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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2017.01.25 (Wed)

たとえば、イジメ問題においてなどで、よく、そういう、いかにも傍観者的言いかたは、問題を歪め、根深くするという指摘が あり、

それは、私自身、もっともな指摘であることを実感しているのだが、

しかし、
ときとして、世のなかには、それが当てはまるケースも あるのかなということも思う。

 

最近では、
アパなんとかいう会社の経営者だかいう立場の人が、
いわゆる「南京(大虐殺)事件」についての独自持論を展開した著作を、自分とこのホテルの客室に常備したりしているというので、中国の怒りを買ったらしい。

 

私も、旧ブログでは、この「南京(大虐殺)事件」のことも取りあげたことが あり、自分なりに、あれこれの説や当時の時点までで判明していることを調べてみて持った疑問や見解や結論は、いまでも、ほぼ変わらないので、ここで繰り返して同じことを述べる気になれず、ごく手短に済ませるけれど。

 

いわゆる「南京事件」について、それが「あった」ことを証明しろ、と言うのなら、
「なかった」と証明したことには なり得ない、と言い返されるのがオチだし、

ネットウヨでもウヨでも、要は、

「そもそも、なかった」

ことにしたいようなのだが、さすがに、それは、できない相談なので あるまいか。

 

残る論争は、それこそ、くだらない「数」の多寡を問うもののようで、

はたから眺めていると、

「数十万人」が虚偽のフッカケであることが明白なほど多過ぎるならば、では、ぐっと減らして、数万人と言って寄こすのなら納得して認めるのか、

だいたい、「数」が多いか少ないかばかりを言いたがるのは、

それこそ、民主主義は「数」で決まる、てなデマだか無知だか信心ゆえか知らないが、

こんな低レベルの論争にも、ほとほと呆れる。

 

このように、「数」が、数がと言い募るネットウヨ・ウヨどもが、市井の凶悪殺人事件において、被害者が一人のみの場合と、数人の被害者が発生した場合とで、死刑に処されるか否かの違いが生じてくることに関し、
その殺害方法が残虐であったなら、一人のみの被害であろうとも、議論の余地なく死刑に処すべき、数は関係ない!とも主張するのだから、
さても、おかしな連中だ。

 

 

私は、このような喩え方も したと思う。

仮にだが、

盗みに入って、そこの家人に見つかり、

「カネだけでない、宝石も盗んだろ」

さあ出せ、と責められたとする。

事実に反するを承知のうえで主張して、返せ、償えと迫るほうも、極めて厚かましいのは、それは そうなのだが、

片や、

「なにを!?盗んだのはカネだけだ、宝石も、とは、とんだ言いがかりじゃないか、厚かましい」

とて、
盗みを はたらいた、という厳然たる事実そっちのけに、激怒してみせる滑稽さ、

ましてや、

そもそも盗んでなど いなかった、事実無根だ、と ひらきなおるは、まさに「盗人猛々しい」という姿そのものである。

 

 

「従軍慰安婦」問題についても同様で、

そもそも、なかったことにしたいようなのだが、同じく、できない相談だ。

そんなこと、
あの中曽根オンタイに、あらためて確認でもすりゃよかろうもの()

 

ちなみに、

実家の父は、あの時代を肌身で知っている世代だから、私は、あるとき、尋ねてみたということも、旧ブログに記していた。

親父の返答は、こうだ。

たしかに、あったことは事実。
ただ、国家として直接の強制行為が あったのかどうかは、なんとも言えないところだが、国家として関与していたことは事実だ、

と、苦渋の表情で認めていたよ。

しかしながら、

うちの親父は、中曽根さんよりも もっと下の世代で、陸軍エリートだったとは言えど、当時で、やっと二十歳そこいらの若造、しかも、近衛連隊の将校だったから、宮城(きゅうじょう)にて、現天皇さんたちの(まだ御幼少のミギリというやつで、親父の提げているサーベルを、興味津々で触って来られたそうな 笑)身近で護衛する役目、終戦に至るまで、国外の前線に出されたことは一度も なく、したがって、現地の いわゆる「慰安所」というものを利用する機会もないまま、つまるところ、親父の言ったことも、自分自身の直接的体験では なく、他から伝え聞いたことでしか ない。

 

ということで、

これについても、残る論争は、日本が、国家として直接的の強制行為が あったか否かということらしいが、

どなただったか、識者の忠告によると、

そのへんのことをムキになって反論しても、当事国以外の国際社会は、そんなことを問題にしているのではなくて、いかにも的外れな論争なのだということを、他ならぬ日本の政府自身が、理解できていないという内容の指摘だった。

国際社会が厳しく問うてる焦点は、まさに、前代未聞の「国家管理売春」であったという問題なのだと。

 

 

「愛国」とは、国を愛するゆえに、とは、どういうことか。

私は、「愛する」こととは、問答無用に「猫可愛がり」することでは ない、と考えている。

 

やはり旧のブログで、それが、例の『産経』系ブログ サイトであったためか、単なる「ネットウヨ」から本物の?ウヨク団体メンバーまで含めたウヨうよウヨよ、という ありさまだったので、
彼らにも向けているつもりで、このように問いただしたことが ある。

たとえば、
子育てにおいて、愛する子どもが可愛くて しかたないからとて、子の誤りを糾し、危険を諌めることなく、ひたすらに よしよしと猫可愛がりすることが、ほんものの愛情なのか?と。
このような接しかたの反面には、理不尽な暴力も容易であろう。

そのように育てあげた子どもは、どんな道を歩むことになるのだろうか。

 

 

私個人は、少なくとも、「南京事件」や「従軍慰安婦」について、被害国とされる側に全き味方を する気にもなれないし、それ以上に、わが日本を庇う気に なれない。

 

ただ ただ、

どの国でも、「国粋主義」とか「愛国者」を気取る連中が、呆れるほどのワンパターンで同類であること、

それだから、どこまでも、いつまで経っても、互いの利害矛盾を克服できないのが道理であること、

どの国の男も、呆れるほどのワンパターンか五十歩百歩、これは もう、どうしようもないサガなのか、という暗澹の気持ちだけが湧き起こる。

 

 

原始、ひとりで用は足りていた女性性のなかから敢えて枝分かれさせ、生きのびるための多様性を課し、特化した偏りをこそ受け持たせるため生じさせた、「男」という、「1本欠けている」性。

愛すべき、だが、どうしようもない、さても皮肉なサガよ。

 

男という存在は、徹底的にコントロールしてやらねば ならぬのだな()

 

 

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