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Updated   
2021.03.23 (Tue)

「天才」と呼ばれたいチミに。の続き。

 

さて置き、

私は、もう何年前になるか、例の「汚気・愚(オーケーグー)」の回答でも、当時から指摘しておいたことが あるのだけれど、

もちろん、
あそこの連中に、私の指摘や示唆を理解する者は皆無だった。

 

まずは、
「狂気」あるいは精神病の類と、「天才」と呼ぶべき能力とのあいだには必ずや、イコールに等しいほどの結びつきが あるとは限らないのでないか、ということをだ。

 

これは、私自身の身近に、精神病であった者や、脳に異常性が あった者が幾人か(と言うか、ほぼ全員w)存在していたことから明らかに察せられたのだが、

 

(ここで、ちょっと、おことわりを。

先日のエントリーでも、うちの母親の脳が先天性異常、ということに触れたけれど、あらためて思い返すと、
母親は、交通事故のおりに、頭を打って、長期入院してたことが あるんでした。

そう言えば、夜中に寝ている最中、それも、フシギと、親父が留守にしている夜間が特に多かったんだが、
発作と言うのか、痙攣に近いような激しい震えを急に起こすことが たびたび あったので、

近年になって、私は、母方の叔母に当たる人の症状を聞いていた記憶から、遺伝的に『てんかん』の素質も あったはずということを考えていたんだけれど、

それだけでなく、よく思い起こしたら、交通事故に遭って、入院し、帰って来て以降だったのだな、あの奇妙な発作が起きるようになったのは。

どうりで、母親本人自身、

「交通事故が直接の原因らしいが、医者から『脳波が乱れている』と告げられた」

と、何度か言っていたのだった)

 

たしかに、平均的なレベルに比べたら、何らかの分野で、目立つ能力やセンスが見受けられたという事実は ある。

しかし、そのこと自体をもって、では、広く世のなかに打って出て、当人の存在が「天才」として知れ渡った、などということは ないわけで。

 

 

世のなか、狂気じみた、とんだ凶悪事件を起こす者も いるけれど、それらの者が、じつは芸術的才能を持っているという保証は必ずしも ないのだし、

逆に、

豊かな才能を知られている人が、他者を困らせたりする迷惑者や犯罪者になると決まったわけでも ない。現実は、いたって普通に生活し続けている人が殆どだろう。

 

と言うよりも、

いちおう「平凡」な人でも、どこか何かしら、幾分かは問題ある面を持っているものだろう。

 

全き健全とか「健常者」のほうが、よっぽどマイノリティなのが実態では なかろうか?()

 

 

言ってしまえば、「美男」「美女」という存在、これも「天与の才」という指摘も あるし、そうも言えそうだなと、私も思う。

なぜなら、本来は、当人の努力と全く関係なしに、生まれつきのもので あるわけだから、これが際立っていれば、それを武器に、世に出たりなどの切っ掛けやチャンスを齎すのは同じことだ。女性なら「玉の輿」というパターンは、古今東西共通。

うちの母親も、若い頃には、文字どおりの「玉の輿」や芸能界デビューのチャンスは あったし(ただし、祖父が猛反対したらしい)、叔母や叔父などは、モデル業など、容姿のみで稼いでいた。

 

(逆に、実際、顔面など容姿上の様々な障碍を持つ人たちも存在するよね。)

 

そして、ここでも、時代の向きも影響してくるわけで。

 

あるいは、「生まれたときが」なんとやら、

やはり、「運」の強弱と言えば いいのか、もたらされたチャンスを ものにできたかどうかであるとか、

自分で選んだ覚えもないのに、これが「親」これが「養育者」として与えられた その者たちの姿勢や生育環境の違いが断然、大きく左右したということのほうが、私の目にも明らかと思えた。

 

だいたい、世のなかで、何らかの分野に おいて、華々しい才能や能力を示し得た人は、そもそもの生育環境も、それに見合う程度に用意されていたケースが多いようだ。

音楽やスポーツなどの方面は特に、多くの資金も必要だと聞くし、

最近の調査では、単に高学歴であることにも、生育家庭の経済力が大きく関わっているということが明らかとなった。

 

ということは、

市井の一般人、これと言った得手や才もない者として平凡に生きている人々にだって、何らかの天分と言える才は多かれ少なかれ備わっていても、

周囲の環境や状況が、それを伸ばすまでには至らなかったケースのほうが大多数なだけである、

とも言えそうだ。

 

