ全て、お見通し。

私を利用するために産んだのは、むしろ、

それを言ってのけた、当の母親だったのさ。

 

 

実際、私は、むちゃな母親の腹のなかで、ほとんど死にかけていたのだけれど、

もし、私が産まれて生き続けることなく、

あるいは、脳性麻痺で産まれていてもフシギは なかった情況だったし、

その後、ほとほと、親らにイヤ気が差したあげく、
十代の頃に何度も図った自殺を遂げおおせていたら、

そして、私が存在しなくなったら、

少なくとも、あの親らの平穏な老後なんぞ、ありゃしない。

 

さんざん、私一人を犠牲にしたあげく、ヘルパーや近所の人たちにまで、悪口を言いふらしていた親父。

おのれの後妻が死んだ後は、私を、その代わりの「女中」扱いにしようと目論んでた親父。

 

「女中」なら女中で、見合うだけの給料くらい払え。甘ったれんじゃねえよ。

てめえらの怠慢のせいで、こちとら ずっと苦労してきたんだからよ。

そもそも、暴力親父のツラ見るのもストレスなんだよ。

 

 

あんな愚物夫婦、

幼い頃から、私に心配ばかりさせていた母親のほうは、私しか頼る子が いないのだから、最後まで、見捨てることは よう しなかったが、

親父のほうは、他の子どもらも いるのだし、

いずれも、私よりは ずっとずっと良い生活(←私の母親のガンバリで)できていたのだから、

なぜ、少しは、そっちに頼まないのだろうかと、恨めしく思った。

こっちは、幼少時からの障碍かかえてても、仕事してるんだからさ。

 

とは言え、腹違いの兄も、両方とも教職の共働き、その夫婦関係は すでに破綻していたらしいし、

これも腹違いの長姉のほうはというと、
カネの計算と口だけ達者の、役立たず。

結婚後、ほどなくして、何十年このかたを、精神科通い。

 

【続】あの家についての部分的、そして最後の話

続】「母の泥船」

 

いまでこそ「面前DV」の、子への悪影響が指摘されているが、当時は、そんな概念なかったしなあ。
持病の問屋の母親を庇って、私が身代わりに殴られてたもん。

 

無学・無教養な うちの親は、自覚なきウヌボレやで、

私に与えている悪影響のことなんか、てんで無頓着。
自分らの抱えてる被害意識やメンツにばかり拘ってた。

 

キーワードは「エゴ」。

 

というわけで、

おおかたの「親」の本性なんぞ、エゴの塊り、もしくは、何も考えてないノーテンキ、もともとからして無責任なもんなのである。

でなきゃ産めないって。

 

まさに、「負うた子に教わり」つつ、親らしいフリしとるだけ。

 

ちと、政治家なんかと似てるね。

共通してるのは、

結局、責任とるのが、シモジモ国民や一般大衆に他ならないってこと。

「民主主義」では、いちおう、国民が選ぶカタチには なってるものの、はっきり言って、主義は関係ないわな。

 

 

親も責任とれない。

結局、背負っていくのは、産み落とされた子である本人。

それだけ。

 

 

「親の責任」って、一生、無関係では あり得ないよ。それは真実だ。

 

ただ、どうやっても、ほんとうにはとれないんだ、責任というものをね。

それだけのこと。

 

 

Updated   
2018.02.02 (Fri)

あるに決まっとるw

少なくとも、この人間社会に おいては。

 

子どもが何歳になったからとて、
ある時点でスパッと無くなるわきゃないだろww

 

そのくらい、
親、また、生育環境が及ぼす影響は、子の全人生に関わってくる。当然のことだわ。

だからこそ、積極的に、人の子の親になりたいという願望を持つ連中は、昔から いる。
非力な者でも、自分の子には、絶大な支配を及ぼせるし、
わが子以外に、どこの誰が、平凡でブサイクな女を、ファムファタルやら女神さまのように崇めてくれるかw


