2018.07.26 (Thu)
『「本質」の見分けが できない「ヤフゴミん」。』の続き。
障碍者で、しかも重度だから、これは排除一択とするのなら、
まさに、障碍とは、
「罪なくして受ける刑罰」
の対象者に他ならなくなってしまう。
(再掲)『“Leave Me Alone”』
いわゆる「健常者」と見做される人に対して、
「罪なくして罰」
を与えるなどという理不尽が許されるはずもないのだが、
これが重度障碍者に対してなら、許されるというのか。
ましてや、自己の意志表示すら不可能な人に対して。
それと、
こうした主張にも、その愚かさに、へどが出るほどの思いなのだが、
「ホッとした親も いるはずだから」などとヌカす輩。
どこの世界に、わが子がメッタ刺しされて、ホッとできる親が いるというのか。
こういうことを平気で言うバカが、たとえば、「親の無償の愛」だの「家族の絆」だの、
さしづめ災害被災者などに対して、「日本人どうしの絆」でガンバロウ!なんてな、歯の浮くようなことを言っているひにゃ、笑止千万も通り越し、鼻白むばかり。
ああ、この軽薄ときたら、まさに罪悪に等しい。
また、親が、各家庭において、障碍児の世話を するべき、という主張も、浅はかなんてものじゃない。
こういうことは、高齢の親の介護問題と共通性が あって、私自身も直面した経験が あるが、
さすがに、下劣な「ヤフコメ」内でもチラホラと、諌めの指摘する投稿者も言うように、個々の家庭で24時間介護などは、およそ現実的ではないし、単に「共倒れ」を招くのみだ。
だから、こういう分野においても、業種として従事する人が、妥当な報酬を得る大前提で、分担する。このほうが、だんぜん効率的であるし、
客観的な視野と広い蓄積を得て、研究と改善に寄与する。
問題は、日本だから往々ありがちなことなのか、私には分かりかねるが、
いわゆる「3K」と呼ばれるような、負担の重い業務に就いている人たちへの待遇が、じゅうぶんではないことと、人員補充のこと、かつ、医師等と違って、専門的知見と資質を備えていない者が、安易に就業できるというか雇用するしかないような現状、つまりは、行政面の不備と遅れである。
報酬や待遇に原因、というのは、少なくとも植松の場合には、あたらないだろう。
彼と同じ職場で共に勤務していた職員たちも いるのだから。
私は、植松が主張したヘリクツについての記事は、正直、あの顔を見るだけで、胸くそ悪くなるのを抑えきれないので、この頃は、あえて読まないようにしている。
おおよそにせよ、その主張も、事の経緯も分かっているのだし、私なりの分析も、ほぼ済んでいるので。その分析によって、
植松も加藤も、「本質は」同じなのだ、
と断言する。
ところで、
私は、個人的に、ある公的施設において、
おそらく「自閉症」等、いわゆる発達障碍児、および、知的障碍児たちの親子サークル活動を垣間見る機会が あったので、そのなかの参加児童の幾人かとは、じかに接触することも あった。
そのときの出来事を、何年も前に、ネット上で書き込んだことも あるし、いまでも、時に思い起こすことが ある。
それは、特に印象的な男児が いたからなのだが、
年齢は、たぶん、小学2、3年生くらいだったろう。その男児に関して言うならば、ことばを発することは できないながら、微笑んだり泣いたりして豊かに表現する あかんぼう、あるいは(これは語弊のある言いかたかもしれないが)、人間に慣れている犬や猫と、人とのあいだのコミュニケーションに近いものすら感じさせるほどなので、
だから、むろんのこと、年齢相応に、まともにコトバを発することも できない、知的な面での問題を抱えているには違いなかったのだろうが、
断言する。
あの男児は、単なる知的な遅れとか停滞というコトバで かたづけられるものでは なかった。
むしろ、尋常ならず鋭敏で、些かの濁りなき その眼を通して、通常児には見えないものを見通す子であった。
感情は じつに豊か、その表現は、ダイレクトに、人の心に訴えかけてくる力が あった。
はっきり言って、この子は、ある意味では、並はずれて聡明な子である、とさえ思えた。
