2016.04.27 (Wed)
この曲を、近いうちに、うちのブログでアップするつもりでいた。。。
今度はビリー・ポールかよぉ。。。
まあ、彼の場合は、年齢もあるし、病気も分かってたそうだが。
『米ソウル歌手ビリー・ポールさん死去、81歳』
2016年4月26日(火)10時29分配信マイナビニュース
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/mycom-20160426024/1.htm
いわゆる、「フィラデルフィア(フィリ―)サウンド」っていうの?都会的で、なんとも言えず、色っぽい。
ビリーも そうだし、『天使の ささやき』で一世を風靡した“The Three Degrees”という女性グループも良かったね~。
とっても女らしくて、とにかく色っぽくて。まさに「世界の恋人」。
先日、急死したプリンスのは、「ミネアポリス サウンド」と称されていて、
しかも創始者であるということだ。
『プリンスの急死に世界が号泣。どこがそんなに凄いのか?』
(SPA!)2016年4月25日(月)配信
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/spa-20160425-1098719/1.htm
~
けれども、一方で楽曲そのものに目を向けると、基礎構造は驚くほどシンプルだと気づく。言葉とメロディを組み合わせるソングライティングの第一段階において、余分な細工がほとんど見当たらないのだ。
~
もちろん、これだけでプリンスの偉大さがカバーできるわけではない。しかしながら、複雑に掛け合わされた音楽なのに、これほどまで多くの人に親しまれたのは、ライトなリスナーをもとらえる分かりやすさがあったからだろう。
しかし、分かりやすさこそ、最も解明しづらい要素であることは、言うまでもない。プリンスは、種明かしをしないまま、逝った。
~
うん、この記事を読んで、思い起こした、「創発」というコトバ。
ま、芸術分野でも特に、名作と評価されるものの構造に多く見受けられるところではないでしょうか。
考えてみれば、「この世はヴァリエテに満ち満ちて」いるのだと、
例のQAサイトで、むかしの回答に述べたことが あったなあ。
あのときの質問者さんは、私の言うところの意味を、なんとか、そこそこながらでも理解できてくれていただろうか?と思うけれど。。。その部分以外は、ほぼ全体が、自分でも、もう 思い出せない。
「分かりやすさこそ、最も解明しづらい要素」
これなんかも、あの「カルト連」のオッサンやババさまらに説いてやって、サッパリこと理解できないようだったからなw
そういうのって、哲学の「エバー グリーン」たる、基本たるところでしょうによ。
その時点で、つくづく、
「あ、この連中、看板に違って、哲学の素養としてもロクに持ち合わせてないし(ネットや他人の言うところをマンマ知識としてコレクションするのが関の山)、そもそも、素質自体が備わっていないんだ」
と気づいた。
向いてないんだから、無理しなきゃいいのに。
あやつらの分身だか部分だか、お面の一つだかwのbragelonneときたひにゃ、「創発」の理論を噛み砕いて説明してやっても、全然ワカラーンというので、ついには毎度のパターンでワケわかめなオステリー起こして、罵詈雑言吐いて寄こしたもんなぁ(嗤)
要するに、あれらは、本質からして向いてないんだ、哲学というものにも、科学にも。
せいぜいが、やすっぽいスピリチュアルの真似事に走り込み、胡散臭い宗教に、ただカブレていくしかない。
自分一人で縋ってるぶんには、どうぞ お好きに、だけどさ、
筋合いもないのに、大嘘ついてでも勝手に引きずり込もうと、ああいう くっだらんハカリゴトするから、傍迷惑になる。
話を戻して、
ビリー・ポールの年齢を知って驚いたことには、うちの親と同年配なんだけど、
わたしゃ初めて、この曲が、FM放送で、たまたま流れてきたのを聴いたとき、ビリーの歌声に、たちまちトロけちゃいましたがな。
じつに名曲、間違いなく「エバー グリーン」の一つだね。
