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Updated   
2018.08.19 (Sun)

【続】世界じゅうの「パウル」たちの続き。

 

また、それとは別の日、

やはり似たような番組のなかで、

「天皇に、戦争責任は?」

という問いかけが聞こえてきた。

 

私は まだ学校時分だったけど。

いまになって思い返せば、あの頃、マスコミは盛んに、

「軍部が暴走して」という理由で、

「だから、天皇自身には」モゴモゴ、、、

てな、口を揃えたごとくの論調だったと憶えている。

 

 

戦後すぐの時代にも、

「せめて退位するくらいのケジメは」

という批判も あったと聞いたことは ある。

 

で、

その後、昭和天皇さんは、「行幸」という名の「全国ドサまわり」の旅へ。

 

さぞ お疲れなったことだろうとは思うけれど、

やっぱり、「死の行進」とかに比べたら、、、ねえw

少なくとも、泥水すすって餓える心配は ないのだし。

 

その「全国行幸」のおりに、うちの母親も、昭和天皇に、間近で お目もじしてる。

学校からの優等生代表グループに加えられてたからだそうな。

私の母親の眼には、「自分の父親よりも優しい人に見えた」と言ってたけど。

 

 

終戦にしようって会議して、

昭和天皇と各宮家のナンタラ王さまたちが、上等の お菓子を召し上がりながら、ごゆるりと休憩されている頃、

大陸に渡っていた、とある一家の女児が、父親は現地で出征したか戦死したかで、

今度は母親が亡くなり、残された乳飲み子に飲ませるミルクも ないから、親戚に促されて、しかたなく、乳児が消化できるわけもないフスマとか?そういうのを、水でドロドロに溶いて、空腹で泣いてる妹の口に入れてやったら、間もなくして、酷い下痢にまみれて、最後は、かすれきった泣き声も あげることなく死んでいったと、
そういう子ども時代の苦難を振り返る女性の記事を、新聞で読んだ記憶が あるんだけど、

こういう話を、天皇さんたちは、どれだけ御存じだったやら?って思う。

 

 

うちの父方の親戚のなかには、中国大陸に渡ってから終戦になり、
向こうで助けてくれた中国人男性とのあいだに できた幼児を連れ、日本へ帰国してきた女性が いた。

やっとの思いで、もとの田舎の婚家先に辿り着いたら、ダンナ(←親父の従弟にあたる、つってたかな)のほうも復員してきてて、

なんせ、中国人との「不義の」子ども連れて帰ってきた!てんで、うちの親父と似て、酒癖が悪い亭主の暴力ざんまい、

夜は、家のなかから追い出され、軒下で寝たそうな。

 

その おばさん、私が学生時代に、一度だけ、もう一人のオバサンと一緒に、千葉から大阪へ遊びに来て、うちで泊まってったことが あるんだけど、

あとから、母親に聞かされた、中国での凄い苦労話なんて、ちょっと信じられないくらい、ハキハキ明るい人だった。

ジーパン履いて歩いてる私を、

「んまあー、○○ちゃん、足が長くて、カッコイイわねえ!!」

って褒めてくれたし()

 

でね。

片腕を失ってたの、その おばさんは。

中国に居た頃、大変なことが あったらしいんだけども。

 

 

たぶん、あのとき、「幸せだった時代は?」とか聞いたとしたら、

「いまが一番、幸せ♪」

と答えたんだろうなあ、と思うの、その おばさんも。

こうやって、のんびり、大阪見物しに、旅行できて、と。

 

 

晩年の「香淳皇后」は、骨折したことに大ショックを受けられ、そこから、いろいろと、ご容体が悪化されていったらしいけど、

私も、いちおう、骨折した経験も ある身だけど、

おなかの手術したときのほうが何十倍もの苦痛だったし、

「認知症」を引き起こすくらい、骨折で大ショック、ってのは、、、

まあ、骨折箇所にもよるのだし、

おそば仕えの侍従さんたちも、何をモタモタしてたのか知らんけど、

やっぱり、シモジモ庶民とは、苦労の次元が、まるっきり違うんかなあ、
って感じです。

 

