2017.01.25 (Wed)
去年、ついに、「天皇退位」なることを表明された動機の底には、やはり、次期天皇となるはずの現皇太子、その皇太子妃の「適応」問題は含まれているのだろう。
下記について、踏み込んだ予想を している人も少なくないようだが、
現皇太子が、ひとまず予定どおり「天皇位」となられても、
このたび、御父君の「前例」が できるわけで あり、
「皇室典範」の問題は置いても、
いずれは、やはり自分も退位なり譲位なりをと表明される可能性は、けっして、一蹴しきれないであろう。しかも、早い段階での。
そうなれば、
その次代は、「明治帝を尊敬している」と言明されていた秋篠宮さんに、というわけ。
そして、そこから、その息子さんへと、一応は続けられる。
まあ、建前上で、触れることが できないからなのか、単に、関心が薄く、個人的に、その気が おありでないのか、そこは分からないけれど、
「退位」でも「譲位」でも「前天皇」でも「上皇」でも いいが、それらの問題よりも、
いま、日本の民衆にとって本当の喫緊は、
「あすは我が身」の弱者が弱者を叩きまくっている、
しかも、公の立場の者らが、それを煽っている、
という問題についてのほうが、よほど深刻だろうに。
「ファンタジー」に ひれ伏すウヨども。
「滅私」や「高潔」を、特定の家系、特定の人間に要求することの理由もマトモに説明できないオマエさんらが、まずは、酷薄な身勝手さを自覚し、
他者に要求してやまない「滅私」と「高潔」とやらを、おのれ自身に課せ。
なーにが、
「天皇陛下の赤子」で、「天皇陛下の前では、みな平等」だ。
あほくせえ。
そりゃあ、
ただミーハー、
ひたすら無責任、
われ関せず、
どこまでもアナタ任せな国民性で、
真の民主主義が根づかないのも当然。
2017.01.25 (Wed)
たとえば、イジメ問題においてなどで、よく、そういう、いかにも傍観者的言いかたは、問題を歪め、根深くするという指摘が あり、
それは、私自身、もっともな指摘であることを実感しているのだが、
しかし、
ときとして、世のなかには、それが当てはまるケースも あるのかなということも思う。
最近では、
アパなんとかいう会社の経営者だかいう立場の人が、
いわゆる「南京(大虐殺)事件」についての独自持論を展開した著作を、自分とこのホテルの客室に常備したりしているというので、中国の怒りを買ったらしい。
私も、旧ブログでは、この「南京(大虐殺)事件」のことも取りあげたことが あり、自分なりに、あれこれの説や当時の時点までで判明していることを調べてみて持った疑問や見解や結論は、いまでも、ほぼ変わらないので、ここで繰り返して同じことを述べる気になれず、ごく手短に済ませるけれど。
いわゆる「南京事件」について、それが「あった」ことを証明しろ、と言うのなら、
「なかった」と証明したことには なり得ない、と言い返されるのがオチだし、
ネットウヨでもウヨでも、要は、
「そもそも、なかった」
ことにしたいようなのだが、さすがに、それは、できない相談なので あるまいか。
残る論争は、それこそ、くだらない「数」の多寡を問うもののようで、
はたから眺めていると、
「数十万人」が虚偽のフッカケであることが明白なほど多過ぎるならば、では、ぐっと減らして、数万人と言って寄こすのなら納得して認めるのか、
だいたい、「数」が多いか少ないかばかりを言いたがるのは、
それこそ、民主主義は「数」で決まる、てなデマだか無知だか信心ゆえか知らないが、
こんな低レベルの論争にも、ほとほと呆れる。
このように、「数」が、数がと言い募るネットウヨ・ウヨどもが、市井の凶悪殺人事件において、被害者が一人のみの場合と、数人の被害者が発生した場合とで、死刑に処されるか否かの違いが生じてくることに関し、
その殺害方法が残虐であったなら、一人のみの被害であろうとも、議論の余地なく死刑に処すべき、数は関係ない!とも主張するのだから、
さても、おかしな連中だ。
私は、このような喩え方も したと思う。
仮にだが、
盗みに入って、そこの家人に見つかり、