ひとくちに「発達障碍」だ何だと言えども、やはり、他の事と同様、その子、その人によって、表出してくるものや度合は様々なのだということを、あらためて実感させられたものだ。
もちろん、
何を考えているやら、当人の関心を ひいたらしい対象にのみ、ひたすら没頭し、周囲の呼び掛けには全く反応しないという極端な状態で、ひどく手こずらされた子どもも いたけれど。
こういう お子さんだと、親ですら、持て余すだろうなと思ったりしたが、
やはり、これは これで、この子 本人なりの、ことばには できないけれども、理由に近いものは、内に あるのだろうと思われた。
さて、
教職を落っこちた過去を持つらしい、入れ墨、整形やりまくり(?)植松の吐露するところ、
「『心失者』が、糞便を撒き散らし」云々ということだそうだが、
だから、意思疎通が できない、と決めつける前に、
なぜ、そういう行為を するのか、ということを少々考えてみよう。
幼い子どもは、体温調節しかり、排泄機能しかり、まだ未熟であるうえ
(いつぞやのエントリーで挙げた、例の『森友学園』籠池夫妻の教育方針とやらに、私が怒りを覚えた理由の一つだ。こんなものに賛同していた安倍夫婦、『日本会議』w)、
排泄に関するルールも、順を追い、時間を かけて、理解させていくわけだが、そもそも、このように普通の場合ならば、日毎、理解能力が成長し、向上が望めることの前提が、ある地点までで、知的能力が止まったままの重度障碍者ならば、そのように いくはずもない。
なお、
子どもは、自分に対する関心を得たいがために、親や養育者を困らせることをワザとすることが ある、ということを、新幹線にて殺傷事件を起こした者についての先日のエントリーで触れておいたけれど、
私は、専門的な知識を持ち合わせないので、自分なりに推察して述べるのみだが、
たとえ、からだは、いちおう普通であっても、知的な滞りが重いということは、必然的に、表現方法全般も幼く、拙くなるだろうし、
もしかしたら、その重度障碍者なりに、そういう表現でもって訴えたいことが あったのかもしれないでは ないか。
【続く】
2018.07.26 (Thu)
こないだ、「親の責任とは」というテーマの過去エントリーなど幾つかを再アップしたとこだが、
昨夜、世界初の「体外受精児」いわゆる「試験管ベビー」第一号の女性のインタビュー記事に付いた「ヤフゴミん」らのコメントを眺めていて、
親になった連中ってのは、
このことは、私は、何年も前、ネット上で攻撃されたこともあって、知ってはいたけれど、
よっぽど、「エゴ」だろ、と指摘されると、カッカする者が多いのねw
まあ、図星だからよねww
あのね、
なかには、ひらきなおり まる出しのていで、「エゴ」と言いたきゃどうぞ、てなフテクサレ反応してる者も少なくないが、
そう、「エゴ」でアタリマエよ。
何にも代えがたく自分は可愛い、自分の命は大切、それの延長にあるのが、「自分の!自分の!子どもが欲しい」ってことだもの。
自己愛が、本能由来であるのと同じです。
で、本能について、良い悪いを言っても しゃあない。
ただ、「自己愛性人格障害」者みたく、度を越してると、犯罪行為にまで進んでしまう恐れは ある。
「人間社会の維持に貢献しているんだから」
と主張する者に問うけれど、
「人間社会を維持しなければ ならない理由は?」
…客観論理的に答えられるわけないね。
これじゃ、思考停止だあね。
せいぜい、自分が人間の一人だからと、それくらいしか言いようが ないんだもの。
ただ、
人間たる者、人の子の親たる者、犬や猫とは違うと言いたいのなら、もう少し客観的に知的に考えられないと、ちとナサケナイ気もする。
野生動物の親と言うか、その殆どの場合は、雌が、オスなんかアテにしないで、ひとりでカラダ張って、子どもを守りつつ育てるよね。
いちばんダラシないのは、人間の雌!www
オス側が、往々、わりとチャランポランなのは、この点では、動物と人間に共通性が高いかもしれない。ごく一部の種を除いては。
