2019.02.24 (Sun)
今回のエントリーも、多くは『アンコール トム』の猿の社会なんだけど。
これから紹介する動画の いずれも、ちょっと長めなので、ゆっくりできるときに、のんびり眺めてくだされ。
(それと、音声に大きな雑音が入ってることが殆どなので、音量を調節してくださいね。)
いろいろ興味深い場面が多いですよ。
その前に。
最近、とあるタレントさん、この人は、女医さんでもあるそうだけど、このたび、オリンピック候補だったらしい気鋭の若手選手である女性が(疎いので、全く知らなかった私)、思いがけずも、大変な病気になってしまった件についてコメントしたということで、
「スポーツ選手は、病気になり易い」云々と発言したそうだが、
それに驚いている人たちのほうに、私は驚いたわ。
ン十年前の若い頃に、私なんかは、
「スポーツというのか、特に、戸外で走ったりする系のスポーツやってる人って、たしかに、動きがキビキビして、それ自体は、いかにも若々しいと言えるだろうけど、これが容貌の面とかになると、意外なくらい老けて見える人が多いね」
と指摘してた。「活性酸素」も絡んでるんだろうなとも言ったけど、
だいたい、過酷なことやってると、心身の負担が大きいのアタリマエだわな。
でも、そういう過酷な状況に、みずからが飛び込んで、しかも、耐えられて、やり遂げられる、ということ自体に、そもそも、心身の両面で、人並み以上の有利さを備えているわけでね。
それから、
「子どもにとって重要なことは、愛情よりも安心」という内容の、専門家筋のコラムを読んだんだけど。
まあ、ご尤もな示唆ですが、しかし、このことも、私なんかでも、数十年前も前から察していたことで。
要は、「安心立命」ということかな、と(微妙かもだけどw)。
先日のエントリーでも触れたが、
「もともと知らないものを、それが足りないんだとて、不足に思うものかな?」
と。
要は、落ち着きなんだろう。
私は、大学も出てないし、およそ専門的な学問教育を受けたこともない。ただ、このブログでも再三ことわっているように、自分自身の経験・体験による観察・洞察から、直感・直観を駆使して、思うところをを述べているだけ。
その結果、特に、「心理学」の方面では、そうじゃないかなと自分なりに察していたことが、大学で教鞭を とり、長年を研究に費やしてきた立派な学者や識者たちの出した結論と合致することも よくある。
なので、もともと、大学進学するなら心理学を専攻しようと思っていたことの動機にもなってたんだけど。
えらいセンセイがたが提唱した論説を殆ど知らないし、
私以外の人から、人生についての、これというほどの参考を得たことも少ないと言うか、もの足りなく思うことのほうが多いので、ほぼ自分自身で辿り着いた答えだ。ただ、残念なことには、時すでに遅しということも、これまた多いから、正解が分かっても、手の施しようが ないことも多いんだけどね(苦笑)特に、障碍のことは。
私から見ると、「この専門家、研鑽と洞察力が足りないな」と思えてしまうことも少なくない。
私みたいな、ハッキリ言って人並み以下の学歴や心身の状態にある者に負けてて どうすんだよ、と、しまいには腹が立ってくることも多い。
恵まれた環境で、「ぼーっと生きてきたんかよ?」とねw
キツイこと言ってしまってゴメンナサイだけどね。
まあ、「ヤフゴミん」の浅薄なコメントのパターンは、いつもいつも、どっちかだけのスタンスでしか考えられない特徴が まる見えだから、ここでも相変わらずでトンと忘れられ、すっ飛ばされているのは、
実親から離されて、養子先の家庭とか公共施設等で育った子どもは、じゃあ、どうなんだ?ということ。
たとえば、猿の あかんぼうの実験で、針金細工の疑似母と、柔らかいファブリックを着せた疑似母とを用意して、子猿が、どういう行動を とるかという実験が あったそうだね。
ただし、乳が飲めるのは、針金の疑似母。
結果、あかちゃん猿は、乳を飲みたいときは、針金の疑似母へ、眠るときは柔らかい素材の疑似母へ しがみつく、という行動を とったんだそうな。つまり、
言わば「機能」によって、「母親」を選り分けることを覚えた、とも見える。
これが良いのか悪いのかは、よく分からない。
自然本来なら、乳も安眠も、実の母親のみで満たされてしかるはず、なんだけれどね。
「自然」のままでも、実母によって授乳できないケースは あり、だから、「もらい乳」ということも あったし、
昨今の国内情勢を鑑みても、実の親によって「安心」が確保されるもの、とは、とうてい、言えなくなってきた。
人間が、あかちゃん猿を育てる場合にも、ヒトの あかちゃんに授乳するときと同様、横抱きするなりして、包むように抱き、その状態で、哺乳ボトルの乳首を吸わせながら、その間、じっと見つめ合うことによって、「親子としての絆」が醸成される、というんだけどね。
たしかに、ヒトの子でも猿の子でも、乳を飲んでいるあいだは、授乳者の顔や目を、じいっと見つめてるシーンが多いわね。
上記に挙げた記事に付いた「ヤフコメ」も、それっとばかり、「ミー トゥ」的なコメントがズラリ並んでいるという毎度の現象で、こういう場合、それらのコメントを読んでいるうちに、私自身が当事者でもあったせいか、よけいにウンザリしてきて、ササッと流してしまいがちなの。
私は、ふだん、真剣に悩んでいる人の話を聞くことを厭うタイプでは全然ないんだけども。。。
なぜ、とりわけ「うんざり」してしまうかというとね。
その代表的な違和感というのは、手短に言って、
「ああ、そう?
