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とりあえず、ひかりのくに
     
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2026.04.27 (Mon)

【続・追記】再び、いろいろ言う。の続き。の追記。
(ああ、ややこしやwww)

 

なんせ、あの肥満体ゆえ、「床ずれ」に陥ったら大変な事態になる、
本人が、耐えられないほどの苦痛に苛
まれることになる、と、
ほぼ毎日、見舞いに行くたびに、看護師さんをアテにしていてはダメだと思って、

全身の清拭をマメに行なっていた その甲斐あって、
床擦れだけは、辛うじて、なりかけの手前で防ぐことが できた。

 

タオルを何度も取り換え、熱湯に近い お湯で絞るたびに、私の弱い皮膚は、いよいよガサガサになっていき、

「ああ、人間って、こうやって、外見から老いていくのだなあ」

と、思った。

 

若い頃は、「手タレ」も できるよ、と、言われたものだし、

あんた、家事なんか、やったことないでしょ、とも言われたが、

どっこい、
私は、母親が自称する「病気の問屋」みたいな体質にも かかわらず、家計の助けに働いていて、家に い
なかったりしたし、
ついには交通事故で入院といった長い不在も経験しているので、
幼い頃から、自分の身
の回りのことや掃除、洗濯、簡単な料理といった家事も、同世代の子の「お手伝い」レベルを超えて、いろいろと やってましたよ。

 

まあ、でも、誰にも何も頼めないのがデフォルトである私の身と違って、

虐待してきた娘に、最後まで介護してもらえたのだからさ、幸せだよね、あの母親。

 

 

話が大幅に逸れていってしまったが、

若くして、不慮の事態で亡くなった叔父のこと。

この叔父が、まだ元気に暴れていた頃。

たまたま、私ら親子が、祖父の家へ訪問した日、やはり、小学生だった私の記憶は曖昧になっているのだが、

何かの理由で、叔父が、大暴れを始めて、近所の人たちまでが、ようすを見に来るほどの騒ぎに なり、

祖父に向かって狼藉を はたらこうとするのを、年老いている祖父が毅然と抵抗しているうちに、
叔父は、あ
ろうことか、いったん、自分の家に戻ったと思いきや、今度は、刃物まで持ち出してきた。

そんな事態のなか、
祖母(義祖母)が、床に座り込んで、わんわん泣き出し、
私の母親が、

「おばあちゃんの顔を拭いてやりなさい」

と、私に促したので、
私は素直に、義祖母の もとへ近づき、タオルで、頬の涙を拭いてあげた。

すると、義祖母は、反射的に、私の手を払いのけ、なおもヒステリックに、泣き喚いていたのだが、

そんなことが あってから、義祖母の、私に対する態度が、ますます甘いものになったようで、これには、叔母らも、呆れるように感心していた。

「この子()のことは、可愛いのかねぇ」

と。

 

もともと、私を含めた、先妻のほうの孫に対しては、野性的な育ちらしい、ぶっきらぼうな態度ながらも、彼女なりに、可愛がってくれていたことも事実なのだ。

 

以前にも触れたことが あるが、

正月に挨拶に行けば、祖父は、いつもに増して、お小遣いを与えてくれるのだが、最低でも3万円は渡してくれる、
それを確認した義祖母は、張り合うかのように、5万円を差し出す、
といった ぐあい。
おみやげに持たせてくれるのは、ゴージャスなデコレーション ケーキを、ホールまるごとドーン!といった豪快さ。ワイルドなのよねw

祖父が5万円なら、義祖母は7万円、8万円と、ドンドンつりあげてくる()

母親に言わせれば、

「それは、本当は、おかあさんが、家計の足しに できるようにと思って、その代わりに、あんたに多めに渡してくれてるんや」

とのことだったが、
そう言う母親も、だからと言って、私から取りあげることは しなかったので、親から もらう お小
遣いでは、とうてい、手が届かない、高価な大型の美術書やら『ボードレール』の豪華版詩集やら、定評あるアーティストの2枚組レコードを購入するなどに使わせてもらっていた。
(『ピーター・ラビット』の絵本とか、洒落たドレスを着たビスク ドールふうの人形とかも笑)
私は、そんな子どもだった。

 

 

私が小学校の低学年の時分、入院した義祖母の見舞いに、母親に連れられて訪れたとき、たまたま、隣りのベッドの人が、バナナを食べ始めたのを見て、アホな子どもだった私は、行儀悪くも、バナナ食べたい~と、わがままを言った。

だいたい、こういうときこそ、いつものように、頭を張り飛ばして、叱りつけるはずの母親が、なぜか、何も言わないw

 

母親では なく、義祖母のほうが、とても困った顔を して、ベッド サイドの引き出しから、「一口羊羹」を二つ三つ取り出し、これでも食べるか?と、勧めてくれたのだが、どこか申し訳なさげな、そのときの義祖母の表情は、初めて見ただけに、いまでも印象に残っている。

 

