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Updated   
2016.01.23 (Sat)

 

産科医、知的障害の患者に「結婚できないでしょ」発言
朝日新聞デジタル 122()1631分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160122-00000041-asahi-soci

 

 

私自身も、婦人科で手術が必要になったときに、ちょっとだけ似たようなことがあった。

医者としては、どうってことないだろとしか思ってないみたいだし、

なんせ、大量の患者を、ドライに事務的に捌かざるを得ない日々のなかでは、いちいち個々に対してデリカシーなんか気にしてられないのかもしれないけど。

 

たしかに、患者側としては、そんなカンタンに断定されても、、、と思わず鼻白むセリフではあった。

実際、その後の人生で、医者の言ったこととは逆の出来事も起きたし。

 

それでも、私は、自分自身に対して冷たいようなところがあるのかして、

ちょっとちょっと、、、と言いたくなる気持ちは抑え、
べつだん、腹も立てなかった。

 

何より誰より、
私の母親が、最も冷酷にして理不尽ななセリフを吐きよったからねww

 

やっぱり、脳に部分異常を隠し持っているひとってのは、普段、どんなに要領が良くても、どこかで、トンデモなことを言ってのけるもんですわ。

だから、自分の親でも、時々、理解不能。

まあ、向こうも そう思ってたんだろうけど()全然、似ない娘だったしw

 

うちの身内の医者も、そんな傾向。

その記事の医者よりは、もうちっとカシコイ対処を するだろうけれど、

たしかに、冷静を通り越して、冷酷な傾向はあるよww

IQむちゃくちゃ高いし。

 

 

自分の娘だったら、当の患者親子に言い放ったセリフと同じことを言えるのか、確かめてみたい気もするけど、

もしかして、言えるのかもしれないね、うちの母親が そうだったところを見ると。

 

ただし、

くだんの記事からも察せられるように、

医者であるという、すなわち自分は、

押しも押されもせぬ健常者、

マトモな人間、

それどころか、

エリートの範疇に入っているのだからして、

そんな自分の判断が、豪も間違うはずがない、と、

自分で自分を信仰してるんでしょねw

 

医者でさえなければ、恐らく、ご本人自身の「発達」系問題を指摘されていたんじゃないのかなと思うけどさ。

 

 

ただ、これも、私個人の経験で、

たしかに、医者は、プライド高いし、女性に対しては、メンクイだしw

フラレでもしたら、カッとなるか、しょげ返るか、だから、ますます、相手に対する事前の要望度が高くなる、

言わば、男性版「三高」願望ってなとこかねえ。

そのせいか、
結婚相手は、自分に ふさわしいと思える お嬢さん、ご令嬢タイプを選ぶのであって、意外と、看護婦さんと結婚したという実例は少ないのだそうな。あくまで部下、という感覚だかららしい。

病院勤めしてた知人が言ってたの思い出したけど、

医者は、そうとう変わってるのが多いよ、って。

そのうえ、医療分野は、ヒエラルキーがちがちの世界だ、って。

 

学校の先生でも、子ども相手に「お山の大将」だから、世間知らずで、
自分自身の子育てには失敗したりするもんだ、とか聞いてるけど、

まあ、思い当たる者もいるし、そうでない人もいるわな。

 

私が お世話になった教師のなかには、苦労知らずの お嬢さんセンセイもいたし、

苦学して叩き上げのベテラン先生も いた。

生徒への態度も対処力も、雲泥の差。

 

病気で治療に当たっていただいた先生も、
主治医は、私の希望で、まだ若い、お嬢さんタイプの先生だったけど、
テキパキと、しっかりしてたのは確かだし、

全体的な治療管理とバックアップを担当していただいた部長先生は、
それほど目立たないものの、身体障碍を持つ男性だった。

 

 

くだんの記事の、無礼極まる医者については、一言。

IQは高くても、EQとかいうのが低い、ってやつの典型的かなw

 

いずれにせよ、

医者仲間どうしで庇い合うんじゃなく、

自分で謝らせるべきだわなあ。

 

 