 

一般レベルよりは、少し大きめの資質が与えられ、環境も与えられて、本人も、その気を心身ともに維持でき、努力を続けるだけの情熱が ありさえすれば、

誰かのコトバを借りれば、

キングには なれなくてもプリンスには なれる」ものだ。

 

 

ただ、もし、環境に恵まれてとは、おせじにも言い難い状況であっても、その不利を凌駕して余るほどの天分が あれば、やはり、幼くして抜きん出た傾向を隠しようもなく示すのだろう。

 

これも、「汚気・愚」などで回答したことが あるのだが、
かの田中一村画伯の幼少時の出来事。

一村画伯の父上も、その道の人だから、幼い息子が描いたものに関心を払って、ここは、という箇所の手直しを施し、跡継ぎの指導をと思われたのだろうが、

幼い画伯は、プロである親の手直しを断じて許さず、その場で、激怒しながら、たちまち引き裂いてしまったという。

これは こうでなければ ならぬ、
という確固とした内なるビジュアルが あるのだろうか。

 

他にも、一村画伯の幼い頃に描いたものを、私も、テレビ番組か何かで見た記憶が あるのだが、テーマと言い、表現技術と言い、とてもとても、子どもが描いたものとは到底、思えなかった。

 

もう一つのエピソードは、

うちの母親が述懐していた話だが、

戦後のドサクサと、民衆の生活の苦しさが、なおまだ続いていた頃、
母親らが住んでいたアパートの一室か近所に、貧しい親子が入居していて、そこの、まだ幼くして寡黙な長男は、いわゆる「モク拾い」とか言うのだろうか?貧乏で買えない父親の ささやかな楽しみであるタバコにするため、そこらで捨てられている吸い殻を熱心に拾い集めていたそうだが、この男の子が、あの「山下 清」ばりの絵を描くというので、
近所の人々から「キヨシ」と、あだ名で呼ばれていたという。

もちろん、誰に教わったでもない。

そして、知能に軽く障碍を持っていたということだった。

 

 

ちなみに、これも、『汚気・愚』の回答とか旧ブログのエントリーで述べた話なんだけど、

若い頃は、ハモニカを吹くのと、絵を描くのが好きだった、うちの親父。

親父は、絵に関しては、いわゆる正統的なというか、端正な描きかたの具象画が基本の好みだったようだが(たとえば黒田清輝とか浅井 忠とかいったあたりね。あとは、日本画全般には、まず文句も出ない)

ただ、東山魁夷を知ってからは、他の どんな画家に対しても見られなかったほどの絶賛ぶりで、魁夷画伯の作品にゾッコンだった。

(たまたま何かのおりに、戦時中の軍隊に おける、東山氏の階級を知り、

「おやぁ?意外だなあ~。俺のほうが ずーっと身分が上だったんだぁ!ウッヒッヒ」

とヘンな悦びかたを していた。画家になれなかったコンプレックスかね?w)

その反面で、

ピカソは大ッきらいだ!!

と苦々し気に吐き捨てていたw

(私の母方の叔父なんかは、ピカソばりの絵を描いてたそうだが)

でもさ、

あの有名なデフォルメされたやつじゃなくて、ごく普通の描きかたしてる作品も あるでしょ、ピカソと言えども。

そっちの作品だけ見てた分には、親父だって、それほど嫌わなかったんじゃないかなと思う。

 

ピカソも、一般的な描きかたを しようと思えば、いくらでも そうできたし、そういう作品を見たら、
もともとから実力、技術が際立っているので あって、
有無を言わせず上手いんだということは、ピカソのファンでもない私にも分かる。

もっとも、私自身、デフォルメされたほうのにも好きな作品は幾つか あるけど。

ドラ・マールの肖像なんか、すごい描きかたされてるけど、
実際、この女性は美人だったんだろうなあと、すんなり想像できたし。

 

しっかりした基礎の土台、実力が あるから、その上で自由自在に飛び、跳んで遊ぶ。遊びかたが分かっている。

「お茶の子さいさい」な余裕を見せつけられてる感じ。

 

あるいは、

やはり、まあ、「こうでなければ」、どーにもキモチわるいんだわな。

 

これは こうなの!ぜったいに!!って。

幼い一村画伯のように、「こうでなければ ならぬのだ!」という、自覚なき確信みたいな。

 

最近の話題の記事から

 

