2015.01.20 (Tue)
『「イスラム国」日本人殺害警告=湯川さんら2人か―72時間以内、2億ドル要求』
時事通信 1月20日(火)15時27分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150120-00000080-jij-pol
『「イスラム国」か、日本人2人の殺害を警告』
TBS系(JNN) 1月20日(火)16時11分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150120-00000053-jnn-int
下記は、私が確認しなおしたときには、なぜか、当初の それとは、早々と文章表記が変わってしまっていたのだが、当該記事担当者の考えで、より「まるい」発言表現に差し替えたのだろうか?
不明だが、ともあれ、こちらが抜粋コピーしていた当初のままにしておく。
日本の総理よ、イスラム国から8500キロも離れているのに、戦いに参加している。お前は1億ドルを寄付すると自慢げに話した。我々の子どもたちや女たちを殺すため、またムスリムを攻撃するための資金として、この日本人は同じ額に値する(「YouTube」に投稿された映像)
笑止。
わが日本国としては、憲法にて明らかに掲げてあるように、
いかなる特定の宗教に、肩入れも排斥も許されない。
現在わが国の総理である安倍が、先日、拠出を約束したところの金子に関しては、あくまでも、当地の難民たちのためのものだ。
そっちこそ、女性や子どもたちを犠牲にするのを即刻やめなさい。
勝手に捻じ曲げて決めつけるそのさまは、例の「シャルリーエブド」と どっこいどっこいだなw
日本では、「シャルリーエブド」やフランスや欧米の各国家に対してこそ厳しい見解を抱く人のほうが多いくらいだというのに。愚かなことだ。
さて、仮に身代金を、そちらの要求通り渡したとして、まずは、その二人についての以降の安全は、どのように誠実に保障されるのか?
少なくとも、その見通しを事前に示すべきだぞ。
「この日本人は同じ額に値する」?
私が、彼らの親とか家族だったら、極力、翻意することを促すし、どうしてもということなら、縁を切ってもらうと思う。もう、すっぱり他人として、信念を貫いてやって行け、と。
はっきり言って、私でも、向ける同情心は、この場合、薄い。
が、国家というものは、国民を保護してこそであるし、同胞の一員として、見殺し、放置も、じつに気分が悪い。頭が痛いこと このうえない。
「ミリオタ」が嵩じた個人店主であろうが、恵まれた生活に退屈しているだけの青二才学生であろうが、気骨のジャーナリストでさえも、
それぞれの立場で、幾ばくかは、個人的動機の不純さも含まれていたのだろう。
何と言っても、渦中の現地に身を置いて発信するジャーナリズムの存在意義は重いものだ。その意味で、一方の後藤さんを責めたくはないが、
ただ、くだんの後藤さんという人について、私は何も知らないし、
一方の湯川さんという人に対しては、記事を少し読んでいたこともあり、まあ、個人的には、いかがなものかとは思っていた。
身代金を安易に渡してしまうことは、確かに、非常に良くないことで、今後の悪影響が懸念されることには違いない。
卑劣にも身代金云々といった、こういう始末の悪い事態は、なにも、初めての事でもない。いいかげん、こうした事態に備えた何らかの有効策を講じておくべきだったと思う。
2015.01.19 (Mon)
『「シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか」再度。』
旧ブログ(産経系列サイト「イザ!」でのもの:現在は、一般利用ユーザーを締め出し、つごうのいいメンツだけ残して継続しているサイトw)から、まったく忘れていた記録を。
本文中の抜粋は、多分、『【正論】拓殖大学総長・学長 渡辺利夫 条理にかなう言説の時代拓こう』からだろう。
「不安や理不尽」考 2013/01/01 08:00
~
いかに挑発的な行動を受けたにせよ、国家関係を「理不尽」などという感情表現で語ってはならない。どんなに非理性的にみえようとも、相手国には相手国の「理」がある。~
同様に、
私には、原発肯定・推進派でも、反原発派・脱原発派でも、互いに正反対を構えているようで、その実は、どちらも出発点を等しくしているように見える。
およそ世の技術、学問の、また原発も、「不安や理不尽」を産みの親としている側面はあろう。
~