おまけに、
どうりで、と言うか、

日本会議』だか『生長の家』だかに関係深いと聞く「長崎大学」ww

 

 

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Updated   
2016.01.21 (Thu)

問題の廃棄請負業者から仕入れて販売していたという業者らもが次々発覚した事件で、

【続】有害なコメント載せるネット業者も同類()

 

何度も、
「だから異物混入なんだよ!」
っつってるのに、いまだに、それを、他人に食わせるべき、みたいな呆れた発言がチラホラ見られるうえ、

おヅラさんとか小倉さんとかいう、テレビ番組の司会者までが

(わたしゃ、基本的に、テレビ見ないんで、よくは知らないんだけども、
むかし、たまには視聴してた頃、
「なんや?このオッサン、なんか、見るからに根性悪そう」と、なんとなく印象悪かった、あの司会者なのだろうか。
私が、このひと根性悪そうやなあ。。。と判断した対象は、のちになって、やっぱり、問題発言を繰り出したりすることが多いのだ)

画面から公衆の面前へ向けて、同じようにトンチンカンな意見を発し、
はたの者から、さりげなく注意されても、あらためなかったらしい。

 

「ヤフコメ」でも相変わらずのスットコドッコイが、まだウロウロしてるようなのだが、なんで、こんなのに、「そう思う」をポチする?()
他の投稿者たちが、さすがに諌めてはいるようだが。

 

なかには、

「正論を述べたいときに、弱者や困っている人を引き合いに出して、自分の意見を補強する」

とか何とか言ってる投稿者もいたが、それは違う。

 

そもそも、「正論」には該当しませんのでね。

 

おヅラだか小倉だかいうひとが主張したことは、安倍朕と同じく、

問題の出発点や前提からしてズレてしまってるし、

本質や実質とズレた主張は、ボタンの掛け違えに似て、最後の最後までズレていくしかなく、結局、着地点もズレてしまうのだから、

どう転んでも、「正論」たり得ないのですよ。

 

本質や事情が見抜けている相手との対話も、その間、いっさい噛み合うはずがなく、どこまでも平行線。

せやから、このテのひととの議論は、成り立ちません

安倍朕や「カルト連」と同じことだ。なにが「哲学的議論のためのサイト」だ、バカバカしいemoji

 

 

単なるトンチンカンであり、

なぜ、それがトンチンカンになってしまうのかを分かることが できないから、

ああ、このひとは、こういうズレた思考力しかないんだな、、、

ということがバレてしまっても、ご本人、恥ずかしいとも思わずにいるところが、始末に悪いのです。

 

でも、実際、時々いるのよねえ、

こういう、いくら言ってあげても、根本的ズレかげんが分からないで、
本人自身は飽くまでも「正論」を ぶってるつもりの高齢者とかさ。

なまじっか、それなりに世間で通ってきたという自信マンマンだから、傍が迷惑なんですわ。

そういえば、例の曽野綾子氏も似たタイプかな。

 

 

私自身は、食品工場等での仕事経験がないから、想像だけで言うけど、

廃棄が出ないようにするのは、もちろん、当の企業自体が望むところだろう。

けど、限界はある以上、そもそも、扱い量がハンパないのだからして、
いざ、トラブル発覚したときは、「車は急に止まれない」状態なんだろう。

こうした問題を、ぜったいに発生させては いけないというなら、このような産業自体を廃止するしかないではないか。

あるいは、異物混入問題が生じた部分の正確な割り出しが極力、できる機械さえ開発できれば、ロスを最低限に抑えることは可能になるはずだが。いまだに、できないのかねえ??

