2016.03.20 (Sun)
『日本人の好色度w』の続き。
この、「日本美術に詳しい作家・編集者の橋本さん」によると、
春画では夫婦の房事の横に子供が描かれていることが少なくない。
当時としては当たり前の家庭生活の一コマだったからだ、という。
それも、一概には、どうでしょうか。
私は、その方面の専門知識も教養もないし、そういった「春画」にも疎いけど、
日本人の「湿った」傾向性からして、夫婦の営みの姿の横に、あどけない子どもの姿を置いてみせるということの、敢えての淫靡な趣向が あるかもしれないなと思うのw
もちろん、昔の日本の庶民ともなれば、それこそプライバシーも へったくれもない生活だったろうから、現実として、そういう場面が日常だったとは考えられるが、
だいたい、絵画でも文学においても、極度の対比ぶりを描いたり、あるいは また、時の流れの容赦ない移り変わりの さまを、一幅の画布、一つの作品のなかにて一気呵成に描くという芸術手法はオーソドックスと言っていいほど多く用いられているのではないだろうか。
もっとも、その昔の日本は、男女混浴がアタリマエの時代だったそうだし、強風に煽られた着物の裾が巻き上げられて、女性の下半身まる見えでも平気だったとも聞く。
人前で、おっぱい剥き出しに授乳も何ら憚ることがなかったのは、私の乳児時代までは、うちの母もそうだったようだ。
私自身も、幼い頃には、まだ、そういう母子の光景を見かけることも珍しくなかったのに、気づけば、いまではトンと見なくなった。
けれど、あるとき、私を連れて、東京に向かっていた列車のなかで、
たまたま、その列車というのが、特大に設けられた展望型窓に向いて、各座席が並んでいるという、当時最新式の特別仕様車だったのだそうだが、
母も、最前列にて、そういう座席の一つに腰掛け、私に授乳していたところ、途中の停車駅に着き、ホームに鈴なりになっていた男性たちの視線が一斉に向かってきて、その痛いほどの凝視に慌てて、授乳を一旦中止したとことがあったと、苦笑しながら言っていた。
うちの母親って、なにしろ、超グラマーだったせいもあるだろうけどw
ある作家の時代小説では、江戸期、大地震のおり、被災した民衆を泊めた寺の本堂等で雑魚寝している男女の見知らぬどうしが、周囲の者たちに聞かれるのも憚らず、といった描写もあった。歴史的にも事実なのかどうか、私には知る由もないが。
いったいに、日本人の、性的なことがらへの感覚は、淫靡な傾向のものなのか、いたって開放的なのか、日本の場合は、ある時代を境にガラリと様相や感覚を変えているようなところがあるせいなのだろうか、
こんにちとなって、現代日本人にとっては、些か、判断が難しい気も する。
ところで、むかし、ある雑誌か何かで読んだには、
どこかの熱帯地域の国では、暑いゆえ、屋根と柱だけの家屋に住んでいるので、家のなか まる見え、なので、夫婦の性的営みも まる見え、
その家の子が、自分ちの父ちゃん母ちゃんが真昼間から、気の向くままにイタシているのを見て、指さして笑い、当の夫婦も上下で苦笑しつつ、さりとて、動きを止めるでもなく、笑いながらイタシ続けているんだとw
その旅行記を書いたライターさんは、ユーモアたっぷりに表現していた。
幼い頃からマンガ大好き、自分でも、将来の希望職業の一つが漫画家だったくらいなので、あれこれ思うところは少なくなく、
思い起こせば、私が小学校の時分だったと記憶しているが、
竹宮恵子さんがデビューした頃、初めて、彼女の作品を目にしたとき、
その絵柄からして、それまでにない画期性を感じ、胸トキメキながら読んでみて、
「とうとう出たー!!」
って思ったのを、いまだに鮮やかに憶えている。
これと同様のヨロコビは、あの萩尾望都さんにも感じた。
このセンセイたち、いずれ大物になっていかれるんだろうなあと、まじで子ども心に思ったものだ。
私にとっての「バイブル」みたいな、大島弓子さんの諸作品も、このトシになっても手離せず、いまでも、ときに落ち込んで辛いおりなど特に、読むと少しは気持ちが上向きになるのだから、大したもんだと思っている。
ほんと、「少女マンガ」というジャンルが、日本以外にもあるのかは知らないが、少なくとも日本のそれは、ヘタな小説なんかよりも考えさせられるし、文学的・哲学的要素が濃厚なのだ。