 

ただ、現代では、いちおうの目安として「成人年齢」までは、保護者・養育者としてのベストは尽くすべしとされては いるのだろうが、それ以降は、その責務から解放されても いいだろう、という程度のことでしかない。

だって、キリがないしね。

「親としてのベストを尽くす」つったって、個々の思考力やら培ってこれた見識やら性格などなどにより、すでにスタート地点から大きく差が出てくるわけだし。

それらは、親にとっても未知数の、子ども側の資質や知能を含めた肉体条件によっても左右されるのだし。

 

ま、いずれの場合にせよ、
いちおう「普通」の範疇の子なら概ねは、成人年齢に達していたら、自分で自分の世話が できるはずだと、世間では見做すからね。

 

しかし、実際には、そうも いかない場合が ある。

 

わかりやすい例とすれば、障碍児の場合だろう。
それも、重度障碍の場合。

それでも、

子の背負っている障碍に対して、その将来に備えるべく、的確な手立てをベストに尽くしておいた場合は、「健常者」に伍し、社会で大いに活躍できることも可能だ。

 

ひるがえって、

軽度・中度の場合は、かえって難しく、

親が無知・無理解であったり、怠惰・無責任であったりした場合、子ども本人は、一般の人々よりも、あきらかに不利な条件下にあれど、周囲からのサポートも希薄で、最初から最後まで、ほぼ自力のみで生きていかざるを得ない人生も ままあるということは、先日のエントリーで指摘しておいた。

 

さて、

たとえば、近頃になって発覚した、寝屋川市における、監禁により衰弱死へと至らしめた事件。

この被害者の女性は、十代の頃から、過酷な環境下に、親の手によって閉じ込められ始めて、

発見されたときには、すでに、実年齢上は30歳代になっていたらしい。

当然、成人年齢を、とうに超えているわけだが、

だからといって、彼女の「自己責任」ということには なり得まい。

 

むろん、ひとえに、保護・養育者である親の責任問題が第一に くることを疑う者は、まず いないだろう。

もし、何らかの理由で、親でありながら、自分の手に余る子であったとしても、自分自身による保護・養育の代わりを見込める手立てを、やはり、その者なりに、尽くさねば ならない。

 

「たられば」にしかならないけれども、

辛うじて、くだんの被害者が、成人年齢に達する手前で発見・救出されていたとしても、彼女の、その後の人生に、親の手によって齎された辛苦の影響は、有形無形に付き纏ったに違いない。

 

 

…ところで、

こういう記事が、また出ているのを見かけた。

父親は誰? 「AID」で生まれた38歳女性の叫び2/2() 5:00配信

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180202-00205944-toyo-soci&p=1

 「出自を知る権利」とは、子どもが自らの遺伝的ルーツ(この場合は精子提供者)を知る権利のことです。日本も批准する「子どもの権利条約」でも、「児童はできる限りその父母を知り、且つその父母によって養育される権利を有する」ということが、うたわれています(7)

 

このあたりを読むとね、

私は いつも、『あしながおじさん』の主人公、孤児のジュディの言ってたことを思い出す。

 

――AID問題――はっきり言うが、「人権侵害」でしょ

 

 

それと、

私には、幼い頃に生き別れたまま育った、父親違いの姉も存在するんだけど、

彼女は、私と二人だけで話しているとき、うちらの母親について、どうしても、

「親戚の おばさん」

くらいにしか感じられない、と言ってた。

それ以上に、ハッキリと、母親のことを、

「嫌い」

と、告白したことも ある。

 