「カネだけでない、宝石も盗んだろ」
さあ出せ、と責められたとする。
事実に反するを承知のうえで主張して、返せ、償えと迫るほうも、極めて厚かましいのは、それは そうなのだが、
片や、
「なにを!?盗んだのはカネだけだ、宝石も、とは、とんだ言いがかりじゃないか、厚かましい」
とて、
盗みを はたらいた、という厳然たる事実そっちのけに、激怒してみせる滑稽さ、
ましてや、
そもそも盗んでなど いなかった、事実無根だ、と ひらきなおるは、まさに「盗人猛々しい」という姿そのものである。
「従軍慰安婦」問題についても同様で、
そもそも、なかったことにしたいようなのだが、同じく、できない相談だ。
そんなこと、
あの中曽根オンタイに、あらためて確認でもすりゃよかろうもの(嗤)
ちなみに、
実家の父は、あの時代を肌身で知っている世代だから、私は、あるとき、尋ねてみたということも、旧ブログに記していた。
親父の返答は、こうだ。
たしかに、あったことは事実。
ただ、国家として直接の強制行為が あったのかどうかは、なんとも言えないところだが、国家として関与していたことは事実だ、
と、苦渋の表情で認めていたよ。
しかしながら、
うちの親父は、中曽根さんよりも もっと下の世代で、陸軍エリートだったとは言えど、当時で、やっと二十歳そこいらの若造、しかも、近衛連隊の将校だったから、宮城(きゅうじょう)にて、現天皇さんたちの(まだ御幼少のミギリというやつで、親父の提げているサーベルを、興味津々で触って来られたそうな 笑)身近で護衛する役目、終戦に至るまで、国外の前線に出されたことは一度も なく、したがって、現地の いわゆる「慰安所」というものを利用する機会もないまま、つまるところ、親父の言ったことも、自分自身の直接的体験では なく、他から伝え聞いたことでしか ない。
ということで、
これについても、残る論争は、日本が、国家として直接的の強制行為が あったか否かということらしいが、
どなただったか、識者の忠告によると、
そのへんのことをムキになって反論しても、当事国以外の国際社会は、そんなことを問題にしているのではなくて、いかにも的外れな論争なのだということを、他ならぬ日本の政府自身が、理解できていないという内容の指摘だった。
国際社会が厳しく問うてる焦点は、まさに、前代未聞の「国家管理売春」であったという問題なのだと。
「愛国」とは、国を愛するゆえに、とは、どういうことか。
私は、「愛する」こととは、問答無用に「猫可愛がり」することでは ない、と考えている。
やはり旧のブログで、それが、例の『産経』系ブログ サイトであったためか、単なる「ネットウヨ」から本物の?ウヨク団体メンバーまで含めたウヨうよウヨよ、という ありさまだったので、
彼らにも向けているつもりで、このように問いただしたことが ある。
たとえば、
子育てにおいて、愛する子どもが可愛くて しかたないからとて、子の誤りを糾し、危険を諌めることなく、ひたすらに よしよしと猫可愛がりすることが、ほんものの愛情なのか?と。
このような接しかたの反面には、理不尽な暴力も容易であろう。
そのように育てあげた子どもは、どんな道を歩むことになるのだろうか。
私個人は、少なくとも、「南京事件」や「従軍慰安婦」について、被害国とされる側に全き味方を する気にもなれないし、それ以上に、わが日本を庇う気に なれない。
ただ ただ、
どの国でも、「国粋主義」とか「愛国者」を気取る連中が、呆れるほどのワンパターンで同類であること、
それだから、どこまでも、いつまで経っても、互いの利害矛盾を克服できないのが道理であること、
どの国の男も、呆れるほどのワンパターンか五十歩百歩、これは もう、どうしようもないサガなのか、という暗澹の気持ちだけが湧き起こる。
原始、ひとりで用は足りていた女性性のなかから敢えて枝分かれさせ、生きのびるための多様性を課し、特化した偏りをこそ受け持たせるため生じさせた、「男」という、「1本欠けている」性。
愛すべき、だが、どうしようもない、さても皮肉なサガよ。
男という存在は、徹底的にコントロールしてやらねば ならぬのだな(嗤)
