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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2016.07.22 (Fri)

検索してみたら、個人的な鬱憤混じりに言い遺したと思しき古今東西の偉い人たちの警句やイヤミやらが、あれこれ紹介されていて、なかなか面白い。そのなかから、幾つか抜粋。

まずは、ゲーテ大先生から。

 

「新聞を読まなくなってから、私は心が のびのびし、実に気持ちが良い。
人々は他人のすることばかり気にかけて、自分の手近かの義務を忘れがちだ」

 

ふむふむ、なるほどで ございます。

「新聞」の箇所に、現代は、「テレビ」とか「ネット」とか入れてみても共感できそうですねえ。

 

 

「新聞を読まない人のほうが、読んでいる人より正しく物事を認識できる。
何も知らない人は、嘘と偽りに心を奪われている人より真実に近い」
by ジェファーソン

 

おお、これは、
わが日の本のインテリゲンチャ大先達、兼好法師おっしゃるところの、

「今様の事どもの めづらしきを、言ひ広め、もてなすこそ、また うけられね。世に こと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。~」
(『徒然草』
第七十八段)

という御意見に共通しているような。

どうじゃ?「情弱」を嘲笑う軽薄短小どもはw

 

 

最後に、

私が思わずフきだしたのが、下記。

この発言者について、何らの知識も なかったもので、いったい、いつ頃の、どこの国の人かしらんと思って検索してみたら、どうやら、1970~80年代にかけて、アメリカ議会図書館長を務めた人らしい。

 

「つまらない新聞を読んで
なんて近頃は くだらないんだ!
と言った時代も あったろうが、

最近の読者は こう言う。
なんて くだらない新聞なんだ!

と。

by ダニエル・J・ブールスティン

 

                 
             Seymour Joseph Guy“Summer Issue”(1861)

 

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Updated   
2016.05.13 (Fri)

 

レイプ等の性的逸脱に関する共通点について。

これに追記する。

 

「欠ける」ということが、何らかの面で「過剰」を招く
という興味深い現象。

良くも悪くも両面においての。

 

 

多くの一般家庭の事例を見ても察しが つくであろうように、本当は、男性が、女性をコントロールしたがり、実際そうするよりも、

女性が男性をコントロールしているほうが、現実には上手く いっている傾向が高いらしいと思われるし(少なくとも日本では)、

また、多数の男性がたは、実のところ、「女房の尻に敷かれている」状態のほうを、むしろ快く受け入れてもいるようだ(少なくとも日本では)。これは、男性の許容性が高いとかいうのでは なくて、

多くの女性が、実権すなわち財布を握っている、
言わば「影に隠れた真の実力者」という立場を堅持できていれば、牙城である家庭は自分のもの、表向きだけ「男性を立てておく」ほうがラクだから、という本音に似ている(少なくとも日本では)。

夫側である男性は、(少なくとも日本では)仕事仕事に明け暮れていれば、こまごました日常品の価格でさえ、さだかには知らない。
なので、家計管理を任せておけるのなら、そのほうが、仕事だけに集中していられる。
本音では、自分で得た収入を自分の好き勝手に遣いたいのは やまやまだろう。けれど、
もし、財布を握っているのが男性側であれば、大概の場合、勝手な判断で、これくらい渡しておけば、まず間に合うだろう、と言うより、間に合わせてほしい、間に合わせるべきだ、と、およそ現実的でない金額を渡すのみでは、妻側は、つよい不満を溜め込む恐れが高くなる。

このような水面下の関係性が ない国だと(そのほうが、日本以外の国では一般的なのかな?欧米圏では、家庭の財布を握っているのは夫側が普通のことだと聞いているが)、そうなると女性側は、むしろ、ハッキリした表現で自己主張せざるを得ないのでは なかろうかとも思う。

(以上、ちょっと書き飛ばしたかなと思うので、コトバを補いました。)

で、
もちろん、その場合、女性側の知性レベルも問われるはずだろうが、

そこは それ、伴侶というものは、私が かねがね言ってきたように、

相手のレベルが自分のレベル

であるから、
多くの男性たちにとって、あくまで日常生活の範囲内に おいては、自分よりも、ほんの少し上回って狡猾なくらいの女性のほうが、かえって安心感があるのかもしれない()
男性も、本当は、もともと、たまらなく好きな対象である女性たちを尊敬していたいのだろう。

ただし、あくまでも、自分のテリトリーや得意とする分野、プライドを支えている分野を明け渡さずに済むかぎりで。

 