まあ、あの姉が、実の母親を嫌うのも無理は ない理由が あってね。

これは、まったく、母親が悪いんだけど、ここでは、この話は置いておく。また そのうちに書くことも あるだろう。

あまりに えげつない話のうえ、

実は、すでに、当の母親から、言い訳めいたことも聞かされていた私ですら、

「おいおい、そんな理由は通らんだろ!」

とツッコミたくなるほど、ヒドイ話なので、これについてはと言うか、これについても、私は全面的に、この姉の味方を するものである。

私が、母親の脳みそについての異常を知らされたとき、意外に思うよりは、やっぱり そうか、、、と思ってしまったことの一因でも あった。

 

 

ともあれ、

この問題についても、旧ブログの頃から取りあげておいたと思うのだが、
当ブログを開始してから、比較的初期の頃だったかに、上掲のエントリーAID問題として、再び取りあげている。

内容は、自分でもウロ覚えになってしまっていたが、

なぜか、さきのエントリーについては、わりと繰り返しアクセスしてくる人たちが いるのを知っていたので、当ブログにても取りあげてあることの記憶が残っていたのである。

 

で、

この「『AID』の子どもたち」という問題については、数年前どころか、私が まだ実家で生活していた頃くらいだったかと思うので、かれこれ数十年前にもなろうかというほど、かなり むかしのこと、ある日、新聞記事で読んだ内容に、少なからぬショックを感じたから、後年になっても憶えており、問題意識も継続していたわけで。

 

当時に読んだ記事内容の記憶では、たしか、私学の名門の一つとされる大学の、たった一人の男子学生による精子の提供が、多くの場合に用いられているということが明かされてあり、まずは、そのことに、衝撃を受けたのだった。

そして、

あの頃は、当事者である子どもたちも、この世に生を受けて、まだ時間が浅い頃だったはずだが、この子たちの将来について、ほぼ何らの考慮も なされていないらしいことにも大きなショックを受けた。

 

 

だいぶ前にも、どこかのエントリーで言ったと思うけど、

親なんて者ぁ、そもそもからしてノーテンキかつ無責任だからこそ産めるんですよ。

 

だって、
ある意味、賭けや冒険に等しいでしょ、子を産み落とすってのは。

 

私自身は、はやくも、中学生の頃には、影も形も あり得ない、心のなかの「わが子」に向かって語りかけていた。

「おかあさんは、まだ見ぬ あんたを愛しているからこそ、産まないよ」

と。

そして、そのとおりになった。。。

 

よくしたもので()産めないカラダになったから、病気でね。

地主の跡取りとの縁談話が壊れたことも あったなあ。

 

たった一度だけ、自分から、

「このひとの子ども産みたい。私と同じ、『不倫の子』になってしまうけれど、もしも産んだら、その子に対しては、

『おかあさんね、あんたの おとうさんにホレちゃって、好きで好きで、おとうさんの子が欲しくて もお たまらなかったから、あんたを産んだのよ~♪』」

と、あっけらかんと言えると思った。

 

それから ほどなくのことだった、産めない身となったのは。

 

【続く】

 

 

Updated   
2018.01.29 (Mon)

たまーに閲覧する『ヤフー個人記事』コーナーのなかでも、
私なりに、読むに耐えるだけの知性が感じられる、ゆえに、それ相応の情報価値や信頼感も感じられる少数の書き手さんが いるんだけど、

当エントリーは、そのなかで、「みわよしこ」さんというかたの最近のコラムを読んで、思ったことを述べる。

このかたは、ご自身も当事者として関わりが深い、障碍者のための施策の問題とか、また、生活保護施策の問題についての記事を、よく お書きになってるのね。

 

読むたびに、なるほどねと思うことの多い、みわさんの問題提起や検証なのだけれど、少々、難を指摘させてもらうと、

これも「優等生気質」の一端だろうけど、みわさんってかたには、どうも、ちと、権威主義的な傾向を感じさせられるところが ある。それに関係してくるような、ちょっと首を傾げてしまったことを少し。

 

今回は、読んで、まず、生活保護を利用(←私も、このコトバを使うことに賛成して、これからは そうすることにする)している人たちの多くが、
たとえば、惣菜の類を買って済ませるから、よけいに食費が かかってしまうのではという問題の指摘について、みわさんの分析によれば、このことは、学歴に関係しているということを述べられていた。

