2021.10.03 (Sun)
「政治主導」のはずの「官邸」は、実際には「官僚主導」の巣窟だったのかも?w
下記の記事を読んで、まず、なんとなく連想したのが、
かの『ターリバーン=イスラム原理主義』の、ムサく暑苦しい髭と支配欲ギラギラ眼つきの男どもに、徹底的に牛耳られつつ隠されて囲われて、守られるという女性たちの姿。
『官邸主導とは何だったのか 内閣人事局「生みの親」が語る安倍・菅政権』毎日新聞10/1(金) 0:03配信 最終更新:10/1(金) 0:56
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a1a4066e64c744065f56ae649d0c7f988235aad
「政治主導」「官邸主導」と言うけれども、
その官邸で、「歴代最長」の主(あるじ)であったアベちゃんは、「イマイちゃん」とかいう官僚に惚れきっていてw実際のところ、この官僚「イマイちゃん」たちに牛耳られつつベッタリ守られてきたのだ、と聞いてるんだけど?w
ところで、
私が、とある企業の制作部署に配属されたばかりの新人だった頃、
下請けの印刷会社から出向いて来てもらった、ベテランの現場技術者であるオッサンに、これコレこういうふうなデザインや加工を お願いと依頼しても、ほぼ毎回のように、
「あっ、それは、技術的に無理ですなあ~」
の一言でアッサリ一蹴されてしまい、
こっちは、オッサンが、
「なんで無理かと言いますとね~」
と、さも尤もらしく説明する内容の虚偽を指摘して反論できるだけの知識も持ち合わせないもんだから、
面談室を出て、しおしおと自分のデスクに戻り、ショゲかえっていると、
同部署の先輩社員から、
「どうだった?ちゃんと発注できたか?」
と聞かれ、
「技術的に無理です言われた」
と答えると、
「え?その程度の加工処理なんか、ずっと前から やってもらってるよ?業者の言うこと素直に真に受けてんとさぁ、ちゃんと言い返さな。舐められてるやん」
などと叱られていた。
下請けのオッサンは、新入りで、右も左もオボツカない私を、心中ひそかに、からかい、困惑させて、おもしろがっていたわけだろうが、
それでも、日を追うにつれ、私のほうも徐々に、仕事上の知識が積まれてきて、また、「技術的に無理」と突っ撥ねられても、最初の頃のように、鵜呑みにして騙されず、負けん気を出して反論できるようになったら、
まあ、渋々ながらも、いちおうスムーズに引き受けてくれるように なっていった。
そんな頃の経験談も、
どこかの過去エントリーで、ふとした ひょうしに述べておいたかと記憶している。
私と、くだんのオッサンとは、このように、二人して同じものを見たい、という目的や目標を一にする関係では なかったわけだが、
それでも、先方は、あくまで下請けの立場であり、会社どうしの上下関係は厳然としてあるのだから、個人的には、いかに、おぼこい新人の発注者を おちょくって楽しもうとも、限界は ある。
最終的に、オッサンは、曲がりなりにもクリエイターたる私からの注文に、その技術を用いて、真面目に応えなければ ならない。それが仕事だ。
ここで、ちょこっと、『皇室』と小室氏についての感想に飛ぶ。
「お難場」とか言われているらしい『秋篠宮』家だけど、当家で働いている職員たちに対して、「シッカリ者」の紀子妃が、何かとコマゴマ要求している、そのとおりにしなかったことが あれば、たちまち、詰問口調で咎められることが たびたびとか。
名称が正確か、今ちょっと自信が ないけど、これは、たしか『桂宮』と言っただろうか、当家の主(あるじ)は、長らく、公の場に姿を見せることもなく、数年前に亡くなられたんだっけ、そのときになって、成人後に、重い難病に罹患されておられたため、身体ご不自由のこともあり、ほぼ引きこもっておられる日常で、独身のまま、働き盛りの年齢ながら、世を去られたという経緯を、私も、初めて知ったのだが、
このかたの お住まいで、身のまわりの お世話を務めていた職員の一人が述懐していたのは、
時おり、玄関などの掃除が行き届いていなかったりすると、ご不満の『宮』が おっしゃったには、来客などが あった場合、客人にも失礼になるでは ないかと、厳しく咎められたと。