2017.01.19 (Thu)
『家庭の経済格差 学習意欲にも差』関西テレビ 1/18(水) 22:02配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170118-00000007-kantelev-soci
貧乏だから どうだという一括りで、全てを結論付けることが できやしないのは、他の様々な問題と同様である。
往々、ある程度以上のレベルにあると見做される家庭では、それが、
たとえば、先祖の身分的なことであろうと、企業経営者、あるいは、学者の家系であろうと、「プライドを保つべき」「自負心」の由来あれば、その後継者と目される子に対して、有形無形にプレッシャーを かけてしまう、かけられてしまうということは よくある話だと思われる。
それが、良い効果になることも あろうし、
本人を潰してしまうことも ある。
さて、うちの親は、父母とも、学業成績優秀で(とは言え、都会育ちの母に言わせれば、ど田舎育ちの親父の学力なんて、田舎のレベルでは、という話に過ぎないと、せせら笑っていたものだが)、
それでも、
父方の祖父は、地方藩とは言え、身分の高い武家の出で、当時の運輸系技術官僚から、若くして一代で企業を起こしており、たいへんに裕福だった実家から、
父の母方の田舎の伯母が嫁していた貧乏な家へ、つよく請われて、生後まもなく、跡取り養子に入っていた親父が、あの時代の貧乏家庭の子息たちにとって、出世の糸口でもあった士官学校にて選抜されたうちの、県内で僅か4人のなかの一人であったことは事実だ。
母のほうも母のほうで、裕福な家庭では あったものの、
担任の教師が、自分の資金援助で通学させるから、とまで申し出たのを、
「うちは貧乏ではない。カネの問題ではない」
と一蹴して、弁護士や教師を志望していた母の進学の希望を断ち切らせたのは、義理の祖母の意向だった。
私の母は、その義母にとって、先妻が残した、しっかり者の長女、目障りな存在だったので、一日も早く、嫁がせたかったのだ。
たしかに、
この、母の父親よりも大幅に年若い義母は、私の祖父が高学歴だったのと異なり、「無学文盲」に当てはまる人だった。
しかし、自分が産んだ子らは当然のごとく、しっかりと高学歴に育て上げている(苦笑)
要するに、
私の両親は、どちらも、学業優秀だったにも かかわらず、進学の希望を、彼らの親によって潰されていたので、自分の子どもらには、基本的に、希望どおり進学させることに吝かでは なかった。
しかし、ことは、そう単純では ない。
私自身には、子どもが いないので、これは、他の人の子育て実感からの話だが、
子に、高レベルの進学先なり、将来的目的を果たさせようと願うならば、肝心の子ども本人以上に、親の本気の努力と執念が必要だということだった。
それについて、私自身の育った家庭のなかでも、頷けた事例は ある。
私の兄(ただし、腹違い)は、家計が苦しいから、逆立ちしても、私立には進学させられないし、塾にも行かせられない、しかし、
高卒程度で、そのへんの会社に就職しても、恐らくは、その偏向ぎみの性分や思考の癖ゆえ、長続きしないだろうし、それどころか、ヘタすると、何らかの犯罪に転げ落ちたりして、まさに「人生の落伍者」になりかねない、という危惧が、自他ともに あった。
兄は、私の母が来るまでは、酷いチック症を患うほど、親父と姉に虐められており、家庭内スケープゴートの役回りだった。
だから、
もともと、親父自身は、その学校時分、それほどガツガツしなくても、学業成績が良かったので、
子どもなんてものは、放っておいても、できるやつは できるんだ、放っておいたがために できないやつは、見離して、最後まで放っておけ、と思っていたようで、日常生活上の、どうでもいいような些末なことには、むやみにヤカマシイだけで、教育熱心でも なんでもなかったので、
私の母親のほうが、義理だからこそ、というプレッシャーと、
言わば「跡取り息子」であるから、なんとしても、世間体の良い、堅い職に就かせなければ、後妻の自分の立場が ない、という悲壮な意地とミエが大いにあり、