ついに現代の日本人は「生命至上主義」の信仰にはまり込んでしまったのか。いや、信仰というほど高雅なものでもあるまい。むしろ「個体至上主義」と命名した方がいい。生命といえば、生きて在る人間だけのものではない。われわれを今ここに在らしめたものは、父母であり祖父母であり曽祖父母であり祖先である。われわれが今ここに在るのは、子供、孫、曽孫へと未来に向けて生命を継承するためである。生命というなら、過去と現在、現在と未来とを繋(つな)ぐ生命現象の全体を語るのでなければ意味がない。~
「信仰というほど高雅」とは何なのだろうか。
信仰というものも また、その出自は「不安や理不尽」を産みの親としているのではないのか。
しかし、子どものいない、持つことが できない私のような者が、原発に伴う諸弊害に関しては、最も楽天的ではないかとも思える。
原発の危険性を声高に問う人々の殆どは、ただに自分一個の身を案じてのことなのだろうか。
まだ見ぬ それを含めた、子どもや孫たちを、その先の将来を案じているからこそではないのか。
~
同時に、自国の歴史を顧みる視線が不可欠である。倫理や道徳の問題ではない。台湾、朝鮮、満州への領土拡大欲求に身を焼かれた時代が自国の歴史の中にありありと存在していたではないか。~
私は、くだんの時代を、身を以っては知らないのだが、
「欲求に身を焼かれた」それは、傲慢からか。
それとも、劣等感に苛まれてのことか。不安からだったのか。
~原初の情念を脱し、条理に適(かな)う言説の時代が拓(ひら)かれることを~
望むのは、まさに、「条理に適わぬ」理不尽への不安からこそだ。
~理性より感情~
感情こそは理性の源なのだ。
「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。
むしろその逆が いっそう真理に近い。
感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり
知性こそ主観的なもの、人格的なものである。
真に主観的な感情は知性的である。
孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」
――三木 清――
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2015.01.17 (Sat)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
~
シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか。
~
これに、もう少し、付け足しておくべきだったかな。
つまり、
ご開祖の似姿を描くべからずという、仮に、そこをこそズバリ風刺したかったのだというのであればだが、
それならそれで、ムハンマドの姿は一切描かずに「偶像崇拝を禁ず」という方針を、「風のごとく刺して」みせる方法も可能だったのじゃないかな?ということ。
ユダヤ教にいたっては、主だか神だかの名すら、みだりに唱えちゃならないのだそうで。
先回も述べたように、そういったところは比較的容易に譲歩できても、
まあ、こちとら生憎と「異教徒」なんだしね、こっちまでが、偶像崇拝禁止に合わせてやらにゃならんという筋合いは、もともと ないはずなのだけれど、それを主張してバシッと突っ撥ねなければならないとしたら、
あちらさんが、こちらの大事にしてる「偶像」などを破壊しに来たときだろう。実際、そういうことも過去にはあったみたいだが。
私自身は、「偶像崇拝禁止」云々とかよりも、もっと現実的に喫緊の事態があるだろと思ってるので。。。
何でもありのグダグダも、がちがち教条主義みたいなのも、どっちも困りもの、まっぴらゴメンだが、
人間とは、やはり、なんだかんだと、論理や筋の通ったことを求めたがるものなのだ。自然の摂理の厳しさ故もあるだろうし、また、人間の、そういった面での切実な希求、それなくして、あらゆる進歩・発展もなかっただろう。
けれども、宗教の教条主義的性質ともなると、あたかも、古惚けて硬い靴に、サイズの合わない足のほうを合わせることを強制するかのようなものだ。まさに、強制を「矯正」として。
これでは、足を守るどころか、痛めてしまって、歩けもしない。
いずれにせよ、今回、フランス国内で勃発した「イスラム」過激派の事件の下手人が、「フランス人」だということ。
そして また、天を仰いで嘆息したくもなるほど皮肉なことには、被害者・犠牲者側にも、彼らの同胞・同朋が含まれている。
だから、先日のエントリーで述べたことなのだが、
もとは穏健な「普通のイスラム教徒」だったはずが、どうして「過激派」になってしまったか、ということが気になったということ。
だって、まわり全てがイスラム教でガチガチの世界しか知らずに育ったのと違うではないか。
フランスで育ってるんでしょう?