紀子妃が、かなりガミガミおっしゃる傾向、という話を知って、思い出したわけなのだけれど、
もう一つ、これは、外国の王侯貴族の場合であるが、日本人が絡んでいるエピソードだ。
かの『青山ミツ』という女性。このかたは、ごく平凡な商家の出身ながら、縁あって、『クーデンホフ・カレルギー』という、東欧の、由緒ある貴族のもとへ嫁がれたことで有名だが、この「おミツさん」に仕えていたという、現地の女性が、彼女(おミツさん)は、自分たちメイドの顔を見ると、常に、「ありがとう」と、礼を言いつつ、ねぎらってくれたと言っていた。
そういう話を聞けば、あくまで個人の優しい性質ゆえと受け取りがちだが、じつは、そういうわけでもないのだと思う。
ちなみに、おミツさんは、なかなか、気性が激しかったというエピソードでも知られている(笑)
いつだったか、あのメーガンさんが、まだ『イギリス王室』に所属していた頃、とある公式訪問地にて、彼女のドレスの裾に、けっこう大きな値札が付いたまま、ヒラヒラと舞っていた場面の写真を見たことが ある。
そのとき、私は、こういう人に仕えるスタッフが、こんな迂闊なミスを するもんだろうか?と、ただ驚いた。
いまでは、あれは、もしかしたら、メーガンさん側の、ワザとの演出だった可能性も あるように思っているのだが(苦笑)
このように、
現実的に、身のまわりの世話を する職員やスタッフという者にも、もし、反感や敵意を持たれるようなことが あれば、「従者」の立場と言えども、彼らも、それなりのイヤガラセや攻撃の手段には事欠かないのだ、ってことw
ある意味、最も身近にいる「敵」でも ある。
だから、自分に仕えてくれる相手と敵対的になるのはマズイことだ。
なにしろ、最も身近にいて、プライベートを見られているのだ。
だからこそ、揺るぎない信頼関係が必要だし、「主(あるじ)」側は、できるだけ鷹揚で寛容でなければ ならないだろう。常に、ねぎらいと感謝とを示すことを忘れては ならない。
もとは縁もユカリもない家から嫁いできた者にとっては、生まれながらに、その「家」の者である立場以上に、厳しく、難しい。
『皇室』ともなれば、『華族』や『旧皇族』出身の女官が知られているように、「従者」と言えども、もとを たどれば、いまどきの「皇后」「宮妃」など、ハナから比べものにならないくらい、「高貴」とされた家柄の出身だ。
だからこそ、
「こんな平民や庶民出身の女なんかよりも、世が世なら、自分のほうが、よっぽど、妃殿下、陛下と呼ばれるに ふさわしい家の者なのに」と、内心で思っていてもフシギは ないわけ。
なので、
「やんごとなき」家の仕来りやマナーに よく通じているだけ あって、そういうところで恥を掻かせたり、「リーク」でもって陥れることだって容易いだろう。
やれやれ、まわりは「敵」だらけw
自邸に いようとも、一瞬だって、気を抜けない。
昔は、「お毒見役」なんて仕事も あったという。
いちばん美味しいところを、がっつりと食べられちゃったり?w
家来の食べ残しを いただく「上さま」w
うかうかしてたら、なんぼでも手抜きされるし、
いっそのこと、はるかに遠い「シモジモ」庶民のほうが、まだ気楽だろう。
ニコニコと、手を振ってさえ いれば よいのだから。
ところが どっこい、
そばにいる「敵」は、「リーク」という手段でもって、何も知らない「シモジモ」庶民をイッキに「敵」化させる力も持っている。
主(あるじ)の自分を守り、誠実に仕えてもらうためには、親近感を持ってもらい、誰よりも「ファン」でいてもらわなければ ならない。
それでいて、干渉がましいのも、馴れ馴れしいのも困るだろう。
それにしても、
あの「顔見世興行」、じゃなかった、何て言うのだったっけ、
例の『日本会議』が配布しているっつう、『日の丸』小旗を打ち振る、田舎からツアーを組んで来ましたー♪ってな感じの「ミーハー」群衆の前に「お出まし」する、新年恒例の行事ね。
あれを見ると、つい、『イギリス王室』の、似たような場面を連想するんだけど、
