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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.01.14 (Wed)

言わば、このことについてこそを、私自身も、旧ブログ等にて、この数年を費やしてきたようなものなので、もはや、ここでは手短に述べる。

これは、例の「カルト連」問題の基本部分にかかわることでもある。

 

そういえば、あの連中も、やたら、フランスに縁のあるようなことを言っていたなあw思い出したわww

 

当初は、連中が、いったい何を やりたいのだか、私には皆目わからず、だが、厭味と不穏な空気感だけは、私のようなボンヤリした者にも否応なく感じ取れ、

先方が、こちらに向かって説いていたところのことと、その目論むところも、実際には全くズレていてハチャメチャ、

しまいには「権威、良識、倫理の類はクソ喰らえ」とか言い出す始末、
そりゃ、まあ いいんだけどね、

私からの指摘と「糾弾」ぶりにも、確信と歯切れ良さには欠けているであろう自覚が多少なりあったものの、先述のような出発事情なので、鋭く的を突いていくというわけには、なかなか行かなかったのだが、

いろんな側面から、そのうち、だんだんに見当もついてきて、

当時、あの連中の誰やらが(猫ばばサマだがねw)頻りに呟くようにして、

「時間が経てば、そっちの誤解だったということが分かるだろー」

みたいなことを言っていたけれども、

誤解どころか、やはり、私の当初の直感と不審は、ほぼ合っていたのであり、私の感じた憤りの妥当ということも、いまでは分かる。

 

つまり、

少なくとも、その場においての少数側、何らかの理由で立場の弱い者を、嘲笑あるいは皮肉りや罵り等の対象にすることの、どこが「芸術」、または「文学」なのか?ってことだ。

 

 

旧ブログでも、そうだ、まさに、このことなのだ、と思って、とりあげておいたコトバを、再び紹介しておく。

たしか、キューバの、
いまは高齢になり、もっぱら後進の指導に あたっているという、かつて、世界的名プリマだった人のコトバ。

 

芸術とは、人の心を豊かにするものです」。

 

そう。。。

芸術が、人の心をクサクサさせたり鬱屈させたり荒ませたりするためのものであるはずがない。

 

 

さて、今回のような事件で、インタビューを受けたイスラム教徒の人たちが異口同音に言う、
「彼ら過激派と、私たち普通のイスラム教徒とは別ものです」という訴えなのだが、

私が気になっているのは、
それこそ、生まれつきの「過激派」なんて いやしないだろうに、
もとは「普通のイスラム教徒」だったはずの者たちが、ああした過激極まる「イスラム教徒」に変貌するらしいのは何故なのか?ということである。

(続く)

 

 

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Updated   
2015.01.10 (Sat)

≪『はじめてのおつかい』:きびしくてやさしい「ウソ」と子どもの自立の心理学』≫
201515 227

http://bylines.news.yahoo.co.jp/usuimafumi/20150105-00042031/

 

(注:はじめに、

かねて言ってきているのだが、

私は、「グーグル」と同じく「フェイス ブック」に対しても、ひときわの不信感を持つゆえ、ここのアカウントは持っていないし、かつ、今後も、加入するつもりは ないという考えなので、上掲、「ヤフー」が主宰するコラムに対し、コメント投稿が できない。何度か試し直してみたのだが、そういうシステムになっているようだ。

したがって、以前にも、やむなく、こういう かたちを とったことがあるが、今回も、碓井氏の、このコラムについて投稿できなかったコメントを、ここに載せておくとする。)

 

* * * * * * * * * * 

 

碓井先生。

ここで仰ってる「うそ」とは、言い替えれば、「ストーリー」でしょうか。

 

私も、かつては時々見ていた番組を、今回、例に挙げられて、テレビ局を大いに喜ばせるようなことを述べておいでですね。

いまでは、私は、テレビ自体を見ることが なくなっていますので、ながらく ご無沙汰になっていますけれど、

あの当時、たしかに私も、子どもたち、その親たちの、素朴な「ドラマ」に、ほほえましく感じたり、ハラハラしたり、ホロリときたりしたものでした。

 

その番組も、思わぬ事故等アクシデントを起こさないでこれたからこそ、賛辞を受けることが できるのでしょう。

 

