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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2025.11.09 (Sun)

【続】最も弱き者の続き。

 

ところで、

私は、だいたいが、自分のプライベート(拒否しようもない幼い子ども含めて)を切り刻んで切り売りしているとしか思えないような(加えて「投げ銭」やらでは足りないのか、いわゆる「案件」まで混ぜ込んでくる)『ユーチューバー』には、自己満臭と、どこか必死な痛々しいものを感じることも多いので、気まぐれに数回ほど見てみても、すぐにウンザリしてきて、飽きてしまうことが殆どだ。

それ以外でも、大概は、「優雅な生活」自慢か、嘘っぽさミエミエな演出の「ライフ スタイル」。

 

『ユーチューブ』を、わりと、よく閲覧している私でも、対象は、かなり絞ってきているので、まったく知らないことだったが、生後3ヵ月の実子を刺し殺した この母親、ユーチューバーも やっていたとかいうので、先日、和歌山県で、2歳の実子を虐待の あげく、死なせてしまった親も、ユーチューブの自分のチャンネル内で、ずいぶんとエエカッコな、自己陶酔的なことを並べていたというニュースのことを思い出した。

 

だいぶ前の過去エントリーか旧ブログでだったか、
かつて、一般人が、日常的な自分の身近の、たとえば、家庭内や子どもをネタにした内容の動画を、当時は、インターネットやユーチューブは存在していなかったので、世間の「お茶の間」向けに取り上げて放送している番組が あったのだが、

その頃は、まだ実家で生活していた私は、文字通りの「茶の間」のテレビで、くだんの番組を見ていたら、いっしょに見ていた母親が、プンプン怒りだすことが何度も あったのを憶えている。母親の憤りは、視聴の回数を重ねるごとに増えていった。

その理由は、

登場する(させられている)幼い子どもが、いかにも可愛らしく、あどけなく、ユーモラスな光景では あるけれど、高い位置から落っこちるとか、何かの硬いものの角に、頭を ぶつけてしまうとか、見るからに危ない場面を映していたりするので、それらを、不審なほどのグッド タイミングで撮影して、テレビ局に送りつけて、採用してもらっている親たちは、自分の子どもを、わざと危険に さらしているのに違いない!怪しからん!!と、怒っていたわけです。

あれが、こんにちでは、そのへんの一般人までが芸能人気取りで、ユーチューブあたりで発信している「プライベート切り売り」チャンネルの原型の一つなんだろうなと思う。

 

 

車椅子の女性がと聞いて、真っ先に思い出したのは、何年前だったか、観光目的で、静岡県内の『JR』の駅を利用しようと予定していたつもりが、あいにく、無人駅になっていたので、エレベーターなどが なく、階段を経由するしかないため、昇降を担ってもらう人員を数名、要請したものの、事前の申請が なく、急に応じることは できないということで、双方の それぞれから思い違いや行き違いなども あったせいか、悶着が生じ、車椅子の女性側は、『JR』側の協力を得られなかったというので、車椅子拒否である!と、憤りを込めた表現で、インターネット上で公表しておられ、そのことが、批判という以上に、多方面からの非難や誹謗中傷までも招いたという、そのような騒ぎが あったことを、私も、おおよそは憶えていたのだけれど、この女性も、今回の子殺し事件を起こした母親と同様の難病、それも、もっと重度に見受けるが、お子さんを数人ほど儲けていらっしゃるし、育児については、やはり、まとまった人数で、そうとうのサポートを担当してもらっているということだったけどね。

 

 

分野は違えど、障碍者のハシクレである私自身、障碍者に対する色眼鏡や侮蔑や差別は許せないと思ってるけど、だからと言って、いきなり、何でも かんでも、「健常者」と同じようにしてくれて当然、扱いの差が、僅かでも見受けられたら、徹底的に糾弾すべしとまでは思わない。

 

たとえば、『名古屋城』の復元だったかな、車椅子でも登れるように してほしいという要望を表明したら、「かたわのくせに」「ずうずうしい」といった罵詈雑言が飛んできたという話が あったが、

私個人的には、てっぺんに登らないと死ぬわけでも あるまいにと思ってるのでw忠実な復元の妨げになるとかいった問題については、耳を傾けるに吝かでないし、いまどきは、安全な場所に居ながら、どのような危険な場所でも、臨場感ある鮮明な映像を楽しむことが可能になっているので、とにもかくにも無理してでも叶えてもらいたい、などと、強硬に要求する気には なれない。

だいいち、「健常者」が すなる「ロック クライミング」とかさ、ああいうのも、車椅子使用の障碍者だって、できるようにするべきだ!と要望しますかね?w

 

しかし、

「かたわのくせに」「ずうずうしい」などという罵声を聞いたら、即、猛抗議するよ。

そばでヘラヘラしていた市長に向かっても、噛みつくと思うw

私も、ほんとうに許せないと思ったときには、ふだんとは違って、ガンガン言うほうなのでw

ところが、あのときは、誰も、何も抗議の声を上げなかったのね。

障碍者たちの声も参考にということで集まっていたらしいので、車椅子を使っている人なのだから、一人だけ参加しているのでは ないはずと思えたので、そこが怪訝で不審で、なぜ、誰も何も言わないままだったのか?という疑問を、当時のエントリーでも指摘してあると憶えている。

 