ただ、イギリスの場合はさ、王宮の正面に設けられた、私ら日本人にも見慣れた、いつものバルコニーに出て来て集まった『王室』メンバーが、わりとリラックスした感じで、それぞれ思い思いに、ゆったりと、手を振るなり、しゃべったり、笑ったりしてるけど、
『皇室』の場合は、あの見慣れた防弾ガラスみたいのを張りめぐらせた出窓みたいなコーナーに出て来てさ、いかにも日本人のセンスまる出しに、きーっちり一列に並んで、ひたすら作り笑顔で、機械的にチョコチョコ手を振り続けられるw
あんなダサいの見に行って、何が楽しいんだかと思うけどww
「お手フリ」する側の皆さまだって、さぞかし辛気くさいだろうなあと察してますwww
で、「小室事件」を思うに、
これが大昔なら、まさに、こういうことが、『皇室』内部の、権力を めぐる暗闘に繋がっていったんだろうなあと思うw
それこそ、小室家側に男の子が生まれたとしたら、「この男児こそは正統なる後継者であるぞよ」とか叫んでさ、ハタノボリおっ立てて、馬やら牛車やら並べて、砂煙あげて、ヤーヤーぶつかり合う、とかさww
なお、
私は、「ロン毛」だの「ポニーテイル」などについては、まったく、どうでも いい。
『皇室』だから「不敬」などとは、じつに くだらないと思う。
それにしても、
何が何でも二十代で結婚したい、いまどきの「チャラ男」タイプが好き、『皇室』すげー、「プリンセス」と結婚だぜぇ!どんだもんだい!!とかってね。
眞子さんにせよ、小室さんにせよ、「育てたように育つ」という警句も さりながら、
あの年齢で、そのへんの高齢者以上のスノッブな感性よね。ビックリだ。
なるほど、
いまの若い層って、『自民党』支持が多いんだってのも、あながち、嘘じゃないんだろうなあ。
先が思いやられるわ。。。
【続く】
2021.09.25 (Sat)
『「ホシュ」「ウヨ」は、三拍子そなわっているw』の続き。
そうそう、
かれこれ6年ほど前に、こういうエントリーをアップしていたんだわ。
自分でも忘れていた このエントリーを読み返していて思い出したんだけど。
『北朝鮮』が、「ミ」の付くものをブッぱなしてくるときって、どういうわけか、大概は、「あべちゃんピーンチ!!」なタイミングのときに限って、みたいな感じだったのでw
あれ、どうなったのかしらね?と。
ほら、
安倍政権時代の数年前、ミサイルが発射されたら、「アラート」か何かを仰々しく鳴らしてさ、老若男女、どこに居ようとも、ただちに、頭を抱え、蹲る体勢になる訓練つうのを奨励されてたよな?あたかも戦時中みたいに(苦笑)
たしか、どっかの田舎では、実際に「訓練」してたとか。
私には、あの頃、安倍政権と『自民党』と、そのシンパ連中が、なんとも嬉しそうだったなあという印象が残ってますww
先日も、高市さんが「敵基地」ナンチャラをブチアゲたのと合わせるように、『北朝鮮』が、、、
な感じだったから、
これまたミョウなタイミングだなー、と思ってたとこwww
それから、
『「県民をばかにしている」 自民党本部の生煮え説明に党広島県連憤り 与野党県組織も「証明にならない」と不満続出』中国新聞デジタル9/23(木) 2:30
https://news.yahoo.co.jp/articles/d51a1b7673192f26fc92775980aff91e06af928c
いわゆる「モリカケ」問題なんかの記事が出ると、たちまち、アベシのシンパどもが「ヤフゴミ捨て場」にドドドと押し寄せてくるけど(嗤)
この、『広島』に おける、河井夫婦の「選挙買収」事件の記事には、殆ど来ないみたいだねえw
「モリカケ」関係の記事だと、アベシのために援護射撃する連中は、判で押した如く、小学生みたいな、
「証拠を出せよぉ」
というヒラキナオリ文句を一斉に並べるのにww
この「買収事件」については、
「黒幕は安倍」
というズバリな指摘が並んでいても、
いつもの、「証拠を出せ~」っつう呪文コメントが見当たらない。なぜだwww
ま、とにかくね、
『自民党』内部の権力争いに全く無関心な私は、わりと近頃まで全く知らなかった事情で、いまだに、よく理解できないままなのだけれど、
少なくとも、溝手さんという人は、いろいろ問題を起こしてたにせよ、岸田さんとこの派閥の重要なメンツだったんでしょ?