青年時代に精神の異常を来し、父親を発作的に殺害してしまったという悲劇の画家として知られるリチャード・ダッド。

親を殺した、その同じ手で描いたなんて信じられないほど、「ティターニア」に夜具を掛けるフェアリーたちの手の、なんと嫋嫋と優しげなこと。

テーマが「妖精」の世界でもあるせいか、独特の色調が禍々しいほどに美しい。かつ、禍々しいほどの緻密さ。

 
 

  Richard Dadd1817-1886Titania Sleeping(1841)

 

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Updated   
2021.03.23 (Tue)

「天才」とは何かということを、やたらと論じたがる者は、自身が「天才」でないからこそ、論じたがるもののようだとも見受けられる。

 

その あらわれ顕著なことは、「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのみならず、あの「汚気・具(オーケーグー)」で跋扈していた「カルト連」も そうだったし(と言うか、どっちのサイトでも、ほぼ同一人の複アカ多数だろう嗤)
ぜんたい、「ネット民」と括られる層に目立って窺えるようでもある。

これには、どういう心理や、彼らを取り巻く生活環境もが作用しているのであるか、調査すると興味深い傾向が あるかもしれない。

 

このエントリーは、そんな「渇望」を抱える者たちへ向けての考察です。

 

が、このブログでは よくあることだが、
これも また、しばらく前に下書きしたまま放置してあったものだ。

 

さて。

だいたいさー、「天才」だから幸せになれる、なんてこたぁないんだしw

そのへんからして、あの連中は、なんか大きく履き違えしてる感じww

 

それこそ「紙一重」の定番たる精神病だった場合、当の本人自身も甚だ苦痛でしょうによ。

 

 

「天才」すなわち天与の才能そのものを真似するわけには いかないねw

どんなに希求しても、非情なもんで。

 

自分には、どうやっても追いつけないほど、しかも、やすやすと優れている相手を見分けられるセンスだけは、なまじに備えている者ならば、思わず嫉妬の感情も湧いてくるのだろうよ。

 

だが、ないものは、ない。

 

努力だけでは、追いつけない。

 

そこを どうにかしたいと、

俗に言われる「紙一重」の天才が併せ持つとされる、一方の困った特徴のほうばかりを、もっぱら真似するしかないんだな()

 

そして、

「天才」になれないまま、ただの「狂人」になるという末路(()

 

少し前のエントリーで、兼好法師の警句を引き合いに出したでしょ、あれですよw

「キチガイの真似を する者は」云々と。

【続】〽国会議員はぁ~

 

 

先日は、太宰 治についての記事を読み、その記事に付いた「ヤフゴミん」らのコメントを眺めていて、それに対する感想も述べておいたところだが、

【続】「文系」か「理系」か

こないだは、『叫び』なる作品が知られているムンクの、その作品の一つの片隅に、

「狂人にしか描けなかった」

云々と、鉛筆で落書きされていたことについての記事が出ていて、それにも、ヤフゴミんらのコメントがワンサと集まっていた。

 

で、案の定、ワンパターンな、「狂気」との結びつきを指摘するコメントのオンパレードだ。

 

さてさて、

私は、ムンクの作品を初めて見たときに、それは実物では なく、美術の教科書の写真でとかだったんだけども、

とりあえず、その第一印象としては、

「分かりやすいな」

と感じた。ほとんど俗っぽいほどに。

 

『病める子』とかもね。

なので、私にとって、また、おそらく、世間の多くの「凡人」たちにも、難なく共感しやすいとも言えるだろう、ムンク作品。

 

ただ まあ、部屋に飾りたいと思えるわけじゃない(苦笑)

それに、

分かりやすい作風だなと思えたのであって、もちろん、きらいでは ないけれども、好きな画家であるとか好みの作品だというほどのことでも ない、私にはね。

 

ムンク作品は、それほど多くは見てきていないので、このへんにしておきましょう。

 

ちなみに、

晩年に至っては、平穏な生活になったからなのか、皮肉なことに、作品そのものは、つまらなくなっていったようだ、とかも言ってたが、
それって、ユトリロの場合も そうだったらしいね。

ユトリロも、後年になってから、それなりに穏かで満たされた暮らしだったそうだが、作品のほうも、それに応じてか、色彩が豊かになってしまってwつまらんくなったとか(苦笑)

 

 

で。

「天才」と評価するのは、いったい誰によって、であるのかな。

 