 

『西部戦線異状なし』に登場する、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルムの風采や内面には、「昭和天皇」との共通性を感じさせられるところが あるようだ。

 

ところで、

この昭和天皇は、かつて、

原爆投下はやむを得ないこと

と発言されたね。

「遺憾」

「どうも気の毒では あるが」

と。

 

被爆者団体の人たちは、他人事まる出しな「昭和天皇」の発言を、どう思ったのだろうか。

 

この当時、少々騒ぎになりかけそうだと感じたことも記憶に残っているが、マスコミ側も早々に引っ込めていたと思う。

 

さて、

『日本帝国陸軍』近衛将校にして、バリバリ皇室崇拝者だった親父は、キッパリ言い切った。

 

「天皇に責任は ない、とは言えない

と。

 

それからかな?

だんだん、少しずつ、「天皇」と「皇室」について、以前のようには関心を示さなくなっていったのは。

 

私が子どもの頃、近所の幼なじみの母親で、栃木だか茨城だか出身のオバサンが いて、

ゴシップ話が ことのほか好きな彼女が普段から よく口にするネタの一つが、おそらく、女性週刊誌から仕入れたっぽい「皇室」についての いかがわしい話題だったんだけど、それが、たとえば、当時の皇太子妃・美智子さまの御出産にまつわるタブーだとかね。

ある日は、「大正天皇という人の病気」のことを言ってたよと、家に帰ってから、親たちの前で、なにげなく話したら、とたんに激高した親父、そのオバサンとこへ怒鳴り込みに行きかねない勢い。

もちろん、「タイショーテンノーて、だれー??」な、当時の私は、なにを そんなに、血相変えて怒ってるんだろう?とポカンとするばかりだった。

 

【続く】

 

 

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Updated   
2018.08.19 (Sun)

世界じゅうの「パウル」たちの続き。

 

もう一度繰り返すが、

「白人国家列強」の真似を行い、みずからが取って代わりたい、という、かねての願望が本音なのであり、

「アジア解放の大義」てなキレイごとは、

表面だけ拭って、さもキレイごとに見せかけておき、

実態は逆と言っても言い切れないほどの欺瞞だった。

それが、日本人において繰り返される、歴史的にも顕著な特徴的なことなのだ。

 

踏み躙られた「愛国心」

もう70年まだ70年

【続】もう70年まだ70年

 

だが、日本だけでは ないじゃないか!!

どの国も、人道に悖るような酷いことを やっていたでは ないか!

と言い募りたいのなら、それも よかろう。

 

たしかに、第一には、要は敗戦したからに ほかならないのであって、

日本だけが悪者にされるのは口惜しい!という感情も理解できないでは ない。

ましてや、

日本にやられてきたという残酷、非道を、

今度は おのれ自身が、全く異なる国に対して、日本の真似を やらかした、そんな隣国を嗤いたくなる気持ちも、理解できないでは ない。

 

ただし、

どうしても それを言いたいのであれば、

(エセ)ウヨどもよ、

やれ、日本人の武士道精神だの、やれ潔い民族だのと、うぬぼれたことをヌカすな。

聞くだに みっともない。

 

あの公共広告に出てくる、

迷惑駐車していて、警察にキップ切られ、

みんなも停めてるやん!!ワタシだけちゃうやん!!

と頑強に言い張る根性と、どんだけ違うんだ?