この歌を、ビリーと同じ歌唱力で歌いこなせる人って、いるのかなあ?というくらい、むずかしいぞと思う。
安らかに。。。すてきなビリー。
2016.04.23 (Sat)
こないだ、ボウイが亡くなったばかりなのに。
それでも、ボウイの場合、すでに病気のことが分かってたから、自他共に覚悟していて、それを見据えて、最後の仕事を仕上げたらしいけど、
プリンスの場合は、あまりにも あっけなかった。
でも まあ、とりようによっては。。。だね。
ところで、
私らの世代は、いわゆる「バブル」の子、みたいな言われ方されて、いまどきの若い人たちには、何もかも誰も彼もが恵まれてて良かったんだろうみたいに思えるそうなのだけど、けっして、そんなことは ない。
やっぱり、どんな時代に あっても、その人その人によって、情況は大幅に異なることもあるしね。
まあ、全方位的に特異な条件を背負っている私なんか、クラスメートや親しい友だちのなかにすら、自分と共通した悩みや同様の環境を持っている子は、ほぼ皆無だったので、ほとんどの子が、あくまで私から見たら、うらやましいほど恵まれてると感じることも多々あったけれど、
なかには、経済面は豊かな家庭でも、祖母と母親間の嫁姑争いの激しさの果て、小学生の頃に、母親と二人で家を出て、その母親が、その後、入院し、退院することなく急死したのを、2、3日ほど、自分だけが、その事態を知らないでいて、反発の対象だった父親から突然、母親の葬儀の日を知らされ、混乱と葛藤の気持ちを抱えたまま、母子二人で暮らした家から元の家へ戻ったという過去を持つ友人も いた。
また、
母親よりも父親のほうを、ずっと信頼していたのに、その父親は、女房にウンザリしていて、よその女性と一緒になるために離婚し、あまり好きでない母親のほうへ残されたせいなのか、性格が ひどく屈折していた子も いた。もっとも、その子は、亭主に見限られたらしい母親のほうに、外見も性質も、よく似ていた。
ただ、
いまごろになって、
世界情勢やら現政権の方針等からも、なんだか不穏さが漂っているような、そうとうキナ臭くなってきた感じも しないでは ないけれど、
あの時代の日本は、さすがに、行きつくところへ行きついた敗戦の阿鼻叫喚のあと、やっと訪れた平和第一の時代の さなかだったからなのか、戦争なんてものは、いかに理由が あろうとも許されないことという基本は揺るぎない、単なるタテマエでない感覚は、私が所属してきた市井の市民、一般国民間においては、多かれ少なかれ、誰しもに あったように思う。
まあ、そういった大上段っぽいこと以外では、
ロックを中心としたミュージック シーンでの収穫が、画期的なほど豊かに広がっていたこと、かな。私個人は子ども時分から、日本の歌謡曲とかアイドルに興味薄いほうだったし。
あとは、ファッションの面かな。
こういった点では、いまどきの若い人たちが、なんとなく少し可哀そうにすら思えるのよ、
音楽でもファッションでも、日本国内では、なんか ちょっと貧相な印象が あって(苦笑)まあ、一概には言えないけど。
私だって、自分たち世代の流行ものが薄っぺらで安っぽく感じる面も あったし、親や祖父母が若かりし時代のファッションやら音楽に「レトロ」「レトロ」と憧れたこともある。
さて、プリンスの楽曲で、特に好みの一つだったのは、
“When Doves Cry”(『ビートに抱かれて』)
久々に「プリンス漁り」をして、
たとえば、エルヴィス・プレスリーのステージについても、旧ブログか過去エントリーで感想を述べたときに、同じようなことを思ったのだけれど、
(ちなみに、うちの母親は、一つ年下であるプレスリーの熱狂的なファンだったw)
ジャニス・ジョプリンでもマイケル・ジャクソンでもプリンスでも、パワー全全全開と言うか、これじゃ、ステージ降りたら疲れ果てちゃってるわなと察せるほど、一滴の手抜き一切ナシに最初からブッ飛ばし最後まで駆け抜ける、ってな感じ、とにかく、パワー!パワー!で仕事熱心、ひたすら忠実なのね。
そりゃあ、ずば抜けた成功しなきゃ おかしいとも思えるくらいだけど、
その反面では、ありがちなクスリの問題が つきまとうね。