野生の世界じゃ、そもそもから、オスを全く必要としない無性や単為生殖しとる種も少なくないようだからね。
以前にも指摘したとおり、子どもを産み落とすことに、あたりまえの感覚しかない者は、それだけ、思考停止でも生きてこれてた、ということ。
または、
コンプレックスの解消になると思い込んで、子を利用している自覚のない俗物根性ゆえ。
まあ、子ども つくった以上、責任を持って、必死になって育てあげるしかないし、
同時に、
おのれの子や孫の現役時代をも見越して、社会全体の問題改善・向上について、見識を磨きなさいヨw
特に、思考停止の特徴的種族である「ネトウヨ」系が、あつかましくも、親になってる場合ねw
あんたらの子どもも、親の影響で、「特ア」「特ア」などと叫ぶ「ネトウヨ ジュニア」に育ったあげく、
ネットでデマ飛ばしたり、「八つ当たり犯罪」者にならないように気を つけなよ、はた迷惑だからね。
ああ、でも、大衆というのは、見識が高いはずもないかwwまして、「ヤフゴミん」だものwww
それと、
まだ生まれていないどころか、そもそも存在していないものと、
すでに生まれたあとの人間の存在とを、同列に語るのも おかしいのよ。
これに関連してくることを、以下にも述べることになる。
さて、
『相模原』の植松と、『秋葉原』の加藤とは、「本質が違うから」云々、
また、加藤のほうが、一般の人を無差別に襲ったから、もっと怒りを覚える、などと投稿している「ヤフゴミん」に、いよいよもって私は、呆れも通り越し、絶望感すら感じた。
なにが、「植松の場合は信念によって」だ。
バカとしか言いようが ない。
まさに「八つ当たり」殺人事件。
挫折と劣等意識を、ヘリクツによって正当化する植松も、そして加藤も、
それこそ、「本質的に」同様のことを仕出かした、という認識にならなきゃおかしいし、
やっぱり、「重度重複障碍者は、生かしておく必要ないんだから」、という排除の考えが真っ先に来てる。
私は、過去エントリーで、何度か述べてきた。
重度も含めた障碍者を生かすことは、けっして、「非生産的」なことなのでは なく、
むしろ、その存在自体を もって、医療・福祉分野全般への貢献が あるのだと。
だが、これまでに、メディアに登場する「識者」や関係者、当事者ですら、やはり、倫理意識や情緒的なことに立脚しての意見のみで、明確に解説している人を見かけたこともない。
私のような考えかたを している人は皆無なのだろうか。
もちろん、ほぼ寝たきり状態の人や、回復の見込みが ない人を大量に生存させ続けるということについては、現実的に、いろんな面で問題が発生する恐れが ないとは言えないことは、私も思っている、しかし、
即、排除、という社会システムであったとしたら、やはり、わが身に、わが子に、そのような状況が発生したときの想像を、全く しないという人は、何かが欠けているか、幼児的な楽観性だけで とらえているように、私は思う。
「胎児」というものは、「人」の範疇に入れないということになってるらしいから、産前の検査によって、そのまま産むか、中絶するか選択する権利は、確保されて いい。親側の事情も様々だから。
ただ、承知のうえで敢えて産んだ場合のみならず、
よもや まさか、で産まれた障碍児も少なからず ありうるケース。
なので、排除する社会システムにするのならば、胎児段階で完全に排除せざるを得なくなるが、しかし、
産前検査が完璧というわけにも いくまい。
その場合、
ただでさえマイノリティに属するうえにも、排除すべきという方針となった社会システムによって、療育や介護の知見と技術も、蓄積と発展が妨げられて、ますます困難になっている状況のなかに、障碍者本人ともども親だろうが職員という他人だろうが等しく放り出されることになる。
もしも、人生なかばで、そんな事態になった場合、どうなるのか、考えたことは ないのだろうか。
「胎児」と違って、生まれてきた以上は、あくまで「人」として見做されるのであり、そのように扱われる。そうでなければ ならないはずだが、