ところで、
子どもを「利用」した番組では、一般家庭の日常のなかで、一歩間違えたら、命の危険すらあり得るような(たとえば、高い位置から転げ落ちるような)場面にあった子どもを、親が、動画に撮ったものを、テレビ局に投稿し、そのなかから選ばれたものを公開するといった番組もありましたが、

だんだんとエスカレートしていったのであろうか、偶然ではなくて、どうも、親みずから、わが子を危険に晒すことも辞さずに、敢えて、そうした演出を行い、撮影したものを、番組に投稿しているのではないかという疑念を抱かせられるようなふしさえ窺えました。

その番組が、以降、どうなったかは存じませんが、いまでは、さしづめ、「ユーチューブ」あたりに、投稿の舞台を移しているのでしょうか。

 

 

さて、
私の幼なじみの家庭では、そこの おかあさんは、自分が やったほうが断然、早く済む、ということで、かえって手間になりかねない家の事などを、子どもたちに手伝ってもらうのを、むしろ、避けていました。

私は子ども心に、その おかあさんの姿勢に疑問を感じていました。

 

私の場合ですが、子ども時代、自他ともに認めるほど、親の手伝いを、よくするほうの子どもだったと思います。母が病弱だったのが、一番大きな理由だったのですが、家に、母が不在だった時期も長期間ありましたので。

 

はっきり言って、親だけでなく、他の身内も その傾向だったのですが、私に対して、ほとんど女中扱いのようでしたけれど(苦笑)

実際、幼い私の手伝いが、親たちにとって、多少なりとも役に立っていたからこそ、常に、家庭の手伝いを、あれやこれや命じられたのだと思います。

 

 

ただ、「自己肯定感」というものについてですが、

何らかの原因で、根深い無力感に陥ってしまっていると、前向きに、自分自身のための努力すらもできないし、

「自分のため」というよりは、周囲のために、つごうよく振り回されているだけであることに気づかず、
かえって、自分のための努力、自分のための生活や人生、自分を優先させることに、潜在意識のなかで、深い罪悪感を持つことさえあると思います。

それなりに努力していたとしても、心底からの「自己肯定感」というものは、なかなか得られないでしょう。そういう極端な心境を余儀なくさせられるということは、さすがに、一般には少ないケースだろうとは思うのですが。

 

 

純真な子どもは、なんにせよ、おとなの、打ちひしがれた姿というものを見ると、なんとも悲しくなるのですね。

自分の大切な親や肉親が、追い詰められ、傷心を抱え、ほとほと困っている姿なんかを見ると、自分のこと以上に切なくて、深く不安に苛まれるのです。

 

そんな子どもの純真さを、おとなたちには、ヘンに利用することのないように、くれぐれも心してもらいたいです。

子どもの人生を、将来にわたって損なう恐れもありますので。

 

 

Updated   
2015.01.10 (Sat)

いま さっき読んだ

スポーツ報知 110()1945分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150110-00000118-sph-soci

 

ま、一言。

「自己愛性人格障害」者なんかと、うかうか付き合うもんじゃありませんわ。

始末悪いこと、このうえないからね。

 

「腐れ縁」というコトバもあるが、まず100パーセント近くは、どうしても、歪な、腐った人間関係になっていきやすいですから。

最後は、「共依存」とかに陥って、どっちも どっち状態に。

 

どーしても離れられないのであれば、せめて、子どもは つくらないようにすることだ。

子どもが、ものすごいトバッチリで、迷惑こうむって、さんざん苦労しますからね。

自分でも知らず知らずのうちに、歪みの影響を受けてしまうこともあるし。
なんせ、あのテの者というのは、「
平気で嘘を つく人たち」ですから。

 

しかも、なまじに頭が良い者ほど、その嘘が嘘だと気づかれるまでに、長い年月を要したりする

同じ「人格障害」者であっても、たいしたオツムでない者は、比較的すぐにバレる嘘を つくがw

 

