2016.03.20 (Sun)
けっこう昔から、国際的に知られていたようだけどもww
男性だけでなく、実は、大和撫子までもが!(アワワ)
そして、全体として、健全な自信に乏しいことも、いよいよ国際的に有名になってきたのかねえ?(苦笑)
『国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた』
BBC News 3月16日(水)10時54分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160316-35742160-bbc-int
「非実在」
「現実にそういうことが起きるから」
「実際にそういう目に遭っている人が、私の漫画を読んで自分だけではないんだと、自分は独りではないと知り、この作品が私を救ってくれると書いてきた」
え?えっ??あれれーw
っと、
まずは、この記事全体を読んでみて、そのムジュンぶり あらわなることに失笑してしまった部分から入りましたww
このテの問題ねー、旧のブログでも、かなり真剣になって、長文で論じたことはあるんだけど、
例によって、当時のログ記録を探し出すのが、どうにもメンドクサいので、いま思いつくことだけを述べるとするわ。
ブログってのも、むなしいねえ。
いっしょうけんめい書いておいても、いつ消滅するやら分かったもんじゃないし、それでいて、いつまでも消え難いデマの類は跋扈し続けるし。
【以下、当該記事抜粋部分の文字強調等は、当ブログ主による。】
「何でも自由に表現したいなら、個人的なアートとして地下でやればいい。しかし漫画には常に読者がいる。作家はそこの誰に向けて何を描いているのか、意識すべき。国連に言われるからとかの問題ではなく、作家の良心と創造性の問題だ」
上記の、真崎春望さんなる漫画家さんの御意見と、私の考えとは、比較的に近いんだろうと思う。
けれども、
参議院の山田太郎議員も同様に、国連の批判を批判する。
「非実在児童に対する描写は、具体的に誰かの人権を侵害しているとは思えない。それを見て不快になる人の人権を侵害するというなら、その人が訴える権利や制度を整備すればいい。しかしどういう影響を与えるか分からない表現を、法律という強い権力で、元から取り締まってはいけない。誰かが傷つくかもしれない、誰かが差別されるかもしれないという可能性を取り締まってはならない。規制はどんどん拡大解釈されていくものだ」
しかしねぇ、山田さん。
私は、旧のブログで論じたときにも指摘しておいたのだが、
様々な、特に性犯罪について報じられるところを見るに、
男性は、女性以上に、視覚からの刺激を強く受け易く、性犯罪トリガーとなる傾向性ということは事実なのではないかということ。
ただ、「拡大解釈」の懸念については、それは理解できるのだけど。
難しいところです。
さて、
「児童ポルノ」といった、このような表現の問題と、
いわゆる「ヘイト スピーチ」問題との共通性は あるよね。
「非実在」とは何のことか?
その「非実在」なる存在は、では、何によって生み出されてきたのか。
現実と無関係な「非実在」なんてものが あり得るのか。
実在する個々人の特定には ならないのだが、一応そうではあるのだが、
「児童」なら児童という層の実在は あるはずだ。
「児童」と呼ばれる層あるいは また「在日」と呼ばれる層の存在は、
では、架空存在なのか?
たとえば、柳 美里さんの『石に泳ぐ』ナントカいう作品あたりにも指摘できる問題のようだが、
仮に、
私自身の現実に抱えている障碍と同じ種類の障碍者を対象に据えて、それが、「個人特定」とは次元の違う「非実在」では あっても、
侮蔑や排斥のための対象に描かれていたならば、非常に不愉快に違いないことは断言できる。
グサッと突き刺さる感覚によって、自己の内部が傷つけられたのを実感する人もいるだろう。
また、こうしたことによる、世間への悪しき影響力も、無視できない現象として実際に起こっているゆえの懸念も大きい。
ただし、その描写の真の目的によるだろう。
先日の『お弁当の想ひ出』というエントリーで取りあげた、ネット記事にて、「祖母の拵えてくれた弁当を食べずに捨てていた」という描写について非難轟々のコメントが付いていたのも見たが、
この極端なシチュエーションを敢えて描いた作者さんも、真の目的を描くためにこそ、こうした場面を強調設定したのだろうことは、私にも理解できる。(個人的には、読む気も必要性も全く感じないが。)
作家・編集者の橋本麻里さんというかたは、下記のように述べておいでだ。
「実在の児童に対する性的搾取、性的虐待についてはもちろん、許されるものではありません。大前提として、そうした事態を解決するための取り組みには、今後いっそう注力していくべきだと~(略)~しかしそれが『児童ポルノを含む漫画を禁止すべき』かどうかという、非実在の児童をめぐる表現の問題となった場合、責任ある判断のできる年齢に達した成人で、かつその表現を許容する人の間でのみ流通するのであれば、一律に禁止すべき理由はない、~表現について、一定のゾーニングや年齢制限などを社会的合意の下に明文化して課し、その枠の中で自由に表現することを許容する国であってほしいと~」
はたして、そんなこと、実現可能でしょうかね?
現に、当該記事も、少女マンガつまり概ねは子どもの年齢で読むマンガをして、この問題の第一舞台として挙げている。
「実在」だの「非実在」だの、はたまた「一定のゾーニングや年齢制限」だのって、
こうしたことは、さしづめ、インターネットの問題とも共通してることだけど、
世のなかの実態として、
「責任ある判断のできる年齢に達した」のが成人ばかりではない。
それどころか、
責任ある判断のできる年齢に達した成人であるはずの者が実際、児童買春を行なったりもしているわけで。
【続く】