幼い私の目から見ていても、
また、兄本人も、母親の執念の凄さを感じていたものだ。
そこには、
母自身の、自分の義母に対する当てつけめいた心理も あっただろう。
逆に、
戸籍上や形式上は「末っ子」であり同時に「一人っ子」でもあり、跡取りでもないはずだった女の子である私に対しては、「勉強しなさい」と口先で煩く言うわりに、兄に対するときのような情熱が、からっきし、なかった。
母に言わせれば、兄のときで、すっかり燃え尽きてしまったのだそうだw
しかも、
障碍を持ち(もっとも、親自身は、頑として、これを直視しなかったが)、
できるかぎりの手を打っておかねばならなかったはずが、
放任というよりも、ほぼネグレクトに近い、無責任このうえなかった。
家庭環境が悪い、というのは、
親父の だらしなさゆえの家計の逼迫も勿論だが、
実家の場合、身勝手な親父と、気性の激しい母親という組み合わせで、夫婦仲が険悪、しょっちゅう、どハデな夫婦ゲンカ、私以外の子どもらと親との確執が渦巻いているような家庭だったので、
私に言わせれば、自分の正気を保ち続けるだけで、エネルギーの殆どを消耗する日々だった。
いま思い返しても、ゾッとする。
障碍のこと、母を置き去りにすること、どんなに勇気が要っても、もっともっと早く、あの家を出ておくべきだったのだ。これは、後年になって、母自身も、そう言っていた。
子どもらのなかで、最も気合を入れて、めでたく、教職公務員という安定職に就かせた跡取り息子は、理由不明のまま自殺、
ああいう親は、結局、どの子も幸せにできないし、その自覚も薄い。
貧乏な家だからと言うよりも、
それは勿論、裕福であれば、それに越したことは ないのであり、
ロケーションというものが、そこの街の住民の自負心やメンタルに影響するのと似て、
なんと言っても、住環境などの表面的環境条件は大いに有利なはずだが、
要は、
家庭内がゴチャゴチャ落ち着かず、荒れぎみということは、
それは、家庭の運営者たる親自身の心理が荒みがちであることの現れなのである。
そのことが、子に影響しないわけが なかろう。
それに負けないなら結構なことだけれども、
一つの負の要因だけでなく、私の実家のように、いくつもの負の要因が重なって絡み合っていると、本当に大変だ。
だから、
「ヤフゴミ」捨て場の住民のような、
視野狭窄にして思考あさはかなカン違いネット民は、
よく知りもせず、理解もできない他者のことをコキおろし、貶めるコメントを投稿しまくるヒマが あるのなら、
ちっとは黙って、自分の恵まれていた条件に感謝しておるが よかろうに、と言うのである。
人並みに恵まれていながら、
その程度の知性と、底意地の悪さでは、拾うところが ないというものだ。
結論を一言で述べておくと。
貧乏であろうが なかろうが、
根本に潜んでいる要因は、
誰しも備わっていたはずの自然な自尊感情や自己肯定感というものを徹底的に踏み躙ることが、
子の持久力を奪い、逃避的に仕向け、無気力に陥らせるのである。
まずは、このことを、公的支援によって周知させねば なるまい。
2017.01.15 (Sun)
アメリカ次期大統領トランプさんの経済策方針について、ある専門家が述べている分析記事もササッと読んでみたけれど、
そのなかの一つに、なんだか、根本的に読み間違えているので なかろうかと、少しく違和感を感じたものも あった。
私が、どちらかと言うと好感を持って、時々読み継いできたサイトの掲載記事でもあることだし、敢えて、その学者さんの名を、ここで明記しないが、そのセンセイは、トランプ氏の主張ならびに、このひとを選んだアメリカ国民の妥当性ありということと、トランプ氏によって、新たな時代が幕を開けるのだとして、高く評価しているという。おそらく、皮肉も混じっているとは思うが。
もちろん、私は門外漢なんてもんじゃないほど疎いのであるから、私のほうが大いに間違えているかもしれないのは先刻承知だが、