もし、
自分よりも、ほんの少し下回っていると思える程度の「おバカちゃん」が伴侶であるなら、今度は逆に、徹底的にコントロールするべく、伴侶と、その家庭内管理を、自己つごうで強化することも あるだろう。

 

だからこそ、
思考を深める質の良い教育は、肉体的性的欲求のコントロールに苦労する男性には勿論のこと、

女性に対しても、別様の意味から、必要なのは当然だ。

 

子どもの初期段階教育に関与する度合いが、現状、母親のほうが高いのだし、

もっと大きく出て、世界規模で考えると、
古今東西、圧倒的に男性が意欲を示してきた、戦争というものを抑止・阻止するためにも、女性は、男性に おもねり、引きずられているようでは いけないし、

むしろ、女性のほうにこそ、男性の「過剰」性向をコントロールする力が必要であると、私は思っている。

 

もっとも、女性のなかには、男性も真っ青な凶悪犯罪を やってのける者も いるのは事実だが、こういう女性の脳は、多分に男性型だろうと思われる。

(実は私自身も、「男性脳」の範疇らしいのだがwま、科学的に確かなことなのかどうか、正確なところは不明。)

 

 

「ヤフコメ」投稿のなかに、海外での経験談のようだが、少しだけ科学的根拠の面から述べているものを見かけたけれど、

言うところの「テスタスタロン」というのは、たぶん「テストステロン」のことだと思うが、これについて指摘しているということは、やはり、男性性の問題だということになろう。



 

併せて、

気候条件が もたらすところに根本的原因が あるらしいという指摘、要は、それによって鍛えられ、上下する思考力発達度の違いを示しているのであれば、
やはり教育、または、実生活上の豊富な経験・体験による思考力の深化が関係してくるということだろう。

単なる知識でない、想像力や洞察力を養う教育の重要性も結局、そこのところを問われるわけだから。

 

ただ、アフリカあたりの気候風土を指して「穏やか」という見解は、私には意外だった。

 

一般的に言って、暑い地域というのは、露出度が高くなるせいなのか、性的にも放埓になる傾向は多少あるのかもしれない。

実際、夏場のほうが、性犯罪も頻発しているのでは ないかなと思う。
ちゃんと調べずに言っているので、私個人の実感に過ぎないかもだが。

 

だからこそ、暑い気候の国の宗教や文化的に、性の方面でのルールや縛りが激烈になるのかと思える。それも、立場の弱い女性に厳しい。

 

日本でも、真夏になると理解できることだと思うが、

極度に暑いと、ダルくてダルくて、めんどくさくなって、つらつら思考しているエネルギーなんぞ低下し、覚えず衝動的傾向を帯びてくるようだ。

寒さが強烈でも、同じようなことなのだけれど、

ただ、厳寒地域では、考えるのダルいなどと悠長なことを言っていては、たちどころにして、生命の存続が危ぶまれるだろうから、必然的に、生き延びる方策を思考し続け、ついでに()なぜ、生とは、かくも苦労が多いのかを突き詰めて考え込まざるをえないかもしれないし(哲学w)

寒さは、体温を容赦なく奪い続けるし、脳は、使えば使うほど、エネルギー補給を要求し続けるし、補給を じゅうぶん満たせない者は不利になってしまうのだから、生き延びるための工夫を図り、実行し続けていかざるをえない。

その結果、白人の文化・文明は、飛躍的発展を遂げた、と。

 

皮肉なことに、生活も教育も高レベルなはずの欧米圏「先進国」で、
しかも、戒律が厳しいはずのキリスト教の坊さんが、裏では、性的犯罪を犯し続けていたことが発覚した事件は少なくないようで、
それも やっぱり、男性だ。

 

日本でも、仏教の僧侶と言えど、性欲発散のために、「稚児」という小児性愛かつ同性愛的存在を黙認されていたという歴史が ある。

女性を肉欲対象にするよりはマシ、ということらしいのだが、
それだけに、
かえって、もともとの、女性に対する性欲の強烈さが滲み出ている。

 

 

Updated   
2016.05.11 (Wed)

うちの母親が生前、何の気まぐれからか、パン屑だか米粒だかを、ベランダに撒いたら、目敏く やって来て、じきに覚えて習慣化したごとく食べに来るようになった雀たちを、可愛い可愛いと、悦に入っていたらしく、実家に帰っていた私に、その話を していたとき、父親が横合いから、「だーれが掃除を するんか!」とプンプン怒っていたのを思い出した()

