2015.06.01 (Mon)
イルカは、たしかに賢いのだろう。
この話も、旧ブログで書いたことあったと思うが、
むかし、職場の同僚と、『海遊館』へ遊びに行ったときのこと。
いろいろ眺めて、驚いたり観察したり、写真を撮ったりしながら、やがて、ひときわ黒山の人だかりを成している水槽の前に来た。
何だなんだ?と、だんだんに、人だかりを掻き分け、一番前に進んで行って見ると、
そこでは、まだホンの子どものイルカが、ただ ひとり、観客たちに挨拶を繰り返しておったのだよ。
いやあ、たまげた。
まじで、挨拶しとんの。愛嬌たっぷりに。
どういうふうにってか?
泳がずに、ずっと一ヵ所に浮遊して留まったまま、巨大水槽のガラス越しに集まってる人間たちの、すぐ前に来て、彼らに向かって、頭を細かく振ってて、
あたかも軽く お辞儀するように、頷く しぐさを、ずーっと続けてたの。
どうりで、人々のあいだから、歓喜の声が湧いてたわけだ。
私も、くだんの子イルカの情景を見たとたん、
「あああーっこんにちはぁーっ
」
と、思わず知らず、ヨダレくりそうになるのを堪えつつ、
コーフンの雄たけびを上げ、大水槽のガラス越しに激しく手を振ったら、
子イルカちゃんが、今度は私のほうを見て、よりいっそう細かくウンウンと頷き返してくれちゃって。
あれは、まさに、「愛の挨拶」だった。
ちなみに、
そのとき、子イルカの はるか後方の水中を泳いでいた、おとなのイルカたちは、しら~んフリして、われ関せず。
あの子、まさか、閉館時間になって、客たちが帰るまで、挨拶し続けてたのだろうか。
もしも そうだったなら、さぞや、疲労困憊したことだろう。
おやつタップリ与えて、労ってあげたかったわ。
モデルを務めてもらった写真、何枚も撮らせてもらったのが残ってるけど、水中のイルカなどを上手に撮るのは、ほぼ静止状態のものでも、けっこう むずかしいみたいで、なんかピンボケっぽく全体がプヨプヨ~ンと膨張した感じに写ってしまってて。
仕上がりを確認した最初の瞬間、このプニプニぽよよ~んな膨満生物は、何だったかしら?って、ちょっとビックリした。
でも、どアップの表情と、つぶらな瞳は、好奇心と人懐こさと、微笑みに満ちていて。
『イルカ追い込み漁は残酷じゃない?だったらテレビはなぜ漁の詳細を報道しないのか』
2015.05.26
http://lite-ra.com/2015/05/post-1137.html
さて、
むかし、「文化ぶんかドンドンと、やかましいことだ」とかなんとか言って、いっとき、物議を醸したらしい議員センセイが いたっけな。どういう経緯や文脈だったのか、もう全然、憶えてないけど。
最近は、どういうものか、
何かと「日本固有の」って殊更、決まりきった枕コトバみたくに言いたがるひと、目につくなあ。
アジアの末っ子みたいな日本なんて、それこそ、パクリ文化でやってきた国、ほとんどの分野において、「貰いもの国家」なのにw
だからと言って、卑下することもないでしょ。
古来、日本人は、よそから もたらされる様々な良いものを敏く見分け、柔軟に受け入れ、
こまやかにアレンジして、
もっと垢抜けしたものにも仕上げられる才に恵まれてるし、それも一つの大きな長所だ。
そもそも、人間の文化は、いずれ、地域や人種を超えて入り混じるもんだし。
そんなにも、
「日本固有の!」「日本の!文化!!」
って力み返るのならば、たとえば、なぜ、こんにちでは殆ど全員、洋服を着とるのか。
日本人には日本人の着物文化という立派な存在があるでないか。
しかしながら、「くれはとり」、「あやはとり」なのだ。
長山孔寅『織女図』
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%95%B7%E5%B1%B1%E5%AD%94%E5%AF%85%E3%80%8C%E7%B9%94%E5%A5%B3%E5%9B%B3%E3%80%8D.jpg
2015.05.04 (Mon)
こないだ、『コンドルは飛んでいく』をyoutubeで探してて、偶然、こういう人がいるのを知った。
ああ、それは そうと、
『コンドルは飛んでいく』の原詞、有名なS&Gのものとは内容が全然、違うんだね。
日本語に訳されていたものを読むと、やっぱり、滅びゆく運命を目前にした民族の、永遠の命を希求し、血を吐くような思いが こもってる、そんな感じが したよ。
Leo Rojas“El Condor Pasa”
あらうふーん
かっこいい!あたしのタイプだぁ(笑)
尺八の音色も懐かしく、、、??
