2015.11.08 (Sun)
『女性を彩る「きらめき」の影、雲母採取の児童労働 インド』
AFPBB News 2015/11/2
「安倍朕持ち上げ連」ときたら、自民党擁護ならびに韓国、中国罵倒コメントを大量に つけることには熱心なのに、それ以外のはサッパリ、というのがアカラサマ(嗤)
よりによって、この「経済大国」たる日本において、
子どもたちの貧困と連鎖問題が悪化の兆しを見せてきているというに、安倍政府・自民党は、何やら、寄付を募ってるらしいのだが、
安倍朕にも自民党にも「持ち上げ連」にも、まったく関心がない私は、彼らが何を言おうと、露ほどの興味も湧かない。
ところで、旧のブログでも書いただろうか、
母の話では、私は、幼い頃に一度でも与えられた本を、繰り返し繰り返し飽きもせず読み続ける特徴のある子どもだったという。
そんな私が親しんだ、かずかずの童話のなかで、いまだに鮮明なイメージ、鮮烈な印象のまま残っているものが、洋の東西を問わず幾つか ある。
ことに、『幸福の王子』にせよ『大男の庭』にせよ、いずれも、あのワイルドの作品であるということを、ハイティーンから20歳代あたりにもなって初めて知り、ああ、そうだったのかと、妙に納得して頷いたものだ。
というのは、
的確に表現するためのコトバも知らぬまま、幼心に、『幸福の王子』や『大男の庭』に出没する、いたいけで清らかな少年の姿に極度に凝縮された、ある「耽美」の匂いを、これらの作品から、敏感に嗅ぎ取り、訝しさと、微かな嫌悪すらも感じていたからだが、
それでも、
『幸福の王子』の最終場面で、雲の上の神さまが天使に命じ、
「この世で最も尊いものが、あそこに二つ ある。あれを拾ってきなさい」
と言った、このコトバに、いたく感じ入った記憶が ある。
『若い王さま』という作品も あった。
これまたワイルド作品であったことを、つい最近、知ったばかりで、些か驚いたのだが、この作品も、幼い私には、非常に印象に残っていた。
先に挙げた2作品と比べれば、耽美どうこう言うよりも、もっとミステリアスな雰囲気が迫ってきて、夜の悪夢のなかに繰り広げられる場面が醸し出すせいか、なんとも言えない不安感と同時に、この世の隠されたところにある厳しい現実というものがあることを、幼いながらに理解した覚えが ある。
こう思い返すと、
クリスチャン家庭で育ったわけでもなく、キリスト教に さしたる共感が あるわけでもない私の幼少時、特に記憶に残っていた童話の類には、少なからぬキリスト教の影響を秘めたものが多くあったことに、自分でも意外さを感じる。
そういえば、絵画でも、ご近所の おうちにて、ミレーの『晩鐘』の複製画あるいはタペストリーの類か何かを見るたびに、なぜか気になって気になって、母に、この絵の意味はと、頻りに尋ねたことを憶えている。
もっとも、母自身、その方面の教養が なかったので、いまにして思えば、そうとうデタラメを言っていたのだなということは分かる(笑)
まあ、ごく一般的・表層的な意味では、あたらずとも、、、といった程度のデタラメで済んではいるが。
ちなみに、この絵のテーマは、背景の夕空を舞う鴉たちの姿からも察せられる意味が あるように、多分に作者自身の来し方・生活感情を しのばせてあり、単なる感謝のための祈りといったものではないのだそうな。
まあ、私ていどのシロウトでも、男性の傍らにある農具や、女性の足もとの籠が、何を意味しているかは、容易に汲みとれる。後ろの手押し車に載っている袋状のものは、私には、ベッドの枕に見えなくもないのだが、乳母車あるいは人生を運ぶ車を象徴しているようにも思える。
つまりは「メメント・モリ」というところだろうか、総じて、生死ということが、この絵に込められた真の意味だということだ。
それに胸打たれていたように思う。
ちなみのちなみに、
学生時代、友人と共に、美術館にて、来日していたミレー作品を、間近に鑑賞する機会があったのだが、
その絵のなかの、畑作業を している農夫が、突然、動き出した幻視に一瞬おそわれ、思わず、叫び声が出そうになった。
おそらく、寝不足のせいだったのだろうと思っては いるが、
別のときにも、
たとえば、テレビの画面に映し出されたベックリンの絵のなかの船上の人物が動いているのを感じたことがあり、このときは、べつに寝不足でも なく、しかも、わりと長い間隔だったことから、最初のうちは、これは絵画ではなくて、実写か何かの場面なのかと思いかけたほどだ。
他には、動物が登場する話に特に弱くて、月に上げられた兎の話や、『因幡の白兎』の話にも、胸を痛めた。
私の こういった点は、小学校低学年時分の担任にも、通知簿の所見欄で、わざわざ指摘されていたほどなので、傍目にも明らかな傾向だったようだ。
むかし、亡母の語っていた思い出話の一つに、義理の母親で、家庭的に苦労したせいか、母自身は『マッチ売りの少女』を読んだとき、可哀そうで可哀そうで、涙に くれたということを言っていたが、
私には、この話のなかで、主人公の少女が、優しかった祖母との楽しい ひとときを、最後の幻影のなかにせよ味わい、微笑みつつ死んでいったのだから、まだしも救いがあるじゃないかと思えなくもなかった、
その反面で、
さしづめ『フランダースの犬』のパトラッシュは、人間たちの勝手つごうと巻き添えのせいで、酷い空腹を強いられたまま死んでいったというのだから、もっと可哀そうだとさえ考えていた。
要するに、人間のほうに対して、わりと冷たい(苦笑)
このような、童話の類型による心理学的考察を、どこかの専門家筋が、ズバリ『フランダースの犬』を用いて提唱していたような記憶があるのだが、その ずーっと前から、私自身、「『フランダースの犬』型」云々と考察していたものだから、やっぱりな、と思ったことがある。
「ルーベンス」という大画家の名前も、『フランダースの犬』によって初めて知った。とても印象的だったものの、話のなかで、そのルーベンスによる聖なる祭壇画を直接に見ることは できないのだから、その分、想像が掻き立てられ、どんなに すばらしく、もの凄い絵なのだろうかと、子ども心に思ったものだ。
でも、ルーベンス、こんな絵も残してる(笑)
えらく若い後妻さんだそうな。
『小さな毛皮さん』