思うに、

義祖母は、私の祖父と結婚するときに、長女(私の母親)ら子ども全員が、そろって猛反対していたことを、ずっと、根に持っていたのでは ないだろうか。

凄まじいほどの継子いじめを やっていたことの、第一の理由だったのでは ないかと。


私は、スーツでも何でもセンス良くテキパキと仕立てあげる技術を持っていた、とても おしゃれで、たいへんな美貌だったという実の祖母の顔を、知らない。
写真を見たことが ないので。

実祖母、つまり、私の母親らの実母の写真、そして、実祖母が愛用していた遺品の数々も、
義祖母が、すべて、捨ててしまったので、何一つ残っていない、ということだった。 

 

母親の話では、

若くして病没した(母親の)実母は、今わの際に

「私が死んだあと、決して、後妻を迎えてくれるな」

と、祖父に約束させたというのだが、

実際は、義祖母が登場する前に、後妻の候補として紹介された女性が存在していたわけで、

気性が穏やかで、優しい その女性をこそ、継母に迎えてほしいというのが、私の母親ら兄弟姉妹全員の希望だったという。

ところが、

祖父にとっては、その人を、男性としての視線では、あまり、魅力を感じなかったらしく、

泣いて反対する子どもたちを無視し、
年齢が離れた、かなりの年下の若い女だった義祖母を迎え入れた。

 

そうして、

のちに、祖父の娘(私の母親)は、最初に儲けた長女、まだ幼かった娘を犠牲にしても、不倫相手の もとへ走った。

お腹には、「罪の子」である私もデキちゃったしね。

 

で、

私の父親違いの姉が、せっかく、うちで暮らし始めたのに、なぜ、やめることになったかということの切っ掛けを、あとから思い出したわけなのだけれど、

ある日、姉の実父から、電話が かかってきたらしい。

私が目撃したときには、親父が応対していたのだが、

親父は、へえ、へえ、と、なんかペコペコしている感じで、やけに低姿勢。

その傍では、母親が、電話の向こうの相手(前夫)にも聞こえよがしに、何やら怒鳴り散らしている。

 

まっ、ね、

姉の父親って、いまどきに言う、いわゆる「ネトラレ」ですやんか(苦笑)

その腹いせみたいな つもりだったのか、

姉に向かって、

「あんたは、実の母親が、10万円で売った子」

と、嘲笑し続けた「継母」的な女性も含めた、何人もの女性を、とっかえ ひっかえ、というふうに、家に出入りさせ、出産した人も一人ならず いたので、
姉にも、腹違いの弟妹が おり、
その子らの世話を押し
つけられても いたらしいのね。

 

おまけに、

姉が最も忌み嫌っていたのが、その実父。

実の父親の家を出てからも、お金の無心やらを含めて、しつこく電話してくるので、ほんとうに鬱陶しい、あんまりシツコイから、電話のモジュラーやコンセントごと引き抜いたるねん、などと、姉が、よくボヤイていたのを憶えている。

 

まるで、私らの母親に対する恨みを、姉に ぶつけているようだなと、私も感じていた。

そんなだから、

姉にしてみれば、うちの親父のほうが優しいし、実父よりも ずっとマシと思うのも無理は ない。

 

それでも、

姉の実父が亡くなったとき、

私らの母親は、いたって冷淡だし、

私も、顔も知らない人だし、これまでの姉の苦労を思えば、やっと、解放されるじゃん、くらいに思っていた。

ところが、

姉にしてみれば、
やっぱり、たった一人の実の父親で、愛憎こもごもの存在、そんな父親が亡くなったこと
に対する複雑な心情を、私らとは共有できないのだと感じたようで、それで また、疎外感を持ったらしい。

 

 

ただ、
いっしょに生活した期間が、ごく短いので、妹である私のほうも、自分の父親らに、ひどい目に遭わさ
れてきたことは、姉も、殆ど知らないままで、勝手に想像していて、
私という妹だけは、いちおう幸せな生い
立ちだろうと思い込んでいるらしきところは ある。

したがって、
どこか、私に対するネタミのようなものを感じないでもなかったのだが、このようなことは、腹違
いの姉や兄とも共通している。

 

要するに、
私は、両親からも、兄弟・姉妹からも、どの方向からも、
一人だけ、ねたまれ続けている存在なの
である。

「私の苦悩は、誰も知らない」。。。

どうすることもできない現実も あるのだな。

なんとかしようと足掻いても、かえって逆効果になる現実が。

 

私だけが、幸せに育ったかのような思い込みは、
義理の兄弟・姉妹にとって、また、母親にとっても、
特に心理
的に、つごうの良いイメージなのだ。

 

いみじくも、母親は、幼い頃の私に向かって、繰り返し、言い続けたものだった。

「おまえは、誰からも、きらわれる」

「おまえは、妬まれやすい」

と。

 

おのれの汚物を なんぼでも投げ入れさせてくれるゴミ箱みたいな娘を、そういうふうに呪っていた。

 

【続く】

 

 

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