 

 

ふと思い出したのは、うちの身内なんだけど。

私が、まだ、実家にいた若い頃、
ある年の年末だったか、「お歳暮」代わりにと送ってきた品の箱を開けてみると、有名メーカーの乳製品詰め合わせセットで、そのなかに、缶入りバターが2、3個入ってたのね。

ところが、
賞味期限か消費期限を確認してみたら、とーっくに切れていて、寄こした当人に、よくよく聞いてみると、どこかからの いただきもので、ずっと箱のまま、この夏も、冷蔵庫にも入れずに放置してあったものだと言うではないか。

「缶入りなんだから、食べれるよー」ってさ。

だって、バターだよ?冷蔵庫にも入れずに放置してあった。emoji

 

あるときなんかは、

私が、今夏は、久しぶりに、水着新調しようかなと言ったのを聞きつけて、早速、「買わなくていい、これを使え」と、自分の お古の、だっさ~いビキニを持って来たりしたこともあった。

もともと、センスの酷く悪い、
しかも、私とは真逆に、背が低くて短足、肥ってて、スタイル悪いんで、
「よくまあ、その体型で?!ビキニなんか着れたもんだ。。。」
と呆れが真っ先に来たもんだけどemoji

押しつけるみたいに置いて帰られたものの、
私の好みだけでなく、サイズも合うわけないのは、火を見るより明らか、黙って、すぐに処分したよ。

 

一事が万事、この調子だった。

実は、私の腹違いの姉にあたるんだけどね、

自己愛性人格障害」とやらで、何十年このかた、精神科通いですわ。
そんな状態でも、金銭の問題には異様に敏くて、計算が素早いのよ。。。

こういう特徴は、他の身内らとも共通してるんだけど、
私だけが、なぜか、ちっとも似てないんだ。
うちの一族は父方も母方も、卑近な日常生活では、他人さんが舌を巻いて感心するくらい、頭の回転も要領も良いほうで、
とりわけ、おカネのことに関しては敏感で、電卓みたいな者が多いんだけどw
その反面、
私なんかから見ても、
どうして、こんな重大局面で、とんだ料簡違い、判断間違いを起こして、はたに迷惑かけるんだろうか?とフシギになるほど、落差が酷いのよ。
まあ、恐らく、遺伝的な脳の部分的異常と相俟って、「人格障害」なのだろうと察している。

 

 

災害時に、被災地の住民に向けて、汚れた衣料品やら、どうかすると、もろに下着までもが、洗いもしないまま、ダンボールに詰めて送りつけてくる者もいるというので、むかし、社会問題になってたことがあるね。

もしかして、いまでも、こういう類のことは あるんだろうか?

 

もう一つ、いま思い出したんだけど、こうした感覚のズレかげんとも共通してそうだ。

若い頃に読んだ、有吉佐和子 著『複合汚染』だったと記憶するのだが、

昔、大量の汚染米か何かが問題になったとき、
旧厚生省あたりの官僚さんが、東南アジアか、そのあたりの、要するに途上国の貧乏国民に差し上げれば、あちらと こちら、一石二鳥の解決ではとか何とか、そういう趣旨のことを のたまったというので、有吉さんは、聞いて思わずギョッとした、つうんだけど、

その管理職官僚氏の顔を見たらば、これが、いたって大真面目なんですってさ。

どうも、一般的な人たちとは、どっかの感覚が狂ってるんじゃなかろうか?みたいなことを、有吉さんは述べておられたと思う。

 

 

Updated   
2016.01.18 (Mon)

【続】刑罰とはの続き。

 

いかに、彼ら個々の背景環境に、少なからぬ共通した問題が見受けられるとして、

私の実感からも、そんなことは理由にならないほどの凶悪、卑劣、それでいて幼稚な精神ゆえの犯罪としか思えない。たぶん、世間の殆どの人も そう思うだろう。

 

いわゆる「人格障害」の類は、知的問題や、その他の精神障害とは異なり、そもそも「障害」の範疇に入れるのは、かなり無理があると聞いていた。

私は、周囲に、これの診断を明らかに下された者もいるし、

医師の診断経験自体は皆無でも、この傾向を持っているようだと察せられる者も、一人や二人でなく、見てきている。

 

身近の者のなかには、

生育途上の虐待を経験しながら、自分の子に、同じ事の連鎖を及ぼしたかというと、決して、それは なかった者も いる。

だが、彼は、何の書き置きも残さずに、ある日、自殺した。

彼のような虐待被害とは様相が異なるものの、やはり、生育途上で家庭環境の問題が大きかった者は、
主には飲酒による激しい暴力によって、もちろん、子らにトラウマを与えた。