そんなに、虐待された結果、『自己肯定感』が酷く損なわれ、『承認欲求』が強くて、とアナタは言うけれども、
だいたい、本当に虐待の影響が酷いと言える場合、まず、『承認欲求』のためにガンバる
(こういうガンバりは、そもそも『自己愛性人格障害』者に顕著に見受けられるところ)、
それを満たすために遂行する気力も体力にも乏しいのよ。
ともすれば虚しくて無気力に陥りやすいからね、ほんとうにダメージ酷いとね。
そのうえ、
よくも まあ、子どもを拵える気になれたもんよねえ?
私の観察によれば、
えてして劣等感が つよいからこそ、何が何でも人並みをと、
要するに、人並みに家庭を持ち、親になることで、押しも押されもしない、人並みになれた、と、俗世間の価値観に従って、劣等感を慰撫しようという心理が はたらいているように見えるのだけれど、
『自己肯定感』が徹底的に損なわれているのだ、と頻りに主張するのに、
なぜ、『子どもを幸せにしてあげる』自信が持てていて、
『幸せにしてやる』ために子どもを産めたのか。
中学生時分に、『生まれてきたことを、自分で肯定できないかぎり、子を産むことは すまい』と決心していた私には理解の外だわ」
と思ってしまうのよ。
もちろん、ハナから人並みか、自分は それ以上であると自負している人たちは、何らの疑問を持つことなく、当然のこととして、人並みに、子どもを拵えるわけよねw
現状の自分は、俗世間の価値観にラッキーにも上手く乗っかれているのだから、したがって、このままで良いのだと満足している、
さしづめ『自民党』や安倍政権を強く支持している一部の既得権益・富裕層みたいなもんだwとにかくマンセーだww
だから、そういう人たちに、ほんとうの哲学的精神は持てなくてフシギは ないし、
深い話を する気にもなれやしない、私はね。
へたに話すと、彼ら彼女らを混乱させ、
あるいは、
「この人、障碍者だし、家庭環境も人並みじゃなかったそうだから、そんな考えかたになるんかね」と、アワレまれるのが せいぜいだ。
こっちが疲れてしまう。
ましてや、
すでに親になってしまってる人らには、めちゃくちゃに猛反発させるだけだから。
うちの両親も、家庭環境が悪く、血縁関係も複雑だったし、その延長で、ますます血縁関係も人間関係も、より複雑化した家庭を拵えてしまうくらい、問題が大きい成育歴だったが、
それでも、劣等感に猛反発する勢いで、あるいは、人並みになってやるという負けん気でか、いやいや、何にも考えてなかったようでもあるけれど、
とにかく、少なからぬ数の子どもを持ってしまった以上、
しかも、
まともな からだにも育てられずに敢えて放置していた現実を直視できずに、頑として、自分らの凄まじいエゴを認められなかった。
なので、
私自身は、実際の日常生活においては、当たり障りなく「ああ、そうですねえ、そうですねえ」としか言わないようにしてるw
すごく物分かりの良い人だと思われてるよ、たぶん。もしかしたら、単に、くみしやすい、単純なタイプだなと思われてるかもだけどww
しかしながら、単純さこそは、複雑のタネwww
さて、それでは、
いきなり、そうとうにキツイ場面から紹介するのであるが。
これは、体調を崩してしまった年老いた母猿が、辛うじて出産したものの、生まれたばかりの子猿に母乳を飲ませてやるどころでないほど苦しい息のなか、当然のこと、あかんぼうが、気には なるものの、どうにもならず苦悶しているところへ、長男である若い猿が、ようすを見に来た、
瀕死の母親を心配し、あかんぼうである妹を不憫そうに、涙を溜めているように見える眼で見つめるシーン。
ほとんどの場合、病気になったら、死期を迎えたら、このように苦しむのだ。それは、人間以外の動物も同様の現象で。
「かあちゃん、もうダメだあ~。。。」
この乳児の猿は、母猿が死んでしまったあとも なお、乳を求め、必死で しがみついていたが、もちろん、そのままでは、母親の後を追うしかないのは必然。
結局、レスキュー隊が、救護施設へ連れて行った。無事に育ってるのかな。。。
こちらは、産んだばかりの子を亡くしてしまい、じつに哀しげな声で泣く母猿。なおも未練そうに、死んだ子をグルーミングしてやっている。
【続く】