その人が追い落とされてくのを、黙って見てたのかな?
と、不審には思う。
まあ、そこには、岸田さんなりの深謀遠慮が あった?のだとしても、
イメージは良くないわな、やっぱり。
自分とこの仲間が やられてるのを、ただ、指くわえて黙って見てる人に、国家や国民を守れるとは思えませんからな。
「自分の言うことに従うなら、次は、あんたを首相にしてあげるよ」(ポンと肩を たたく)
そんなふうに懐柔されたのかなという感じが、どうしても つきまとう岸田さん。
ま、要は、どの立候補者であっても、『自民党』というだけで、
「誰が やっても同じだ」
と思う、たしかに。
『自民党』というだけでね。
腐りきってるから。
『自民党』いらない。必要じゃない。
と言うより、「暴力団」みたいに有害。
やみくもに「徒党を組む」くらいならば、敢えて「一匹狼」的な行きかたを選ぶ私だけど、それでも、
大事な時に、仲間の足を引っ張るようなことを仕出かしたり、
仲間を見殺しにするような人は、大キライなのですわ。
自分をヨイショしてくれる者に対しては、法や公正や倫理を踏みつけてでも、その者が犯した罪を隠蔽し、過分な褒美を与える。
逆に、
自分のことを少しでも貶したり、邪魔と思えるようになった相手に対しては、とことん陥れ、切り捨て、
それでも なお執拗に恨む。
要するに『自己愛性人格障害』ですが。
誰の性質か、分かるよね?ええ、「あ」の人ですよw
私が、最もキライなタイプです。
これが政治とか国家権力に無関係な者でさえ あれば、
こちらとしても、もともと無関心だし、無視できるんだけどね。
まあ、例の『秋篠宮』眞子さんの結婚問題と似てるものが あるなw
祖父やら親やらの「七光り」さえ なければ、
そのへんの一般人であれば、
いたって おとなしい平凡な小市民でしか なかっただろうから。
「お膳立て」してもらってるだけなのに、もとから自力だとカン違いしてるのかな。
政界から『皇室』まで、多いみたいね、こういうタイプ。
とにかく、政界だけでも、ガラガラポンの純正実力勝負で、苦労知らず、世間知らず、勉強不足のデモシカ「世襲」は やめようよ。
このままではダメだろうよ。
老害の子が、次世代老害を継ぐ体たらくでは。
自分の地元が!派閥が!に囚われてないで、
国政ってのは、もっと大局観に もとづく ありかたを目指すべきなのでは ないかな。
2021.09.20 (Mon)
『【続】宗教が争いの原因になり易い理由』の続き。
大昔のことになるほど、障碍は、抱えている者の生存を不利にするだけでなく、
その周囲まで巻き込む恐れも高かっただろう。
現代になっても、身体の障碍は まだしも、脳や精神の障碍が引き起こすトラブルは、自他ともに、解決は、なかなか困難なままだ。
およそ障碍、障碍者が忌み嫌われてきた歴史を持つのも、ぶっちゃけ、ゆえのないことでは ない。
ひとえに、生存欲求と安泰への希求から来る、要するに煩悩、エゴゆえだが、少しずつ克服していく過程も、人間の歴史。
ケダモノのままじゃ、人間やってる意味もないからね。
私個人の話だけど。
聴障者である私は、自分の事情を話すときに、「聴覚障碍者」とか「耳が不自由」といった言いかたを するし、もちろん、他人に、そう言われても、何ら不快には思わない。
でもね、「つんぼ」と言われたら、大いに不快です。
なんで、って、
昔は、そういうコトバでしか表現できなかったとしても、こんにちに おいては、きちんとした代替になるコトバが あるので、敢えて「蔑視・侮蔑的」とされている特定のコトバで表わす必要は ないはずだから。
わざわざ言おうとする者の品性と本心は、しっかりと、その顔に出ておりますw
子どもの頃は、幼なじみとかクラスメートなどからも何度か言われた記憶が ある。
