2015.01.16 (Fri)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
に加えて、時間もないので、できるだけ端的に追加しておく。
「芸術」と言うのならば、
それを一心不乱に拵えてみた結果が、思わぬ弊害や余波を引き起こしたという事態も多々あり得るだろう。
その場合は、すみやかに素直に謝罪するなりすればいい。
大概は、ましてや、せいぜいパクる以外に能のないような凡庸な者が、そういう高尚な精神のもとに行ったとも思えまいが、
高い視野と信念をもって確固としたヴィジョンのもと、無私の意志を貫いたのであれば、かんたんに謝ったりするのも、これもまたナサケナイものだが、
しかし、傷つく者が出るであろうことを、最初から分かっていて、すなわち故意に、
「傷つくほうが悪い」(ちなみに、これ、例のbragelonneの発言でもあるw)とか、
「この程度のことは耐えろ」とか、
いったい、誰が誰に対して要求する権利があると言うのか?
これは、あの「カルト連」も、私みたいな立場の弱いと見た、かつ、つごうの悪い他人に向けて言ってることと、自分たちの身勝手なつごうだけでやってることが、まったくチグハグだったことを思い起こさせる。
しょせん凡庸な、しかも悪趣味な者には、それでアタリマエの行動だろうがw
では、おまえさんなら、当事者として何を されようとも、平気の平左を通せるのかね?と問いたくもなる。
さしづめ「2ちゃんねる」あたりで跋扈している者も同様のパターンだろう。「カルト連」も、あそこの流儀にドップリ毒されてきたらしい連中だ。
思いやりは大事だよ。
ましてや、
「人の心を豊かにする、それが芸術というもの」なのであれば、
自分のやりたいほうだい勝手を最優先するしか能のない自己中心が、「芸術」だアーティストだと自称していても、どうして、他者の心を豊かにできるのか、そんな能も なかろうに、と思う。
ただ、イスラム教に限らずだが、
その教徒でない者に対してまで強制するのも理不尽なことには違いない。
ときとして、現代人としての厳しい視点と批判も必要だろう。
それが、世の多く人々のうえに、小さからぬ悪影響を及ぼす場合には。
私自身は、イスラム教の、昨今、特に問題になっている女性全体に対する考え方や態度については、あくまで昔においては、それなりの合理性もあったかと思っている。我が国やアジア全体におけるそれと、少なからぬ共通点もあるのだろう。
しかし、現代では、とっくに時代錯誤もいいところで、
あえて言えば、これは、男性側の弱さ、自制心の弱さ、女性という存在に対する無自覚で本質的な受け身の精神と甘え、コンプレックスまる出しにも見える。
ここにも、我が国古来の、たとえば、修験道や一部分野において、なお残る女人禁制になっているところと、やはり多少の共通性は見受けられるようだ。
しかしながら、同時に、時代が、どれほど変わろうとも、変わらないサガと言うべきものが強く残っていて、そこから起き得る弊害を防止するという側面があるのならば、ある面では、それも多少の合理性を、なお含むのだろう。
ま、ひるがえって、フランス側も、さすがのフランス趣味でもあろう。
なんせ、バタイユその他を出してる国柄だw
あ、そうそう、あの「カルト連」とか、彼らのシンパさんたちは、『眼球譚』とか お好みだそうなwww
そりゃあ、私とは趣味も感性も全く違うのは明らかだ(爆)
猫ばばサマは、「読め!!」だの「喰え!!」だのと頻りに強制にヤッキとなってたもんだが(嗤)
これまでのところ、私個人は読んだこともないのだけど、いまだに読む気もしないので、万一その気が起きでもしないかぎりは、食わず嫌いと誹られようと、正当な権利として拒否させていただいておくww
ところで、
そもそも、あの宗教で、教祖などの姿を絶対に描くなという厳正なる方針について、われわれ異教徒の側が、そこに譲歩したからとて、どれほどの理不尽さがあるというのか。
私は、そんなことよりも、もっと優先すべきは、
いまだに、現代女性たちが、かの地で味わい続けているという理不尽、残酷さ、人間としての基本的権利までが酷く損なわれているという事態のほうを、国際的に重視し、批判、啓蒙に努めていくことは、現代に生きる者として当然だと思っている。