ともあれ、
Rest In Peace, Prince
あえてプリンス以外のミュージシャンで。
2016.04.10 (Sun)
せんだって、
くだんの映画作品を、『モーターサイクル ダイアリーズ』に同じくヤフーのサービスにて観せてもらった。
そのサービス自体は大いに結構なのだけれど、
鑑賞したユーザーたちのコメントには、せっかくの名画を台無しにしてしまうほどのコマーシャル動画のウザさぶりについて、ならびに、
こういうコマーシャル挿入の やりかたでは、かえって、その提供企業に対する、視聴者からの反感さえ招くであろうという批判が あった。
一般のテレビ ニュース サイト等で感じていた不快と共通していることでもあり、私自身、これらの指摘には全く共感するところだ。
ま、しょせんは、カネ儲け第一アキンドの やりくち、というか、当のコマーシャル提供企業自身が、こういうイヤラシイ動画の出し方を要求したのではないかもしれないし、請け負ったIT業者の担当者らの考えで やっていることかもしれないけど。
以前にも、新しいパソコンを購入して、新規のウィンドウズを立ち上げてみたおりに述べたことがあるが、どうも、ますます、使い勝手もサービスも共に悪くなっていて、
一般ユーザーの望む方向とは逆行しているのでないか?と言いたくなるほど、開発者だか技術者だかの独り善がりさが、ますますアカラサマになっているのを実感した。
まあ、こういう分野のエンジニアとかいうのは、もともと、平凡な一般人の望みや感性とかとは、多かれ少なかれ異質なのかもしれないが。
さて、
今回で、この映画を観たのは、何度めになるのだろうか。
しかし、何回観ても、飽きることがない。この作品は特に。
そして、
観れば、そのつど、もの思いに耽らせ、
無精な私にも、あらたに何かを書き残しておきたくなる気を起こさせる。
旧ブログや過去エントリーでも、この作品について述べたことが あったが、
ホン、主題曲、監督は勿論、端役に至るまでも唸るほどの良い役者揃いという、およそ名画の条件にズバ抜けている『道』であることに、あらためて感じ入った。
ただし、私は、主題曲だけを、それより もっと早くから聴き知っていた。
叔母から譲り受けた、たしか、フランス人トランペッターの、古いレコード アルバムに収録されていた曲の一つだったので。
当映画を、テレビで初めて見たのは、一番最後のシーンのみだった。
あの「ザンパノ」が、海辺で一人、砂を掴んで咽び泣く場面。
いまでも鮮やかに思い出すのだけれど、
学校から帰って来て、夕方の中途半端な時間帯、家族も出かけたままで、手持ち無沙汰な気分に、とりあえず、テレビのチャンネルをガチャガチャやってて、ふと、目に留まったのが、上記のシーンだった。
で、じきに“fine”の文字が出てしまい、
もちろん、そのままでは、何の話なのかサッパリだったが、
ここはアンソニー・クインの演技の迫真ぶりもあったのだろうが、やけに印象に残っていて、
その後、何年か経ってから、この映画を再び、今度は冒頭から観る機会が訪れ、それで やっと、あの最後の場面に至ることの納得が いったのだった。
いままでの人生で観てきた映画作品にも、私なりに、格別の お気に入りというものはあるのだけれど、
この作品以外で、『禁じられた遊び』と同じくらいパッと思い当たる映画というと、意外なほど思いつかないことに、初めて気づいて、われながら、ちょっと驚いた。
ある面においての双璧を成すという意味では、
『禁じられた遊び』と、くだんの『道』は、まさに、私のなかで双璧を成しているのだ。
そして、
やはり、キリスト教が見え隠れしているのも、過去エントリーで述べたように、幼い頃の絵本や絵画の記憶と共通していることにも気づいた。
ジェルソミーナが、冒頭、薪の材料のようなものを背負って登場するシーンから開始する。
ベイスハート演じる「イル マット」は、最初に登場したとき、芸用の衣装としてだが、天使の羽を背負っていたのも、意味深に思えてくる。
この二人、どちらも、アタマおかしい人、というキャラ設定らしいのだが、