 

ウヨだろうがネトウヨだろうが、オマエさんらに、

「潔い」

というコトバだけは使ってくれるなよ、と言いたい。

恥ずべきことだ。

 

あとね、「純粋」だの「純正」だのがアタマに付く日本人など、存在しないのだよ。

みな、どこかの代で、どこかしらと混血してるんだから。天皇さん自身だって、認めてるでしょ。


 

とにかく、困った連中。

国やら天皇・皇室と自分自身とを同一視する、
時代錯誤で愚かな感覚から脱し切れない連中。

 

 

原爆投下の日に

うちの親父、中高年頃までは、晩酌で酔った勢いみたく、やおら正座して、ウットリと、NHKの放送終了後に流れてくる『君が代』に耳かたむけていたことを述べたけど、

実は、話は それだけじゃなかった。

 

そのとき、傍らにいた私の母親に対して、

「おい!おまえも、ここへ正座して聴かんか」

と呼びかけたのを、

母は呆れと怒りと、些かの軽蔑さえ滲ませて、断固、拒絶していたw

さすが、「墨塗り教科書」世代ww

 

「墨塗り教科書」のことについても、母が怒りを込めて回想していたことは何度も あった。ああいうことが あると、子どもは、おとなたちを信用しなくなるわな。

 

市井の庶民の家で、ある夜に起きた『君が代』騒ぎ、

その小さな出来事と どっちが先だったのか、

あるとき、やはり、いま頃のような時期だったろうか、
年配のオジサンたち中心の座談会的な議論のような内容のテレビ番組だったと思うのだけれど、

学生の私には、それほどの関心もなく、ほとんど、聞いているような聞き流しているようなだったが、

さすがに親父のほうは、さっきから、番組に集中していたようだった。

そのテレビ画面から、

「日本は、敗戦して よかったのだ」

というコトバが聞こえてきた。

 

すると、

アメリカや連合軍に追いまくられた『帝国陸軍』の敗走シーンが出てくる映画などを見ると、とたんに怒声を あげて、私や母親をウンザリさせる親父が、たった一言、

「そうか。。。負けて よかったのか」

と、ションボリ。

毎日新聞は「反日」なのか?w

 

「日本は、敗戦して よかった」

私も、このことについての異論は ない。

たしかに、日本が「戦勝国」だったら、、、

と思うと、それは それで、ゾッとするものが ある。

 

嘘と隠蔽に対しての、罪の意識の極端な希薄さ。

(もちろん、他者の それは許さないのだが、それでも、力関係を見比べてみたうえでのことだ)

そこに、自己中心的な目的が あるうちは、迷いなく、要領も良く、ズバズバいく。

飽くまで、その狭い範囲内において、それに のっとっているかぎりは。

だが、ひとたび外れたら、、、

 

チョーシにのって、どんだけでも思いあがって、いけいけドンドン、

それこそ、みずからが、核兵器を入手していたら、気の赴くままに、気の済むまでも、冷酷このうえなく、あちこち、じゃんじゃん投下しまくったんじゃなかろうか。

こういう点では、私は、残念ながら、日本人の性質を信じきれない。

それは、親父を見ていて、感じていたことでもあるのだが。。。

親父自身、若くして叩き込まれた『帝国陸軍』エリートだったからか どうなのか、

とにかく独特なところが あった、あれは。

もしかしたら、同世代でも、他の分野の兵士たちとは、また違った感覚なのか?と思う。うちの親父は、近衛とか諜報とか、ある意味で特殊任務だったし。

 

学生が計算し尽くしたようなリクツを基底にした「正義感」と言うか、タテマエ。

その背中を突き破り、幼児的なまでに自己中心性を剥き出した「自己愛」、これが、いつ何どき、飛び出してくるやら、危うく両方を並び立て、自分にとっては、それでアタリマエで、ムジュンだとも思わない。

 

単純、かつ、ネジクレ。

大胆と言うよりは、ずうずうしい。

細心・緻密と言うよりは、小心。

剛直と脆さ。

 

親父から漂ってくるものは、どう表現したらいいのか、むかしから、どこか難しいと感じていた。

 

一言で言って、、、

そう、やっぱり、アメさんの言ったことがズバリ。

「クレイジー」。

 

親だけど、「人種が違う」と言いたくなるほど、違和感が拭えなかった。

結局は個人的感覚の問題なのかなとも思うけれど、

母らの世代どうしに共通して感じるものともハッキリ違う。

時代や世代の違いだけで、感覚までも異なるものなのか。

 

母自身、「おとうさんらの世代は、ちょっと違うからな」と言っていた。

 