「※※ちゃんて、ツンボなん?」と、確認するかのような口調で聞きたがる子も いたが、ふだんから、気立ての良くない子という感じは持っていた。いま思うと、その子の親が、私のことを言っているのを聞いたのかもしれない。
私は、もともと鈍感なほうの性分だけど、それでも、
悪気を込めていることを感じさせる言いかたを されたことは多いが、
そうでは なくて、単に知っているコトバ、それしか言いかたを知らない、「ボキャ貧」から言った場合も あったのかなと思う。
でも、いずれにせよ、大いに不愉快だった。
「聞こえにくい」という言いかたなら、そのとおりだと思うけどね。
無自覚に、悪気なく言った者が、まだ幼い子どもだったりすれば、「教育的指導」をば施すかもしれないけどw
もし、悪気が あって言い放った「くそガキ」なら、容赦しないww
親の躾けが悪いのであろう、その子のためにもね。
まあ、親父なんかには、「この出来損ない」と罵られてたけど。
原因つくったのは、当の親だ。それでも、この言いぐさ。
いまの私なら、
ただ、「そういうレベルなんだ、この人は」としか思わないだろう。
でもね、
「ははん、その程度のコトバ遣いしか できないんだな、いいトシして」
みたいに見下したら、それも また、争いの原因になるのでしょ。
昔の日本の説話で、
たしか『宇治拾遺』のなかに登場する お坊さんが、
「めくら」というコトバに反発して、
「鼻暗(はなくら)ななり」と言い返していたという話が あるよね。
「鼻先が暗いだけだ」という意だそうな(苦笑)
さて、
「最低でも不読」。
うーん、、、
もちろん、とりあえず「見えなくすることは、根本的解決では ない」でしょう。
再び言うのだが、
やっぱり、問題の箇所が出てくる経典を読誦するときは、事前のレクチャーや確認し合い、「問題意識の共有」が大事じゃないかと。
そして、「のり越え」と「寛容」ですかね。
あるいは「慈悲」と言いますか。
不快を乗り越えなければならない側こそは、より強くなければ ならないわけ。しんどいけどね。
ものの道理に冥い者こそが、知性弱く、哀れな存在なのだから。
ことわっておくけれど、
重度の知的障碍を抱えていてさえ、ほんとうの知性と、人を見抜く眼を持っている者は存在してる。私は知ってるよ。
あっ、
でも、ヘンな演出して、重度障碍児の わが子に過酷な役回りを押しつけてるミエっぱりの哀れな母親とは無関係よ。
ところで、
「是旃陀羅(ゼセンダラ)」っていう、『観無量寿経』に出てくるという「差別語」だけど、
関西には、「あほんだら」という罵倒コトバが あるwもしかして、仏教用語なのか?と思っちゃったww
2021.09.20 (Mon)
『宗教が争いの原因になり易い理由』の続き。
それでも、
特に、釈迦が言い遺したことのなかには、現代人にとっても有用な教えは あるように思うし、
私は、釈迦が直接に説いたという内容は、「宗教」と呼ぶよりも、むしろ、よく言われるように、『心理学』に近いもののように思う。
死者に対する仏教的弔いの行為にも、残された者の心の癒しのほうを考慮している感じが するし、
死後の世界を問われて、「無記」とだけ答えたという話にも、それは科学者の基本姿勢に等しいものだと思える。
他の宗教なら、死んだあとは、こうなって、ああなって、、、
まぁ いろいろと、まさに「見てきたような」尾ひれが付くのが定番よねw
なので、
死んだあと、どうだ こうだ、などといった「脅し」に近いような教えは、それは それとしての「方便」のようなものなのかもしれないが、
おそらく、ほとんどは「如是我聞」と前置きした、それぞれの弟子や後世の信者たちが付け加えていったものだと思う。これも古今東西、ありがちなことだ。
弟子や信者は、始祖たる釈迦本人よりも、もっと世俗の考えかたや感覚から脱け出しきれなかっただろうし。