本人は、今回の「事件」にも見られるように、非常に軽薄、かつ俗な性質なのです。

ただただ、自分の価値というものを、身勝手な方法で確認したいだけ。

根が俗物だからですよ。

だから、他者に対して、隙あらば、こういう俗悪な要求を突きつけ、恥を掻かせ、困らせようと欲してやまないのです。

「悪意」?ありますよw

私は、その「悪意」の対象になっていた経験があるから、ある程度、察しが つく。

なぜなら、以前も言ったけれど、

彼らには、生まれつき備わってるのか?と言えるほど、
もともと「被害意識」があるからです。
ただし、その被害意識に、客観的あるいは論理的妥当性があるかどうかとは一切関係ない場合も多々あるらしい

だって、

いつも、漠然とした不安感とか「見捨てられ不安」などを、つよく感じているというのだから(脳内分泌のぐあいにも関係してるのかね?)、それが、彼らの「被害意識」の源なのであろうし、

ひいては、

常に つきまとう、その根強い被害意識を、鬱憤晴らしを させてくれやすそうな相手を、常に虎視眈々と窺ってますわw
もともとが敏感過ぎるほど敏感で、抜け目がないと言っていいほど、損得計算、駆け引き計算に長けて、よく言えばシッカリした性格のひとも多いじゃないの?このテのひとたちってww

そして、これは、むしろ、普遍的な類の心理なのかもしれない、
すなわち、人というものは、
自分にとって重要な相手であるほど、その相手に、「転倒」
と言うべき、被害意識を持つものらしい。


わかるかな?


その相手が、自分にとって、価値ある存在だと思えるからこそ、それが そのまま、わけもなく、損害意識や被害的感情に結び付いていくのらしいということ

失うことを恐れるからこその反動ってとこかな?


だから、そういう相手に対してこそ何らかの鬱憤晴らしをせずにいられないのかもしれない。
だが、それを やってしまったら、ほんとうに、見捨てられてしまいかねないという危惧がある場合には、、、

どうするかねえ?
第一に言えることは、とことん鬱屈するのだろうね。
思いっきり、ぶつけたいのに、ぶつけられないとなると。
じゃあ、どこに、ぶつけようとするだろうか。

 

それにしても、近頃の老若男ども、ナサケナサ過ぎやしませんかね?wははは、はっww

ごめんね、つい嗤ってしまってwww

 

まあ(辞任したそうだが)、人さまの子女を指導・教育する職に ありながら、この大学講師さんは、
年甲斐もないほど「おぼこい」のか、純情なオッサンなのねw

たぶん、女性経験が少な過ぎたのだろうかな?

 

 

ただ、ま、「人格障害」というのは、殆どが持ち前の性格ということなのだけれど、それだけに、基本的には、治療の しようもないわけだそうで、
かろうじて、年とったら、少しずつマシにはなっていくと言うのだが、

私の身近で知るかぎりでは、たしかに、けっして、「治る」ものではないようだ。

 

ヘタに責任感とか使命感でもって関わらないほうが、お互いの身のためだと思うがなあ。

最後まで自分一身の範囲で引き受けきる覚悟があるのならば、敢えて止めないけども。

それなら それで、一つの徹底した人生のありようかな、とも思えるし。

 

ただし、
たとえ悲劇を覚悟していても、くれぐれも、子どもは つくらないようにね、と言いたい。

巻き込んで、世代連鎖しやすいからね。そうなったら、ほんものの悲劇に終わる恐れが濃厚だから。


あの「カルト連」みたいに、自分の家族やリアル身近の周囲に対しては、いたって おとなしいと言うか、いわゆる「外弁慶」の歪形みたいなタイプだとすると、真逆に向いて、まるっきりの他人さんをこそ巻き込む傾向があるようだがね。

 

Updated   
2014.10.12 (Sun)
フルボッコのペチャンコに踏んづけてやって当然なんだ、と思うときって。

 

あなたなら、どんなときだと思うのだろうか。

 

口論の客を暴行後、席に戻ってラーメン完食した元ラガーマンの素顔とは…』
産経新聞 1011()930分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141011-00000505-san-soci

 

「ギスギス社会」の象徴的事件ってところかね。。。

 

私個人は、ラーメン店とか、カウンター中心の店、またはセルフ方式の店とかもだが、
いままで、食事しようと入店したことは、連れに誘われて以外では、ほとんど経験がないという、いまどきの基準を大幅に外れたような人生なのでw大部分は想像するしかないのだが、