【続く】

 

 

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2018.08.19 (Sun)

おっ母さんと僕だけの世界へ かえりましょう。おっ母さん、そうしましょう

~レマルク『西部戦線異状なし』より~

……

 

 

『特攻隊』の若者は、「美しき志願」だった、ということが、権力層にとって つごうの良いがゆえ、長年にわたり押し通してきた「タテマエ」だったのだということと同じカラクリ。。。

 

ちなみに、私だって、学生時代から つい最近まで、たいへん痛ましいとは思ってきていても、その「タテマエ」を疑ってかかろうという段階までは殆ど届いてなかった。なので、ご多分に漏れずというのか、せいぜい、「犠牲的精神」に感嘆するところで止まっていた。

 

先日のエントリーで紹介した

9回出撃して9回生還 隠された特攻隊の真実2018/08/09 07:00

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/9%e5%9b%9e%e5%87%ba%e6%92%83%e3%81%97%e3%81%a69%e5%9b%9e%e7%94%9f%e9%82%84-%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ar-BBLGgom?ocid=FUJITSUDHP#page=2

 

上掲の記事にも明らかなように、

エントリー内で、私も再び三たび指摘した。すなわち、

表面だけを拭って、さもキレイごとに見せかけておき、

実態は逆と言っても言い切れないほどの欺瞞。

それが、日本人において、歴史的にも顕著な特徴的なことだ、ということを。

 

呪われた安倍りんピックw

陸自エンブレム。。。

【続】陸自エンブレム。。。

 

いわく「アジア解放の大義」なんどは、これこそ、毎度のごとくの一大欺瞞であり、

その実態と本音は、

かねて秘めてきた、貧しい小国のコンプレックスを払拭せんものと、、

かつての「中華」から、いまでは「白人国家列強」へと、お得意の真似し根性を上手に発揮し、

いまに見ておれよ、みずからが取って代わってやる、

という願望に ほかならなかったことくらいは、

また同時に、

そうは言えども、

真相を洞察できるだけの教養・学問にも、いまの時代より もっと乏しく、縁遠かった一般国民シモジモは、「大本営発表」と同様、「アジア解放の大義」なるキレイごとをば、純真にも信じ込んでいた、それが、特に若い者に多かった、ということも、

これくらいは、学校の歴史のサラリ流す授業だけで よしとせず、あらゆる層からの情報に接してきていればのことだが、少しは わきまえておいたうえで論じるはずだろうに。

まさか、
当時の若者たち同様の感覚で信じ込んで、当時の「大本営」的タテマエを振りかざしているのだとしたら、いかにネトウヨでも、いや、「ネトウヨ」だからこそ、ありえない主張だろ。

低知性とズレた思考回路を特徴とするのみならず、「『嘘も百篇武器」を用いて恥じないのだから、とうてい、同じ現代の人間の主張するところとは思えない。

 

いま80歳代から90歳代の高齢者というのは、まさに、あの時代の若者たちだったわけだが、

彼らは、われわれと同じ現代人の一人でも ある。

目の前に いて、呼吸している、われわれと共に、この時代をも生きている現代人なのだ。

 

その高齢者たちに向かって、「死ね死ね」キャンペーン。

『自民党』か『日本会議』か両方からか知らないが、

「ネトウヨ」が指令を受けてのことらしい「日本分断工作」の一つだ。

なるほど、少し分かってきたぞ。。。

 

「大本営タテマエ」を崩してしまうような、ほんとうのことを証言し始める前に、

いまは高齢となった、かつての若者たちには、黙ったままサッサと死んでほしいわけよ。

生還してきた『特攻隊員』を罵倒し続けた上官らのセリフと、まるで同じだもの。

まだ生きてんのか!はやく死ね!!ってw

 

 

子どもと言っていいような素朴な少年たちは あっけなく死んでいき。

 

人馬ならぬ愛機と一体になり、大空を自在に駆けめぐる爽快感に、ただ全身全霊を浸していた若者。

 