母は、その頃すでに、病気で倒れたあとだったから、辛うじて回復してからも、あまりマメには動けないうえ、もともと、掃除が嫌いだった人なので、そっちのほうは、家事に几帳面だった親父が、せっせと後始末していたようだ。

けど、
母親は、生まれも育ちも大阪ど真ん中の都会っ子、
親父は、千葉のド田舎育ち()

 

街のツバメ、子育ての敵はヒト 巣作り妨害、農村の7倍
朝日新聞デジタル 510()915分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160510-00000016-asahi-soci

 

あんな小さな、野性の生きものでも、あの小さなオデコで必死に考えたのか、生き延びるために、人間の生活ぶりを、よく観察してる。

人間側にも人間にとっての、その時代背景や環境による つごうと理由が ある。

だいたい、都会地では、もともと田舎から来て住み着いてる人のほうが多いでしょw

 

基本的に街育ちの私も、近場の大きな公園のみならず、ほんの少しの土や緑のスペースを見逃さず やって来る小さな鳥たちは、いかにも健気で、特に可愛いもんだと常々ほほえましく思って見てるけど、

昔の農家のように、広いタタキとか土間とかが ある家屋なら、巣を掛けられても、それほど、気にならないかもしれないが、
都会の街なかで押し合いヘシ合いしてるような狭い家では、そこの住人にとって、かなり酷なことだとは思う。

卵や雛を狙って、みーさんが、屋内に侵入してくるかもしれないし。

 

しかし、知事の許可が必要ということは知らなかった。。。

 

ともかく、巣が掛けられたあと、雛が孵ったあとで、無慈悲に取り払ってしまうのは、さすがに、燕も可哀そうだから、せめて、事前に防いでおこうと思うのも、じゅうぶん理解できる。

まあ、せっかく苦労して拵えた巣をアッサリ壊されてしまうのは、燕たちにとって、思わぬ大地震に襲われたようなものだろうか。
なんてこと してくれたんだ!と立ち向かって怒りの抗議することもできないもんね。

 

 

ものすごいスピードで回転する脚

 

『雨のステイション』

 

 

Updated   
2016.05.09 (Mon)

冨田勲氏が、この5日に急逝されたという。

今年は、どういうものか、国内外ともに、音楽方面での著名人の訃報が いやに多いような印象が してきていたけれど、

氏の御年齢を知り、うちの親と同年配だったのだと分かって、少し意外な気が したくらいに、先進的なかただったなあと、あらためて思う。

あの世代も また、日本の新旧のハザマに位置していると言うべき存在と思うのだが、

冨田氏の場合も、『新日本紀行』あたりを聴くと、そのことを特に感じる。

 

巨匠逝く、冨田勲さんのあゆみ シンセサイザーの先駆け
MusicVoice 58()1951分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160508-00010007-musicv-musi

 

冨田氏の代表的作品の一つである『新日本紀行』に込められた、いろいろな日本民謡の面影を、私は従来から感じていて、
そのなかでも、『こきりこぶし』を取り上げ、旧ブログにて、私なりに少々、論じてみたことがある。
そのおりに、
当時、同じサイトでのブロガーの一人で、ご自身が現代音楽に携わっており、結婚後は、ずっとアメリカ在住で長年になるという人が、私のエントリー読後の感想コメントを寄せてくれた。

『君が代』の旋律に雅楽(もちろん、中国や朝鮮から伝来しているはず)の影響が あることは、私も容易に察していたのだが、同時に、上記の人は、たしか、『新日本紀行』には、『君が代』の影響も あるようだといったことを教えてくれた記憶が ある。今となっては うろ覚えなのだが、言われてみれば、なるほど、そんな感じも するので、とても興味深く思った。

そもそも、日本の古い民謡には、中近東の民族音楽が源流として息づいているという説も あるようだし、私個人の感覚でも、ほぼ違和感なく納得できるので面白い。
ちなみに、私は、アラブ方面の音楽も、若い頃から好む。

 

http://www.gokayama-info.jp/?page_id=78

旧ブログでも紹介させてもらったサイトなんだけど↑

ここのなかにあるコーナー「伝承団体:越中五箇山こきりこ唄保存会」をクリックすると、「こきりこ動画」というのを閲覧できます。
くだんの動画で、唄と太鼓などを担当しておられる男性がたの お顔が、双子さんかと思えるほどソックリなので、見るたびに、思わず しげしげと眺めてしまうのだが()やっぱり、ご兄弟なのだろうかね?
ま、それは ともかく、なかなか味わいのある祭り風景です。
ええ風情でっせー。飛び込みで一緒に踊りたくなってくる。

http://www.kokiriko.com/kokiriko-tv/index.html

 