つまり、それらは、「ポルノ」を目的にして描かれたのでは断じて、ないということ。
実際、竹宮さんたちの作品中の性的描写場面といえども、淫猥さの類を感じたことは、ついぞ、ない。
くだんの『風と木の詩.』連載時は、欠かさず読んでいたわけでなく、いまでも印象に残っていてハッキリ思い出せるのは、連載も本当に最終場面のみだが、
ひとえに、純愛を描いたものだったなあと思う。
「物語を伝えるために、なぜ9歳の幼い少年に対する性暴力など、読んでいて辛い描写が必要だったのか」
それはね、
痛々しいかぎりのレイプ シーンであろうと、それら全ては、ジルベールとセルジュの至高の純愛へと収斂させていくためのものだから。私には、そのように思えた。
だが、
まさに「ポルノ」でしかない、そのものを目的に描いたものは、やはり、毒々しいイヤラシサ、後口の悪さしか残らないのだよ。
その差は断然、大きい。
この問題について、日本では意見が割れている。表現の自由保護を何より重視する人もいる。優れた作品と、下品でわいせつなものに過ぎないと思うものとの間に、線を引く人もいる。特に関心のない人たちもいる。国民的合意はできていない。
加藤祐子記者さん、論じるべき核心は、おそらく、そのあたりなのでしょうね。
下記の部分については、どうかなあ?
「意見が割れる理由のひとつに、欧米と日本の微妙な感覚の差があるかもしれない。日本では人気商品から人気音楽に至るまで、「かわいい」の価値観が大衆文化に浸透している。このため幼い子供の姿の描写について、日本人は欧米人のようには神経質ではないのだという見方もできるかもしれない。
欧米圏の人々の価値観は、「マチュア」とか成熟さというものに求められるのが伝統的だと聞いたことはある。
ただ、若さや可愛らしさというものは、いかにマチュアや成熟度に重きを置く西欧圏文化と言えども、やはり、好ましいものには違いないのだろう。
特に性的対象に対しては、多くの、特に男性が求める傾向として、大きく本音であり一般的なパターンだろう。
でも、少なくとも現代の日本って、「おこちゃま」趣味が大いにハバきかせてる風潮だもんね。やすっぽくてゲンナリするほどに。
なるほど、たしかに、「カワイイ」という薄い砂糖衣というのか甘い味付きオブラートとでもいうのか、そういうものに一旦、くるんで誤魔化してしまえば、本来なら、多少の醜悪さゆえに嫌悪を催させるはずのものを含んでいても、なんとなくのうちに呑み込んで受容できそうな気もしないではない。
そういった現象にも、心理的に、なにがしか複雑さは潜んでいるんだろうなとは思うんだけども、
とりあえず「カワイイ」という紗の衣に くるんでしまうことで、積極的受容・許容が できているのだという、一種の錯覚を起こして、苦痛の軽減技術としているのかもしれない。
少女マンガで描かれる少年愛ジャンル、なかなかに屈折を孕んで興味深い心理が あるのだろうがw
いまどきの男性が、いいトシになっても卒業できない向きが多いらしい、アニメやゲーム等の「二次元キャラ」で描かれる、顔は童女で、からだはグラマー、みたいな極端なのも、どこまでいっても、それぞれの お好みで見果てぬ理想世界であり、ファンタジーなのだろう。
でも、童女顔のグラマーというパターンは、いまに始まったものではなく、昔から男性の理想の定番に入っているやね。もちろん、現実には、そうそう そこらに見つかるタイプでもないし。
童女が、セックス、しかも、大の男との それを、好むはずもないのは自然の摂理としてもアタリマエなのだが、
しかし、少なくないであろう男どもにとっては、自分とのセックスを悦んで受け入れてくれる、しかも無垢で無邪気にして無抵抗な童女、
という非実在が、なんとかして実在にならんものかという願望が隠せないのも、一部では事実だろうw
このことは、私自身の経験もあるので、憶測で言うのではない。
これは、男女に かかわらずかもしれないのだが、
あまりに無防備・無抵抗で柔弱な者を、どういうわけだか憎み、徹底的に蹂躙したいという陰湿な欲求は あるかもしれない。
これまでにも指摘したことがあるが、
サディズムとマゾヒズムは背中合わせの一体である。