ろくに操縦桿を扱う技術も持ち合わせず、

「そうか、死んできてくれるか♪」と、媚び滲ませた励ましの反面で、

なかなか死なない若い部下たちを「クズ」「卑怯」と罵倒した上官たち。

 

 

前線に送られた兵士たちのなかには、片っ端から掠奪し、レイプし、虐殺し、悪行のかぎりを尽くす、そういう、

日本国内では到底、許されないことを、現地では、気の済むまで やりまくれることを楽しんでいた者たちも いた。

 

 

「恥ずかしい日本の姿」であること、「日本のためにならない」ことを推進するのが、「反日」と呼ばわるべき対象であるなら、

「反日」とは、まさに「ネトウヨ」の類が該当するでは ないか。

 

いまどきに、「冷戦思考」を堅持せよと喚き散らす時代錯誤ぶり。

やっぱり、現憲法を変えさせ、特に『9条』を外させ、その後は意のままに使いたおしたいアメリカ「ジャパン ハンドラー」の類?

こっちも また、日本を巻き込み利用したいばかりな朝鮮人も入り混じった『勝共連』ナンタラ組織なのか??w

何を企んでのことか?

 

『日本会議』の連中が、昔の栄華を取り戻したいエリート層を中心にしているとは聞いてるけれど、

専門家であるはずの、大学教員らまでが、学問の徒とは思えぬほどデタラメ、キテレツ、クダラナイ目論見を推進しているとは、なんたることか。

【続】「羊を人間にしてやった」――愛国心と『日本会議』()

この連中こそは、搦め手でもって日本を壊したい『反日』じゃないかと、私は睨んでいるわけ。

連中は、口先で何を言おうが、日本のシモジモ国民を、人間のうちには入れてない。

 

利用することしか考えてない者は皆、共通している。

各々立場は様々なように見えても、つまるところは一つになる。

利用することしか考えてないからだ。

 

【続く】

 

 

Updated   
2018.08.10 (Fri)

広島:8月6日。午前8時15分。

長崎:8月9日。午前11時2分。

なぜ、こうした惨劇が起きるのか。

人類は、よくよく、考えねば なるまい。

 

時事問題プチ論――沖縄・米軍基地問題

 

ところで、私個人的には、あの戦争時の苦労話等を、たとえば自分の親から聞かされるという経験に乏しいほうだった。というのは、

うちの親父は、ごく若くして、陸軍の近衛将校だったから、戦地へ赴かされることもなく、戦争で、むしろ、良い思いを味わったエリートの一人でもあった。

その一方では、

あの戦時中に、前線で苦労してきた同世代の、かつての「兵士」たちに対しては、内心で忸怩たる思いを抱いていたようだ。

しかしながら、

かつては、「昭和天皇」一家の そばに仕えていた身でありながら、その親父にして、

中年頃までは、『NHK』の番組終了後に流れてくる『君が代』の旋律に、酔って正座しているようなところが あったのに、

年を取るにつれ、天皇や皇室に対しても、恬淡と言うか、無関心な態度に変わっていった。

晩年は露骨なまでに、明治生まれ、すなわち、自分の親らに当たる世代に対して、あからさまな反感を示していた。

その理由を敢えて聞くことも、本人が語ることも なかったけれど。

 

この親父とは年齢差が大きかった母親のほうは、戦時中、学校からでは なく、いわゆる個人疎開で、
私の祖父が手配した、田舎の一軒家へ、幼い弟妹を連れて移り、すでに病没していた母親代わりを務めて、父親から預かった生活費を遣り繰りしながら、現地の学校へ通いつつ、弟妹たちの面倒を見てやっていた。

けれど、なにしろ、本人も まだ小学生。

大阪から、仕事の合間を見て、何時間も列車を乗り継ぎ、生活費や物資の補給に訪れる父親を待つあいだ、どうしても、食べ物や現金が不足してしまうと、近所の商店などに頼み込み、生来病弱の からだで、井戸水を汲んで運んだり、掃除や店番を手伝ったりして、小金を稼ぎ、むずかる弟妹たちの食糧を調達したという。