 

なかには、あの「カルト連」と同じくw
『サヴァン(症候群)』が、と頻りに述べる者も いたが、それは必ずしも、「芸術」と関係するとは限らないだろう。

 

それぞれの、何らかの特定分野における「異常」的あるいは平均的範疇のレベルを超える現象には違いないにせよ、

たとえば、写真の如くに、見たままをソックリそのまま描き写せることの どこが「芸術」なのかと問わば、はっきり言ってビミョ~だろうw

 

 

私なんか、いつぞやの過去エントリーでも述べたように、

小学生時分、夏休みの宿題に、庭の池を描こうとして、睡蓮の花と並んで水面に浮かんでいたゴミ袋までも忠実に、
すべてを見たまま描き込もうとしていたところ、
モノクロ写真のようなリアルな絵が得意だった親父が覗きに来て、いつものような嘲笑さえも超え、まじで呆れてたもんだw

 

 

または、

誰かから譲り受けたのだろうか、以前は、腹違いの姉が使っていたらしいのだが、すでに壊れかけ、ところどころ、音が出なくなっている、ひどく古ぼけたオルガンを用いて、小耳に挟んだメロディや、自分が好きな曲を、音符も読めないのに、出ない音は、うまく避けつつ、聴いた そのままを、やすやすと再現するということを やっていて、

これについては、幼い頃から私が示していた素質の側面だったと、

みずからは絶対音感を備え、音楽全般に才能を持っていることを認められ、自負も していた母親に、珍しくも長所の一つと指摘されていたことなのだが、

自分の周囲の ほぼ全員から、「文才」を認められていた反面、
じつは「文法」がワカラナイと言うか関心も薄く、
はっきり言って、文法なんざジャマ!にすら感じられるという本音を隠し持っていたことに似て、楽譜や音符に対しても、それと似た感覚を抱いていた。

 

 

子どもの頃は、数字に、それぞれ色彩の連想が伴うのも、ごく自然なことであるように思っていたから、わざわざ、誰かに確認してみようなどとは全然思わなかったし、

将来はマンガ家になりたいなあ~と思っていたくらい、マンガを描くのも好きだったので(このことでも常に両親から怒鳴られていたw)
これまた、ごく自然な感覚でもって、登場人物全員の顔を、「1」から「9」まで、それぞれの数字の形そのまんまで表現して、
数字の顔を した人物たちが動き回り、関わり合うストーリーを作り、

仕上がったものを、これ読んでみて、と、幼なじみに差し出したら、さすがにタマゲられたことも あったのを思い出したw

 

…いやあ、いまだに覚えてたんだ。長いこと忘れてたのに。

 

登場人物の顔が「1」とか「6」とか数字そのもの、ってww
emoji?emoji*emoji~emoji??

われながらフいちゃったwww

 

【続く】

 

 

Updated   
2021.03.17 (Wed)

思考力を摘み取り、選択能力を刈り取る国。

それが、日本。

 

もっと言えば、それは、

自民党日本会議(←ウヨ・アキンド・宗教の、いずれも在日や反社組織をも含む団体ゴッタ煮みたいな鵺のパレードの如き百鬼夜行状態というシロモノ)

に とっての「理想」なのだ。

 

このことを、大手紙や各メディアがハッキリ言えないまま、言わないままだと、日本は、このまま変われない。

 

これまでのエントリーでも示唆してきたように、

昨今、家庭内虐待事件で目立つ、親の狂気的支配欲を満たしたいという動機が窺えることからも分かるように、

家庭内の虐待でも、学校などの、あるいは職場でも、細かな、無意味な、邪魔ですら あるルールや習慣といったものは、その根底の動機に、場の「権力」を握っている者が、自分よりも「下」、「弱い」はず、そうでなければ許せないと見做している側の統一規制を図り、もって統率・管理を、よりいっそう容易にしておきたいという、そのような意図が ある。

 

要は、「ハミダシ」を容易に見つけ、
見つけしだい、刈り取り、

そして、以降、二度とハミ出させないためだ。

 

いまだにモメてる戸籍の問題なんかも しかり。

じつは日本特有のものという あれは、
国家権力が、シモジモを支配し易く、役所においては、その管理作業のラクさを最優先する目的。

 

 

だいたい、自分が名乗る姓・名を、自分自身では、ただの一度も決めることを許されないという理不尽さは、最も甚だしいものの一つと言うべきことだ。

 