たしかに、ジェルソミーナには、知能的な面の問題が あるのだなということが示される場面は幾つもあるものの、いたって普通の、健やかな感性の女の子だし、同時に、真っ当な倫理観や聡明な判断力を備えていると、
イル マットは、ジェルソミーナのような知能的問題は なさそうだし、その分、もっと普通に大人らしい分別と思考力を備えていると、私には思える。他の人たちの殆ども、だいたい、そのように思うはずだろう。
けれど、そこは映画のなかの世界と言うべきか、
現実に、知的や精神の障碍ある人は、なかなか、こうは いかないだろうと思う。
「普通の人」で通っている人以上に俗悪な感性と利己的な思考を、しかもアカラサマに露出して憚らないからこそ、そこのところで、病者や障碍者の範疇に入れられるだけ、というケースも少なくないのかもしれない。
しかし、いわゆる「健常者」だって、一皮めくれば、似たり寄ったりだ。
ただ、押し隠す技術を わきまえているだけのことかもしれない。
むかし、作家の故 遠藤周作さんたちが、何かの対談で、
『道』のヒロイン、ジェルソミーナを指して、「あの女はキリストだ」と言ってたのを読んだことがある。
だけど、久しぶりに今回あらためて、この映画を観て、最後の場面で、
きょうまで意識しないでいた自分の孤独、気づかぬうちに手に入れていたのに、そして失ったものに、生まれて初めて気づいたらしいザンパノの慟哭する姿を見て、
むしろ、人が見捨てたら、「神」のほうこそが一人ぽっちじゃないか。
という考えが浮かんだ。
ザンパノから離れよ、ここに居よと、ジェルソミーナを心配し引き留める人は何人も いた。
だが、イル・マットだけは、反対のことを言って、彼女を温かく力づけた。
私だったら、イル・マットのような男性に ついていってしまうと思うけど(笑)すごい好みのタイプだしw
それにしても、思い出すのは、私の母校の同窓生たちだ。
このことも、過去エントリーで触れたが、
かの『禁じられた遊び』にアクビしまくり、上映後はクサしまくり、
いかにも、お涙ちょうだい式の、やすっぽい悲恋もの娯楽映画には号泣していた彼女たち。
でも、みんな、それぞれ、それなりに、いい奥さん、おかあさんを やっていることだろうw
『道』の汲み尽くせぬ深さを理解できるべくもなく。。。
こういうところでも、マイノリティとしての孤独は あるよなあと思う私w
ただ、うちの母なんかも、若い頃から、特に洋画鑑賞を好んでいて、戦後に上映された『自転車泥棒』を観に行ったおり、母本人の大感動を尻目に、この作品の良さをサッパリ理解できず、「あんなん、しんきくさいの、どこがイイの?」と退屈がっていた友人のことを思い出してボヤいたことがあった。
そうしてみると、
各人に備わった感性には各々ある種の共通したパターンみたいなものが あり、そこで、それぞれの感性グループごとに分かれて、そこのところでは、時代や世代が全く異なっていようとも、結局、あまり違わないのかなと思える。
ごく短時間のうちに、何日も何ヵ月も過ぎたような気がして、
2時間も満たないうちに観終わってみれば、あっという間だったように感じる。
人生の時間の流れにも似るが、
さてもさても、じつに名作映画のなかに流れる時間は、このうえなく濃密である。
こういう映画を観たあとは、かつて、シナリオの道に片足入れかけ、そのままになったことを悔いる気分になってしまう。
2016.04.10 (Sun)
【旧ブログの記録より】
常識を覆す、ということに拘る人の常識。 2010/10/25 20:50
~常識を覆して新しい物を出す。昔から、出陣するときはきれいな下着を着ける。だから~
ある意味、ムジュンしとりませんか?(笑)
結局それも、大昔からの習慣を持ち出してるまで。
そういうのは、常識を覆す、というのとは、また違うと思うで。まあ、これは これでいいとは思うけど。
~「漫画雑誌は、生き方の情報誌。読んだ人に『こういう生き方もある』と感じてほしい」
私にとっては、それは大島弓子さんだなあ。他にも好きなマンガ家さんは何人もいるけど。