生まれてきても、「人」として扱うに価しないとするのなら、「人では ないのだから」と無理やり理由付けし、抹殺することを、植松のヘリクツのように、正当化しなければ ならなくなる。
【続く】
2018.07.20 (Fri)
『「東京オリンピックで死者」』の続き。
つい最近も、児童が、学校の行事後、「熱中症」で亡くなったということだが、そもそも、その前から、児童みずから、「疲れた」と訴えていたらしい。
また、
プールサイドで2時間も見学させられ、帰宅後、体調が おかしくなった、とかいう親さんの訴えとか。
どちらのケースも、私自身の学校時分、似たことは あった。
私は、体格に似合わず、虚弱なほうだから、小学校の低学年頃までは、遠足などで、長時間にわたって歩いたりしていると、すごく しんどくなってしまうことが よくあったのだが、それを訴えると、教師も、真剣には取り合ってくれないし、母親なんかに知れると、「だらしない!」と怒られる。
中学生のときは、「水泳大会」の行事中、プールサイドで、「体育座り」で整列させられたまま長時間、直射日光を浴び続けたせいで、
「日本人離れしている」とまで言われていた色白の皮膚は、帰宅する頃には、見た者がビックリして、笑いだすくらい、あり得ないほどの真っ赤になっていた。もはや、ヤケド状態。
おふろに入ることも できないほどヒリヒリと激しく痛み、そこから何日間も、ひどい思いを した。
それでも、私の学校時分は、近年ほどの酷暑の連続では なかったから、これで済んだのだと思うが、
このように、日本の学校というのは、私に言わせれば、ぜんたい、日本人の愚かさを凝縮したような世界だ。ここから、日本人特有のと言いたくなるほどに愚かな社会構造に繋がっていく。
子どもが、しかも、幼い子どもが、口にした訴えを、おとなが軽視しては いけないと思う。
何度か言ったように、私が子どもの頃、夏の夕刻には、決まったごとく、夕立がバラバラッザーッと降ってきて、ひとしきり雷雨にもなったり、
言わば「スコール」に近いものなんだろうなと、当時から思っていたけれど、
それが短時間で上がったあとは、その おかげで、夜間に入った気温が、少し低くなり、網戸を通した夜風が入れば、それなりに眠れていた。
夏休みの早朝などは、いくぶんか涼やかな空気感ただよい、
スタンプを押してもらいに、幼なじみと誘い合って、朝の体操集会に参加することも、ネボスケの私でさえ、苦には ならなかった。
その「スコール」が起きなくなったまま、気温だけ高くなっていき、
「砂漠の国」なんかは、日なたは危険でも、日陰に入りさえすれば、吹き抜ける風はカラッとしていて、夜間は寒いくらいだと聞くけれど。
だ・か・ら、
「ヴァカンス」制度を、わが国ほど、導入するべきだったろ!と言うの。
去年だったか、「学校に、エアコン設置したら、子どもの夏休みを短くすべし、教師の負担を減らすことにもなるから」てな記事を読んで、
ケッ、ばかどもめ!と思ったもんだ。
共働きの親も、学校に行っててもらうほうが助かるから、だって。
おとなも子どもも、ヴァカンス!これでキマリじゃわ
夏こそ大いに書き入れ時と、仕事する人も いていい。
それは、選択しだいで。
ふだん「ヒキコモリ」状態になってる人でも、ガランとした街に出て、人間が少ない職場で、ワリの良い「夏季限定労働者」になるのもアリだろう。
でもさ、
数年前に読んだ記事では、経済逼迫してきたスペインでも、「シエスタ」という習慣が薄れてきてる、ということだったが、
スペイン暑しと言えども、
アフリカから来ました、という人が、また、ベトナムから来ました、という人も、
「うっとこの国より暑いわ~」
とタマゲる日本に比べりゃ、どうってことないんじゃない?
それでなくても、
このクソ暑いのに、現代日本の裃とばかり、西洋人のマネしてスーツやネクタイ、ストッキングにパンプス。
アロハやムウムウ、アッパッパでエエやろ!!
と、旧ブログでも書いてたら、
常連ブロガーのジイサンが、何やら、やけに怒っとった。
「ここは日本だー!!」ってさ。
だ・か・ら、
あんたは『産経』ブロガーの典型ジジイだわっちゅうの!
