2016.04.10 (Sun)
せんだって、
くだんの映画作品を、『モーターサイクル ダイアリーズ』に同じくヤフーのサービスにて観せてもらった。
そのサービス自体は大いに結構なのだけれど、
鑑賞したユーザーたちのコメントには、せっかくの名画を台無しにしてしまうほどのコマーシャル動画のウザさぶりについて、ならびに、
こういうコマーシャル挿入の やりかたでは、かえって、その提供企業に対する、視聴者からの反感さえ招くであろうという批判が あった。
一般のテレビ ニュース サイト等で感じていた不快と共通していることでもあり、私自身、これらの指摘には全く共感するところだ。
ま、しょせんは、カネ儲け第一アキンドの やりくち、というか、当のコマーシャル提供企業自身が、こういうイヤラシイ動画の出し方を要求したのではないかもしれないし、請け負ったIT業者の担当者らの考えで やっていることかもしれないけど。
以前にも、新しいパソコンを購入して、新規のウィンドウズを立ち上げてみたおりに述べたことがあるが、どうも、ますます、使い勝手もサービスも共に悪くなっていて、
一般ユーザーの望む方向とは逆行しているのでないか?と言いたくなるほど、開発者だか技術者だかの独り善がりさが、ますますアカラサマになっているのを実感した。
まあ、こういう分野のエンジニアとかいうのは、もともと、平凡な一般人の望みや感性とかとは、多かれ少なかれ異質なのかもしれないが。
さて、
今回で、この映画を観たのは、何度めになるのだろうか。
しかし、何回観ても、飽きることがない。この作品は特に。
そして、
観れば、そのつど、もの思いに耽らせ、
無精な私にも、あらたに何かを書き残しておきたくなる気を起こさせる。
旧ブログや過去エントリーでも、この作品について述べたことが あったが、
ホン、主題曲、監督は勿論、端役に至るまでも唸るほどの良い役者揃いという、およそ名画の条件にズバ抜けている『道』であることに、あらためて感じ入った。
ただし、私は、主題曲だけを、それより もっと早くから聴き知っていた。
叔母から譲り受けた、たしか、フランス人トランペッターの、古いレコード アルバムに収録されていた曲の一つだったので。
当映画を、テレビで初めて見たのは、一番最後のシーンのみだった。
あの「ザンパノ」が、海辺で一人、砂を掴んで咽び泣く場面。
いまでも鮮やかに思い出すのだけれど、
学校から帰って来て、夕方の中途半端な時間帯、家族も出かけたままで、手持ち無沙汰な気分に、とりあえず、テレビのチャンネルをガチャガチャやってて、ふと、目に留まったのが、上記のシーンだった。
で、じきに“fine”の文字が出てしまい、
もちろん、そのままでは、何の話なのかサッパリだったが、
ここはアンソニー・クインの演技の迫真ぶりもあったのだろうが、やけに印象に残っていて、
その後、何年か経ってから、この映画を再び、今度は冒頭から観る機会が訪れ、それで やっと、あの最後の場面に至ることの納得が いったのだった。
いままでの人生で観てきた映画作品にも、私なりに、格別の お気に入りというものはあるのだけれど、
この作品以外で、『禁じられた遊び』と同じくらいパッと思い当たる映画というと、意外なほど思いつかないことに、初めて気づいて、われながら、ちょっと驚いた。
ある面においての双璧を成すという意味では、
『禁じられた遊び』と、くだんの『道』は、まさに、私のなかで双璧を成しているのだ。
そして、
やはり、キリスト教が見え隠れしているのも、過去エントリーで述べたように、幼い頃の絵本や絵画の記憶と共通していることにも気づいた。
ジェルソミーナが、冒頭、薪の材料のようなものを背負って登場するシーンから開始する。
ベイスハート演じる「イル マット」は、最初に登場したとき、芸用の衣装としてだが、天使の羽を背負っていたのも、意味深に思えてくる。
この二人、どちらも、アタマおかしい人、というキャラ設定らしいのだが、
たしかに、ジェルソミーナには、知能的な面の問題が あるのだなということが示される場面は幾つもあるものの、いたって普通の、健やかな感性の女の子だし、同時に、真っ当な倫理観や聡明な判断力を備えていると、
イル マットは、ジェルソミーナのような知能的問題は なさそうだし、その分、もっと普通に大人らしい分別と思考力を備えていると、私には思える。他の人たちの殆ども、だいたい、そのように思うはずだろう。
けれど、そこは映画のなかの世界と言うべきか、
現実に、知的や精神の障碍ある人は、なかなか、こうは いかないだろうと思う。
「普通の人」で通っている人以上に俗悪な感性と利己的な思考を、しかもアカラサマに露出して憚らないからこそ、そこのところで、病者や障碍者の範疇に入れられるだけ、というケースも少なくないのかもしれない。
しかし、いわゆる「健常者」だって、一皮めくれば、似たり寄ったりだ。
ただ、押し隠す技術を わきまえているだけのことかもしれない。
むかし、作家の故 遠藤周作さんたちが、何かの対談で、
『道』のヒロイン、ジェルソミーナを指して、「あの女はキリストだ」と言ってたのを読んだことがある。
だけど、久しぶりに今回あらためて、この映画を観て、最後の場面で、
きょうまで意識しないでいた自分の孤独、気づかぬうちに手に入れていたのに、そして失ったものに、生まれて初めて気づいたらしいザンパノの慟哭する姿を見て、
むしろ、人が見捨てたら、「神」のほうこそが一人ぽっちじゃないか。
という考えが浮かんだ。
ザンパノから離れよ、ここに居よと、ジェルソミーナを心配し引き留める人は何人も いた。
だが、イル・マットだけは、反対のことを言って、彼女を温かく力づけた。
私だったら、イル・マットのような男性に ついていってしまうと思うけど(笑)すごい好みのタイプだしw
それにしても、思い出すのは、私の母校の同窓生たちだ。
このことも、過去エントリーで触れたが、
かの『禁じられた遊び』にアクビしまくり、上映後はクサしまくり、
いかにも、お涙ちょうだい式の、やすっぽい悲恋もの娯楽映画には号泣していた彼女たち。
でも、みんな、それぞれ、それなりに、いい奥さん、おかあさんを やっていることだろうw
『道』の汲み尽くせぬ深さを理解できるべくもなく。。。
こういうところでも、マイノリティとしての孤独は あるよなあと思う私w
ただ、うちの母なんかも、若い頃から、特に洋画鑑賞を好んでいて、戦後に上映された『自転車泥棒』を観に行ったおり、母本人の大感動を尻目に、この作品の良さをサッパリ理解できず、「あんなん、しんきくさいの、どこがイイの?」と退屈がっていた友人のことを思い出してボヤいたことがあった。
そうしてみると、
各人に備わった感性には各々ある種の共通したパターンみたいなものが あり、そこで、それぞれの感性グループごとに分かれて、そこのところでは、時代や世代が全く異なっていようとも、結局、あまり違わないのかなと思える。
ごく短時間のうちに、何日も何ヵ月も過ぎたような気がして、
2時間も満たないうちに観終わってみれば、あっという間だったように感じる。
人生の時間の流れにも似るが、
さてもさても、じつに名作映画のなかに流れる時間は、このうえなく濃密である。
こういう映画を観たあとは、かつて、シナリオの道に片足入れかけ、そのままになったことを悔いる気分になってしまう。