自殺するでもなく、いたって天寿を全うしたといえるだけ長生きし、
最後まで、一番、苦労させた子に濡れ衣を着せ、悪口を撒き散らして、世を去った。

 

 

私なりののシロウト観察によれば、

人格障害者こそは、俗物的価値観にドップリ浸って、しかも疑問を持たぬ、
その意味に限り、彼ら自身で自認する者も いたように、「素直」であると言えるのかもしれない。

それだけに、
その俗物的価値観に、肝心の自分自身が外れていると気づくと、異様なほどの劣等感に苛まれるようだ。

勉強熱心な優等生、出世欲、野心家が多いらしいのも、ふしぎでない。

挫折を知らないでいられるかぎりは、どこまでもウヌボレている。

だが、そのウヌボレは脆くて、極度の怯えと共にある。
この怯えが、警戒心や、根拠の分かり難い被害意識へと容易に結び付くようだ。

 

ただし、

人格障害に限らず、発達障害系と思しい人も少なくないし、両方とも重ね持っている傾向は多いように見受ける。

部分的になら該当するのではないかという程度であるなら、この私自身も含めて、世のなか殆どの人は入ってしまうのではないかと思えるほどだ。

 

要は、程度問題なのだろうが、

それでも、犯罪と断じられるような行為を犯してしまうところまで来ると、やはり、脳生理学的にであろうか、その時点まで来る頃には、かなりの偏りが かかってきていたのでは なかろうかと思わざるを得ない。

 

先行エントリーで紹介した記事の筆者が示唆しておられるように、

徹底的な分析と研究に寄与させることが できるなら、「更生の余地なし」とされるほどの凶悪犯罪者でも、その生自体をもって、社会全体に対する償いと できる可能性はある、のかもしれない。

そうとは限らないかもしれない。

 

今後の社会に資する分析と研究が可能であるなら、彼我の境界についての緻密な観察が中心的な重要性を持つだろうが、

多少の傾向は、ほとんどの人にも当てはまり、
けれど、犯罪には進まない、
ならば、

「動機が」ハッキリしていようと なかろうと、本人が自ら欲したうえで犯してしまうなら、どのような犯罪であっても、行為した者は やはり、通常よりも偏っていることには違いないのだろう。

長期にわたっているか、短期的なものであるかの差はあっても。

 

 

自分自身が、どんな肉体的条件を(もちろん、脳の状態も含めて)持って生まれ落ちるかということに、誰も、責任は取れない。先天性のみならず、後天性であっても同様だ。

 

頭の てっぺん、その なかみから、爪先に至る肉体条件も、「環境」条件のうちで最たるものだ。

自分の心がけしだい、というのも、極言してしまえば、通用しない。

 

自由の背中で責任を取れるか、取れないか。
自分は、辛うじて取れるのであれば、まずは、そのことを幸いと思うしかない。

 

「精神障害」ゆえとレッテルを貼って、刑罰を受けさせないのは、むしろ、障害者差別に該当する、という考えかたや主張もある。

もちろん、通常の判断力を備えている者と同列に扱うのは無理があるという考えが現状だろう。

 

 

家庭環境が、あるいは障害が、という背景を、犯行への誘因や理由にするのなら、

そういった事情に事欠かない私なんかは、それでも、
不自由な彼らが犯したようなことを、自分も仕出かすなんてことは、誰に報酬を与えられて頼まれようがマッピラごめんだ。

 

結局、ここの違いに尽きるのではと思う。

 

 

Updated   
2016.01.18 (Mon)

刑罰とはの続き。

 

この世で最も ひ弱な存在であった彼ら犯罪者は、
また、過度に潔癖な側面を持ちながら、

その「過度」さ「過剰」というものが、他面にも及んでいるがゆえに、自身内部の欲求と衝動の湧きあがりを抑え切れず、

自分自身、持て余す欲求、衝動を抑え切れなかったことの正当化を図らずにいられないながらも、

可愛い自分、しかし、抹殺するべき自らを殺すことも、
ちょっと力強そうな者を挑発して殺させる勇気もなくて、
結局は、権力機構による死の刑罰を大いに歓迎してみせた。

 