自分の若い頃には、いまほどは暑くなかったし、景気も良かったし、その世代では、まだ ちょっとばかり珍しかったであろう大卒のサラリーマンとして楽しく仕事に精出して、
いまじゃ引退し、悠々自適の年金暮らし。
涼しい自宅でノンビリできる ご身分よねえ。
だいたい、私は、
祝日なんかの設けかたもチマチマ分散して、それでも「年間休日は多いほうなんだー!」と主張する権力者や、へえへえ、さようにござりますです、と、おとなしく従うばかりの労働者という、いかにも日本的な日本人がキライだと、若い頃から思ってた。
その昔、兼好法師も、
「夏を むねとすべし」
(「暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」彼が生きてた時代でさえ、そうだったんだなあ。まったくもって、そのとおり。うちは、わろき住居。)
それ以外にも、こう、と言った要は なくても、多目的なスペースを、家のなかに一室は設けておくほうが良いよ、と喝破しておられた。
こういう合理的余裕精神は どこへやら。
ところで、「純和食」なるものの盛り付けを見てごらん。
朝鮮民族の『クジョルパン』とかいう宮廷料理の名残だというものに少し似て、チマチマ一口ずつ盛り付ける。
ちまちました家のなかでチマチマと寝起きしチマチマと飲み食い、たまの休日は、芋の子を洗うが如き市民プール等へ、チマチマと泳ぎに行く。
せいぜい「ゴミ拾い」や「災害時の一糸乱れぬ整列」なんかを美談にしてもらうことで注目してもらい、外国人に褒めてもらうが関の山。
近頃チラホラ見かけるのが、
カーディガン、それも、春先や秋口に着るような、防寒用のカーディガン羽織って、
おまけに、マスクまで着用し、炎天下を、日傘とて差すでもなく、てくてく平気で歩いている女性。
最近では、マスクは、冬季以外にも、「日焼けを防ぐため」とか「大気汚染から守るため」という専用製品が出ているらしいものの、
あるいは、
エアコンの冷気がキツイのをガマンしていたのかもしれないものの、
それにしたって、
実際問題として、暑くねえのかよ?!とビックリだ
ある意味では、こういうのも、気候条件の変化に合わせた「進化」、ということなんだろうか??
人類の新しい進化が、灼熱の日本において、若い女性たちから始まったのだ、ってか?
最新のエアコンほど、電気代が抑えられるらしいのは知ってるけれど、
さりとて、電気代は恐い
昨夜だって、動かしっぱなしのエアコンを切ってから出ようかな、と迷ったが、短時間の外出だから、やっぱり、つけたままで出てよかったと、帰宅する前から思ったわ。
これじゃ、いつ切ったら いいんだ?。。。
長時間にわたる外出の場合は、切っておき、
短時間の外出時には、つけっぱなしが、むしろ、節約になるという、それは、パソコンなんかも、立ち上げ時に、最も負荷が かかるのと同様なのかなと思うけど、
仕事等で長時間外出したあとの、
玄関あけたらモワッと熱気、
このほうが、もっと苦痛なんだけど。。。
うちの新しいエアコン、さっそくの連日フル稼働で、ほんとに、切ろうかという隙もない暑さ。
エアコン内のカビを防ぐには、「送風」に切り替え、ある程度の時間まで運転してから切るといいらしいのだが、
そうすると、せっかく冷やした室内が、だんだんと、また暑くなってくるわよね。
それでも、タイマーを利用して、「送風」にしてから切って、ガマンして眠るようにしてるんだけど、ものの1時間したら、汗だらだらで、目が覚めて、ぼーっとしたまま起きちゃう。
わが国こそは、「シエスタ」も「ヴァカンス」も、必要。
もし、私が政治家だったなら、こういう「グランド デザイン」にもとづいたヴィジョンを掲げてたね。
まあ、もう遅いわな。