なかでも、幼い叔母が泣きながら、姉を求めて、店をウロつくので、心を鬼にして追い返すのが辛かったと、その頃の苦労話を、涙ながらに、私に向かって述懐することが よく あった。

 

ただ、母方の祖父も、いたって裕福だったので、他の同級生たち、疎開先の田舎の子どもたちから見れば、恵まれた生活を しているように見えたのだろう、

学校に持って行く弁当の米なども、祖父の手配により、基本的に不自由することは なく、担任教師に、おかずを分けてくれよ、と羨ましがられるほどだったという。

しゃれた革靴を履いて登校する都会の お嬢さんにしか見えなかったであろう母は、ボロボロの草履か裸足で通う子も多かった田舎の小学校で、しょっちゅうイジメられたという。

そのせいで、「田舎の子は根性が悪い」と、酷く嫌っていた。

 

いずれにせよ、うちの両親には、双方とも、
前線で泥水すすり、空襲で焼け出され、家も家族も全滅、といった悲惨な体験は なかった。

それでも、

親父の生家の兄たちは戦死しているし、

戦後すぐ、大阪に戻った母が、街で同級生と遭遇したとき、その同級生は、疎開することなく、実家に留まっていたので、目の当たりにしたという大空襲で、どれだけ凄惨な状態だったかを聞いた話は、私も憶えている。

 

「おまえ、想像できる?いまの『難波』あたりから『梅田』まで、すかーっと見渡せる焼野原やったなんて」と言っていた。

 

高校のときの恩師は、広島での二次被曝者だった。

井伏鱒二の『黒い雨』が授業で取りあげられたおり、私たち生徒を見渡しつつ、やはり、こう仰った。

「あんたたち、想像できるか?普通に街なかを歩いてて、人の遺体が、道端に転がってても、誰も驚きもせんのやで。いまの時代なら、腕や指の一本ころがってても、警察呼んで大騒ぎになるやろ」と。

これらの話は、『終戦記念日』などの日に、旧ブログでも取りあげたことが あった。

 

私のような性質の者は、ちょっとばかり珍しいほうなのかもしれないなと思うこともあるのだが、

このように、自分の親族らから、それほどには、戦時中ならではの苦労話を聞かされる機会に乏しいほうだったものの、

その代わり、当時を生きた人の回想談や、戦時中・戦争前後についての記事が、新聞等に掲載されていると、できるだけ、目を通すことを怠らなかった。

それは、自分自身が、まさに「戦争を知らない子どもたち」の一人であるという、危惧を潜めた自覚からこそなのだが、ふつうは、自分が生まれる前のことなんて無関心な人が多いのかなと思う。

だが、

あの時代に、辛酸を味わった人たち、ましてや、子や孫を持つ人たちにこそ言いたい。

思い出すのも辛いことでは あろうが、子どもや孫らが、いかに無関心、鬱陶しがろうとも、敢えて、記憶が鮮明に残っているうちに、伝えてほしかったし、

いまからでも、余さず伝えておいてほしい。

 

もし、私の子や孫が いたなら、学校時分から自発的に、いろいろな機会を とらえては蓄積してきた戦争の惨さということを、間接的では あっても、伝えることを、やはり、怠らなかっただろうと思う。このメンドクサガリな私でさえ。

 

 

むかし、まだ20代だったか、実家に居た頃、テレビで、黒澤 明監督の『夢』という映画が放映されているのを観た。

その題名に ふさわしく、印象深い場面が幾つも記憶に残っているのだが、

そのなかでも特に忘れ難いのは、黒澤氏自身と思しき主人公が、とある山道で、戦時中の部下だったと思しき兵士たちに詰め寄られていて、

彼らは、すでに死者であるようで、ある種の不穏を感じ取っているらしい主人公は、かつてのように、上官としての威厳をもって、「貴様らは~」と、兵士たちの殺気を逸らすべく懸命に演説を始めるのだが、

