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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.01.19 (Mon)

故意に、人を傷つけていい権利、なんてあるわきゃない。

「シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか」再度。

 


旧ブログ(産経系列サイト「イザ!」でのもの:現在は、一般利用ユーザーを締め出し、つごうのいいメンツだけ残して継続しているサイトw)から、まったく忘れていた記録を。

本文中の抜粋は、多分、【正論】拓殖大学総長・学長 渡辺利夫 条理にかなう言説の時代拓こうからだろう。

 

「不安や理不尽」考                      2013/01/01 08:00

 

 いかに挑発的な行動を受けたにせよ、国家関係を「理不尽」などという感情表現で語ってはならない。どんなに非理性的にみえようとも、相手国には相手国の「理」がある。~

 

同様に、

私には、原発肯定・推進派でも、反原発派・脱原発派でも、互いに正反対を構えているようで、その実は、どちらも出発点を等しくしているように見える。

 

およそ世の技術、学問の、また原発も、「不安や理不尽」を産みの親としている側面はあろう。

 

 

 ついに現代の日本人は「生命至上主義」の信仰にはまり込んでしまったのか。いや、信仰というほど高雅なものでもあるまい。むしろ「個体至上主義」と命名した方がいい。生命といえば、生きて在る人間だけのものではない。われわれを今ここに在らしめたものは、父母であり祖父母であり曽祖父母であり祖先である。われわれが今ここに在るのは、子供、孫、曽孫へと未来に向けて生命を継承するためである。生命というなら、過去と現在、現在と未来とを繋(つな)ぐ生命現象の全体を語るのでなければ意味がない。~

 

「信仰というほど高雅」とは何なのだろうか。

信仰というものも また、その出自は「不安や理不尽」を産みの親としているのではないのか。

 

 

しかし、子どものいない、持つことが できない私のような者が、原発に伴う諸弊害に関しては、最も楽天的ではないかとも思える。

原発の危険性を声高に問う人々の殆どは、ただに自分一個の身を案じてのことなのだろうか。

まだ見ぬ それを含めた、子どもや孫たちを、その先の将来を案じているからこそではないのか。

 

 

 同時に、自国の歴史を顧みる視線が不可欠である。倫理や道徳の問題ではない。台湾、朝鮮、満州への領土拡大欲求に身を焼かれた時代が自国の歴史の中にありありと存在していたではないか。~

 

私は、くだんの時代を、身を以っては知らないのだが、

「欲求に身を焼かれた」それは、傲慢かか。

それとも、劣等感に苛まれてのことか。不安かだったのか。

 

 

~原初の情念を脱し、条理に適(かな)う言説の時代が拓(ひら)かれることを~

望むのは、まさに、「条理に適わぬ」理不尽への不安からこそだ。

 

~理性より感情~

感情こそは理性の源なのだ。

 

 

 

「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。
むしろその逆が いっそう真理に近い。
感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり
知性こそ主観的なもの、人格的なものである。
真に主観的な感情は知性的である。
孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」

――三木 清――

 

 


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カテゴリ: コラむ フォルダ: カルト・サイト関連

 

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