彼らは、国内いたる所すぐ そこかしこにある十字架やキリスト像などを、これまでに破壊してきたことがあったのか?
話が少し変わるけど、
最近、なんだか立て続けみたいに、芸能界の人が、自分たちの言動やパフォーマンスを、あっさりと翻すみたいに謝ったりしてるので、そのへんの一個人に過ぎない私には、
なんだかなあ、、、腰抜けなのかよぉw
と鼻白む思いを抱いて揶揄し返したくなったほどなんだけれどw
しかし、よく考えてみると、
彼らには、たくさんの視聴者やファンの存在があるわけで、そっちのほうに、もしもの危険があった場合を配慮せねばならなかったことに気づいたのかも、と思い至った。
その分、責任重いんだわね。
ましてや、何らかの大きな組織体を統べる立場の人ともなれば、自分の腕に委ねられた膨大な人々の身の安全を第一に念頭に置かねばならないのだから。
その昔、お釈迦さまは仰ったそうな。
「縁なき衆生は度し難し」と。
それから ずっと下った時代、
当のフランスはヴォルテールの言ったという。或いは、こういう主義主張の人であったと。
「私は、あなたの意見に反対だ、だが、あなたが、それを主張する権利は、命をかけて守る」と。
『アジア歴訪中のローマ法王、「言論の自由にも限度」』
AFP=時事 1月16日(金)9時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000004-jij_afp-int
『<ローマ法王>「表現の自由にも限度」他者の信仰侮辱を戒め』
毎日新聞 1月16日(金)13時8分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000034-mai-int
「人みなを殺してみたき我が心その心 我に神を示せり」中也
2015.01.16 (Fri)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
に加えて、時間もないので、できるだけ端的に追加しておく。
「芸術」と言うのならば、
それを一心不乱に拵えてみた結果が、思わぬ弊害や余波を引き起こしたという事態も多々あり得るだろう。
その場合は、すみやかに素直に謝罪するなりすればいい。
大概は、ましてや、せいぜいパクる以外に能のないような凡庸な者が、そういう高尚な精神のもとに行ったとも思えまいが、
高い視野と信念をもって確固としたヴィジョンのもと、無私の意志を貫いたのであれば、かんたんに謝ったりするのも、これもまたナサケナイものだが、
しかし、傷つく者が出るであろうことを、最初から分かっていて、すなわち故意に、
「傷つくほうが悪い」(ちなみに、これ、例のbragelonneの発言でもあるw)とか、
「この程度のことは耐えろ」とか、
いったい、誰が誰に対して要求する権利があると言うのか?
これは、あの「カルト連」も、私みたいな立場の弱いと見た、かつ、つごうの悪い他人に向けて言ってることと、自分たちの身勝手なつごうだけでやってることが、まったくチグハグだったことを思い起こさせる。
しょせん凡庸な、しかも悪趣味な者には、それでアタリマエの行動だろうがw
では、おまえさんなら、当事者として何を されようとも、平気の平左を通せるのかね?と問いたくもなる。
さしづめ「2ちゃんねる」あたりで跋扈している者も同様のパターンだろう。「カルト連」も、あそこの流儀にドップリ毒されてきたらしい連中だ。
思いやりは大事だよ。
ましてや、
「人の心を豊かにする、それが芸術というもの」なのであれば、
自分のやりたいほうだい勝手を最優先するしか能のない自己中心が、「芸術」だアーティストだと自称していても、どうして、他者の心を豊かにできるのか、そんな能も なかろうに、と思う。
ただ、イスラム教に限らずだが、
その教徒でない者に対してまで強制するのも理不尽なことには違いない。
ときとして、現代人としての厳しい視点と批判も必要だろう。
それが、世の多く人々のうえに、小さからぬ悪影響を及ぼす場合には。
私自身は、イスラム教の、昨今、特に問題になっている女性全体に対する考え方や態度については、あくまで昔においては、それなりの合理性もあったかと思っている。我が国やアジア全体におけるそれと、少なからぬ共通点もあるのだろう。