やがて、これに説得されて、哀し気に うなだれた兵士たちが、まぼろしのように消えていったあと、突然、凶暴な犬に吠えかかられた主人公が焦っている、そんなふうな光景で終わるシーンが あった。

しおしおと消えていった兵士たちが なんとも哀れで、
見終わったあと、涙が抑えきれなかったことを思い出した。

 

9回出撃して9回生還 隠された特攻隊の真実2018/08/09 07:00

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/9%e5%9b%9e%e5%87%ba%e6%92%83%e3%81%97%e3%81%a69%e5%9b%9e%e7%94%9f%e9%82%84-%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ar-BBLGgom?ocid=FUJITSUDHP#page=2

 戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。

 命じた側は共通して志願だという。しかし近年、生還した特攻兵による証言が相次ぎ出てくるようになり、断ることのできない「志願」だったことが明らかになってきた。『不死身の特攻兵』に出てくる佐々木友次さんは一例だ。

 奇妙なことに命じた側の上官の多くは、出撃の際に異口同音「私もあとに続く」と演説した。けれども言行一致させたのはごくわずか。「最後の一機には、この冨永が乗って体当たりをする決心である」と佐々木さんらをあおった陸軍第四航空軍の冨永恭次司令官は敗色濃厚と見るや、特攻機にもつけなかった護衛機に守られて前線離脱している。その行動にはあぜんとさせられる。

 こうした「命じた側」の多くは悪びれもせず「特攻は志願だった」「現場で自然発生的に生まれた」と語ることで、自身の「責任回避」を図ってきた。

 戦死を報告し「軍神」となったはずの操縦士たちが帰還。扱いに困った軍は、生還した特攻隊員だけを集めて寮に幽閉し、「なんで貴様、帰ってきたんだ。そんなに命が惜しいのか」と追い込んでいった。戦後長く隠蔽(いんぺい)されてきた事実を追跡した『特攻隊振武寮』の解説で、取材を行ったNHKディレクターの渡辺考さんは、「命じた側」の沖縄特攻作戦の司令官で陸軍第六航空軍の菅原道大(みちおお)中将と倉澤清忠参謀の戦後の様子を紹介している。

 菅原元中将もまた「最後の1機で必ず、俺も突入する」と訓示した上官のひとりにして、戦後、特攻は命令ではなく自発的行為だったと言明し続けてきた。

 その菅原元中将は90歳を過ぎ、認知症の進行した晩年、「刀を持ってこい、腹を切る」「拳銃はどこに隠した」と家人らに命令口調になることが幾度もあった。そして8312月、亡くなるひと月前、息子に「二十歳前後の若者がなんで喜んで死んでいくものか」とつぶやいたという。

 倉澤元参謀は戦後、印刷会社を興し、菅原元中将同様、特攻隊の慰霊祭などにはこまめに出席するいっぽうで、家族には特攻の話をしなかった。そして常にピストルや軍刀を側に置いていたという。

 慰霊祭に出席している倉澤元参謀を見つけた、「貴様らは人間のクズだ」「ひきょう者!」と罵倒を浴びた「振武寮」の元特攻兵たちが「私たちを覚えていますよね」と呼び止め謝罪を求めるや、彼は慌てて首を振り、「覚えがない。どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じあげない」と顔を真っ青にして否定したという。亡くなったのは2003年である。

(文字強調は、当ブログ主による)

 

何年前か、『ユーチューブ』で、たまたま、戦時中の記録動画を見たことが ある。

あの「東条」が、さも尤もらしい表情で、大げさなくらいの身振り手振りで、若い兵士たちに向かって、大演説している場面だった。

高らかに、バンザイ三唱していた。

 

「諸神は!」

 

なんの造語だ。

 

いまどきの若造よりも ずっと純真クソ真面目な若い男の子を煽てるだけ煽てて。

へどが出そう、と思った。

 

 

――「断ることのできない『志願』」――

日本人において、歴史的にも顕著な特徴的なことだ。

一事が万事、これだ。

 

表面だけ拭って、さもキレイごとに見せかけておき、

実態は逆と言っても言い切れないほどの欺瞞。

 