 

学校時分、親しくしていたクラスメートに、幼い頃からピアノを習っていて、電子キーボード系へと興味を抱き始めていた友人が おり、その友人の薦めも あって、乏しい小遣いを はたき、ドビュッシーの曲ばかり集めてアレンジした冨田氏のレコード アルバムを手に入れてあり、いまでも大事に保管してある。

宇宙的壮麗、ロマンチック、だけでなく、どこかユーモラスな趣も含まれていたりするのが冨田氏の個性であったように思う。
『ゴリウォーグのケークウォーク』なんて、聴いていてズッコケたあと大笑いしたものだが、

私にとってドビュッシーは、クラシック系のなかでは特にムシの好くとしか言いようのない感覚を もよおさせる作曲家の一人で、
『亜麻色の髪の乙女』などは、学生時代にまつわる思い出の曲であり、原曲にしても、富田氏のアレンジ作品にしても、当時から特に気に入っていた。


  
 

クラシック音楽のアレンジと言うと、
エマーソン・レイク&パーマーの『展覧会の絵』も そうだけど、
いかにも それっぽい雰囲気のものでは、中学生だったか高校生だったかに、リック・ウェイクマンの『アラゴンのキャサリン』を聴いて、グッと気に入ったのを思い出し、youtubeで探してみたら、あった あった。
ただし、これは、一応、と言うべきであろうか?リック自身の作品なのである。ながいこと騙されてたわ(笑)



 

欧米圏のミュージシャンには、かつて「汚気・愚」(OK/goo)でも回答したことが あったように、それこそ、へヴィメタル バンドのメンバーでも、古典も古典のクラシックに親しんで育ち、かつ詳しい人が多いのは当然なのかもしれないが、リッチー・ブラックモアなんて、大昔の古楽器演奏さえも こなすくらいだ。

 

 

『新日本紀行』の話に戻ると、

「日本人なら誰でも」

という、普段、ウヨやネトウヨあたりが、さもエラそうにのたまっているのを見るたびに、

「おまえさん、それで日本人代表のつもり?emoji

と、血圧が激上がりそうになることが たびたびなのだがw

この作品に限っては、「日本人ならば誰しも」という評価が許されるのではないかと思える。

 

昔日の日本の姿、また、地方の風景にも、実際は疎いと言ったほうが、個人的には正確なのだけれど、『新日本紀行』というテレビ番組にリアルタイムで親しんでいた子ども時代を思い出せるせいなのか、日本人の、あるいは、日本の風土に抱かれて生育した者にしか分からないのでは なかろうかと思えるほどに、心の底の郷愁を掻き立てられ、じつに懐かしさ泡立つ出来栄えであることは特筆に値すると思う。

でも、もしかして、中国あたりの人にも共感されるかもしれないな。
『昴』とか『北国の春』の例もあることだし()

 

坂本龍一氏が作曲した『ラスト エンペラー』テーマ曲にも、『新日本紀行』テーマ曲の影響を認めているとのことだそうで。

数奇の家に生まれて

 

 

稲穂を揺らして渡る風。。。
風は少しく湿潤を含んで。。。

 

さきのアメリカ在住のブロガーも、私へのコメント文中で、

『新日本紀行』のテーマ曲を耳にすると、せつない思いに胸が いっぱいになり、泣きだしたくなってしまう、というふうに言っていた。
 

※まだ何かが残ってるな、、、と思ってて、あとから ついた。

どうも、『亡き王女のためのパヴァ―ヌ』あたりの要素も感じられる箇所が あるような。。。
これはラヴェル作品で、この作曲家も、私の特に好みなんだけど、
そうしてみると、『新日本紀行』1曲のなかに、どれほど多くの国や地域からの歌や楽曲が織り込まれているのやらemojiこうなると、日本の、とか、日本人だから、とか言ってる場合じゃなくて、もはや人類規模の。。。
まあ、音楽とは、そういうものなのだろうね。



   

  
  安野光雅『蓮華岳と爺ケ岳』(安曇野

 

 

Updated   
2016.04.29 (Fri)