うちなんか、名字のほうは旧字体が本来、本当なんだが、
いつから そうなったのか知らないけど、役所のほうで勝手に、全然違う字体に変えられちゃってる。

 

 

たしかに、お役所系とかガッコのセンセイって、ちょっと独特な硬さと言うか、融通利かなさみたいなものを往々にして感じるけど、

だからと言って、一般民間企業なら、問題が ないわけじゃない、どころか、こっちも問題だらけですやんw

ハッキリ言って、国全体、問題だらけでしょww

 

日本特製の、歪んだ「精神論」的なものが、いまだに通用するんだからな。

 

 

さて、

体育で「肌着の着用禁止」。川崎市立の小学校の指導に批判が殺到。市教委の対応は?
3/15() 12:29配信 最終更新:3/15() 19:02 ハフポスト日本版
https://news.yahoo.co.jp/articles/55605a9c0ba312c60b655fa864e3b1b6bfee890d

 

「これが民間の企業なら」云々と、
定番パターンなコメントしてるヤフゴミんも いるけど、えてして、こういうのほど、連続投稿してたりするので、投稿すれば するほどに、

「あ、こやつ、実際には、会社勤めなんか したことも ないな?」

とバレちゃうw

 

知ったかで、くだらんゴタク並べてるヒマが あるんなら、さっさと働けば?ほんものの会社で、と言ってやりたくなる()

誰か言ってやんなよw

それとも、

「ヤフゴミ捨て場」には、やっぱり、ひきこもりネトウヨとか、世間知らずの有閑主婦とか、時代錯誤な知識しかない田舎老人とか、
あとは、せいぜい、株や投資で儲けようと血眼になってるか、
不労所得で毎日がノホホンしてる、
いずれも『自民党』『日本(ビジウヨ)会議』シンパくらいしか いないから、何も言ってやれないのだろうかな(()

 

 

「忙し過ぎて」変えられないとは、つまり「フリーズ」状態なんだよね?

こうした理由は、一般企業においても往々ありがちなことは、会社勤めの経験を持つ人なら、少なからぬ人が実感していることだろう。
なにも、ガッコのセンセイだけの問題でもないと思う。

 

非効率、ニッポン!

虚空の精神論、ニッポン!

 

忙し過ぎて、そのまんま、の次には、
改善できてないから、忙しいまんま、という現実が来る。

 

忙しいから改善できないから忙しいからという永久ぐるぐるの悪循環だ。

 

こんな日本に、誰が した?

 

――硬直する日本――

 

 

ところで、

「胸の成長」だって、プププw

 

現代日本女性の平均からしても、かなり大柄な私が、『昭和』の小学生だった頃、

私自身は、成人女性と見紛う体格のわりに、なかみはのほうは、見かけによらず、まだまだ子どもっぽかったのか、

ブラジャーについては、むしろ、シビレを切らした学校側から注意勧告されたように憶えている。

いわく、男の子たちが、目のやり場に困っているという理由でw
私自身は、ブラジャーなんて鬱陶しいから、まだまだ厭だったんだけどww

 

でも、

体育の授業前後の着替えが、5、6年生になっても、男女混合で一斉に、だったので、私自身が どうこう思う以前に、男子らが(そして女子も)、私が服を脱ぎ始めたら、好奇心まる出しの眼つきで見詰めてくるのでw厭だなあと思い、

ある日などは、脱ぐのを躊躇って、グズグズしていると、
席順で、いつも隣りに座っている、クラス一の優等生で、普段は無口で おとなしい、小柄な男子が、なんとも言えない、妙な笑顔を向けてきて、一言。

「はやく脱げよw」

 

 

その着替えの状態のことを、母親に訴えたところ、
母親は、懇意にしていた担任の先生に伝えてくれたのだけれど、

ほどなくして、放課後前の学級会だったかで、先生は、いちおう、このことを提議してくれたものの、
結局は、私が気にし過ぎ、という結論で かたづけられてしまった。

 

ま、いずれにせよ、もう「お年頃」「思春期」として扱わなければ ならない年齢だわね。

 

小学低学年頃までの実家には、まだ、内風呂が なかったので、近所の銭湯へ親父と二人で一緒に行ったときは、そのまま平気で男湯に入っていた。

背中を流し、シャンプーしてくれたあとは、髪をタオルで巻いてくれて、
あとは、髭剃り用安全カミソリを使って顔剃りするのも、親父のほうから促してきて、懇切丁寧に やってくれたもんです。