まさに、アベシや、そのシンパら、『日本会議』のビジネス右翼どもに突きつけたい話だね。

 

 

Updated   
2018.08.10 (Fri)

時事問題プチ論――直近の話題まとめて

時事問題プチ論――ガッコのエアコン

 

沖縄の翁長知事が、ついに永眠されたそうだ。

30歳代頃なのだろうか、市会から始められた、お若かった頃の写真を見てビックリしたけれど、もともとはポッチャリしておられたんだねー、

晩年は、あのように、すっかりと痩せてしまわれたけれど。

 

さっそく、彼の「後継者」選びが難航とかいう話も聞こえてきているようで、

ますます心配というか、不審ですら ある。

 

たしかに、翁長氏の存在感は大きかったが、
すでに、重い病を抱えておられることは分かっていたはずだし、
次回の選挙も、その翁長氏が存在していてさえ なお、難しさが予想されていたというのだから、何をか言わんや。

 

 

沖縄県民どうしが、互いの意志を確かめ、沖縄県民自身がシッカリすること。これ以外には ない。

真実、「オール沖縄」なのであれば、それを堅持し、しっかりとハッキリと、内外に見せつけるようでなくては。

 

当ブログ過去エントリーでも指摘したことは あるが、

いわゆる本土の者たちにとって、その殆どが「他人事」なの。

もちろん、自分とこの自治体に、基地なんか持って来られるのも いやに決まってる。

 

米軍基地自体を、せめても減らすのが、これからの日本全体の課題なのだから。

 

 

あらためて言っとくけど、

「ネトウヨ」だか「勝共」ナンタラ韓国人だか「CIA」の手先なんだか、はたまた別の何だか知らないが、

この問題に関して、
「まずは、日本国憲法を改正しなければ!」とか「日本も核武装すべき!」とか「米軍基地は、沖縄に集中させてこそ!」とか「中国の属国に されてしまっていいのか!!」とかいったデマや感情むき出しのコメントは、いいかげんにしておきなemoji

いつまで唱えてるんだよ。まるで、「百回となえときゃ」ナントヤラ。

 

沖縄に、あれほど集中させておく必要は ないのに、なぜか、当の日本側が、その外務省が、必死になって引き留めている、という、ケッタイな話が聞こえてきており、

アメリカ側としても、ほんとうは、グアムに移転させるほうが、効率としては望ましいのだと、すでに指摘されているにも かかわらず、

莫大な「思いやり予算」が あることだし、それは それで、これまでどおりでも、アメリカが得することは あっても、損することは決してないから、というところなのだろうか。

 

当ブログでも、何度も指摘してきたように、
『日米安保』『地位協定』の問題を改善させもしないうちに、
改憲のほうから手を つけるなんてことは、断じて、あっては ならない。

ますますもって、エセ主権国家でしかなく、実態は、とうの昔から、敗戦国として固定され、「アメリカの属国」であり続けていることが あらわになってしまうだけ。

 

当時は悪くなかった吉田の目論見も、あれから時が流れ、時代の様相が移り変わり、先にハッキリさせておかないと ならないことが、いよいよ出てきているわけ。

国民みずからが、眼を背けずに、正面から見据えなければ ならないことが。

 

そして、それは常に、一般国民の眼から遠ざけられてきたし、
いまも、隠され続けている。

 

相変わらず、知らないうちに操られ、振り回され、
最後に現実の実態を突きつけられても、責任を とれないエセ主権者。

かつて、「主権者」であったはずの天皇と「臣民」のように、
互いに、責任を問う眼を逸らし合い、曖昧模糊のうちに、尤もらしく論を拵えて流すしかない。

 

現状、選挙に おいてすら、「民主主義」の装い看板を掛けておいただけの、カンボジア人民にも負けるのでは あるまいか、日本国民の無知さは。実は「めくら判」を押しているようなものに過ぎないのでは なかろうか。

 

いったい、どうやって、個々の一般国民自身で、事の次第と、今後の行く末を見極めることが可能なのだろうか。