戦国時代のオッサンの歴史ものに興味が薄いのと同じく、いわゆる少年漫画というのも、興味が持てなかった。暴力的なイメージが強いから。
女の子でも少年漫画好きという子は、どこか違和感感じたし。
うちの親らは、マンガ、と聞いただけで、鼻で せせら笑うけど、
私は子どもの頃、竹宮恵子さん、萩尾望都さんや、山岸涼子さんなどを読んだとき、これからのマンガは、単なる娯楽に留まっては いないんだと確信した。
大島弓子さんは、私が おとなになってからも、辛い時期の私にも、慰めと指針を与えてくれたうちの一人。
長生きなさって、一つでも多く、良い作品を残しておいてほしい。
最近は情報が少ないので、ご病気のほうは どうなってるか、気にかかる。。。
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付録にパンツ 元ジャンプ編集長が創刊「コミックゼノン」(2010/10/25)
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2016.03.29 (Tue)
●。 ・ ○。 。●。 ・○。 ・ ●。 ・○。 。●。 ・ ○。
私は、「ブルコメ」メンバーの誰が誰だかは、よく知らないんだけども、
小学2年生頃の夏休み中、ませガキと言うのかオシャレだったw私は、叔母に おねだりして買ってもらった、子ども用サングラスを掛け、白いレース襟が付いたプリンセス ラインの紺色ノースリーブ ワンピースという、赤坂プリンス ホテル付属プールを目的にするときの定番ファッション(水着に着替え易いという理由から)にて遊びに行っていて、
ある日、いつものように、オープンエアのレストランで軽食を とっている時、叔母が、
「ほら、あそこ、ブルー コメッツの○○さんが来てる」
と囁いたので、サングラス越しに そちらを見ると、
たしかに、テレビで見慣れた感じのオジサンが、リラックスした短パン姿で、綺麗な若い女性と一緒に、テーブルに ついていた。
旧ブログでは、「赤プリ」が取り壊しになったという記事を見て、懐かしい ここのプールでの思い出話を書いておいたこともあった。
私が子どもの頃の赤プリには、広大な敷地内に、小児用のものを含めた大小のプール、生演奏用ステージやオープンエア式レストラン等も併設されていて、テレビ番組のイベントなんかにも使われていたようだが、
咲き乱れる季節の花々の合間合間に設えられたミニ噴水が吹き上げるさま、いまでも、目に浮かぶほど、とにかくゴージャスで華やかだった。
あの頃のオトナたちと日本は、元気ハツラツだったなあ。
●。 ・ ○。 。●。 ・○。 ・ ●。 ・○。 。●。 ・ ○。
【旧ブログの記録より】
ブルーコメッツの『ブルーシャトウ』 2010/11/13 02:21
「森と泉に囲まれて…」を、
「もりとンカツ、いずみにンニク、かこンニャク、まれてンプラ」
にしてしまった替え歌は、一定の世代から上なら、つとに知られているかと思うが(私なんか、本歌よりも替え歌のほうを覚え込んでしまっていて、歌うときも、つい、替え歌のほう;^^)
「ブルーシャトウ」を「ボロシャツ」で締めたのは、あまりにも、あまりにも傑作過ぎる。
最近、youtubeで、アルバート・ハモンド『カリフォルニアの青い空』を聴いて、
そこへ投稿されていたコメントの一つが目に入り、
ああ、そうだった、と思い出したのが、
マチャアキの『さらば恋人』。
さよならと書いた手紙テーブルの上に置いたよ…
http://www.fukuchan.ac/music/j-folk2/sarabakoibito.html
(楽音が出ます、ご注意を)
なかなかの名曲だったが、
『カリフォルニアの青い空』を知ったほうが、もっと、ずっと後のことだったので、気がつかなかったと言うか、全く知らなかった。
『さらば恋人』も、私が小学生時分のクラスの男子どもが、早速、替え歌で歌っていたことを思い出したのである。
♪悪いのは、ぼくのほうさ 君じゃない。。。
というのを、
♪悪いのは、キミのほうさ、ボクじゃない
に変えて。。。
ムードぶち壊しだぜ
カテゴリ: エンタメ > 音楽