『ダンス ウィズ ウルブズ』の「風になびく髪」クンみたいじゃ~ん
私、むかしから、インディアン男性もタイプでさあ(笑)
そういえば、
俳優ではジョニー・デップも、アメリカ・インディアンの血を引いてるっけ。だからと言って、ジョニデのファンというわけではないのだが。
私が好きなミュージシャンの一人、トッド・ラングレンもそうだと聞いたことがあるような、、、違うのかな?
それどころか、スティーヴン・タイラーの娘のリヴのほうが、インディアンの血を引いてて、彼女を育てていたのがトッドだったなんて、びっくりした。
で、
私の大好きな曲、『スタンド・バイ・ミー』と『ラストダンスは私に』。
ベン・E・キング、かっこいいね~
『スタンド・バイ・ミー』、映画のほうも好きでーす。
むかしの同僚で、映画製作志望、シナリオ勉強中だと言ってた男の子は低評価くだしてたけど、私は大好き、この映画。
むかし、テレビの洋画番組で解説担当していた高島忠夫さんが、『スタンド・バイ・ミー』を評して、
「もうゼニカネ抜き!商売抜き!」
少年の世界をそんなふうに述べておられた。たしかに そうだよね。
もう少し年齢を重ねてからの『マイ・プライベート・アイダホ』でも良い個性を感じるなあと期待してたリバーが、あの若さで亡くなったと聞いたとき、とっても残念だった。
これに似た残念さは、『ブロークバック・マウンテン』で主役を演じていたヒース・レジャーが亡くなったときにも感じた。
ああ、阿修羅 原も亡くなってたんだ。。。
あのダイナマイト・キッドとの素晴らしい一戦が忘れられないよ
『「スタンド・バイ・ミー」のベン・E・キングさん死去』
ORICON STYLE 2015年5月1日(金)23時40分配信
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/oricon-20150501-oric2052420/1.htm
『ベン・E・キングさん死去 1度ボツになってた「スタンド・バイ・ミー」 震災後、日本に捧げる作品も』withnews 5月1日(金)23時49分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150501-00000004-withnews-ent
愛すべきアメリカ。
憎ったらしいアメリカ。
アフリカン・アメリカンたちだって、インディオの子孫たちだって、内心どこか複雑なのだろう。
愛すべき日本。
憎ったらしい日本。。。
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THE HOUSE I LIVE IN Mahalia Jackson
What is America to me
A name, a map the flag I see
What is America to me
The house I live in
A plot of earth, a stream
The grocer and the butcher
And the people that I meet
The children in the playground
The faces that I see
All races, all religion
That’s America to me
The place I work in
The worker's at my side
The little town or city
Where my people live and die
The howdy and the handshake
The air of feeling free
And the right to speak my mind out
That’s America to me
The things I see about me
The big things and the small
The little corner newsstand
And the house a mile tall
The wedding and the churchyard
The laughter and the tears
The dream that's been a growin'
For a hundred and fifty years
The town I live in
The street, the house, the room
The pavement of a city
Our garden all in bloom
The joy, the school , the clubhouse
The million lights I see
But especially the people
That’s America to me
2015.04.28 (Tue)
『「多元宇宙」と「タイムマシン」』の続き
○。 。● 。○。 。● ○。 。●。 ○。 。● ○。 。● 。○。
誰も踏み入ったことのない深山に
ひとり純白に咲き誇る山桜
そんな幻想イメージのことを、旧ブログにて、ふと、書いたこともあったのを思い出した。
人に愛でられなかろうが、一滴の露ほども意に介さず
過去から未来、ひたすらに咲き誇り
ときおり訪う風の吐息にのみ応えて
はらはらと花びらを落とし続ける
http://photohito.com/
2015.04.28 (Tue)
『女性自身』さんの記事とは思えない話題?(笑)
『「1Dゼインの脱退は宇宙にどう影響した?」──ホーキング博士が出した答えとは』