最初、この事件の一報を読んだとき、真っ先に思ったのは、
店の外に出ての事か、店内で起きたのか?
やっぱり、店主や従業員は勿論だが、
詰めて座らないとならないほど混んでいたのか?そうなのであれば、
周囲にいた少なからぬ男性客らは、黙って見ていたのかな??ってことだった。

 

 

ごく個人的な話だけれど、

私なんかは、実家の親父が酒かっくらったときは特に、ほぼ判で押したように暴行を始めるというパターンだったので、「そら、まーた始まるよ」という予見も、ある程度は できたものの、

大概は、外で飲んで、すっかり出来あがってから、なぜか、這ってでもw無理やりに帰宅して、

それから、家族を歯牙にかけ始めるというパターン。

 

なので、普段から母は、勤務先や取引先の人たちに対して、

「うちのに飲ませないで、どうしても飲ませたときは、泊めてやってください」

と頼んでいたのだけども、結局は皆、無責任で。

 

酒に呑まれてしまう、だらしない男だということを知っていても、本人も大好きだから薦めて、飲ませるだけ飲ませておいて、最後は泊めもせずに、ほいほい帰すわけよ。
と言うか、
本人が敢えて帰りたがるので、ということも聞いてはいたがw

 

わが家の玄関前の、少し先の路上あたりから、もう、何事かを喚き散らしている怒声を、耳ざとい母が聞きつけて、「そーら来た」、

次の瞬間、親父の怒鳴り声と共に、玄関のドアが、どっかーんと開く。

 

自室で静かに机に向かっていた私は、思わず震え始めた指から、ペンを とり落とす。

あとは、お定まりの地獄図絵が始まる。

 

もともと、義理のきょうだいたちが、何の役に立つわけでなし、

親父の長女(←自己愛性人格障害であり、長年にわたる精神科患者。身内から見ても性格は悪いよw)なんかは、自分さえ逃れられるかぎり、後妻である母や私が、親父に暴行されていること自体は、悦んで楽しそうに眺めてたからね。

 

親父のほうの連れ子たちが、母の辛苦のすえ、それぞれ人並み以上に有利な結婚なり進学・就職なりで独立してからは、

いよいよ、残った末娘の私と母親二人だけが、親父の暴行の餌食になるわけだ。

 

元来、私自身は、どちらかと言うと、何にせよ、落ち込んでいる人や荒れてる人を上手に宥めこそすれ、

わざわざ自分から、不穏なネタを探してでも焚きつけて刺激するようなことを好き好んで言ってのける性格では ない。なので、

私とは真逆に、

わざわざ、落ち込んでいる者や荒れてる者に向かっては、もっと煽るようなことを言って刺激するという、実に奇妙な癖のあった、弾丸みたく素早い口達者で、からだは持病だらけのわりに、気性は非常に激しい、
そんな母に対して、親父も毎度身勝手なブチ切れ開始、

続く暴行も、最初のうちは、親父の後妻である母に向かって集中する。

 

私は、まだ幼児の時分から、こんな母親を庇って、今度は自分が殴られるハメになるのを分かっていて、敢えてなっていたわけだが、

さすがに、年齢と共に、生意気になっていった私の不満や怒りは高まり、必然的に、親への咎めや批判は舌鋒鋭くなり、

親の身長を追い越した頃には、すでに、親父の暴行も、もっぱら私相手に、いっそう激しくなっていった。

 

そんな頃の あるとき、

また始まった大騒ぎのなか、いつもの身代わりで、私が集中的に、親父からの暴行に耐えているのを見かねた母が、親しくしていた お隣へ駈け込み、助けを求めたところ、

たまたま、その夜は、当時、府警巡査部長であった ご主人は宿直か何かで不在、

その おじさんさえ在宅だったなら、

「○○さん!何ば しておられますか!!」(←鹿児島出身)

と、一声発するが早いか、

ただちに、腕なり手首なり、あるいは、指の一本を捕えただけでも、暴れている親父に、
「あいたたたー!!痛い痛い」
と呻かせ、たちまち制圧してしまうのだが。

(私も、指一本の護身術を、この尊敬する おじさんから教わったことがある)

ところが、かつて、ソ連抑留経験者でもあったという、この おじさん、
郷里の親きょうだいを養うため、酷く苦労していた戦後の若い頃は、うちの親父以上の暴れん坊だったそうな。