すべてのことに おいて、「健常者」と寸分の違いなきように してくれるべし!と要求して、なかには、

いらぬリスクや周辺の無理を来たしかねないケースも ありうる、そのことで、非難や誹謗中傷を巻き起こしてしまい、かえって、障碍者すべてに対する偏見を助長し、それでなくても、世間には、まだまだ、障碍者に対する排斥感情も少なからず残っているのが現実なのに、ますます、障碍者が生きづらい思いを抱え込むことに なるのでは ないか、私も、そんなのは厭だなあと思うし、いずれは、改善していってもらわなければ ならないことが幾つも あるのは事実として実感しているけれども、むやみな強硬姿勢で、激しい主張を繰り広げても、ただでさえ、自身の身に思い知る事が ないかぎりは、「健常者」という者は、最も、想像力が乏しいのだから、「多勢に無勢」の勢いでもって、激しい反発を投げつけてくるのが関の山だ。

それって、誰の役に立つの?と疑問を覚えるくらいの「完璧主義」的要求を押し通したために、かえって、ますます、「やっぱり、障害者はワガママで迷惑な存在だ」と確信させてしまう逆効果なケースも あるよなあと、私自身、困惑した。

 

そりゃあ、障碍者全体に対する色眼鏡や侮蔑は許せないと思ってるし、「健常者」側の無自覚なウヌボレは、ほんとうに無神経で、鼻持ちならぬと思うことも少なくは ない。

けれど、

たとえば、私は、聴覚障碍を抱えているが、同じ聴障者どうしでも、全くの同じ状態と言えるのは、完全に聞こえない、という状態でもない かぎり、それぞれに、ばらつきが ある。

異なる分野の障碍ともなれば、わが身に抱えていない障碍については、「健常者」側なのだ。

要するに、視覚障碍の場合ならば、誰しも、その不自由を、わが身を以て理解しやすいであろうのは、せいぜいが、全盲の状態だ。それ以外は、やはり、ばらつきが あるだろう。

 

様々な病気についても同様だ。

わが身に背負ってみなければ、想像が追いつくことは、ほとんど ない。

自分の子ですら、他者だ。

他者の痛みは、しょせん、他者の痛み。自分の痛みとして感じるわけじゃない。

 

障碍ゆえの、いろいろな負荷や不利益は拭いきれないし、「健常者」には想像も できないであろう苦悩も ある。そういったことは、がんばって乗り越えたつもりで生きてきても、年数を重ねるほどに、否応なく深まっていくことも ある。

けれど、

誰だって、完全な健常者とか障碍者では ありえず、それぞれの立場で、何かしら、どこかしらで、遠慮や配慮を要求し合いつつ生活しているはずで、

この世界に、完璧フラットという状態は、障碍に限らず、どの方面や分野にも、ありえないことなのだ。最後の最後に、「粒」に戻るまではw

それまでは、

見下して、勿体つけるような態度は勿論、だんぜん、こうしたほうが合理的だと分かっていることにすら、ヘンに出し惜しむような、底意地の悪い態度も控えてほしいものだ。

かつ、誰もが疲弊するだけで、ムダにしかならないような、あまりに硬直した拘り過ぎも控えてほしい。

 

ほんとうに、自分は、「健常な人」なのか、疑い、考えてみたことも ないのだろう、「健常」である自分が当然という、無自覚なウヌボレ。

同時に、

すべてが、「健常者」と寸分たがわず同じでなくては許せないから、結婚も、出産も、何に おいても、これで「健常者」と互角、「人並み」になれたのだという満足感を得られるまで追い求める障碍者側の欠乏意識ゆえの完璧主義的要求。

どちら側にも、それぞれの被害意識が あるのだろう。

 

ちなみに、また言っておきます。

ネット上で、明白に突きつけられた事実。

ネット以前から、家族などの周辺で薄々は感じていたことでも あるのだが、それは、

身体障碍を最も嘲笑し、侮蔑と罵詈雑言を浴びせてきたのは、「健常者」よりも、精神障碍者だった、ということ。

正確には『自己愛性人格障害』者だった。
要は、俗物中の俗な感性と価値観とを備え持っているからこそ、「カクレ」と して、俗世間に混じりやすい彼ら彼女らも、「健常者」のつもりやフリをしながら、おおぜい混じって生きていることだろう。一見は、「感じが良い」だけに。

 

 

むろんのこと、障碍者が、いわゆる「健常者」を筆頭とした他者の全体に、不必要な負担を かけなくて済む程度には、社会的基盤システムの構築と合理的配慮は求めたい。

それは、障碍者側の「わがまま」では なくて、どちらか一方だけの利益のためでも なく、誰しも、お互いが、許容や譲歩可能な範囲のなかでスムースに、快く過ごしていきたいからだ。それだけだ。
むやみと好戦的な振る舞いを辞さないほど、自己主張できる障碍者は、少数派だ(苦笑)

 

 

さても、子という存在に対して、何らかの目的を課すことは、邪悪な所業だ。

 

子どもに性的暴行、

子どもを取られまいと親権争い、その あげく惨殺、

いずれも、子どもを私物視し、依存しているからだ。

 

そもそも、子どもを利用することで、俗物は、自分のなかの欠乏を埋めようとしたのだろう。

 

最も弱く、抵抗が困難な者を利用して、おのれのなかの埋まらぬ穴ぼこに、人身御供のごとく嵌め込み、塞ごうとする。

抵抗力に欠けた、弱い者が やる、邪まな所業。

ほんとうの意味で、最も弱い者。

 

 

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