John Frederick Lewis,RA(1805-1876)The Siesta(1876)
Bridgman(1847-1928)The Siesta
2018.07.20 (Fri)
という懸念が、やっと今頃にもなって出ているようだが、
そんなことは、最初から分かりきってたはずでね。
『オウム』死刑の前夜祭から
「死の祭典――『東京オリムピック』――」へと。
すばらしきイベント国家・アベ政権・ジミン党と、
三拍子そろってございますね。
私が、旧ブログで、「アベシら、またもや、よけいなことを呼び込んで」と、決定直後の、狂喜乱舞する人々の ようすを眺めながら、
日本人って、まじで、バカになってるんじゃなかろうか、
と一人苦々しく思う気持ちを、旧ブログに綴ったことだった。
もともと、オリンピック誘致に反対してる声は少なくなかったはずなのに、そこへ もってきて、あの東北での大災害でしょ。
いろんな面で、オリンピックやってる場合か、しかも、クソ暑いの分かってるのに、もっと負担が増えるじゃないか、ここは、被災地に全面注力するべきじゃないのか、と呆れましたがね、私は。
周辺の海へ、放射性物質を垂れ流しておいて、「あんだあ こんとろーる」と のたまったアベシ。
バッターン死の行進ならぬ「死のオリンピック」てな事態になったら、大恥の上塗りニッポンだわ。
まあ、「カサンドラ」の意見には、誰も、耳貸さんわよねw
『東日本大震災』に対してと同様のパターンで、
苦しんでる最中の国民は、あとまわし あとまわし。
最優先は、なんたってカネ、利権、カネ、利権、カネ、利権。
これが、ジミンの生きる道。
この道しか ない!!あべ。
大阪では、いま現在、知事やっとる松井はんが、自分とこの会社に甘い水ひっぱってきたいという内心の目論見あって、アベシと あれこれの裏取引(←例の『森友学園』問題も含まれてる)っつう話は、すでに だいぶ前、眼にした記憶も ある。
だいたい、パチンコ業界との癒着が昔から最も濃厚な政党は、ジミンに決まっとるがな。
特に、アベシは、爺さんの代からのズブズブ、って話、有名でしょ。
こういうところを見ても思うのは、
実は、在日朝鮮人(韓国人含む)が、過去から最も支援してきて、癒着してきている政党は、ジミン党じゃないのか。
でも、けっこうフクザツでもあるんだろうと思う。
私が子どもの頃は、パチンコ屋さんって、いまより もっと多くて、駅前ともなるとズラ~ッと何軒も建ってた。
ふと気づいたら、いつの間にか、だいぶ減ったんだなあ。
そう、ちょうど、こっちも、「在日」が多々である暴力団との関係性に似てるんだよね。
もともとズブズブながらも、なんだかんだ、締めつけられて、減らされていってる面も ある。
「腐れ縁」ってのは、まさに、こういう感じなんだろうな、
いまだ利用し合ってるだけに、「発言力」は大きいというか大きかったんだろうけど、
それだけに、ジミンのほうも、連中に、それ以上の力を持たせないよう、生かさぬよう殺さぬよう、したたかに調整していってる、って感じww
その点では、
カケヒキ下手な野党のほうの「在日」一般に対する姿勢というのは、ジミン党のトコトン私利から計算づくとは多少なり異なっていて、利権よりも理念・イデオロギーから、のほうが先立っているようには思える。
今度も今度とて、
「カジノ」反対する野党は、「パチンコ」つまり朝鮮のためにだからウンタラカンタラ~!!と、
販売店も加わった『産経シンブン』関係者やら『ヤスブシン』あいや『安晋会』やら『日本会議』やらやらのシンパら入り乱れて相変わらず「ヤフゴミ溜め」に大集合、
して、必死の防戦と扇動のためには、どっちみち、野党を攻撃、この方法しかないワンパターン。
ま、
手下ども、一斉投稿(攻撃)せよ!