女性自身 4月27日(月)12時59分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150427-00010003-jisin-ent
そういえば、「タイムマシンの可能性も!」とかいうので数年前、スイスの研究機関発の話題で、産経新聞社が運営していた「イザ!」というブログ サイトのブロガーたちもハシャイでたことがあって。
当時、どこぞの女医だとかいう古参ブロガーも、そのハシャイだコメントでもって、およそ科学的思考力もセンスも皆無なのかということを大っぴらに さらけ出してたが、
(コヤツは、私に対して、しょうもないイチャモン的無礼を はたらいた連中の一人で、普段から税金の不満、要するにゼニカネ以外のことについては、二言目には「ほにゃらら」「もにょもにょ」「ごにょごにょ。。。」で、全て誤魔化しておくしかないオツムだったから、本人自分で言ってたように医者だというのがマジで信じられなかったwまあ、産経のシンパではなぁww)
自分の理解力を超えてしまう話題になると、ただ単純に感心して「ほえ~」と放心状態になるか、負けん気出しては、しょうもない後付けヘリクツ合戦になって食い下がるか、たいがい、どっちかに転ぶ「ヤフコメ」の投稿者の一人は、
「無限と言っても何もかもが無制限に自由化されるわけではない」とか「水は高い方から低い方へ流れる、これを基本法則と考えるべし」とか「宇宙の多様性とは、この水の『流れる方向が変わる』ことではなく、この水に『何を流すか』を変えられる、ただし、何を流しても上から下に流れるという法則は無視できない」とか、、、
まあー、いくら仮説とは言え、つごうのいい条件付けテンコ盛りだことw
「小売り」ぢゃなかった「公理」的特権かな?ww
んで、
この記事を目にするまで、「1Dゼイン」たらいうのは、
私の世界には存在してなかったよw
はたまた、
同じ投稿者の説明する、
「その文明が物理法則を書き換えできるのは、その文明自身が所属する宇宙の中にいる間だけ」とか、
また、その宇宙の中にいる場合でも、物理法則を書き換えた瞬間にその文明はやはり基礎となる物理法則を失い、物理法則を書き換えることができなくなるというわけ」だとか。
「コンタクトがないからといって必ずしも他の宇宙がないとは言えない」とか。
眼中にもない者からの秘かな片思いwや、
「霊の世界」なんかも往々似たような話になりがちよねえww
あっちからの「コンタクト」に敏感な霊的体質なんですぅとか、アクセスできるんですぅとかwww
まあ、じつは私自身、いわゆる霊的なことに不感症ではないほうなのだけど、それは置いといて、
そりゃあ、ある法則が、あらかじめ存在していなければ、「書き換える」も何もなかろうし、
「書き換えた」とたんに、全てワヤになってしまうということだろうが、
だが しかし、
もしも、いま、私(われわれ)が居る この世界での「基礎となる物理法則」とは無関係な別の世界だとか別宇宙において、とするのならば、くだんの「ゼイン」たらいう者も、そもそも存在し得ないじゃないかと考えるほうが妥当だろうな。
だいたい、「アクセス」やら「コンタクト」やらが全く来ないということの理由は、やはり、
第一に、そもそも、寄こす相手が存在してないからだと考えるのが普通だわなあ。私が、その「ゼイン」たらいう者にアクセスしようとかコンタクトしたいとか、夢にも思いもしなかったように。
そして、
そういう者が存在しているらしいと知った後の今になっても、眼中にない、
つまり、関心がないから「アクセス」やら「コンタクト」やらを しないだけ。
もちろん、これは、この世界にいるから、そのような理由付けが自然当然のごとくに主張できるわけだけど。
ある特定対象が存在することを知らなかった時点にアクセスする、できると言っても、この現実世界にだって、いろいろなシチュエーションがあり得るが、
たとえば、過ぎ去った時点においての、その特定対象に関係ある何か、当時に発行されていた文書の類を読むとか、私のように知らないままでいた人に知らせてあげるとか。
でも、あくまでも、当時の関係文書を読む、もしくは、知らない者に知らせる側は、もちろん、その後に起きたことを、すでに知ってしまっているわけだけど、
どちらにせよ、興味が起きないなら、読もうとも思わない、たまたま知ったところで、どうでもいいと思うなら、他へワザワザ知らせてあげようとも思わないだろう。
私が、「1D」だの「ゼイン」とかいう者に関する記事を読みたいとは思わなかった、また、ほんの少しだけ知った今でも、知らないままでいる人を探し出してまで知らせてあげようなんて、さらさら思わないように。
それとも、「予言」の問題になる?w
この今、われわれの居る世界、ここの宇宙の基本物理法則とは関係ない、そういう別世界みたいな宇宙もアリなのだ、いやいや、やっぱり、ここの基本法則を共有する宇宙世界ならアリだと、
もはや、まさに「何でもアリ」になっちまうわなあ。
そんな「何でもアリ」なことを、つど、ぶつ切りに ぶった切って、大真面目に議論してもなあ(苦笑)
私が、くだんの「ゼイン」某を全く知らなかった時、
この記事をササッと読んだ時、
あっそうなの、と思った時、
いつか、その「ゼイン」とかいう者にコンタクトとりたい、アクセスしようとする気になる(かもしれない?)未来の時間までの道のりを
(だが、来ない未来は来ないのだw)、
要するに、
「ブラック ホール」までのタイム ラグをブツブツ切り刻み、その断面毎に、別宇宙の名を与えるわけ?