 

先日は、今後の公共浴場での混浴を、6歳までとする方針となったそうだし、

いま振り返って、親父は ともかくとしても、他の男性客の存在を考えると、そうとうキワドイことを やってたんだなあ自分、と、ヒヤヒヤもんだが、

これに予想外の終止符を打ったのは、ちょうど9歳当時、
同じクラスの男子と遭遇したのが切っ掛けとなった。

そのときは、少し厭な思いを したし、親父と男湯に入るのを やめるべき時が来たらしいと気づいたこと自体も些か不本意だったが、
しかし、あれで正解だったんだなあと、今にして思う。

父と娘の「稀なこと」?さてねw

 

中学時代には、髪の留め具にも、あれこれ細かく注文が つき、

と言っても、
私自身は、洋菓子の包装に使われていた濃紺の洒落たリボンを、長めの髪を部分的に束ねた根元で結んでいて、登校時に、それを見た校長先生ですら、「ほらほら、雨が降ってきた、綺麗なリボンが濡れちゃうよ」と笑って見逃してくださったけど、

そもそも、髪の長さ自体、校則では、肩の あたりまで、それを超えたら、振り分けにして くくるか、三つ編みにするとか決めてあったようだけど、完全に無視していたw

 

3年生になってからの、ある日、ソックスの柄についてのルールが新たに決まったことを告げられ、

それまでは、ほぼ全員が、ふくらはぎの下部まで届く丈のソックスを穿いているのが普通だったのだが、これの柄が、ワンポイントまでは許容するが、ソックス上端のみのストライプでもダメ、基本的に白の無地という、意味不明な話だったので、ホームルームの あと、多くのクラスメイトらと共に、担任の男性教師を囲むように詰め寄ったことも ある。

担任の先生も、明確な理由を言いあぐねてか、困り顔でモゴモゴ言ってたがw

 

また、ソックス上端を留めるための『ソックタッチ』という商品を、私たちの頃は、学生生活上の必需品としていたんだけど、これも、使っては いけない、ということが、急に決められたという記憶も ある。

まあ、3年生だったので、じきに卒業だったから、そこはハッキリと憶えていないのだが。

 

だったら、ゴチャゴチャ言わずに、昔ながらの「三つ折りソックス」を履くように言えば?とも思うけど、中学生や高校生男子の場合は、制服に三つ折りソックスって、ちとヘンだもんね。

 

もっと深刻な問題が あった。

体育の授業では、女子だけが「ブルマー」と呼ばれるものを穿くわけだけど、必要以上にピタッと密着する これを着て出ると、男子らがニヤニヤして、見詰めてくるんだよw

それだけでも、いかにヤラシイ感じのものを穿かされているのか、わかりそうなもんだと思う。

そもそも、昔は、ブルマーはブルマーでも、「ちょうちんブルマ」と呼ばれていた時代のものは、その名のとおり、ゆったりした形状のものだったらしいよね。

いつから、あんなピタピタに密着するものを穿けという決まりになったんだろうかね。

 

 

当ブログでも、過去から幾つか、ヘンな校則等に対する疑問提示のエントリーをアップしてある。

やってた やってたー

時事問題プチ論――ガッコのエアコン

【続・続】母親は、子を庇うものというのは「神話」。

 

 

Updated   
2021.03.17 (Wed)

【続】季節はずれのクリスマス ソングの続きになりますw

 

「モモちゃん」の飼育スペースの周囲は、各種『テナガザル』のオスたちが入っている飼育スペースに とり囲まれていて、その仕切りと仕切りの あいだに、わずかに途絶えている箇所が見つかり、そこに、小さな穴が あいていた、っつうのが、当初のメディア各社が流したニュースの内容だったようだが、

今度は『朝日放送』だったかな、やや間を置いて、あらためて解説していた内容によれば、

仕切りが途絶えていて、隙間穴が、という、つまり、交尾の可能性が考えられる箇所は、1ヵ所のみでは なく、

モモちゃんの飼育スペースの周囲を とり囲んでいるオス猿たちが入っているスペースそれぞれとの仕切りの全てに、隙間穴が あった、ということらしい。

 

だったら、これは もう尚更のこと、やはり、動物園側の怠慢を指摘されても しかたないだろうなあと思う。

 