なお、『ヴェニスの商人』のことも挙げている者が いたけど、
この、一見は単純な作品こそ、シェイクスピアの、世界に冠たる文豪としての価値を示しているものかもしれない。
私も、小学低学年の時分に、身内の誰かに買い与えられた、児童向け『ヴェニスの商人』を読んだことが あるのをハッキリ憶えている。
憶えている理由は、
キーとなる、そして、「ヒール」的役回りの登場人物でありながら、本当の主人公であるとも言えよう、ユダヤ人『シャイロック』が、少し、気の毒にすら思えたからw
かつ、ヒロインの『ポーシャ』のほうは、なんかヘリクツ言ってるな、後出しジャンケンかよ、くらいに思えたしww
ポーシャのカレシなんぞときたら、まったく憶えてない。影が薄いw
だんぜん、シャイロックが光ってるwww
もっとも、
シャイロックの頑なさ、冷酷さには、多くのユダヤ人が生業としていたらしい金融関係の商売で、徹底した厳格さや容赦のなさ、それゆえの恨みを買って、地域社会から白い眼で見られるような存在となったことの鬱屈や恨み返しのような心情を抱えたユダヤ人という存在を、一身に象徴させているのだろう。
このように、シェイクスピアが生きていた時代は、ユダヤ人に対する蔑視や差別意識は、当然とされていたそうで、そんな時代に生まれ育ったシェイクスピアも、一人の人間的限界は免れず、
彼自身も、ユダヤ人差別について、問題意識というものは全く持ったことが ないという。
だからだろう、作品『ヴェニスの商人』に おいても、キリスト教徒側からのユダヤ人観と、あらまほしきことの要求ぶりが徹底的に描かれたうえでの結末となっている。
それなのに、
『ヴェニスの商人』で活写された、非情で冷酷で無慈悲な悪徳商人は、「人間たるシャイロック」だ。
これを、作者シェイクスピア自身は、無意識のうちに描きあげたというのである。
それと、
シャイロックの娘については、ごく善良なタイプとして描かれている。
親が こうだからと言って、子のほうも、親に似ているとは限らないということを明示している。
そして、ユダヤ人の子であろうと、善良な者には、豊かな恩恵が与えられてしかるべきという話に仕上げている。
なので、
いかにも昔のキリスト教徒的な「教育的指導」臭がプンプンしているようでもあり、
シェイクスピアの作品は、実は、異国の伝説などを下敷きにしていることが よくあるそうなので、ストーリーそのものの画期性よりも、人物描写が、やはりイキイキしているということだろう。
で、
「もしも、お釈迦さまにインタビューできたら」
どのように お答えになるか。
やっぱり、「のり越えるように」と仰るんじゃないだろうか。
「互いが寛容に」と。
不寛容こそは、争いの原因になるのだし
(『シェヘラザード―ー千夜一夜物語』にも、「不寛容の罪」というテーマの小話が出てくる)、
例の『イスラム教・原理主義』を見てたら分かるように、
結局、力で強引に押さえつけ、従わないの従えないのとなったら、最後は、力と力の悲惨な競り合いになる。
「革命か死か」?w
これも仏教説話の一つで、
『阿修羅と帝釈天』の争いってのが あるでしょ。
事のスジは、そもそも、『阿修羅』のほうが、そりゃ尤もなんだろうけど、
わが娘は『帝釈天』にレイプされたのに惚れちゃってるし、阿修羅パパのほうは、「スジ通さんかーーーい!!」と激怒して、とことん戦ったと。
でも、
「やったもん勝ち」帝釈天のほうがゴリ押しバカぢからが強くてwやっぱり勝っちゃう。
って、
途中、ちょっとした番狂わせを挟んでいるんだけれど、ま、ごくごく大まかには、そんな話。
そう、この世界、とにかく強い者が勝つんだぜという、身も蓋もない、
そして、じつに くだらない世界よねw
なくていい世界だ。
なんで あるの??