これまで、いわゆる識者や専門家、錚々たる学者センセイたちの言ってた あらゆることが、私よりも的外れだったという現実を知った以上は、ちょっとだけ自信を持ってみてもいいのかもしれない。というわけで、
いまのところ、私が感じていることを、上手には言えないけれど、素直に言ってしまうと、
トランプ氏は、言わば「新たなる『新自由主義』」を始めようとしているだけにも見えるのだ。
あるいは、ことばを替えて言うと、
「内向き(縮小した?)なんちゃって『保護主義』コスチュームに衣替えしてみただけの『新自由主義』と言おうか。
つまり、本質は、やっぱり「新自由主義」のうちに過ぎないのでは?ということ。こういう言い方で正確なのかどうかは、よく分からないが、
だって、
アメリカが そう来るならと、各国も、それぞれに自国ファーストのシノギを削り合うとか、
逆に、アメリカにトコトン追従することで生き残りを図っていく
(日本は、その可能性が最も高いだろうねw)
となると、
やっぱり、これは これで「弱肉強食」の構図に ほかならないでしょ?
いまや、不自由になった巨人だからこそ「弱肉強食」を大っぴらに目指すことになったに過ぎないと。
「アメリカ ファースト」という新鮮な?スローガンにしても、これを通すためには、
あのフシギな髪と人さし指をブンブン振り回して、めいっぱい、
なりふり構わず、言いたいほうだいの やりたいほうだいになりそうなことは、すでに大統領就任前から大々的あらわになってる。
トランプさんてひとは、ずっと前の当ブログ エントリーでも指摘しておいたように、
彼自身が、「なりあがり」層であると同時に、ごく少数の富裕層に属する一人でもあって、
おせじにも、プア層や庶民らの味方であるはずが ないでしょう。
その点では、
「反トランプ」を称する「エスタブリッシュ」層や「1パーセント」のナンチャラ連中と、たいして変わらないだろうわけで、ただ、
理念や思想の置きどころや「知性がジャマして」といった面での高低差異しかないのかもしれない。
撤廃!と息巻いて、とうとう決定したらしい「オバマ ケア」についても、
どこのサイトの記事だったか、専門筋の人が述べていたには、じつは、「オバマ ケア」の廃止は、保険会社にとっても つごうが悪く、少なくとも、廃止不可能になっている範囲が存在していて、
そこについては、トランプ氏は、いかにも、自分が刷新し直したかの如く見せかけて、自分の名の付いた看板を掛け替えるような小細工を するつもりでいるらしいと。
まあ、私には、向こうの制度は ややこしくて、よくは分からない。
ただ、アメリカ人と結婚している知人が言ってたけど、その人は、ダンナさんが、ワシントンの省庁勤めの役人だから、かなり裕福な家庭であるが、ひとたび、病院に行く必要が生じたら、どの保険を使うかの自己判断が、毎回、けっこう悩ましいことのようだ。
ある日本人で、芸能界関係の人だったと思うが、アメリカで交通事故に巻き込まれたか何かで、向こうの医療制度の過酷なことに仰天し、慌てて、日本に帰国した、と言っていたことも憶えている。
ただ、これは、日本人の多くが、考察からスッコ抜けているようだが、
アメリカは、そもそもの起こりに、キリスト教精神が ある。
「プロテスタンティズム」というものが、資本主義と密接に関係していて、その柱を なしているのだという。ウェーバーだっけ?この程度は、辞書に載ってるわな。
そして、
日本と大いに違うのが、やはり、ボランティア活動が盛んだということで、行政上の支えが薄くても、民間が機能している、ということらしい。だから、辛うじて、もっているのだと。
一般的日本人に、こういう精神は、まだ希薄だと思うし、イメージしている「資本主義」についても あさはかで、大いにカン違いらしいのだ。
とにかく、ネット上を徘徊しているウヨどもの言うことは、てんで信用ならない。
『産経』系サイトで、旧のブログを やっていたときに、はなはだ驚き呆れたことの一つが、
「経営者の苦労を考えろ、雇ってもらってるだけで感謝しろ、無能な労働者は、ワガママ言うな、甘えるな」
の大合唱だったこと。
要するに、
「自己責任」ばんざーい!「新自由主義」ばんばんざーい!!