という指令が出てるんだろね(嗤)
ほんに、あの「カルト連」のやりくちだ。
ああ、もちろん、私は、もとから、「カジノ」は基本的に反対です。
それは、橋下さんが、大阪府知事やら やってたときから、旧ブログにて述べていた。
まず印象的に、いかにも「カネカネカネ」ほーしぃツクヅク、
ってな感じが して しゃあないから、やめといてほしいとw
だいいち、近頃では「アミューズメント」を自称するパチンコ業界も、今度の「カジノ」に参入していく構想が あるんだということも、はやくから指摘されてたよ。
でも、いまは、ハッキリ言って、最終的には失敗に終わる危惧のほうが高いと感じるから、私も反対するんだけどね。
「カジノ」だけじゃないんだ、大会議場がとか、一大リゾートとして、とか、そういうことも含めて、やっぱり、反対。
国土性というのか、風土から来るものなのか、
日本人ってのは、それこそ、「ラスベガス」みたいな華々しいものを運営し、維持していくだけのスケール感を持ち合わせない国民性だと思うのでね。
しかも、けっこう飽きっぽいと きてる。
飽きないように、チマチマと、ホソボソと、
それが、良くも悪くも、地味な日本人全体のサガ。
スケール小さいんだから、似合わんことは、避けて、
もっと、日本ならではの やりかたを、くふう、強化するほうが いい。
ましてや、
ここへ来て、しょせんは小金持ち程度しか いない一般国民のフトコロを あてにしてるってんでしょ。
なんなら、カネも貸しまっせぇ、と。
以前ほどには、国力も ないし、
分は わきまえないと。
最初のうちは、マスコミに煽てさせて、上手くいってそうに見えさせても、結局、毎度のパターンみたいに、ポシャると思う。
あとに残るのは、、、言わずと知れてる。
ますます、一般国民・庶民のクビだけ締まるわよ。
ぶちあげた連中が、責任とるわけないのは、ハナから分かってるのだし。
『【東京五輪】“殺人オリンピックになる”と英タイムズ紙が警告 観客も熱射病で死亡か』
2018年07月19日 15時15分 日刊ゲンダイDIGITAL
https://news.nifty.com/article/sports/athletic/12136-059076/
「~高温多湿に慣れた日本人が次々とメダルを獲得。そんな東京五輪になるかもしれない」
は?何を言ってるの、ゲンダイさん。
日本人選手は そうかもしれないとしても、観客その他は どうなの?
何十年と、この日本で生きてきて、夏の暑さにだけは、いまだに慣れるということが ないですよ。
私の周囲の誰に言っても、そのとおりだ、と頷くよ。
そりゃ、地方・地域によって、多少の差は あるでしょうけど。
ここは大阪の片隅なんだが、
一昨夜、やけに赤い月を眺めながら、短時間、近所に出ていて、
遅い時間帯なのに、少し歩いただけで、汗だらだら。
たしかに、道の両側に建ち並ぶ家々からの熱気も、それは多分に室外機から噴き出してることも感じるが、
なるほど、独特の重ったるい湿気が多いんだと、あらためて実感した。
私は もともと暑がりで、大量に汗かきやすい体質なんだけど、
汗は かけども、蒸散しない。
こんだけ汗かいてても、体内の熱が出ていく感じが ない。
したがって、肌がベタベタするほどに、ますます、熱が こもっていく。
歩いてる途中、最近になって建て始めたらしい、小規模マンションを見かけて、
「夜遅くで、この暑さなのに、昼日なかに、戸外で肉体労働する人たちは、まじで危険やろうに」
と、敷地内に置いたままのミニ クレーン等を見遣りながら思った。
『京都で最高気温39.8℃ 観測史上1位タイ この先も酷暑つづく』
7/19(木) 18:16配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180719-00010005-wmap-soci
これからの われわれは、40℃程度の気温は通常レベル、としての夏を過ごさなければ ならないのだろうか。。。
どこのドバイやねん
火責め水責め、ここは地獄かよ、日本列島
【続く】
2018.07.18 (Wed)
『“Leave Me Alone”』の続き。
人間性欠落性党、ジミン。
さて、このところの一連の『オウム真理教』教祖・幹部らの処刑を報じる記事を読みつつ、あらためて感じるのは、
直接担当の係官たちと同じく、この国の「国民」という名のもとに、私たち老若男女の皆が、「死刑」ボタンを押しているのだという、なんとも、後味の悪さ。
否応もなく参加させられている、政権主催の「処刑ゲーム」。
このように、犯罪者という者は、直接の被害者に対してのみならず、二重三重に、罪を及ぼしてくる。
自分自身が、また身内の者が、このような重罪を犯さずにいられたことに、「彼我の差」を驕る気持になれようか。
免れてあることを、ただただ有難く思うほか ないでは ないか。
…と、こんなことは、
いま、国家権力を振るう立場の人たち、安倍シュショーしかり、上川ダイジンしかり、
住んでいる世界も生活レベルも異なるからなのだろうか?
感覚や思考回路において、まさに『オウム真理教』の連中と同様、私などとは根本からして異なっているようだ。
むしろ、ダイジンがたのほうが、よっぽど、『オウム真理教』の連中と近い感覚や考えかたなんじゃなかろうかと思える。。。