あるいは、

ついに最後まで、卑劣であれば あるほど、向き合う力も出せないまま、自分から目を逸らし、
この最高権力の機能によって、生を潰えることとなった。

 

彼らは、ほとんどの場合、
身勝手な欲求を受け入れてくれそうな相手か、支配欲を満たせる相手か どうか、自分が、これから もたらそうとしている危害を撥ね返せる相手か どうか、そこだけは、しっかりと見分けしているようなのだ。

 

 

というわけで、

是非の問題、とりわけ実際的・現実的な影響問題については さて置き、この、死刑という刑罰が、
むしろ「逆効果」になってしまっているのではないか?
という危惧は、もう少し、つっこんで考察しておく必要が ありそうだ。

 

たとえ、犯罪者本人たちが望み、死刑を歓迎しているようすを見せていても、彼らは、世のなかに存在していては許されない自分の死刑は当然なのだと主張しているまででないか。

これなら、まだしも分かり易い話で、

現行、どの刑罰のケースにおいても、相応の反省を促し、
そのことが期待でき得る本人の従容たる心持ちをもって、刑に臨ませる方針のはずで、だからこそ、「更生」ということに重きを かけるのが基本にある方針とは聞いている。

しかし、
相応の反省を示せ得たとしても、
ひとたび死刑という罰の後には、後世は あるかどうか知らないが、現世での更生も何もないわけだ。

 

もっと始末に負えないのは、自分が犯した行為について、反省の要なしと主張する場合。

この場合に、いかなる刑であれ、納得しないまま臨ませることは、本人の反省どころか、あべこべに、被害意識を養ってしまうかもしれず、
宮崎何某の場合には、本人の言動にハッキリ表現されている。

こうした恐れは、知的問題による理解力の乏しさ等には該当しなくても、「自己愛性人格障害」者あたりにも顕著な性向だと思う。

 

 

この世で最も抵抗力の弱い存在を歯牙に かけ、手の打ちようもなかった遺族を計算高く辱めもした、

そんな自分を許せないとは思うのか。

でも、やっぱり、自分で自身には手を下せなかった。

自分よりは確実に力の強い者に殺させる機会さえも作れず、

最後は、この社会で最も強力な機構に殺させようとする、彼ら。

幼子よりさえも、あまりに、ひ弱な、不自由な彼ら。


 

ひ弱で不自由ゆえに、他者の人権を奪い、踏み躙り、

それによって、自分が強者になったような錯覚を、いっときは起こすのかも しらないが、

やがて自分自身が、最大限に、人権を剥奪されるときが来る。

完全なる人権剥奪 それが、死刑という罰だ。

ひ弱で不自由ゆえに、他者の人権を奪い、踏み躙ったから。

 

 

その、最も ひ弱な者たちを、
最大の力をもってして、総がかりで殺しているのは、

この社会と、ここに所属する構成員である われわれ全員に他ならない。

これを自覚する者には、なんとも後味が悪くて当然なのだ。

 

彼らは、許されぬ罪を犯した自分自身を罰すると同時に、
われわれを引きずり込んでいる。

 

こうして、アクロバットさながらに、二重に重ねる罪と復讐、相反する目的を同時に叶えている。

 

本当の裁きとは何か、

本当に裁けてなんか いるのだろうか、他者が?自分自身が?

それは不可能なことだと分かったなら、

では、裁くのを やめましょうか?

罰することを放棄しましょうか?