の大合唱だったってわけ。いったい、どこから出てる指令なのだか、
それも、少なからぬ、「底辺」「非正規」と呼ばれているだろうはずのブロガーどもが、だよw
異様でしょww
まさに、「肉屋を支持する豚」の喩えがピッタリ。
あれから、数年。
いまじゃ、さすがに、現実の重さが歴然で、ネットウヨと言えども、かようにムチャな主張は、影が薄くなったっしょ(嗤)
まあ、すでに、現役勤務を引退してる世代の爺さん連中とか、
なかには、
こりゃあ、暴力団が、政治団体の看板かけてアジってるのかと思しきブロガーも いたよww
新興宗教か何かの集会に、無関係の者が紛れ込んでキョトン、
あっと仰天、恐れ入る。
まるで、かつての私が、あの「カルト連」のオッサンに、詐欺目的で勧誘され、何も疑わず参加してからの唖然呆然状態の再来だ。
あそこのブロガーらは、当然と言うべきか、ほとんどが『産経』・『正論』の愛読者だものなあw
私も、何らの先入観も予備知識も なしに、軽い気持ちで参加したものだから、
えっ??ここ、どういう場所だったの?(汗)
と面喰ったなんてもんじゃなかったよw
これも また、処し方として「ビジネス ライク」を好む性質の中国との関係性においても、かつて、アメリカは、(旧)ソ連とのこともあるから、わが方へ中国を取り込んでおこう取り込んでおこうとして、先方の腹中に潜めていたものを読み間違えたか(それは、わが日本にしても同様のことだろう)、
いまでは、辛うじて生き残っていくため、焦りの段階に入っているようにすら見える。
この話、何年前にか、例のQAサイト「汚気・愚」での回答で紹介したことが あるんだけど、めんどいから、詳細は端折って言うと、
実家の父が、戦後の進駐軍と、アメリカ側通訳(日系人)を介した遣り取りで、ほとほと呆れたことに、
「アメ公はな、簡単な掛け算すら できないんだぞ!」
って話だった。
でも、そんな相手に負けたのは、日本w
掛け算を理解しないアメさんにイライラ、
しまいにブチ切れた親父は、
通訳の日系人が、あいだに挟まってオロオロなだめるのを よそに、当の進駐軍兵士と大ゲンカ。
もと陸軍エリートだった自分のほうが、とっとと、職を退くハメになった。
さて、
「簡単な掛け算が できなくて」も、アメリカは、ものすごく計算高い。
頭の良いユダヤ人たちの おかげだったのかどうかは、知らないよ。
でも、
日本が、ちまちまコセコセ計算し尽くしても勝てないんだわな、これが。
私が愛読していた あるギャグ マンガで知ったセリフなんだけど(たしか、『パタリロ!』でw)、
「大男、総身に知恵が回りかね」に対して、
「小男は、総身の知恵もタカが知れ」
というのは、まさに、日本国の姿だぁね。とほほ。。。
どないすんねんな、歴代あほ政府にバカ官僚ども(爆怒)
これも何年前か、旧のブログ エントリーでだったか、
沖縄の米軍基地問題に関連して、私は、
「日本は、かつて、自分が取り込んで利用してきた、たとえば琉球王国を始め、周辺の弱小国が、大国間の思惑や動向に右往左往、四苦八苦してきた姿を、頭越しのアメリカと中国とに挟まれた位置で、今度は、自分自身が演じることになるだろう」
と述べた。
~驕れる人も久しからず
猛き者も、ついには ほろびぬ~
と語った大昔の人の喝破に、つくづく感心するばかり。
2017.01.11 (Wed)
『どうにも かったるい』の続き。