その、学歴に関係していることの根底には、結局、生育環境の問題が あるということも言及しておられ、まあ、もっともなことなんだろうなあとは思った。

 

しかし、ちと、分析が大雑把すぎるというか、本当に学歴が原因していると言っていいのか?という疑問も持った。

もちろん、学歴と生育環境に、密接な関連性が あるのは確かだろう。

 

だが、私の周囲や、また、私自身の体験から述べると、

学歴が低かろうが、日常生活のなかで、妥当な食事づくりに熱心に取り組むことを当然の習慣としている人は、珍しくも何ともない。

日々の食事づくりを前向きに やろうとしないというか、できない人の心理状態を、みわさんは、あまり分かってないんじゃないか?と思えた。

 

だいたい、生活保護利用者の内訳としては、疾病や障碍が理由になっている場合が大半と思しいし、
その疾病や障碍のなかでも、精神方面の問題を抱えている人が ことに多いことは、かねがね聞いている。

 

みわさん御自身は、日常の食生活に工夫を凝らしておられるようすなのを、私もチラッと覗かせていただいたこともある。けれど、
彼女も また、精神疾患を抱えておられるそうだし、ご自身が、その症状の出ていたとき、どのような状態だったか、
はたして、まともに料理を行えるような状態だったのか、
私は、身内のなかに、やはり、おそらくは、みわさんと同じ種類のものであろうと察している精神疾患を発病した者が いたので、その者の状態を見ていたから、疑問を感じたわけ。

 

もちろん、生育環境が、あとあとまで尾を引いているということは、これは、みわさんも指摘しておられるとおりで、

結局、
その劣悪だった生育環境のなかで、人は、何を もぎ取られてしまっているのであろうか、ということが最大の注目点であり、
分析の足掛かりと すべきところだと思う。

 

およそ料理・調理に割く労力というものは、最も前向きな「生きる意欲」の現れだと思う。ついで、食べること。

しかしながら、食べるという行為には、逃避の心理も含まれ得る。

 

生活保護の利用開始を余儀なくされるに至った場合の理由として、
うつ状態に陥っているということが伴っている割合は、とても高いのでは なかろうか。

 

そもそも、幼い頃から劣悪な家庭環境のなかで、本来ならば、ごく自然に培われるべきはずの、前向きな生きる意欲、あるいは、「自己肯定感」というものを削がれてしまっている、

それと連動して、進学・学歴のことも勿論、あらゆる条件において、社会生活を営むうえで、非常に不利な立場になってしまっている、こういう人が、どうして、自分を養う食事に関して、前向きな思考と労力を費やす気になれようか。

しかも、劣悪な生活環境は、生育家庭から引き続いている場合も多かろう。

 

料理だけではない。洗濯、掃除、入浴、すべてに影響は及んでくる。

行きつくところは、いわゆる「セルフ ネグレクト」。

 

なので、学歴自体とは あまり関係ないんじゃないの?と思う。

 

だいたい、プロの料理人に就いている人だって、ほとんどは、高学歴じゃないみたいだしね。

 

それと、

みわさんが、おりに触れて紹介しておられる、生活保護に関する、ナントカ「部会」ってやつ?

