2016.01.18 (Mon)
『【続】刑罰とは』の続き。
いかに、彼ら個々の背景環境に、少なからぬ共通した問題が見受けられるとして、
私の実感からも、そんなことは理由にならないほどの凶悪、卑劣、それでいて幼稚な精神ゆえの犯罪としか思えない。たぶん、世間の殆どの人も そう思うだろう。
いわゆる「人格障害」の類は、知的問題や、その他の精神障害とは異なり、そもそも「障害」の範疇に入れるのは、かなり無理があると聞いていた。
私は、周囲に、これの診断を明らかに下された者もいるし、
医師の診断経験自体は皆無でも、この傾向を持っているようだと察せられる者も、一人や二人でなく、見てきている。
身近の者のなかには、
生育途上の虐待を経験しながら、自分の子に、同じ事の連鎖を及ぼしたかというと、決して、それは なかった者も いる。
だが、彼は、何の書き置きも残さずに、ある日、自殺した。
彼のような虐待被害とは様相が異なるものの、やはり、生育途上で家庭環境の問題が大きかった者は、
主には飲酒による激しい暴力によって、もちろん、子らにトラウマを与えた。
自殺するでもなく、いたって天寿を全うしたといえるだけ長生きし、
最後まで、一番、苦労させた子に濡れ衣を着せ、悪口を撒き散らして、世を去った。
私なりののシロウト観察によれば、
人格障害者こそは、俗物的価値観にドップリ浸って、しかも疑問を持たぬ、
その意味に限り、彼ら自身で自認する者も いたように、「素直」であると言えるのかもしれない。
それだけに、
その俗物的価値観に、肝心の自分自身が外れていると気づくと、異様なほどの劣等感に苛まれるようだ。
勉強熱心な優等生、出世欲、野心家が多いらしいのも、ふしぎでない。
挫折を知らないでいられるかぎりは、どこまでもウヌボレている。
だが、そのウヌボレは脆くて、極度の怯えと共にある。
この怯えが、警戒心や、根拠の分かり難い被害意識へと容易に結び付くようだ。
ただし、
人格障害に限らず、発達障害系と思しい人も少なくないし、両方とも重ね持っている傾向は多いように見受ける。
部分的になら該当するのではないかという程度であるなら、この私自身も含めて、世のなか殆どの人は入ってしまうのではないかと思えるほどだ。
要は、程度問題なのだろうが、
それでも、犯罪と断じられるような行為を犯してしまうところまで来ると、やはり、脳生理学的にであろうか、その時点まで来る頃には、かなりの偏りが かかってきていたのでは なかろうかと思わざるを得ない。
先行エントリーで紹介した記事の筆者が示唆しておられるように、
徹底的な分析と研究に寄与させることが できるなら、「更生の余地なし」とされるほどの凶悪犯罪者でも、その生自体をもって、社会全体に対する償いと できる可能性はある、のかもしれない。
そうとは限らないかもしれない。
今後の社会に資する分析と研究が可能であるなら、彼我の境界についての緻密な観察が中心的な重要性を持つだろうが、
多少の傾向は、ほとんどの人にも当てはまり、
けれど、犯罪には進まない、
ならば、
「動機が」ハッキリしていようと なかろうと、本人が自ら欲したうえで犯してしまうなら、どのような犯罪であっても、行為した者は やはり、通常よりも偏っていることには違いないのだろう。
長期にわたっているか、短期的なものであるかの差はあっても。
自分自身が、どんな肉体的条件を(もちろん、脳の状態も含めて)持って生まれ落ちるかということに、誰も、責任は取れない。先天性のみならず、後天性であっても同様だ。
頭の てっぺん、その なかみから、爪先に至る肉体条件も、「環境」条件のうちで最たるものだ。
自分の心がけしだい、というのも、極言してしまえば、通用しない。
自由の背中で責任を取れるか、取れないか。
自分は、辛うじて取れるのであれば、まずは、そのことを幸いと思うしかない。
「精神障害」ゆえとレッテルを貼って、刑罰を受けさせないのは、むしろ、障害者差別に該当する、という考えかたや主張もある。
もちろん、通常の判断力を備えている者と同列に扱うのは無理があるという考えが現状だろう。
家庭環境が、あるいは障害が、という背景を、犯行への誘因や理由にするのなら、
そういった事情に事欠かない私なんかは、それでも、
不自由な彼らが犯したようなことを、自分も仕出かすなんてことは、誰に報酬を与えられて頼まれようがマッピラごめんだ。
結局、ここの違いに尽きるのではと思う。