 

 

どのように ふるまって見せようと、

人間は、心底では自分のことが一番、重要で可愛い、
この摂理から脱け出せは しない。

 

他の誰かを大切に優先していようとも、それも やはり、人生の主人公である可愛い自分の思いや価値観こそが重要だからだ。

 

単純な者は単純なりに、欲求を満たそうとするだけ、
幼い子どもなら、世間は許すだろう、概ね、その程度のことしか しないから。

だが、すでに、子どもの年齢でない者は。

 

 

他者を襲い、命のメカニズムを確認しようとでもする目的なのか、あたかも、機械を分解し、組み立てを確認するかのような所業は、たしかに、
生ある他者への共感性や想像力の欠落としか思えないし、

また、男性は、視覚から受ける刺激に敏感という説もあったのではないかな、
性的欲求も垣間見えながら、異様なほど幼稚な精神レベルだと思わざるを得ない。

 

これで、理性的な冷静な判断力さえ身につけて発揮できるのなら、
たいした追究欲、研究欲であり、こうでなければ勤まらない学問や仕事もあるだろう。基本的には、男性性の特徴だと思う。

 

 

【続く】

 

 

Updated   
2016.01.18 (Mon)

死刑制度というものの、一筋縄でいかぬ哲学的矛盾を深く孕むことは、旧のブログでも両三度ほど論じたことがある。同時に、

死刑制度を廃止した場合、どのような現実的影響が生じるだろうか?という予測も。

あのときの長文を再現するのも しんどいので、ここでは触れないが、

実際には、死刑制度があっても、犯行の抑止に関して、ほとんど関係は ないということが確かであるならば、別の角度から考察した場合、

この刑罰が廃止されたとしても、やはり無関係に、殺人等の凶悪事件は繰り返し起こされるのだろうということも言えるわけだ。

 

要するに、

本当に、理性が働き得ているなら、それは、つまり、自分が可愛いという自然な基礎意識のもとに行動できているのだから、こうした凶悪事件を起こす衝動は抑えられるし、

何よりも、普通の範疇の感覚の人にとって、残虐行為を犯すのも、単に目撃するだけでも、どちらにも嫌悪感が強いから、忌避するし、むろんのこと、実行する気にもなれない、というのが通常の精神状態だと言えよう。

 

しかしながら、自分が可愛いからこそ、何らかの場面で強力に脅かしてきた対象相手に、この憤怒と共に抹殺してやろうという衝動を起こすこともあるわけで、たいがいの事件は、このケースならば、まあ分かりやすい筋だ。

ところが、

世のなかには、何の脅かしも筋合いもないはずの、あかの他人さまを、あるいは、普段から、自分に友好的に接してくれる相手でさえ、突如として襲う者も実在する。

 

それらの者を分析していけば、様々にタイプや傾向分けは できるだろうが、

この記事に挙げられている凶悪犯罪実行者のなかに共通して見られたという、「死刑を望んでいた」という事例。

 

つきあってきた死刑囚が次々と処刑されたこの7年間、死刑をめぐる意味について考えた』2015年12月12日 篠田博之

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20151212-00052382/

 

 

こんな始末に負えない凶行を犯すほど、この世に居辛く、自分の存在を消してしまいたいと願うくらいなら、なぜ、自殺しなかったのかという疑問が第一に湧く。

 

だが、「自分では死ねないから、殺人して死刑に」と望んでいたというのも、一見、もっともらしいリクツのようでいて、やはり、身勝手なコジツケに過ぎないのが見て取れる。

 

当該記事の筆者が挙げておられる、なかの一人の犯罪者が言っていたとおりに、よしんば、あれやこれやの事実と異なるにも関わらず、敢えて、それに異議を申し立てずにおき、告知された判決に喜々として従った、

云々について、私は、また、私以外の殆どの人々も、ましてや、被害者遺族は、もっと そう思うことだろうが、正直な気持ちでは、もはや、どうでもいい些末だ。

 

彼らが襲い、死に追いやったという結果が、動かし難い最終事実、しかも、その対象たるや、何の筋合いもなく、下手人である彼ら自身に比べて、あきらかに力弱い者であったことは明白なのである。

 

加えて、
宮崎何某などは、たしか、女性めいた偽名を使ったりしたうえで、被害者遺族を、なおも苦しませる、陰湿も極まる所業を計算高く行なっていたと記憶している。

 

 

