2015.01.21 (Wed)
であれば、私は、べつにいいじゃないかくらいにしか思ってない。
という以上に、
こういう方面にこそは、ときとして容赦ない批判的視点を持っていて しかるべきだろうとも考えている。
私が、悪趣味を不愉快に思いもし、場合によっては糾弾も辞さないのは、弱者の(すなわち、選択権を剥奪されている)立場に立たされている存在への嘲笑や攻撃のことだ。
(諸外国のそれについては知識がないので)日本の勲章について言うと、それほど内容が伴っていなかったり、かなりイイカゲンな選出を してるという話を、新聞等でも読んだことがある。
だいたいさ、
「サザン」の桑田さんが、なんで「紫綬褒章」なのよ?と思ってた私、そもそも、「サザンオールスターズ」自体を、ほぼ全く聴いたことがないのだが。数回程度、聴く機会があったときにも、あまり印象に残らなかった。残ったのは、ただ、桑田さんのオチャラケた姿勢の印象だけ。この人は、こういうのが好きなんだな、としか(でも、御本人の素顔は本来、いたって真面目で保守的なほうのタイプかもねw)。だからと言って、べつに嫌いということはないんだけども。
「権威」というものに対して、あるいは また、他者が、こよなく大切にしているものに対し、私自身は基本的には尊重するし、相応の敬意を はらうものだが、
はっきり言ってしまえば、
一般に「神」と呼ばれているところの架空存在は勿論のこと、そういった存在を空想するにせよ妄想するにせよ、「自由」だの「自由意思」などについても、ほんとうに存在するのだか、根本的に甚だ疑わしいと考えているクチだ。
ここ最近は、主に「シャルリーエブド」事件に関連したエントリーをアップしてきたわけだが、
さて、
いわゆる欧米圏の人々は総体に自己主張が激しいというのは、彼らの歴史上の経緯も手伝って確立され、近代から特に目立つ傾向なのだろうと、不勉強なりに思ってきたのだが、先日の当ブログ エントリーでも触れたように、なかんづくフランスで長期滞在を経験した日本人、特に女性に、精神を病んで帰国した人が多いという事例と、「フランス人」として生育しておりながら、今回の事件を起こした犯人たちとの、一切の共通点がないことはないような気もするのだ。
アメリカでも、ある日本人女性、
彼女は、一般にも名を知られているパフォーマーで、その関係で、長期渡米していたそうなのだが、いまでは、すでに高齢と言っていい年齢になられているだろうし、現在の彼女の消息は、私個人は寡聞にして知らないでいるのだけれど、この人も、そうとうに重いノイローゼになってしまい、アメリカから帰国したのだそうで、ご本人が述べていたには、あちらでの生活で、すっかり まいってしまったことの大きな原因の一つに、そのへんの一学生やら無名の一般人にいたるまで見られるところの、徹底した自己主張の強硬さ、競争意識の激しさのことを挙げておられた。
まあ、おとなしく繊細な感覚の日本人ならば、たちまち気圧されてしまうということなのか。
そのアメリカでは、とある高齢の、よりによって牧師で、何やら過激きわまる下品な差別的発言を繰り返すことで知られた者もいるそうで、ところが、それでも、少なくない支持者もいるし、もちろん、傷ついたり、不快に思っている人々はいるのだが、しかし、当局は取り締まらない。
なぜなら、
ここでも やはり「言論や表現の自由」ということがネックになっており、、、という現実を、数年前、新聞の記事で読んだこともある。
『「表現の自由」の美名に隠れた憎悪も糾弾せよ』Charlie is Heroic and Racist
理想を貫いたシャルリ・エブドの「殉教者」たちは勇敢だったが、差別的な風刺画は擁護できない
2015年1月15日(木)17時04分
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/01/post-3517_1.php
こないだ、ちらっと見かけた記事では、
イギリスのキャメロン首相が、フランシスコ法王に反論とばかり、
「他人を不快にする、感情を害する権利はある」だとか言い切ったそうなんだけれども、これに対して私は一言。
「では、あなた自身、どういう方針のもと、いや、積極的に、他人の感情を害して不快にすることは好ましい良いことなのだと奨励しつつ、お子さんを教育されましたのかね?」
キャメロン首相に、実際お子さんがいるのかどうか、私は知らないのだけどさ。
まあ、さすがは、その昔、ローマ教皇と争って袂を分かち、以降、独自の路線を歩んだという歴史を持つイギリスであろうか(苦笑)
他人や周囲の人々が何を言おうと、厭味や暴言をまで吐かれようとも、ネットでは合言葉みたくなってる「スルー力」というものを身につけることが必要だという現実はあるし、
純然たる哲学、思想からの観点としても、完全に自由に、ものを言い切れる、それを一切咎められることなく受容され、また同時に、対する容赦のない反論も当然のこと自由なのだ、という社会は、一つの理想郷と言っていいのかもしれないとは思う。
だが、私は再び言う。
弱者の立場を余儀なくされている存在への嘲笑や攻撃は、やはり、ゆるし難い。
アンフェアの最たるものであり、常に、むなしい争い事の連鎖を生む源だ。
…まあ、そうしてみると、つくづく、「如是我聞」というコトバの聡明さなんかを思うわw