しかし、現代では、とっくに時代錯誤もいいところで、
あえて言えば、これは、男性側の弱さ、自制心の弱さ、女性という存在に対する無自覚で本質的な受け身の精神と甘え、コンプレックスまる出しにも見える。
ここにも、我が国古来の、たとえば、修験道や一部分野において、なお残る女人禁制になっているところと、やはり多少の共通性は見受けられるようだ。
しかしながら、同時に、時代が、どれほど変わろうとも、変わらないサガと言うべきものが強く残っていて、そこから起き得る弊害を防止するという側面があるのならば、ある面では、それも多少の合理性を、なお含むのだろう。
ま、ひるがえって、フランス側も、さすがのフランス趣味でもあろう。
なんせ、バタイユその他を出してる国柄だw
あ、そうそう、あの「カルト連」とか、彼らのシンパさんたちは、『眼球譚』とか お好みだそうなwww
そりゃあ、私とは趣味も感性も全く違うのは明らかだ(爆)
猫ばばサマは、「読め!!」だの「喰え!!」だのと頻りに強制にヤッキとなってたもんだが(嗤)
これまでのところ、私個人は読んだこともないのだけど、いまだに読む気もしないので、万一その気が起きでもしないかぎりは、食わず嫌いと誹られようと、正当な権利として拒否させていただいておくww
ところで、
そもそも、あの宗教で、教祖などの姿を絶対に描くなという厳正なる方針について、われわれ異教徒の側が、そこに譲歩したからとて、どれほどの理不尽さがあるというのか。
私は、そんなことよりも、もっと優先すべきは、
いまだに、現代女性たちが、かの地で味わい続けているという理不尽、残酷さ、人間としての基本的権利までが酷く損なわれているという事態のほうを、国際的に重視し、批判、啓蒙に努めていくことは、現代に生きる者として当然だと思っている。
2015.01.14 (Wed)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて』
ところで、
インドネシアあたりもイスラム教徒が多いことで知られるが、私の知人は、かつて、当地に旅したおりの印象から、あそこの民衆は、わりと気性のキツい国民性かと感じたと話していたのだが、たぶん、イスラム教の関係なのかなと言っていた。
イスラム教徒の日本人で、現在、インドネシアで長らく生活しているという女性のブログを、ひょんなことから閲覧したこともあるが、
読んでいて、あちらには あちらの仲間という人々が存在し、ネットが発達した こんにち、ブログのコメント等で、お互いの近況報告を行っていて、部外者の当方には、ちょっと不可解なところもあるのだが、交流を温めている日本人ムスリムが、想像していた以上に、世界各地に散らばっていることは窺えた。
そして、
公的に知られているような、古来の戒律を厳正に守ることの重視よりも、むしろ、非常に個人的内面における信仰態度、すなわち、「自分の神」との対峙のありようのほうを厳しく自問自答するような姿勢なのであるらしいこと。
一般的な日本人には殆どが縁遠いであろうイスラムの信仰のありかたには、まだまだ窺い知れていない面が多々あることだけは、おぼろげながらも実感した。
ただ、、、
その女性のブログを読んでいると、どうも、いわゆる「オカルト」的な独白も目につき、現地に渡る前からの、彼女の日本の家族との軋轢も仄めかされていて、現地での人間関係においても、いろいろと悩み、と言うよりも、かなり危険性を伴う不穏な情況に置かれているのかなと思わせられるようなところも見受けられ、と言うのは、要するに「オカルト」としか言いようのないことなのであるが。。。なんなんだろうか。
イスラムだから、という以上に、かの地インドネシア特有の背景事情もあるのだろうか。
くだんの女性は、一般的水準以上に知的で怜悧で、政治でも外交問題でも宗教に関しても知識豊富で、いたって論理的に思想信条を述べられるだけの能力のある人だということは、私も、あるていど知っているのだが、
ご本人は自覚していないとしても、やはり、どこか不寛容なまでの冷厳な匂いが、そこはかとなく漂っていた感もあり、
