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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2021.03.23 (Tue)

「天才」とは何かということを、やたらと論じたがる者は、自身が「天才」でないからこそ、論じたがるもののようだとも見受けられる。

 

その あらわれ顕著なことは、「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのみならず、あの「汚気・具(オーケーグー)」で跋扈していた「カルト連」も そうだったし(と言うか、どっちのサイトでも、ほぼ同一人の複アカ多数だろう嗤)
ぜんたい、「ネット民」と括られる層に目立って窺えるようでもある。

これには、どういう心理や、彼らを取り巻く生活環境もが作用しているのであるか、調査すると興味深い傾向が あるかもしれない。

 

このエントリーは、そんな「渇望」を抱える者たちへ向けての考察です。

 

が、このブログでは よくあることだが、
これも また、しばらく前に下書きしたまま放置してあったものだ。

 

さて。

だいたいさー、「天才」だから幸せになれる、なんてこたぁないんだしw

そのへんからして、あの連中は、なんか大きく履き違えしてる感じww

 

それこそ「紙一重」の定番たる精神病だった場合、当の本人自身も甚だ苦痛でしょうによ。

 

 

「天才」すなわち天与の才能そのものを真似するわけには いかないねw

どんなに希求しても、非情なもんで。

 

自分には、どうやっても追いつけないほど、しかも、やすやすと優れている相手を見分けられるセンスだけは、なまじに備えている者ならば、思わず嫉妬の感情も湧いてくるのだろうよ。

 

だが、ないものは、ない。

 

努力だけでは、追いつけない。

 

そこを どうにかしたいと、

俗に言われる「紙一重」の天才が併せ持つとされる、一方の困った特徴のほうばかりを、もっぱら真似するしかないんだな()

 

そして、

「天才」になれないまま、ただの「狂人」になるという末路(()

 

少し前のエントリーで、兼好法師の警句を引き合いに出したでしょ、あれですよw

「キチガイの真似を する者は」云々と。

【続】〽国会議員はぁ~

 

 

先日は、太宰 治についての記事を読み、その記事に付いた「ヤフゴミん」らのコメントを眺めていて、それに対する感想も述べておいたところだが、

【続】「文系」か「理系」か

こないだは、『叫び』なる作品が知られているムンクの、その作品の一つの片隅に、

「狂人にしか描けなかった」

云々と、鉛筆で落書きされていたことについての記事が出ていて、それにも、ヤフゴミんらのコメントがワンサと集まっていた。

 

で、案の定、ワンパターンな、「狂気」との結びつきを指摘するコメントのオンパレードだ。

 

さてさて、

私は、ムンクの作品を初めて見たときに、それは実物では なく、美術の教科書の写真でとかだったんだけども、

とりあえず、その第一印象としては、

「分かりやすいな」

と感じた。ほとんど俗っぽいほどに。

 

『病める子』とかもね。

なので、私にとって、また、おそらく、世間の多くの「凡人」たちにも、難なく共感しやすいとも言えるだろう、ムンク作品。

 

ただ まあ、部屋に飾りたいと思えるわけじゃない(苦笑)

それに、

分かりやすい作風だなと思えたのであって、もちろん、きらいでは ないけれども、好きな画家であるとか好みの作品だというほどのことでも ない、私にはね。

 

ムンク作品は、それほど多くは見てきていないので、このへんにしておきましょう。

 

ちなみに、

晩年に至っては、平穏な生活になったからなのか、皮肉なことに、作品そのものは、つまらなくなっていったようだ、とかも言ってたが、
それって、ユトリロの場合も そうだったらしいね。

ユトリロも、後年になってから、それなりに穏かで満たされた暮らしだったそうだが、作品のほうも、それに応じてか、色彩が豊かになってしまってwつまらんくなったとか(苦笑)

 

 

で。

「天才」と評価するのは、いったい誰によって、であるのかな。

 

 

なかには、あの「カルト連」と同じくw
『サヴァン(症候群)』が、と頻りに述べる者も いたが、それは必ずしも、「芸術」と関係するとは限らないだろう。

 

それぞれの、何らかの特定分野における「異常」的あるいは平均的範疇のレベルを超える現象には違いないにせよ、

たとえば、写真の如くに、見たままをソックリそのまま描き写せることの どこが「芸術」なのかと問わば、はっきり言ってビミョ~だろうw

 

 

私なんか、いつぞやの過去エントリーでも述べたように、

小学生時分、夏休みの宿題に、庭の池を描こうとして、睡蓮の花と並んで水面に浮かんでいたゴミ袋までも忠実に、
すべてを見たまま描き込もうとしていたところ、
モノクロ写真のようなリアルな絵が得意だった親父が覗きに来て、いつものような嘲笑さえも超え、まじで呆れてたもんだw

 

 

または、

誰かから譲り受けたのだろうか、以前は、腹違いの姉が使っていたらしいのだが、すでに壊れかけ、ところどころ、音が出なくなっている、ひどく古ぼけたオルガンを用いて、小耳に挟んだメロディや、自分が好きな曲を、音符も読めないのに、出ない音は、うまく避けつつ、聴いた そのままを、やすやすと再現するということを やっていて、

これについては、幼い頃から私が示していた素質の側面だったと、

みずからは絶対音感を備え、音楽全般に才能を持っていることを認められ、自負も していた母親に、珍しくも長所の一つと指摘されていたことなのだが、

自分の周囲の ほぼ全員から、「文才」を認められていた反面、
じつは「文法」がワカラナイと言うか関心も薄く、
はっきり言って、文法なんざジャマ!にすら感じられるという本音を隠し持っていたことに似て、楽譜や音符に対しても、それと似た感覚を抱いていた。

 

 

子どもの頃は、数字に、それぞれ色彩の連想が伴うのも、ごく自然なことであるように思っていたから、わざわざ、誰かに確認してみようなどとは全然思わなかったし、

将来はマンガ家になりたいなあ~と思っていたくらい、マンガを描くのも好きだったので(このことでも常に両親から怒鳴られていたw)
これまた、ごく自然な感覚でもって、登場人物全員の顔を、「1」から「9」まで、それぞれの数字の形そのまんまで表現して、
数字の顔を した人物たちが動き回り、関わり合うストーリーを作り、

仕上がったものを、これ読んでみて、と、幼なじみに差し出したら、さすがにタマゲられたことも あったのを思い出したw

 

…いやあ、いまだに覚えてたんだ。長いこと忘れてたのに。

 

登場人物の顔が「1」とか「6」とか数字そのもの、ってww
emoji?emoji*emoji~emoji??

われながらフいちゃったwww

 

【続く】

 

 

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