どっかで聞いたような詭弁哲学みたいねw
そういや似てるw「ゼイン」と「ゼノン」ww
まあ、詰まるところ、コトバの問題かね?
個人の内面の様相を指して、「宇宙」とも呼ぶのだから。
私個人的には、ほーきんぐ博士については、むかし、彼の理論を解説した本がブームになったおりにザッと読んだことがあるけど
(読んでる最中、同僚が欲しがったので、読後に譲ってあげた)、
いまは、彼の奥方の家庭内三角関係物語を描いた映画があるというので、観たいと思ってw
フラチで下世話で、潔癖さに欠けてるアタクシです、はい(苦笑)
2015.01.25 (Sun)
――Liberte――ポール・エリュアール
ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を
読まれた 全ての頁の上に
書かれていない 全ての頁の上に
石 血 紙あるいは灰に
ぼくは書く おまえの名を
金色に塗られた絵本の上に
騎士たちの甲冑の上に
王たちの冠の上に
ぼくは書く おまえの名を
密林の 砂漠の 上に
巣の上に えにしだの上に
ぼくの幼年の日の こだまの上に
ぼくは書く おまえの名を
夜々の奇蹟の上に
日々の白いパンの上に
婚約の季節の上に
ぼくは書く おまえの名を
青空のような ぼくの襤褸(ぼろ)の上に
くすんだ日の映る 池の上に
月のかがやく 湖の上に
ぼくは書く おまえの名を
野の上に 地平線に
小鳥たちの翼の上に
影たちの粉挽き場の上に
ぼくは書く おまえの名を
夜明けの一息ごとの息吹の上に
海の上に そこに浮ぶ船の上に
そびえる山の上に
ぼくは書く おまえの名を
雲たちの泡立てクリームの上に
嵐の汗たちの上に
垂れこめる気抜け雨の上に
ぼくは書く おまえの名を
きらめく形象の上に
色彩のクローシュの上に
物理の真理の上に
ぼくは書く おまえの名を
めざめた森の小径の上に
展開する道路の上に
あふれる広場の上に
ぼくは書く おまえの名を
点く ともし灯の上に
消える ともし灯の上に
集められた ぼくの家たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
二つに切られた くだもののような
ぼくの部屋の ひらき鏡の上に
虚ろな貝殻である ぼくのベッドの上に
ぼくは書く おまえの名を
大食いで やさしいぼくの犬の上に
その ぴんと立てた耳の上に
ぶきっちょな脚の上に
ぼくは書く おまえの名を
扉のトランプランの上に
家具たちの上に
祝福された焔むらの上に
ぼくは書く おまえの名を
とけあった肉体の上に
友たちの額の上に
差し伸べられる手のそれぞれに
ぼくは書く おまえの名を
驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に
沈黙の向こうに
待ち受ける彼女たちの唇の上に
ぼくは書く おまえの名を
破壊された ぼくの隠れ家たちの上に
崩れおちた ぼくの燈台たちの上に
ぼくの無聊の壁たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
欲望もない不在の上に
裸の孤独の上に
死の足どりの上に
ぼくは書く おまえの名を
戻ってきた健康の上に
消え去った危険の上に
記憶のない希望の上に
ぼくは書く おまえの名を
そして ただひとつの語の力をかりて
ぼくは もう一度人生を始める
ぼくは生れた おまえを知るために
おまえに名づけるために
自由(リベルテ)と。