という疑問は、「考える葦」にとって、宇宙の発生の謎と共に永遠だわww
だったら、せいぜい楽しむしかないね♪
と言いたくなるが、そんな甘いことばかり言ってられない現実も重い。
オマケの考察だけど。
『帝釈天』というのは、現地名を『インドラ』と呼ぶこと、それと敵対したというストーリーのなかで登場する、もう一方の主人公『阿修羅』に、もとは『ゾロアスター教』のなかで「最高善神」という位置付けであった『アフラ・マズダー』との関連が あることを考えると、『インド』と『イラン』の関係性をも鑑みるに、興味深い大逆転が見受けられるわけだ。
かくのように、
「神」とは、人間の つごうで、いかようにも変転させられるw
【続く】
2021.09.20 (Mon)
日本に おいても、こういう問題が続いていたことを、私は知らないでいたのだけれど。
『経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち』京都新聞9/18(土) 19:21
https://news.yahoo.co.jp/articles/51c31f28dfd79f5e868567397e0be1522bd5396d
そりゃそうよね。
仏教って、『インド』が発祥の地だし、
あちらの習慣とか事物などを、こっちの それに置き換えるのは よく あることだ。そもそも、翻訳言語だって そうだもの。
よく思うことなんだけど、
こういうとき、当の人物にインタビューできたらなあと。
でも、はるか遠い時代の人なので、
ここは、ひたすらに想像してみるほかは ない。
で、想像してみた。
もともと、『釈迦』自身が、生まれ育った当時の生活習慣や宗教観(現代よりも、もっと強く、生活のなかに密着していたであろう)から逃れることは できなかったはずで、
しかも、それだけでは納得いかない悩みや苦しみを持ったからこそ(人間だもの)、「カウンター」としての、新しい思想を得たわけで、古今東西の何事によらず、古いもの(前世代)は新しいもの(次世代)の母体である。
で、特に、釈迦の場合、布教するに あたって、ほとんどは、学も教養も ない民衆に説き聞かせるうえで、彼らにも、できるだけ分かりやすくと、「たとえ話」など、くふうした あとが豊富だということだそうで、
すると、昔からの言い伝えとか、当時の一般的だった宗教説話なども、大いに取り込みながら説いたわけだろう。
「ヤフゴミん」らのなかには、そういう理解から、こんにちでは、明らかに「差別的用語」としているコトバでも、それを用いているのは何のためかということを考えるべき、といったコメントを寄せている者も散見するが、これは尤もだろう。
ただし、
私自身は、およそ経典というものを詳しくは知らないまま、単に、実家の宗派が『仏教』の一派であるというだけだから、彼らが指摘するように、「差別は良くないということを説くために、従来の差別習慣から来るコトバを敢えて用いているだけ」というのが本当のことか どうかは分からない。たぶん、そんなところなのだろうとは思えるけども。
であれば、
いわゆる差別用語に該当するコトバを含んでいる経典を、よく理解していない信者などとともに読誦したりするときは、その前に、必ず、丁寧に噛み砕いた「講義」、レクチャーを行うことが望ましいのではと。
すでに実行されているらしいが。
「ヤフゴミん」は「ヤフゴミん」ならではの通常運転で、
