2015.01.17 (Sat)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
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シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか。
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これに、もう少し、付け足しておくべきだったかな。
つまり、
ご開祖の似姿を描くべからずという、仮に、そこをこそズバリ風刺したかったのだというのであればだが、
それならそれで、ムハンマドの姿は一切描かずに「偶像崇拝を禁ず」という方針を、「風のごとく刺して」みせる方法も可能だったのじゃないかな?ということ。
ユダヤ教にいたっては、主だか神だかの名すら、みだりに唱えちゃならないのだそうで。
先回も述べたように、そういったところは比較的容易に譲歩できても、
まあ、こちとら生憎と「異教徒」なんだしね、こっちまでが、偶像崇拝禁止に合わせてやらにゃならんという筋合いは、もともと ないはずなのだけれど、それを主張してバシッと突っ撥ねなければならないとしたら、
あちらさんが、こちらの大事にしてる「偶像」などを破壊しに来たときだろう。実際、そういうことも過去にはあったみたいだが。
私自身は、「偶像崇拝禁止」云々とかよりも、もっと現実的に喫緊の事態があるだろと思ってるので。。。
何でもありのグダグダも、がちがち教条主義みたいなのも、どっちも困りもの、まっぴらゴメンだが、
人間とは、やはり、なんだかんだと、論理や筋の通ったことを求めたがるものなのだ。自然の摂理の厳しさ故もあるだろうし、また、人間の、そういった面での切実な希求、それなくして、あらゆる進歩・発展もなかっただろう。
けれども、宗教の教条主義的性質ともなると、あたかも、古惚けて硬い靴に、サイズの合わない足のほうを合わせることを強制するかのようなものだ。まさに、強制を「矯正」として。
これでは、足を守るどころか、痛めてしまって、歩けもしない。
いずれにせよ、今回、フランス国内で勃発した「イスラム」過激派の事件の下手人が、「フランス人」だということ。
そして また、天を仰いで嘆息したくもなるほど皮肉なことには、被害者・犠牲者側にも、彼らの同胞・同朋が含まれている。
だから、先日のエントリーで述べたことなのだが、
もとは穏健な「普通のイスラム教徒」だったはずが、どうして「過激派」になってしまったか、ということが気になったということ。
だって、まわり全てがイスラム教でガチガチの世界しか知らずに育ったのと違うではないか。
フランスで育ってるんでしょう?
彼らは、国内いたる所すぐ そこかしこにある十字架やキリスト像などを、これまでに破壊してきたことがあったのか?
話が少し変わるけど、
最近、なんだか立て続けみたいに、芸能界の人が、自分たちの言動やパフォーマンスを、あっさりと翻すみたいに謝ったりしてるので、そのへんの一個人に過ぎない私には、
なんだかなあ、、、腰抜けなのかよぉw
と鼻白む思いを抱いて揶揄し返したくなったほどなんだけれどw
しかし、よく考えてみると、
彼らには、たくさんの視聴者やファンの存在があるわけで、そっちのほうに、もしもの危険があった場合を配慮せねばならなかったことに気づいたのかも、と思い至った。
その分、責任重いんだわね。
ましてや、何らかの大きな組織体を統べる立場の人ともなれば、自分の腕に委ねられた膨大な人々の身の安全を第一に念頭に置かねばならないのだから。
その昔、お釈迦さまは仰ったそうな。
「縁なき衆生は度し難し」と。
それから ずっと下った時代、
当のフランスはヴォルテールの言ったという。或いは、こういう主義主張の人であったと。
「私は、あなたの意見に反対だ、だが、あなたが、それを主張する権利は、命をかけて守る」と。
『アジア歴訪中のローマ法王、「言論の自由にも限度」』
AFP=時事 1月16日(金)9時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000004-jij_afp-int
『<ローマ法王>「表現の自由にも限度」他者の信仰侮辱を戒め』
毎日新聞 1月16日(金)13時8分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000034-mai-int
「人みなを殺してみたき我が心その心 我に神を示せり」中也