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とりあえず、ひかりのくに
     
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2016.01.18 (Mon)

死刑制度というものの、一筋縄でいかぬ哲学的矛盾を深く孕むことは、旧のブログでも両三度ほど論じたことがある。同時に、

死刑制度を廃止した場合、どのような現実的影響が生じるだろうか?という予測も。

あのときの長文を再現するのも しんどいので、ここでは触れないが、

実際には、死刑制度があっても、犯行の抑止に関して、ほとんど関係は ないということが確かであるならば、別の角度から考察した場合、

この刑罰が廃止されたとしても、やはり無関係に、殺人等の凶悪事件は繰り返し起こされるのだろうということも言えるわけだ。

 

要するに、

本当に、理性が働き得ているなら、それは、つまり、自分が可愛いという自然な基礎意識のもとに行動できているのだから、こうした凶悪事件を起こす衝動は抑えられるし、

何よりも、普通の範疇の感覚の人にとって、残虐行為を犯すのも、単に目撃するだけでも、どちらにも嫌悪感が強いから、忌避するし、むろんのこと、実行する気にもなれない、というのが通常の精神状態だと言えよう。

 

しかしながら、自分が可愛いからこそ、何らかの場面で強力に脅かしてきた対象相手に、この憤怒と共に抹殺してやろうという衝動を起こすこともあるわけで、たいがいの事件は、このケースならば、まあ分かりやすい筋だ。

ところが、

世のなかには、何の脅かしも筋合いもないはずの、あかの他人さまを、あるいは、普段から、自分に友好的に接してくれる相手でさえ、突如として襲う者も実在する。

 

それらの者を分析していけば、様々にタイプや傾向分けは できるだろうが、

この記事に挙げられている凶悪犯罪実行者のなかに共通して見られたという、「死刑を望んでいた」という事例。

 

つきあってきた死刑囚が次々と処刑されたこの7年間、死刑をめぐる意味について考えた』2015年12月12日 篠田博之

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20151212-00052382/

 

 

こんな始末に負えない凶行を犯すほど、この世に居辛く、自分の存在を消してしまいたいと願うくらいなら、なぜ、自殺しなかったのかという疑問が第一に湧く。

 

だが、「自分では死ねないから、殺人して死刑に」と望んでいたというのも、一見、もっともらしいリクツのようでいて、やはり、身勝手なコジツケに過ぎないのが見て取れる。

 

当該記事の筆者が挙げておられる、なかの一人の犯罪者が言っていたとおりに、よしんば、あれやこれやの事実と異なるにも関わらず、敢えて、それに異議を申し立てずにおき、告知された判決に喜々として従った、

云々について、私は、また、私以外の殆どの人々も、ましてや、被害者遺族は、もっと そう思うことだろうが、正直な気持ちでは、もはや、どうでもいい些末だ。

 

彼らが襲い、死に追いやったという結果が、動かし難い最終事実、しかも、その対象たるや、何の筋合いもなく、下手人である彼ら自身に比べて、あきらかに力弱い者であったことは明白なのである。

 

加えて、
宮崎何某などは、たしか、女性めいた偽名を使ったりしたうえで、被害者遺族を、なおも苦しませる、陰湿も極まる所業を計算高く行なっていたと記憶している。

 

 

人間、究極は、自分こそが可愛いものだ。

それは、どのように虚勢を張っていても、隠しようがない。

親子心中などでも、往々にして自分だけは死にきれなかったりするものだ。

 

 

おのれの死刑を望んでいて、その会心の判決にガッツポーズさえ してみせたという犯人は、自分よりも圧倒的に力弱い者を襲い、死に至らせることによって、のちの自分自身も また、死に至らせてもらうということを、

ところが今度は真逆に、

自分など吹けば飛ばされるような、完全に圧倒的な力を持つ、国家権力の手によってこそ、おのれの命を抹殺されることを望んでいたとは、いかにも奇妙に錯綜した話である。

 

 

では、なぜ、彼らは最初から、自分よりも圧倒的に強い力を持つ者に
(少なくとも、
彼らよりは強い力を持つ者なんて、探せば、いくらでも存在するはずなのだ。)あたりを つけ、憎たらしく挑発でもして見せて、お望みどおり、殺してもらえるように仕向けなかったのか。

発言どおり、真意は「自殺」目的であったのなら、このほうが、よっぽど、話が早い やりかただ。

 

その方法は避けていたのか、意識にも上らなかったのかは知らないが、

結局は、

飽くまでも自分よりは圧倒的弱者を狙って襲っているわけだ。

 

 

また、このような考察もあり得ると思う。

私のブログでは、何度か言及してきたことでもあるが、

要は、潔癖過ぎる、または、許容性の低過ぎる性格や思考傾向が、側面には見られるのでないかという点。

 

これがあるから、凶悪犯罪を犯したのが、当の われ自身ながら許し難いゆえに、完膚なきまでの抹殺を望んでみせもするし
(サディズムとマゾヒズムの同時両面性というテーマは、ここで詳しく述べないが)

あるいは、宮崎何某のごとく、おのれの犯した卑劣極まる事件と真正面から向き合えないまま、傍目にも要領を得ない、のらりくらり、はぐらかすような、身勝手な言動に終始する。

そして、しまいには、愚にもつかない自己正当化を図るかのような、ひらきなおった発言。

 

 

自分を嫌悪する気持ちが激しいと、それは、いずれ、他者にも振り向けられる心理があるという。

自分を憎む者は、他者も憎むようになると。

 

だが、「憎むとは、少し激しく思う」ナントヤラで、

やはり、この世の主人公として生まれ落ちた自分についてだけは、一切の無関心では いられないのである。

それでいて、憎むほども可愛い自分の犯罪行為には、そこだけスッポリ欠けたごとくに、向き合う力もない。

被害者側の苦しみには無頓着でも、自分の死刑執行時の苦しみばかりを心配する。

 

凶悪な犯罪となる衝動を抑える力もなかったから、こうなったわけだが、

それだけ、余裕がない、

ある意味、この世で最も不自由な者だとする ゆえんである。

 

なので、
生育環境であれ肉体的にであれ、苦労のタネに事欠くことがなかった私なんかも、他者のコンプレックスや劣等意識を、何の要あってか、むやみやたら刺激して苦悩させんと欲し、楽しもうとする、向こう見ずの愚かな輩を見れば、自分自身が被害者になってみないと分からないほど、想像力の欠如ぶりは、凶悪犯罪の加害者に似て、心底、始末が悪いと思うし、あたかも、犯罪のトリガーを自ら任じているような連中、これも、インターネット時代が運んできた社会問題の一大予備軍を かたちづくる構成員だと考えている。

「秋葉原無差別殺傷」事件においても指摘できる例だろう。

 

いきなり剥き出された歯牙に かけられてしまった被害者たちのほうが、
ある意味、こうした犯人、ならびに、その犯罪を煽って、事件を誘導する役割を演じた連中なんかよりも、ずっと強かったとも言えよう。

なぜなら、
被害者、なかでも幼子たちは、その短い生において、あの犯人らのような忌まわしく獰猛な衝動を飼い続けることや、それによって溜め込んだ猛毒ガスを一気に放出することなど、微塵も必要とは しなかったのだから。

 

【続く】

 

 

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