2015.08.17 (Mon)
金子光晴の作品に『鮫』というのがあって、当時の時代背景的に、東南アジアの、列強(日本を含む)による植民地支配時代が該当するという。
おりしも今夏、日本の沿岸に連日おしよせて来ているという鮫の群れ。
私は、このニュースについて、当初、子どもの時分に読んで、これにも幼い胸を痛めた記憶のある物語の一つだった「因幡の白兎」というのを思い出し、
ついで、
学生時代だったか いつだったか、くだんの物語が、裏側で何を表現している話なのかを初めて知ったときの、些か驚きと戸惑いの感覚をも思い出した。
さて、
今年8月15日は、戦後70年という大きな節目にあたる「終戦(=敗戦)記念日」ということで、当ブログは、旧のブログにても そうしていたように、金子光晴らの詩作品を載せてみた。
ただ、こんなに幾つも同時に載せたことは、過去に なかったのだけれど、
やはり大きな区切りであるということに加え、次の10年後すなわち「80年」を数えるときは、あの時代、幼い子どもでもなく、まだ学生の身分といった、うら若き年齢ながら、一人前として戦地に駆り出され、また、
戦場や戦時の ただなかに あって、わが眼で直に見た体験と記憶を鮮烈に保持している世代の人々の、まず殆どが、この世を去っておらざるを得ないであろうこと、
かく言う私自身、次の10年後になっても、こうして、ブログを続けているどころか、普通は生存しているはずという自信を何故か持てないせいもあり、今回この70年という節目に、いつになく、立て続けに、こんなふうに並べてみたという しだい。
しかし、まあ、「ひと昔」というけれど、案外、たいした長さとも思えない十年を7回繰り返した70年なんて、そんなにも長い年月だろうか。
だって、
自分の目の前にいて、自分の耳にも心にも届くようにと、しっかりした声を発して語り続けてくれる人々が、そこに、生きておられるのだもの。
自分自身が生まれる前の頃なんて、どういうものか、ずいぶん遠い時代であるかのような錯覚を、若い年齢には私も持っていたけれど、
だが、われわれは、まぎれもない現代人どうしなのだ。
この時代に、同じく現代人として生きている彼らの見たこと、聞いたこと、味わったこと。
それは、遠い歴史物語なんかではない。つい最近、起こったこと。
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たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。