「時代の価値観」とか「コトバ狩りは やめろ」とか言い募って、自分のなかの「差別したい!!」「差別できなくなったら、自分にとっては不自由!!そんなの、暗い社会だ~」という本音を正当化してるようだけど(嗤)
私の眼は誤魔化せないのよんw
もしも、当の釈迦自身が、差別対象を差別して当然という思い込みを持ったままだったのであれば、そこは、やはり、一個の人間だったのだなと、私は思うだけ。
そもそも「出家」した動機を聞けば、まさに人間ならではのことだもの。
こないだ、『クルアーン』には、だいたい、どのようなことが説かれているわけかな?と、『ウィキペディア』なんかをザッと読んでみたかぎりでは、どうも、『ムハンマド』が生きていた時代の規範や模範を もとに、言わば「生活指導」みたいなことを、フシつけて唱えやすく、覚えやすく まとめてあるんだなという印象だ。
やはり、よく言われることだが、宗教の もともとは、当時の人々の生活上で、避けたり忌むべきことや、やるべきこと、望ましいことを教え諭すのが目的であったという感じが伴う。
自然環境が厳しい地域ほど、その教えは厳格になるように見受ける。
『クルアーン』には、特に、わが国の学校の「風紀委員」だの「生活指導」みたいなものを連想させられた しだいw
だからだろうか、
私が少々知っている、ある『イスラム』教徒の日本人女性は、これは、『キリスト』教徒にも共通すると聞いたことは あるのだが、教えの内容を、自分なりに、どう解釈して、生活のなかに、どのように取り入れ、実践していくのか、常に「神と対話、問答」するのだというふうに言っていた。
つまりは「自問自答」だろうと、私は思うけど。
でも、そういうことが できない人なら、それは一字一句、コトバどおりの「原理主義」に陥らざるを得ないのかもしれない。
「なぜ」、「どういうわけで」を考えることが できないから。
要するに、「思考停止」。
もし、『ターリバーン』あたりの「原理主義」者の前に、
これこそが、ほんものの『ムハンマド』が説いたものだった、ということが明らかである経典が発見された、と しよう。
そのなかに、
「男に教育は、いっさい無用」
「頭から足先まで全て覆う布を被ること」
「常に、母や姉の言いつけに絶対服従すべし」
などと書かれてあったら、そのとおりにするんだろうか?w
当然、
昔から現代まで、基本的に変わらないことも あるけれど、
変わってしまっていること、変わらないと困ることも多々あるわけで。
だから、
大昔の人が、当時の生活習慣とか、それが土台になっている倫理観などで、こうしたほうが良いとか、こうするべきと説いたコトバを、こんにちになっても、一字一句も変えず、その書かれたコトバどおりに死守することなんて、ナンセンスである以上に、不可能なことだ。
現代の利器の一つで、たとえば、コンピューターやパソコンというものを、『ムハンマド』が禁じていたとしたら。
むろん、それは ありえないこと。
なぜなら、ムハンマドと言えど、それらの出現も存在も、夢にも想像できなかった時代の人だから、どこにも何も書き残してない。
冷蔵庫も洗濯機も電話も電子レンジのことも、書き残してないのだから、たとえ『イスラム教』でも「原理主義」の信者でも、ほいほい使っていいのだろう。
ムハンマドが知らないことだからw
それだけだし、
それを もって、どんなに立派な始祖や御開祖と言えども、「時代の限界」からは逃れ得ぬ、一個の人であったという証左となる。
というわけで、
「個人崇拝」は、愚かしい、ということだ。
【続く】