周囲の各スペースは、その一つに、モモちゃんの母親、父親、まだ幼いのであろう兄弟姉妹とが一緒に暮らしているそうで、あと二つのスペースでは、それぞれ、『フクロテナガザル』の息子含む一家と、残るは、また別の名称が付く『テナガザル』の1種だという。

 

で、

私の見るところ、『フクロテナガザル』んちの息子が、最もアヤシイのでは ないかと思うのだ。

 

関係ないらしいとは言うけれど、子猿の毛色も、『フクロテナガザル』にソックリだし。

 

モモちゃんの父親も疑われている対象のうちだけど、こっちではメス猿、すなわちモモちゃんの母猿と同居してるし。
つまり、交尾の相手に不自由は、いちおうにせよ、ないわけね。

 

ことの真相が判明するのは、1年くらい後、って言ってたかな?

 

くだんの子猿は、いつか お年頃になっても、セクースどころか、恋を することさえ許されないのだろうか。。。

 

なんだか、推理小説みたくなっちゃったw「お猿のモモちゃん処女懐胎のナゾ」は、

どうやら、隣家の息子との『ロミオとジュリエット』めいてきたうえ、

子猿の将来にまで影響する「禁じーらーれーてもぉ♪」の様相すら帯びてきた

 

 

Updated   
2021.03.13 (Sat)

季節はずれのクリスマス ソングの続き。

 

だいたい、もとの自然界に任せていたなら、どういうわけか、「種の混合」などの問題が起きにくく、「種の保存」も保たれやすいのだとしたら、それは何故なのかを考えなければ ならないだろう。

 

今回の子猿についても、父親が誰なのか、徹底的に調べあげるらしいが、その際には、DNA鑑定などの実施に あたり、男性飼育員たちにも、、、

って、当初は疑われていたみたいだよね()

 

もしも、人間のオスが、モモちゃんの子の父親だったことが発覚したら、、、

「おまえは。箱入り娘のモモちゃんを孕ませたなあ?」

と、園を解雇され、逮捕され、裁判に、、、

んなわけは ないがw

 

ま、われわれヒトの祖先の場合でも、かの『ネアンデルタール』との混合は、意外なほど進行しなかったらしいけど。それくらい、本来、「種が異なる」ということの壁は大きいのだろう。

 

 

 

そりゃあね、例の『 アンコール トム』の猿たちだって、特にメス猿の一生は、オス以上に過酷だ。

オスは、「ハーレム」状態のグループのなかで、対外へ勢力拡大のためにも、「ヤリまくり」可能では あるだろう。しかも、基本的に、子育てには直接の責任を負わない。

しかし、メス猿のほうは、子の父親に対してすら、警戒心を失わないくらいで、好奇心のカタマリみたいな幼い子を、オス猿には近づけないように用心していることが多い。

 

猿の世界にも、「バカ母」というのは存在していて、
まだ小さい子猿を放置したままホッツキ歩いているうちに、他所から侵入したオス猿に襲われてしまった子を無残に死なせてしまったりしている。

 

基本的に、ひとりで子育てするメス猿は、子を産んだときから、たいへんだ。

ひとりで苦しんで産み、ひとりで、産後の あとしまつを してからは、自身の血の変化物である母乳を、すなわち栄養をトコトン吸い取られ、一日じゅう、子猿に強く しがみつかれる、それらの痛みに耐え、ほどなくして、またぞろ、オス猿の性欲に応じなければ ならない。

 

そのせいか、メスどうしで互いに助け合っている場面も多々窺える。

もちろん、そこにも争いや危険は少なくないのだけれど。

 

それに、自分の子を持っていることは、猿の世界においても、基本的な社会貢献というのか、一種の誇りとしている価値観の片鱗が窺え、
むろん、それが正しいのか否かは別として、
こういうところにも、人間社会との古い共通性が窺える。

 

まだ、子を産んだことのない若いメス猿は特にだが、時々、子猿を誘拐する風習めいたものが ある。

極端な場合には、人家で飼われている子犬や子猫までも誘拐してきて、ついには餓死させてしまう。乳を与えることが できないのだから、当然だ。

 

ただ、この奇妙な風習めいたものは、子育てで疲弊している母猿を休息させたり、また、子猿の、母親への執着や忠誠心の強さのようなものを確かめる意味合いも あるのだろうか、子猿の姉に当たる若い雌によって実行されることも多いらしく、子育て予行演習を兼ねているようでも あり、同時に、子を持ち、育てることへの憧憬めいたものも感じる。