人間、究極は、自分こそが可愛いものだ。

それは、どのように虚勢を張っていても、隠しようがない。

親子心中などでも、往々にして自分だけは死にきれなかったりするものだ。

 

 

おのれの死刑を望んでいて、その会心の判決にガッツポーズさえ してみせたという犯人は、自分よりも圧倒的に力弱い者を襲い、死に至らせることによって、のちの自分自身も また、死に至らせてもらうということを、

ところが今度は真逆に、

自分など吹けば飛ばされるような、完全に圧倒的な力を持つ、国家権力の手によってこそ、おのれの命を抹殺されることを望んでいたとは、いかにも奇妙に錯綜した話である。

 

 

では、なぜ、彼らは最初から、自分よりも圧倒的に強い力を持つ者に
(少なくとも、
彼らよりは強い力を持つ者なんて、探せば、いくらでも存在するはずなのだ。)あたりを つけ、憎たらしく挑発でもして見せて、お望みどおり、殺してもらえるように仕向けなかったのか。

発言どおり、真意は「自殺」目的であったのなら、このほうが、よっぽど、話が早い やりかただ。

 

その方法は避けていたのか、意識にも上らなかったのかは知らないが、

結局は、

飽くまでも自分よりは圧倒的弱者を狙って襲っているわけだ。

 

 

また、このような考察もあり得ると思う。

私のブログでは、何度か言及してきたことでもあるが、

要は、潔癖過ぎる、または、許容性の低過ぎる性格や思考傾向が、側面には見られるのでないかという点。

 

これがあるから、凶悪犯罪を犯したのが、当の われ自身ながら許し難いゆえに、完膚なきまでの抹殺を望んでみせもするし
(サディズムとマゾヒズムの同時両面性というテーマは、ここで詳しく述べないが)

あるいは、宮崎何某のごとく、おのれの犯した卑劣極まる事件と真正面から向き合えないまま、傍目にも要領を得ない、のらりくらり、はぐらかすような、身勝手な言動に終始する。

そして、しまいには、愚にもつかない自己正当化を図るかのような、ひらきなおった発言。

 

 

自分を嫌悪する気持ちが激しいと、それは、いずれ、他者にも振り向けられる心理があるという。

自分を憎む者は、他者も憎むようになると。

 

だが、「憎むとは、少し激しく思う」ナントヤラで、

やはり、この世の主人公として生まれ落ちた自分についてだけは、一切の無関心では いられないのである。

それでいて、憎むほども可愛い自分の犯罪行為には、そこだけスッポリ欠けたごとくに、向き合う力もない。

被害者側の苦しみには無頓着でも、自分の死刑執行時の苦しみばかりを心配する。

 

凶悪な犯罪となる衝動を抑える力もなかったから、こうなったわけだが、

それだけ、余裕がない、

ある意味、この世で最も不自由な者だとする ゆえんである。

 

なので、
生育環境であれ肉体的にであれ、苦労のタネに事欠くことがなかった私なんかも、他者のコンプレックスや劣等意識を、何の要あってか、むやみやたら刺激して苦悩させんと欲し、楽しもうとする、向こう見ずの愚かな輩を見れば、自分自身が被害者になってみないと分からないほど、想像力の欠如ぶりは、凶悪犯罪の加害者に似て、心底、始末が悪いと思うし、あたかも、犯罪のトリガーを自ら任じているような連中、これも、インターネット時代が運んできた社会問題の一大予備軍を かたちづくる構成員だと考えている。

「秋葉原無差別殺傷」事件においても指摘できる例だろう。

 

いきなり剥き出された歯牙に かけられてしまった被害者たちのほうが、
ある意味、こうした犯人、ならびに、その犯罪を煽って、事件を誘導する役割を演じた連中なんかよりも、ずっと強かったとも言えよう。

なぜなら、
被害者、なかでも幼子たちは、その短い生において、あの犯人らのような忌まわしく獰猛な衝動を飼い続けることや、それによって溜め込んだ猛毒ガスを一気に放出することなど、微塵も必要とは しなかったのだから。

 

【続く】