これは良いことを聞きました。

つい一昨日のエントリーで、「プリンス」の楽曲について解説した記事に絡み、「創発」という理論のことに ちょっと触れたばかりだったけど、

私もね、絵を描くこと自体が、もともと大好き。

ごく若かった頃は、純文学やら、もの書き志望と言うよりはジャーナリスト志望、学問ならば文学よりも心理学、精神医学、
最も憧れていたのは天文学。

でも、芸術分野のほうが、一切の理屈抜きに好きだし、
音楽は勿論、逆らえない魔力の世界で、聴くのも演奏するのも大好きだけど、
一番好きで、何より手軽でもあったのは、絵を見ることと描くこと。

なので、当然、パソコンを入手してからは、「お絵描きツール」的機能は早速のこと、エクセルよりもワードのほうで試しては いた。

しかし、
何度かチャレンジしてみても、ことごとく、屈辱的なほど稚拙な仕上がりにしか なり得ず、時間だけは ものすごく費やしたわりに報われない。

 

そこで、一旦にせよ諦めたままにしていたのが、私の根性のなさ、凡庸さなんだろうけど、

この記事を読んで、あっそうだったー!と今さらながら思い当たった。

 

そうそう、全体を一気に描いてしまおうとすると、パソコンの お絵描きツール等では、お話しにならないほど無理がある。だが、できるだけ細かいパーツに区切って、そのなかでチョコチョコ処理する分には、そんなに苦労もない。最後に、全体を合わせればいいわけだ。

これも一種の「創発」。
考えてみれば、日常の そこかしこに転がっていそうなこと。

 

おじいちゃんすごい!エクセルだけで描く風景画 2万パーツ組み合わせ、76歳の技術屋「超絶技巧」
withnews 428()70分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160406-00000001-withnews-sci

 

定年後になってから、このことを考案したという高齢の男性は、いわゆる技術屋さん、機械屋さん畑の お仕事でいらしたそうだが、さすが。

まあ、時間だけタップリあるというゼイタクも必要か。

経過を見せてもらうと、だんだんとテクニックも向上していってるのを感じ取れる。

 

うちの親は、男親のほうが、機械に弱くて、経理畑のベテランだったから、数字には一応つよいはずなんだけど、私が、そもそもコンピューターの原理ってのは、01のみであるらしいことを、何かの話の途中でポロッと言ったら、怒りだしたのかと思うくらい、叫び声あげてemoji大ショック受けてたよw

ただ、絵を描くのは、父も若い頃から好きで、実際、かなり上手かったが(貧乏だった頃は、鉛筆だけでモノクロ写真さながらリアルに描いてた。)晩年は、ちょっと贅沢して()色鉛筆を使って、気の向くままに描いていた。

 

よっぽど母親のほうが理数系アタマで、絵を描くのだけは苦手だと公言していたが、数字にも機械にも強かったけど、それでも、
病気で倒れて以降、緊急に備えて携帯電話を購入し、最低限度の使用方法を説明してやって、しまいに、メモサイズの冊子まで、私の手で自作してやって、どうしても分からないときは、これを見てと渡してやったのだけど、結局、使いこなせないままだった。

 

で、絵が大好きで、機械も苦手では ない私、

やっぱり、イラストレータとかフォトショップ等の専用ツールがないとダメなんだろうなあと思っていたけれど、これなら、自分なりに練習したあと、再チャレンジできそう。

嬉しいわぁ。

ただ、重くなっちゃうよ、という声もあるので、あまりパワーの高くないPCしか持てないし、専用ツールを購入する余裕もない私は、ささやかなものから、試しにやってみたい。

描いて表現すること自体に、本能のようにムズ痒いほどの悦びを感じるからです。

ただし、下手の横好きであるw

 

そりゃあ、
それ専用に開発されたツールが手に入る環境であれば、なんの苦労は ない。

でも、
手もとにあるもので試行錯誤しつつ、コツコツ工夫して、ここまで来た、というところに、まず感心する。

 

「便利は不便」でね。

それが なきゃ、いっさい何もできないまま、というのも問題だよなぁ。

 

日本は、何もないところから何かを産んだというよりは、もともと、他国や他民族から仕入れたものを上手く取り入れ、しかも、単なる真似でなく、そこにプラス アルファして、独自の世界を発展させてきた歴史が長い。その力、いまでも健在なのだと言って安心していられるだろうかと、近頃では少し不安。

でも、個人的にも嬉しい記事だった。