2016.06.17 (Fri)
たとえば――
私の、お互いに、顔も知らない、ひいおばあちゃんが生きていた時代。
ひいおばあちゃんの身に、残酷な災いが、見知らぬ外国人たちによって齎され、そのために、苦しみのなかで命を落とした、
という出来事が あったのだとしたら。
私は、自分には関係のない、遠い昔のことなので、と割り切ってしまえるだろうか。
もちろん、顔も知らないのだから、懐かしい思い出の一片も ない、
それじゃ、あかの他人と、どれほども違わないのじゃないかと思えてくる ひいおばあちゃんの、ひそやかな素朴な生が、
ある日、不当に過酷な終わりを迎えたことを偲んで泣くこともないし、
普段は、もっぱら自分の日常に かまけての笑いや涙でしかない毎日だ。
でも。。。
この私が、ひいおばあちゃんの立場だったとしたら。
ひいおばあちゃんだって、
そこから100年近くも経とうかという時代に生まれる曽孫のことなんて、まったく想像すらしなかったことだろう。
でも、。。。
自分が、こうして死んでいったという事実を、
数十年、100年近く後に生まれて来て、生きていく孫や曽孫に、
血の色の扱き帯で結ばった自分が、どんなふうに生き、そして死んでいったか、って、
そんなの関係ねぇ~、って言うのを知れたとしたら、、、
やっぱり、少しは哀しく思うのかなあ、ひいおばあちゃん。。。と想像するの。
現実に、実際に、遭遇して、体験した人の思いや辛さは、後世の者には、想像することくらいでしか理解できないだろう。
当事者の存在は、とても、とても重い。
「おまえに何が分かる」と言われたら、もう何も言えないだろう。
でも。。。
関係ねぇ~って、言えない。私は。
人は、おとなになり、利口であるほどに、複雑な計算や考えを持つようになるので、
自分が犯した罪や過ちには、よんどころない理由を付けて正当化しようと図る。
どういうわけか、人は、
小さな罪を見逃さず、
大きな罪には称えることさえも ある。
みずからの罪や過ちが、ただ謝っても取り返しようが ないのだと分かれば分かるほど大きく深いと、
なおさら何とかして、もっともらしい理由を付け、正当化しようと足掻く。
自分の過ちの理由や、罪の正当化に事欠けば、
「おまえの持って生まれた星のせい」にも する。
誰だって、罪人らしく、ずーっと うなだれたままでいるのは厭だもの。
英雄的行為を実行したまでなのさ、と嘯いて、大きな顔をグイッと上げて歩きたいもの。
せんだって、
私は、とあるニュース サイトの動画を見た。
それは、
第二次世界大戦の戦勝国を中心に集った各国の人々が、天真爛漫な舞踊を賑やかに繰り広げているシーンだった。
やがて、
日本に、原爆が投下された場面が、背景に映し出された。
楽し気に踊っていた人々は、あたかも天の歓びが到来した瞬間を称えるかのように、しばし静止した。
上気した頬に、満面の笑顔たち。
覚えず、私の目には、涙が滲んでいた。
どういう感情のもとに滲んできた涙なのか、
自分でも、よく分からなかった。
ただ、自分が、その場に居ないことにホッとしていた。
私自身は、もちろん、戦争も、原爆も、体験していない。
また、父母双方とも、それぞれの個人的環境要因等により、
衣食住に関した苦労だけは、当時の周囲に比べると格段に少なくて、
両親から、おりに触れ、あの時代の話を聞かされることも あったけれど、
私としても、いちおうの関心は ありながら、
この父母から、戦時中の生々しい苦労話について聞けるという機会は、さほど多くなかった。
母のほうは、まだホンの小学生で、
仕事を続ける父親のもとを離れ、実母を亡くしたばかりの幼い弟妹たちを引き連れて赴いた個人疎開地にて、初めて味わった苦労やら、
慣れぬ田舎から、やっとの思いで帰阪したおりの同級生たちから聞いたという、大阪大空襲の凄まじい話など。
父のほうは、まだ非常に若い軍人ながらも、「肩で風切る」という謳歌の時代を、エリート世界に生息していたゆえ、国外の戦地の阿鼻叫喚を、一度として味わわずに済んだわけなので、
遠い戦地を生き延びてきた同世代と、戦後の平和な時代に出会い、語らうときの父は、普段に似ず、どこか面映ゆそうな、申し訳なさそうな表情を していた。
その反面で、
父の親の世代、すなわち、私から見て祖父母の世代を見るときの父の眼つきが、憎悪さえ含んだ軽蔑感を浮かべていたことに、私は、いつからか気づいていた。
一人だけ養子に出されていた父の生家の兄たち二人ほどは戦死していると聞いたが、もちろん、私は、その面影すら知らない。
旧ブログでだったか、この話も記しておいたと思うが、
私の学生時代に、現代国語の授業で『黒い雨』を取りあげたとき、
ご自身が、二次(間接)被爆(ばく)者であることについて話し始めた教師が おられた。
いまでも、その恩師の、些かシニカルな特徴的口調とともに憶えているのだが、
街なかの通りを歩いていて、人間の指一本でも落ちてるのを見つけたら、あんたがたはビックリして、警察官を呼んだりなんかして、さぞ大騒ぎするはずだろう。
しかし、あの時代は、道端に、人の腕や足の一本が、ごろんと転がっていたって、誰も驚きもしないんだ。想像できるかね?あんたがたに、と仰った。
述懐の最後のほうで、
「わたしは、正直言って、いまでも、アメリカが憎い」
と、力を込めて仰った。
自身の被爆のことよりも、娘への影響を考えると、どうしても、アメリカが許せなくなるのだ、とも仰っていた。
【続く】