 

で、
しかたなく、おばさんと母が連れだって、うちに戻って来て、こっそりと窓の外から恐る恐る、室内のようすを窺ってみると、

親父がバカ力で叩き割ったガラス扉の、ぶ厚い破片が、あたり一面散乱する上で、髪を掴まれ、引きずり回されている最中の私を目撃し、
母は、連れて来た おとなりの おばさんに向かって、

ここで自分が入っていったら、逆効果になるだろうから、うちの亭主を止めてやって、このままでは、娘が殺されてしまう、と頼んだのだそうだが、

おばさんのほうも当然のこと怖れをなしていて、

「そんなこと言われたって、私だって怖いわよぉ」

と、震えながら断られたということだった。


中学時分だったか、
あるときには、近所の幼なじみの家に駆け込み、そこの おじさんに、
「○○ちゃん(私)は、うちで泊める。が、あんたは、自宅に帰るべきだ」
と言われた母だけ出て行きかけたので、
母の身こそが心配で たまらない私もアッサリと翻意、
メチャクチャになった自宅へと、
夜中の道を、結局は二人して、ひっそりトボトボと戻った。
その道すがら、
「おかあさん、、、死にたいネ」
と話しかけて、
即座に「何を言うか!」と、母に叱られたものだ。

ま、つくづくと、はた迷惑な夫婦だった。


 

たしかに、そのときの現場に、もしも自分がいたとしたら。

 

元来ぼんやりした性質な私は、おいしく味わっている目の前のラーメンのほうに気を取られていて、

しかも、聴覚が不自由なもので、そうとうの怒号が飛び交い初めて、そこで やっと、何ごとか異変が起きたらしいことに気づくのだろう。

 

しかも、すでに、あっと言う間に、凄惨な暴行へと移行してしまっていて、

あわてて止めに入るどころか、少なくとも一瞬間くらいは、ぽかんと呆気に取られることだろう。

せいぜい、そこからハッと気を取り直して、店の人を促すなり、すみやかに自分なりが、警察へ通報しに かかるだろうことだけは確かだが、

疎い私には不明だけど、それにしても、「ラーメン セット」ってのは、すぐに出来あがるものなのか?

 

現場からは、交番が、ごく近かったという話も出ているようだが、

どんだけ食うのが早いか知らんが、
下手人が完食しおおせるまでに、警官たちが駆けつけて来て、逮捕するまで、どれだけの時間を要したのだろうか?
そこだけは、いまも少々疑問に思っている。

 

まあ、しかし、この加害者、一応、会社員だということにも、まず驚いたが、

身内ではなく、まったく外部のマトモな会社に就職したサラリーマンでは、とうてい勤まらなかったのではないかなと思う。

まして、入墨してたというのが事実なら、その身内の会社も怪しい気がしてくるのだが、

これでは、どこにも拾ってもらえないというので仕方なく、身内に引き受けてもらったのか?

 

 

うちの兄なんかも、教師という公務員にさせておいたのは、母らが、

「この息子は、性格からして、普通の会社勤めはムリムリ」

と見越していて、

しいて言えば、幼い子どもが好きで

(だからか、親父の連れ子のうち比較的に兄のほうだけは、年齢の離れた私を可愛がってくれた面も少しはあるのだが、母としては、兄が子ども好きなことを、些か危惧していたw)、

言って聞かせて、その気にさせて、お尻を叩いてさえおけば、まあ勉強だけは真面目に するし、

公務員や教師といった安定職ともなれば否応なく、環境的縛りが強いからという、親として期待ゆえの判断でもあったらしい。

 

 

最後に、心理的な面で付け加えておくとすれば、ヒントの一つは

パーソナル スペース

ということもあるかと思う。

これは、女どうし、友人相手等でも、べたべたイチャイチャするのに、わりと慣れている女性たちよりは、男性のほうが拘りが強いようだと見受ける。

でも、プロレスラーとかには、なぜかベタベタ触ってるけどねw

 

私も、幼児の頃から すでに、なまじ添い寝なんかを すると、かえって寝つきが悪くなる傾向の子だったということは、母から聞いていたが、

学校時分でも、成人してからでも、他の女性たちと比べると、あまりベタベタ触られたりするのは好きではないし、はっきり宣言したことは ないけど、
彼氏や親ですら、同室で寝泊まり等するのは、本心では抵抗感が つよい。