 

母猿にとっては、子の存在は、一種の「ステイタス」でもあるから、「誘拐」その実は休息であり、上の娘の「練習台」にさせているようでもあるものの、連れ去られてしまうと、いちおう、近くでウロウロしながら、それとなく見張っては いる。

そして、幼い子猿が、自発的に、自分のほうへ戻りたがるのを待っているふうでも あるし、

やはり、一つには、子どもは「母の勲章」、所属グループに貢献している存在であることと、自分の所有物であるという感覚ゆえにだろうか、
結局は、タイミングを見て、もの凄い素早さで取り返すのだが(失敗した例も ある)。

こういうところも、人間との古い共通感覚が窺えるように思う。

 

 

いっぽう、幼い子猿のほうも、過酷だ。

ほとんどの母猿は、自分自身が栄養不足であることも多く、
殊のほかに「ヒエラルキー社会」であることをも如実に示して、
生まれ落ちてから僅か数日も経てば、たちまち、母乳をシャット アウトされ、おぼつかない足どりで、ヨチヨチと、口の まわりを砂や泥まみれにしながら、自分の食べ物を探しに徘徊を始める。

 

それでも、ほとんどの子猿にとって、母猿は、いざというとき、いちばん、自分を守ってくれる存在として、その信頼感は絶大だ。

生まれ落ちて すぐのあいだは、母親の足のあいだに柔らかく挟まれ、腕や手に支えられ、母親の頭と顎は屋根庇となって、あたかも、カプセル ベッドの如くに包んでくれる。温かい胸にはミルク バーが二つ備え付けられており、母猿の身体そのものが、子猿にとって、最も安心できる「家」そのものだ。

 

しかしながら、早ければ数日後に、この、居心地の良い お布団から叩き出されるわけだが。

 

そして、母親は また、オスたちの要求に応えて、次の子を妊娠し、それが生まれたら、もはや、めったなことでは、自分の存在を、気にかけては もらえない。

 

けれど、これも人間の世界と似て、

上の子をサンザン邪険に扱っていた母猿も、下の子の世話を心がけて、母親を労わろうとしてくれる上の子を頼りにし、時おりは思い出したように、上の子の世話を焼き、幼い頃のような甘えも受け入れてやるときが ある。

 

『アンコール トム』の周辺で暮らす猿たちは、全くの野生とは言えまいだろうが、いつも周辺でウロウロする人間たちは、「仏」と「悪魔」の両面を持つ存在だ。

厳しい、過酷な生活で あり、
残酷なトラブルやアクシデントに直面する恐れは常につきまとう。

 

「ネトウヨ」や「ビジウヨ」連中は、よくもまあ、こんな世界に先祖返りさせろと主張するもんだなあと、ここでも呆れかえるのみだ。

 

 

さて、

動物園の ありかた、特に日本における動物園の環境は、なるべく早く、改善に取り組まなければ いけないのではと思う。

わが大阪の『天王寺動物園』も、ますます、経営が苦しくなってしまっていると言っていた。それが影響してか、管理環境も余裕が失われ、どんどん、お粗末になっているとも聞いた。

飼育・管理側としては、精いっぱいに くふうし、心尽くししているつもりだろうけれど、

あの「シャバーニ」も、動画で見たかぎりでは、やはり狭いスペースにて管理され、変化に乏しく、退屈の あまりなのか、かなりイライラしてノイローゼ状態みたいな ようすだった。

 

 

たとえば、希少な、あるいは「絶滅危惧種」でさえある場合、個体の数が限られ、特に、日本国内における数は、ますます限られるゆえ、ふつうの繁殖ですら困難になってくるのに、そのうえ、同じ個体のオスによる生殖が繰り返されて蔓延してくると、それ自体も「近親交接」に近くなり、遠からずアタマ打ちの事態に直面するはずだろう。

 

あくまで自然界の、自然の摂理によって、生物の繁殖や「種」の淘汰が起きるのは、なにも問題とするには当たらないのだろうが、

ことが人間によるもの、つまりは不自然である場合に、知恵を絞り、どのような手段を とってみても、いずれは行き詰まる恐れが高いようだ。

根本的な理念からして問い直さなければ ならないところに さしかかっているのでは なかろうか。
それと、動物実験についても、すみやかに改善を進めてほしい。
できれば全廃まで。