言い足しておくと、
哲学的に、
あるいは、もしかして、生物学などの見地でも言えるのかもしれないが、
「自由」というものは、ほんとうのところ、あり得ないという指摘は、決して間違いではないだろう。
自らの由とは何なのか。
結局、自分の やれるようにしか やれない。
たとえ、自分の好むところのみを やっていてすらも、それで、ほんとうに自由というものなのか、言いきれるわけで ない。
われわれは、むろんのこと、この世の大摂理に組み込まれた、自分一個の矮小なる欲求にさえ、思わず知らず従わずにはいられない、そんな「不自由」な身だ。
知っていての犯罪、敢えての自殺、いずれも、最も不自由だからこその行為とも言える。
誰しもが、そもそも「不平等」と言うべき何かしらを抱えているのは明らかなこと。
あらゆる格差は、あって当然のこと。
そんななかで、ひとたび生まれてきた以上、まさに等しく、まずは生き抜くという基本の方角に向かわんとするのが、この世に生じた者の基本だ。
だからこそ、
そこに普遍性を認めて、おのおの抱える「不平等」「格差」というものを、多少なりとも均すという社会の努力が要請されてくる。
なぜなら、
多様性の温存は、生き抜くための選択肢に他ならず、
たとえば、ヒトの性が概ね男女に分かれたという自然現象も、原初段階における多様性の選択肢の一つであろう。
「弱肉強食」を、突きつめていって、何が残るか。
何も残らない。
最も強いはずの者ですら、残れない。
共産主義も、小学生だった私にすら、欠陥を内包した思想だと見抜かれてしまう程度だが、
民主主義というものもまた、致命的欠陥を抱えている。
その名のとおり、主権者たる民の全体的知的レベルがモロに反映されてしまうのだ。
でも まあ、どんな政治的主義や体制でも、結局のところ、民衆の知性が反映することには大差ないのだろう。
私としては、
ヒラリーさんの執念ゆえか、せっかくのバーニー・サンダース氏に、その身を引かせたことは、今回、アメリカ民主党自身で招いた失敗だったような気も している。
ただ、サンダース氏も、オバマ氏と共通した印象が あり、やはり、理念の人、良識の人、という印象だ。
ま、オバマ大統領は、彼なりに、いくつかの新しい扉を開いた。
良し悪しは未知数では あろうが、
最も画期的だったキューバとの国交再開、
広島訪問、
今後とも努力の継続が望まれるところの「オバマ ケア」(医療は、格差の問題と最も密接にかかわる分野。だからこそ、社会的弱者に対する配慮の重要事項)、
心残りは、アメリカの宿痾とも言うべき銃規制の問題だったろう。
世界第一級を自他が任じる大国だけに、心身ともの激務であったことを しのばせるように、その おぐしは、すっかりと白いものに覆われた。
もの足りなさや異論も様々あろうが、いまは、ただ、お疲れさまでしたと言いたい。
さて、
こんなに「品もコケラもない!」
と言いたくなるような大統領は、いまだ かつて いただろうかというほどのトランプさん、「劇薬」という仇名が、これほど似合う大統領は初めてと言って過言でない。
いつぞや、
「同盟国の国民にも、アメリカ大統領選に投票参加する権利を」とかいうコメントに、それ、マジで言えるかもなあと思ったことを述べたけれど、
それくらい、アメリカの動向は、日本にとって、ぶっちゃけ、首相が誰かということよりも影響大かもしれないのだから、なさけないっちゃあナサケナイ。