ほんとうに、何なんだろうか、この危うい激烈な感じ、不穏なアンバランスさは、ひょっとして、彼女個人として精神的に、かなり深い問題を抱えているのかもしれないなという、まあ、それもあって、以降、私は、そのブログには近づかないことにしたのだが。
はたして、イスラム教は、「寛容な」宗教なのだろうか、不寛容な宗教なのだろうか。
『千夜一夜』には、「不寛容の罪」ということも鋭く描かれていたけれど。
Scheherazade Went on with Her Story_ Illustration from Arabian Nights by Virginia Frances Sterrett (1900-1931)_Penn Publishing Company (1928)
そして、今回の悲劇の舞台となったフランス。この国に、憧れを抱いて、留学や長期の滞在後、精神を病んで戻って来た日本人、特に女性が多いという話は、私も、むかし、新聞か何かで読んではいたのだが、
あちらでは、外国人、ことに、フランス語が不自由な者に対して、非常に冷たいという話も聞いたことはある。
まあ、アメリカあたりで生活した経験のある日本人でも、そうした見下しぶりが実際にあることは、聴覚と言語障碍ゆえに、母国語でさえも聞き取れ難い、一部発音に支障のある私には、いまだに苦々しい気分と共に思い出すしかない英語教師の記憶があるので、なにもフランス人だけに限ったことでもないのだろうとは思っているが。
佐伯祐三やゴッホなど、かの地で精神を病むに至った芸術家たちも連想するものの、もちろん、馴染んで過ごせた人々も少なくはないだろうし、
たとえば夏目漱石のことを考えても、そもそも外国で生活するということ自体、なま易しいことであるはずがないのは尤もなことだろう。
藤田嗣治『魅せられし河:お針子娘』
特に女性が華やかなイメージのあるフランスなのだが、
18、9世紀あたりまでの、かの国の一般女性たちを描いた肖像画でも見てみたら些か驚くのは、
画家たちが自分の母親を描いたものなどは殆どが頭から足先まで包み隠した黒づくめに近い服装で(イスラムのヒジャブだのチャドルだのと大差ないような)、真面目くさった硬い表情は、まるで謹厳実直な修道女さながらだ。若い娘を描いたものでも似たり寄ったりの慎ましさは珍しくない。
古来、裸体芸術盛んな西洋と言えど、聞けば、その昔は、うら若き女性の、あらわな裸体など描くにも、それが飽くまでも神話や宗教に擬えた場面であるという前提と言うか建前である場合にのみ、公に出すことを許されていたのだそうで、勘繰れば、これも また謹厳実直な校長先生みたいな顔つきした画家たちは、そこを上手く利用してもいたろうというわけだ。
シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか。
【旧ブログより】
フランスって国も 2011/12/08 18:18
極端に違う顔を幾つも持ってる国なんだなあ。
ロココの国、農民の国
優美の国、ギロチンの国
芸術の国、どろぼうの国
ソースで隠し、香水に紛らす
フランス語を話せない日本人を見下し、
ジャポネズリーを好む
やさおとこの軍事大国
消費税発祥の国、
原発の国w
…でしょうか?
小規模レベルの原発事故は、しょっちゅう起きてるらしいけど、もし大事故が起きたら、おフランス ワインも、たちまち飲めなくなるねw
おとなりのドイツに、風が行くようになってるそうだから、フランスよりも、ドイツのほうが、大急ぎで避難しなくちゃならないね。補償金は どうするのかな。
人間て、なんで、原発なんか必要になったんだろ?
いまさら素朴過ぎる疑問ですかね?(苦笑)
国家の自立とイコールのエネルギーの自立のはずが、いい気になって、ぬんちゃく振り回してるうちに、おのれのアタマ直撃するてな滑稽な愚もなくなり、名実ともに安全確保となるには、あと どれくらい かかるんだろう。
“Douce France”
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心温まる逸話も…芸術を生み出すフランス(2011/02/02 09:52)
フランスはなぜ原発にこだわるか(2011/12/08 10:17)
カテゴリ: 世界から > ヨーロッパ