それでも、自室に友人を泊まらせたりもしたし(自分では極力、泊まらないようにするのだが)、

いまは、近所の猫に、まともに歩かせてもらえないほどベタベタいちゃいちゃされて、頭が痛い事態に陥っている(苦笑)

 

まして、通勤時のラッシュの乗り物やら、社員どうしの机が くっ付いていて、肘を曲げたままでも、隣席の同僚に容易く届くといった職場環境には、自分でもハッキリと苦痛で、そうとうのストレスとなっているのは感じてきた。

 

ただ、ラッシュアワーの電車や駅構内、職場の昼休みに、昼食を とりに入った飲食店の狭いカウンター席でも、文句や争いの声を あげているのを見たことはあるが、それは いずれも男性だった。

 

一般に男性は、女性よりも肩幅があるし、大股も広げたいものなのかと思っていたがww

暴力団組員等では顕著な傾向として、「パーソナル スペース」の問題に非常に敏感ということを、専門家の話で読んだこともある。

こうした類の人間の、たとえば、電車等での座りかたというものをイメージに浮かべてみたら、正直、なるほどと思った。

ただでさえ、日本は何につけてもセセコマシイなあ、とも思うし。

ちなみに、うちの暴力親父だが、べたべたするのは好きだったみたいよ(爆)

 

 

Updated   
2014.10.06 (Mon)

「その人に耐えられぬほど重い試練を天は課さない」と

 

長崎・佐世保の同級生殺害:発生から1カ月 「手をのばせば防げた」 加害少女、多くのシグナル
毎日新聞 20140826日 東京朝刊

http://mainichi.jp/shimen/news/20140826ddm012040033000c.html

 

 

むやみと拡大して騒ぎに仕立て上げるのも問題だが、逆に、当該事件のように、軽視し、むやみと矮小化して済ませようとするのも問題だ。

 

ところで、

「家庭裁判所判事を主人公にした漫画『家栽の人』の原作者で佐世保市出身の毛利甚八さん」というかたの見解を、これも毎日新聞で見かけて思ったこと。

このかたが言うには、

こうした事件の加害者は、幸せになってこそ、そこで初めて、本当に反省や謝罪の心を持てるようになるのだということらしいけれど、

まず、被害者側遺族としては、どうなんだろう。

 

大切な娘は、こんなめに遭わされ、前途ある人生を断ち切られたまま、

あのとき、
だしぬけに起きた事態の認識すらも、恐らくは、自分自身で、さだかには分かっていないであろうまま、二度と戻って来ない。

なのに、下手人が幸せになってもらいたいと、もしも、そう願えるならば、それは、人として大変アッパレなことだろうが、

だいたい、加害者本人自身、本当の自覚に促され、心底からの反省や、われとわが身が犯してしまった罪の深さを覚えて謝罪の心を持ったとして、

その時点で、もう、自分には、普通の幸せを手にする資格は ないものと諦念せざるを得ないだろうと思えるのだがね。

 

それに、大概の人間というもの、究極、自分だけは可愛いもんで、

ましてや、何らかの重大な欠陥ある精神の持ち主である場合には、なおさら困難なことでは なかろうか。

それも、
親からの情愛等を全く知らない育ちなわけでもないんだろ?こんな加害者と言えども。

 

つくづく、難しいわ。

 

 

長崎・佐世保の同級生殺害:バット殴打、父が口止め 長崎県教委2次調査
毎日新聞 20140925日 西部朝刊

http://mainichi.jp/area/news/20140925ddp041040011000c.html

 少女は4月7日から佐世保市のマンションで1人暮らしを始めていた。報告書は「校長は保護者が決定し、既に1人暮らしを始めていたため、やむを得ないと判断した」としている。担当教諭は1〜2週に1回程度、少女のマンションを訪問するなど接触を続けていた。

 

 

この教諭に、身の危険はなかったのだろうか。

 

ともあれ、まず、共有は大事だと思う。

これさえあったら、級友の女子高生の被害も、なんとか未然に防ぐことは可能だったろうと思う。