2015.01.22 (Thu)
『センセイ、質問です。「人を殺しては、なぜ、いけないのですか?」 』
そこで思い出したのがw
まあ、麻生さんの例の「ナチスの手口に見習ったら」云々だが、
あの発言だって、表現の自由のうちということになるだろうけど、
もちろん、私は遠慮なく罵りの表現させてもらったよw
でも、当時、あの発言と麻生さんを大勢でトコトン擁護してたのは、どっちかつうと、「(ネト)ウヨ」と呼ばれちゃうようなネット民とか、自民党支持者とかに多数だったようなんだけど、ああ、あと、何かの「オタク」系もかね?
だけど、いま ここへ来て、
「表現の自由」が一等大切なのだ、表現の自由に一切の制限を つけるべきでないと力説してる人々には、今度は、どうやら「サヨ」系も多いみたいなのが、ちと興味深いww
麻生さんと、その発言を擁護してやまなかった向きが、「シャルリーエブド」事件では一転して、あの表現には悪意があり、「表現の自由」にも限度がー、とか言い始めてるとしたら、
それと、ふだん、「在特会」なんかやヘイト スピーチを擁護してる連中ねw
また同時に、
それらと真逆の向きの人たちにも、主張の転倒が起きているとしたら、、、これまた滑稽だなあと思うw
ま、徒党を組めば、「数の力」というやつで、どんな愚かな主張でも、横車を押すだけの力には なり得るのが現実だ。
やがては、政治さえ動かす力にならないとも限らない。そこを警戒させるからこそ、いまだ少数派に留まっているいまのうちに叩き潰しておこうという考えも起きてくるのだろうし、
このコラムでも、そのあたりを含めて指摘されている。
『仏紙襲撃テロに見る「表現の自由」と「宗教の価値観」尊重のバランス 国際政治学者・六辻彰二』
THE PAGE 1月22日(木)9時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150122-00000001-wordleaf-int
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「強者の支配を強化する原理」としての表現の自由
しかし、表現の自由には二面性があります。表現の自由は時に「弱者に異議申し立ての機会を保障する原理」になる一方、別のシーンでは「強者の支配を強化する原理」にもなり得るのです。
~
私は、これも、先日のエントリーで言ったように、
イスラム教の教義からくる問題云々以上に、現にフランス人としてフランス国内で生育しながら、ああいう事件を起こしたという経緯や原因のほうに関心がある。
ところで、
「自由」という概念も、「神」と同様、あくまで人間が勝手に拵えて掲げている、まさに抽象的概念に過ぎないのではなかろうかね?
私は、先日のエントリーでも表明したように、そもそも「自由」だの「自由意思」だのいうものが、ほんとうにあるものだか疑わしいという考えだ。
いや、自由はある、と言い切るのなら、それも また、一種の信心、宗教みたいなもんだと思うのだがね。
だが、「権利」の概念と同じく、「自由」も、あるに違いない、という意志と、意志の継続が必要なのだろう。
そして、そういう意志や継続も また、信仰や宗教との共通性があるのだろう。
さてさて、
「人を殺しては、なぜ、いけないのか?」
という、もはや定番のような疑問や質問にも、いたって現実の生活感覚や法的な立場から以外、哲学的には答えきれていないのではなかろうか。
生活や現実は、そりゃ、重い。
机上の空論では済まないさ。
されど、
「鰯の頭も信心から」
「鰯の頭」で殺されるのか。。。