私も、何度か、このことについて述べておられる記事も読ませてもらってたけど、読むたびに、

「こんなん、、、それこそ、税金使ってまで召集するだけの価値あるんか?もう、いっそのこと やめたら~?」

と感じるのが正直なところ。

だってねぇ、

みわさんは、いつも、せいいっぱいに、この「部会」とやらに召集されてるという、おえらい先生・識者がたの見識等を、尊敬心たっぷりに紹介しておられるけども、

そのへんの無知なシロートに過ぎない私個人が読んで感じた印象は、
さしづめ、

自民党の「金魚のフン」とも「下駄の雪」「腰巾着」とも評されてる、公明党みたいな感じなのだよw

 

要するに、最初は、いちおう、殊勝なことを言ってるようでも、最終的には、自民党の ほぼ言いなり。

くだんのナンチャラ「部会」は、それと どれほど違うのよ?って感じなのw

 

 

あとね、

みわさんは、周囲の人から相談事というか、おそらくは、精神疾患を抱えている人の繰り言みたいな話を聞かされることが、やっぱり多いのかなということも感じたけど、

そういう話を、「当たり障りなく かわしつつも、エネルギーを削ぎ取られるような気持ち」になってしまう、ということを書いておられた、
これって、どういうことなのかなあと思った。

 

もっとも、相手は、ただ、みわさんに、グチを聞いてもらいたいだけなのかもしれないけど、みわさんがイラッとくるのは、他にやるべきことが多くて、忙しいからというのが最大の理由なんだろうなと察する。

 

でも、みわさんは、

ここでキッツイ言いかたを敢えて させてもらうが、

言わば、生活保護と、その利用者をネタにして、お仕事され、報酬も得られてるわけでしょ。

だったら、周囲の、その類の立場にいる人たちからの話を、蔑ろにしていていいのかな?と。

 

くだらないことを話しかけてくるなと思うのだったら、私なら、ハッキリと、そういう話はムダなんだよと、論理的に言って聞かす。
そんなことで、ヘンに被害意識を自分が持ってしまうくらいならね。

 

公の場では、いわゆる社会的弱者に対する大いに理解のある論を繰り広げていても、実際に、自分の身近の人の直接的な話しかけを、鬱陶しいと思う人なのだとすれば、

私は自分自身、ボランティアだ福祉だと日々活動してる人たちの欺瞞や劣等意識の補償みたいな屈折心理を潜めてる手合いも少なからず見てきてるからね、ちょっとヤだなと感じた。

 

相手が忙しいことを分かっていて、無神経にグダ話を聞かせてくる自己中タイプの人って、これも、私も たびたび見てきたし、
また、当の自分自身も、相手から、苦情を言われたことも あったけど、

私は、相手が迷惑がってることを、自分で気づけなかったことが分かった時点で即、やめるけどね。

 

逆に、自分自身が、相手に時間を奪われて困るときは、相手が納得するように説明を心がけ、やめてもらう。

また そのうちに、じっくり聞く時間を確保するからね、とか言い添えて。

自己中心な人ほど、なおざりな態度や鬱陶しがられてると感じると、よけいに、しがみつくみたいに続けたがるでしょ。

 

自分が損させられてるという被害意識めいた感情を持ってるのに、何も言えないまま、怒りを溜め込むのは、よくないことだと思う。そんなのは、それこそ、自分が悪いと思う。

 

先般、生活保護に関する『ホットライン』という電話ボランティアを務められたそうなのだが、そのときは、一人じゃなく、同じ作業に取り組んでいる仲間たちが そばにいるということで、気持ちがイラつかないで済んだのだろうと気づいた、といったことも おっしゃってたけど、

それは、たぶん、

いまは、この作業を やる時間、と区切って集中することの割り切り感も あったからなんじゃないかな、と思った。

 

 

ま、基本的に、みわさんも、私が応援する気持ちでいる人たちの一人には違いないが、今回は、いままでに、ん~?と感じていたこととも併せて、指摘させてもらったしだいです。

 

 

最後に、私個人的にも、以前から不審を感じていたことに、
いわゆる補助金ビジネスであるとか、業者との癒着とか、
はては、障碍者搾取に等しい現実とかいった、
ぶっちゃけ、これこそが税金むだ遣いじゃないの?
と疑問を持っている福祉サービスの問題が あるんだけれど、

このことについて、識者や専門家筋の人たちには、もっともっと取りあげてもらいたいものと思っている。